出会い:竜の娼婦
振り向いた先には、二十代くらいの女性が一人立っていた。ゆるいウェーブのかかった栗色の長い髪。腰まであるだろうかという髪は丁寧に梳かれているのか整っている。ローブのようなものを羽織り、自身の胸元に手を当て、切れ長の目は薄く開かれこちらを見ていた。
そういう女性の声は少しハスキーな、色っぽい声質で、色気のある釣り目と厚めの唇も相まって妖艶さを醸し出していた。
何よりも、恰好そのものが随分と色っぽい。首に生える真っ赤なチョーカーと手首のブレスレット。手で隠れていたがローブの胸元はかなり大きくあけられており、V字に臍のあたりまでスリットが入っている。主張の激しい大きな胸は、ローブの下に着ているだろう服によってさらに強調されている。太ももから下にかけてはほとんど布など纏っていなかった。
なんどかこの仕事の時にあっているが、相変わらず目のやり場に困る格好だ。
「…………」
後ろに現れた美女に、俺は軽く会釈をする。そのまま俺はよれたシーツの上のタオルを手早くまとめて近くに置いてあった麻布袋に詰め込み始める。
「……あら、相変わらずクールな奴隷さんね」
機嫌が悪そうに細められた目には、なんというか引き込まれるような恐怖があった。美しくて見ほれるというのもあるが、飲み込まれてしまいそうな恐怖もはらんでいる。
「……すぐに片づけてしまいます」
さっきまで部屋の中には誰もいなかったが、急に現れた女性に俺はそう答える。部屋の奥まった部分にはカーテンで仕切られたさらに小さな部屋があるようで、そこのカーテンが風もないのに揺れている。その奥のほうから出てきたようだった。
「……まぁいいわ……。あなた、あまりその汚い手でシーツには触らないでくれる?」
そういって女性は俺のほうへとタオルを投げ寄こした。もう拭いたのだが……。大人しく寄こされたタオルで手を拭いた。まだ使われていたないであろうタオルに、少し黒く汚れが移った。
「私はそこの机で準備しなくちゃいけないから、それで手拭いて、早くシーツ直してちょうだい」
女性は俺から遠回りするように机に向かうと、その引き出しの中から手鏡や小さなガラス瓶を取り出し……化粧だろうか。鏡を見ながらいろんな角度から自分を見ている。
派手で肌を多く出した服、妖艶なしぐさや香水、化粧、そして乱れたベッド――。
ここはまぁ、そういう場所だ。娼館とか言われるもの。
この洞窟のある場所の周りは鬱蒼とした森と険しい山道しかないと、ストクードから聞いていたため、近くに人の生活するような町はないのだろう。その中で兵士たちの慰安のために、働きに出てきている娼婦がいると聞いたことがある。
――しかしここにいるのは、娼婦を生業としている女性だけではない。
彼女のように、無理やり働かされている魔族もいる。
自分で思って、一瞬だが心の中に黒い泥のような物がわいてきた。身なりを見る限り彼女は娼婦としてかなり重宝されているのだろう。美しい人だ。兵士たちから気に入られ大切にされているのも分かる。しかしそれはあくまで性対象としてだけだ。女性として大切にするとか、そも人の尊厳といったものは踏みにじっている。綺麗な服も綺麗な部屋も、すべては彼女の為ではない。自分たちの快楽の為だ。
その行いに、その仕打ちに、ここの兵士たちをどうしてやろうかという黒い感情が荒巻く。
拭き直した手でシーツを整えながら、深呼吸して黒い感情落ち着ける。このどす黒い感情に流されては駄目だ。大事なのは『俺』ではなく『皆』だ。俺の感情を基準にするな。助けるための最善を選べ。
自問自答を繰り返し、何とか心を落ち着けながら、シーツを整えていく。
傷はふさがってはいても、痛みは残っているものだ。ボロボロの手ではシーツを引くことすら満足にできていないが、何とかしようと四苦八苦していると、彼女のほうから声がかけられた。
「……いつも思うけど、変わった服してるわよね、あなた」
ちらりと彼女のほうを伺うと、彼女は準備を終えたのか此方をむいて椅子に座っていた。
まっすぐこちらに向けられた金色の瞳は、爬虫類のような瞳孔をしていた。
「……そうですかね……」
彼女の問いにそっけもなく、というよりも常時体力的に限界が近いため、簡素な答え方になる。
変にぶっきらぼうでも、変に親しげでも問題しか生まないだろうから、という理由もあるが。
「……少しはしゃべれるようになってきたのね、奴隷さん」
女性はなおもこちらに話しかけてくる。
最初に会ったときも、彼女からは関わりたくないといった雰囲気を感じていた。
しかし彼女は意外にも、俺がこうして働いているとよく話しかけてくる。と言っても、話しかけられるようになったのも内容を理解できるようになったのも、最近のことだが。
言葉が分からなかったときも、割と他愛もない世間話のような事を聞かれていたようだ。
「……それなりの時間、ここにいますから」
「そう」
そう言うと彼女は、俺の仕事をつまらなそうに見るだけになった。
無意識なのか、こちらをぼうっと見ながら、彼女は自分の両手首に巻かれているブレスレットのような物をいじっている。
よく見ればそれには、アトスの手枷に似た文様が彫られており、鍵穴すら存在していない。彼女の首についているチョーカーも同様だ。それぞれに小さな宝石――魔鉱炉心がはめ込まれている。
『聖皇の加護』――その産物の一つがこれだった。魔族の奴隷は皆、このブレスレットとチョーカーを付けられている。
この拘束具を付けられた魔族は、『聖皇の加護』の支配下に置かれ、魔法を使えなくされる。正しくは魔法を使おうとすると、それに必要な魔力を吸い上げるものらしい。吸い上げた魔力はもちろん、大本の巨大な魔鉱炉心である聖王の加護へと集められ、魔力として使用される。
じゃあ外せばいいとは思うが、これまた外すことはできない。何せ鍵穴がない。魔術的な方法で装着されている。挙句無理に外そうとすれば、逆に聖王の加護から膨大な魔力が送られ爆発するそうだ。手首と首で爆発などしようものなら、当然死ぬ。ストクードも何回か見たことがあるそうだ。
よく考えたものだ。ふざけるなと言いたい。
だが、それを解決する。この聖王の加護だけでも無力化することができれば奴隷たちは反旗を翻せる。どうにかして、その方法を摸索しなくてはならない。
――わずかだけど、希望もある。
「…………何を考えているの?」
頭の中で考えが巡りだしたとき、こっちを見ていた女性が口を開いた。
「……?」
急な問いかけに、思わず首をかしげる。
彼女のほうも見れば、いつもの綺麗な顔――のなかにある、何処か死んだような黄色の目が暗く光っていた。
「……かわいそうって思う?」
その目を見ていた俺に、彼女はつぶやく。少なからず図星を突かれた俺は、思わず目を見開いてしまった。
それを見た彼女は、まるで小馬鹿にしたような表情で笑った。問いの答えに詰まっていると、構わずに言葉を続ける。
「そう……。でも、あなたたちを見てると思うわ。自分は恵まれた容姿で生まれてこれてよかったって。汚い生活しなくて済むんだもの」
彼女は椅子から立ち上がると、俺の眼を覗き込める位置まで近づいてきた。自分の綺麗な栗色の髪を右手でいじりながら、彼女はまた言葉を紡ぐ。
「綺麗な服は着られるし、ちゃんとしたものは食べられるし――。本当、あなたたちを見てると笑えて来る」
「…………っ」
かける言葉が見当たらない。何と答えればいいのか。無理やりに娼婦として働かされている女性に何と声をかけるのか。元の世界でも、そしてここにきてからも経験などしたことのないその状況に、俺は絶句するだけだった。
「……どうしたの? 何とか言ってみたら?」
挑発的な抑揚で、俺に変わらず歪んだ笑顔を向けてきている。苛立たし気に指に絡ませている綺麗な髪は、次第に形を崩していった。
でも、その顔に――その瞳に、どうしても気になる点を見つけてしまった。はたから見れば、意地の悪いこのやり取りも、当事者の、目の前で彼女の瞳を見ている俺には、そう思うことができなくなっていた。
いつか見たことのある、その瞳を。
「意気地なしなのね。これだけ言われて……。クールじゃなくてお馬鹿さんなのかしら? ほんと、どうしようもな――」
「無理は、しないでほしい」
彼女の売り言葉に、俺は遮るようにして言葉を重ねた。その言葉に、彼女の顔は豆鉄砲を食らったような表情に変わった。
「俺を詰るのは好きにしてくれて構わない。ただ……泣きたいなら泣いてもいいと思う。俺は」
思ったことを、そのまま声に出す。自分でも疲労困憊の体のはずなのに、どうしてか今ははっきりとしゃべることができた。
しばらく呆けた間抜けな表情で固まっていた女性だが、みるみる顔は赤く染まっていった。
「あ――、あんたに何がわかるのよ! 私は! わた、しは……」
「化粧で誤魔化してるんだろうけど、さすがにわかる」
昔、そういった記憶があった。そう、俺が助けられなかった少女もまた、涙を化粧で誤魔化していた。当時の俺はそんなものに気づくこともなかったが、今は気づける。あの時の違和感も、今なら分かる。
じっ、と彼女の目を見据える。その目には動揺の色が浮かび、震える瞳はもう俺をまっすぐには見ていられなくなっていた。図星なんだろう。
「…………」
彼女は黙ったままうつむいてしまった。
――やべぇ。
言いたいことを言った俺が最初に思ったことは、その一言だった。思わず考えなしに言葉を出してしまった。なにが感情に任せないだ。ほんと、こういうとこだぞ俺。
こんなところで相手を怒らせれば兵士が来るかもしれない。この女性はおそらく兵士たちの”お気に入り”なんだ。そんな彼女が俺を貶めようとすればいくらでもできるだろう。こんな部屋を与えられているくらいだ。どれだけつじつまの合わない嘘でも俺は制裁を食らうだろう。
というか実際問題この状況で悪いのは俺の様な気がする。恋人がいた時もあったが長続きしなかった。しかもキスの一つもなかったのはおそらくこのデリカシーのなさが原因なんだろうと、一人くだらないことを考えつつ、どうしようかと内心焦っていると、
「――あ、あっははははは、あはははははははっ!」
彼女は急に笑い出した。思わず変な声を出しそうになったがそこは堪えて、相手が何で笑っているのかを考えていると、彼女は次第に笑いを引かせていき、さっきのような、少し妖艶な雰囲気を取り戻していた。
「ふー……面白いのね、あなた。そんなこと言ってきたの、あなたが初めてよ」
目元の涙をぬぐい、彼女は心底楽しそうだ。
たいして俺はどうしようかと、かなり困惑している。そんな俺をよそに、彼女はまだ楽しそうに、時折思い出し笑いをしながら、おなかを上品に抑えて笑っている。
「……ご、ごめん」
やっとのことで言えたのはその一言だけだった。我ながら情けないが、その言葉に彼女はさらに笑い声をあげている。なんだろうか。そんなに面白いことをしたのだろうか。これはあれか、異文化の違いかと思っていると、彼女は急に声のトーンを落としその表情に今度は悲しみを浮かべた。
「……ごめんなさいね。こんな話しても困るでしょうに」
彼女はそのまま、自分の体を抱きしめた。それはおびえる少女がやるような、そんな仕草。
俺はその仕草に冷静になっていく。それはあの時あの少女の様子と重なっていた。
「……話して楽になるような、そんな簡単なことじゃないんだろうけど……男の俺には、一生かけてもわからない苦しみだろうけど……思いを俺にぶちまけるくらいなら、かまわないから」
その言葉に、彼女はまた俺を見ると、柔らかに笑った。正直な心だった。俺はあの時、あの少女を救えなかった。話を聞いても、何もできなかった。償いのつもりなんだろう。そうだ、これはただの自己満足の償いだ。それだとしても、やっぱり、助けたいんだ。
救いたいという、想いがある。
「……やっぱり、変な人ね、あなたは。そんな眼をしている人、初めて見た」
彼女は立ち上がり、俺に近づいてくると息がかかるまでの距離にまで顔を寄せてきた。
ほんの少し動揺すると、彼女は俺の持っていたタオルを取ると俺の顔をごしごしとこすりだした。
「な、なにを――」
「いいえ。なにも」
にこやかに笑いながら、俺の顔を拭き終えると、扉のほうへと視線を向けた。
「もうそろそろ”お客さん”がくるわ。だから、あなたはその前にここを出ていきなさい。大丈夫。ほんの少しだけど、楽になれた気がするから……」
笑う彼女の顔は、いまだに悲しみの色は消え切れていない。当り前だ。意志に反して好きでもない男たちに抱かれ続けているのだから、平気なわけはない。
その脆い姿に、俺はまた心の奥でちらつく炎を見た気がした。
「あなたみたいな人もいるのね、この世界には……。強い瞳、ぼろぼろなのに、炎みたいに揺らめいて、とってもきれいな黒い、蒼い瞳。見れてよかった、ありがとう」
「――――ぁ」
ああ、俺はまたいらないことを言いそうになっている。でも、この言葉は止められそうもない。どうしても、この女性には伝えたかった。信じられると、そう思った。
「――俺、みんなを救いたいんだ」
とんでもない発言に、彼女はまたも面食らった顔になる。それでも構わず、俺は続けた。
「みんなを助けて、奴隷をなくして、奴らを糾して、そして――」
まただ。言葉にすると、こんなにも恥ずかしくバカみたいなものなのか。
あほらしい、子供っぽい、ただの戯言だ。きれいごとだ。
――それが何の関係がある。
「幸せな世界を、創りたいんだ」
俺はいいたいことだけ言って、そのまま背を向けて部屋を出ようとする。しかし、呆けていた彼女は俺の手を掴むと、俺を振り向かせ、そのままの勢いで俺の頬に口づけをした。
「――アソル」
何事かと頭を回転させる俺に、そのまま彼女はゆっくりと名乗った。
「私の名前――覚えた? いつか助けに来てね、王子様」
いきなりの行動に思考が吹っ飛びかけるが、遠くから聞こえてきた革靴のような足音を聞き、アソルに押された勢いのまま部屋から飛び出した。そのまま、アソルの部屋が見えないくらいのところで立ち止まり、後ろを振り返る。
きっと彼女は、これから奴隷としての仕事をするのだろう。
――悔しくて、自分が情けなくて、どうしようもなく泣けてくる。
でも泣くことはできない。そればっかりは許されない。泣いてもいいのは泣く必要のある人だけだ。彼女のように。
俺はまだ、泣いちゃいけない。まだ、助けられちゃいないのだから。何一つとして復讐を話していないのだから。
もう一度、自分の牢屋へと足を進めた。
もう限界まで酷使されている体は、きっとアソルに会う前よりも、しっかりと大地を踏みしめていた。