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六等星

 冷たい――――まただ。この暗闇。


 どこかで感じたことのある、只の暗闇。俺はまたこの暗闇に捕らえられている。

 動くことのない体。それでも痛みだけは発している。相変わらず、絶叫したいほどの激痛なのに、声帯が震えることはない。きっとこの肺も、心臓さえも動いていないのだろう。


 でも、一つだけ違うことがあった。


 最初から、遠く輝く小さな蒼い星があった。

 あの時と同じように、その星は六等星よりも暗い。この完全なる暗闇でなければ、きっと簡単に消えてしまうだろう。マッチの光でさえ、星の光を消してしまえそうだ。


 この暗闇は何だろう。なぜ、俺はここに捕らわれている?

 問いの答えは、返ってこない。当然だ。俺しかいないのだから。

 なんとなく、俺はあの星に近づいてみたくなった。蛾のように、光を目指そうとした。人も獣も虫も、完全なる暗闇で目指し求めるのは光だ。その本能に従い、俺はそのかすかな星へと手を伸ばそうとした。

 動かない手。どうして動いてくれないのだろう。動かそうとするとさらに痛みが強くなる。


 ――もうやめよう。


 無駄だ。痛いだけじゃないか、こんなもの。動かないものを無理に動かす必要なんてない。それはとても無駄なことだ。

 そう思った瞬間、ただでさえ弱い光が、もう点とすら呼べなくなるほどに、さらに弱弱しくなってしまった気がした。


「――――ッ!」


 それは駄目だ! それだけは駄目だ! 心の中でそう叫ぶ。とっさに俺は身を起こそうとし

た。でも満足に動かない体は悲鳴を上げる。激痛が走る。それでも、あの光だけは失ってはいけない気がした。だから――!

 激痛はとどまる所を知らない。これ以上痛くなることはないだろうと思っていても、痛みは天井知らずに増すばかりだ。それでも、それでもと体を起こす。あの光だけはと思いながら。

 すると全く動く気配のなかった体が、ヒビが入るような、亀裂が走るような乾いた音を出し始めた。ぴし、ぴし、と徐々にその数は多くなる。何の音か、そんな疑問もかなぐり捨てて、

俺は右腕を、微かに動くようになった右腕を持ち上げる。星に向かって手を伸ばす。


 ぴしり――――!


 ひときわ大きな音が鳴った。その瞬間、俺の目の前には暗闇ではなく、夕日に照らされた教

室があった。まるで一気に別のシーンに飛ばされたように、暗闇から教室までの転換に瞬き程の間もなかった。

 つたない習字の掲示に、手洗いのポスター、懐かしい時間割。全部、記憶にある物だった。

 俺は、ここを知っている。


「転校前の……学校」


 小学校のころ、四年生の時に俺は一度転校を経験している。その転校前の、俺が元々いた学校の教室だ。中心にぽつんと置かれた椅子に座った場所から見た光景は、当時と全く変わりなく、そこにあった。

 気が付くと、目の前の机に中肉中背の特徴のない男がいた。しかしその男の眼だけは、まるでドブのように濁り、何も見ていないように昏かった。


「本当に、なんてことをしてくれたんだお前は……」


 男の声は、疲れ切っている。いや、感情がこもってないというのだろうか。気の抜けるような声を発していく。


「面倒にしやがって……ひたすらに引っ掻き回しやがって」


 その台詞を聞いて、思い出した。これは俺が『悪』を断じた後、教師に呼び出された記憶だ。加害者家族は、俺が近所中に証拠を突き付けいられなくした。地方紙の新聞社にも垂れ込んだ。学校側の対応の遅れが、事態をもみ消そうという動きによるものだという事も調べ上げ、ネットにあげた。今目の前にいる教師も、俺が掴んだ証拠によって免職されることになっていた。

 今にして思えば、この反応は大人として至極当然のものだったように思える。どれだけ迷惑をかけた。学校をも巻き込んで。加害者の子供たちはもう二度と地元に帰ってこれないだろう。一度壊れた日本の村社会など、戻すことは不可能だ。


 自業自得、そう思える。実際この光景を思い出しても、俺は慙愧の想いこそあれ、憐憫の感情はない。相手の心情や立場を理解こそすれ、同情はしなかった。当然の報いとさえ思えてしまえる。

 でもやり方がまずかった。これでは救えていないじゃないか。


 救いたいものを、救えていないじゃないか――。


 目の前の男はじっと、その昏い眼で俺を見ている。

 きっとかなりの仕打ちを受けたのだろう。こいつは俺たちの担任だった男だ。最終的に学校側はこいつに全責任を押し付けた。それでも俺の心は痛まない。気づかず、そして放置していたのだから俺と同じ罪があると思えてしまえる。

 

 ――救うための行動は、最初からどっかが壊れていた。食い違っていた。これは救いではなく、ただの恨みだ。復讐だ。彼女の笑顔を取り戻したいからじゃない。俺がむかついたからやった復讐だ。それは最初の思いがどんなに綺麗なものであったとしても、この結果は俺の所為だ。俺”だけ”の復讐に、成り下がっていた。


「正義のヒーロー、だっけか? 悪を許さない王様だっけか?」


 小馬鹿にしたような、教師の声。うすら寒くゆがめられた口元はひどく醜い。


「そんなもん、お伽噺の中だけだ。社会はそんなに単純じゃねぇんだよ」


 教師はもう、言葉を選ぶ余裕もないのだろう。小学生に話して伝わる話ではない。それでも当時の俺はこの言葉が、この教師の目が、冷静になった心に響いてしまった。そののっぺりとした黒い瞳も、心も、全部。


「ふざけたこと言ってんじゃねぇ……」


 その男の眼は憎しみではなく、怒りでもなく、ましてや諦観とも違う。


 ああ、腐ってやがる――。


 光のささない、黒く濁った眼は俺を捉えたままだ。何も見ちゃいない。こっちを向いているだけで視ちゃいない。濁り切った水と同じ。中のものなど見通せない。あらゆるものが漂い、繁殖し、透明な視界を遮り続ける。

 その眼で見た世界はどんなにつまらないのだろう。見るもの全てが下らない。必要以上のこ

とに感じられない。ただ視認して、脳で画像を処理して――ただそれだけだ。何も、何もない。

 くだらない人生だろう。そんな眼をして生きていくのは。つまらないはずだ。抗うことも止めて、諦めることも止めて、ただ目の前の物を”見るだけ”の器官になりだがった瞳に、一体なんの意味があろう。


 なんて、なんて、なんて、なんて――。


 その瞳は、生きやすいのだろう。 


 抗う痛みも、諦める悔しさも、裏切りの悲しさも、失望の無念も、生きる意味も――。

 成した喜びも、修めた充足も、慕う嬉しさも、信頼の暖かさも、死ぬ意味も――。


 何もかもをドブに捨てたその瞳で見る世界は、さぞ生きやすいだろう。


「――正義の王様なんて、お伽噺の中だけだ」


 もう一度、教師は言い放つ。静かに這うような声色で。

 その声に俺はなんて答えたか。もう自分の愚かさにも気づいた。目的を見失っていた自分の愚かさに。そして少女を救えなかった絶望は、目の前の生きやすい瞳に惹かれてしまった。だからこういったはずだ。


「――――」


 その言葉をなぞろうとした瞬間、この時代、この世界では知る由もない記憶が頭の中を駆け

巡った。


 苦痛を訴える人々。そこに人型の生き物は少ない。むしろ異形のみが蔓延る世界。

 蜘蛛の女性は、蜘蛛の腹に蹴りを入れられていた。蛇の少女は俺に助けを縋っていた。巨人

の男は、その剛腕を振るうことなく刀傷に耐えていた。馬の男も、血だらけの脚で新たな犠牲者たちを運び続けていた。


 とある老人は、文字を教えてくれた。枯れ果てた体で――。

 とある少女は、体を抱えて怯えていた。あの時の少女のように――。


 俺はまた見た。理不尽に虐げられている人を。その苦痛を、その涙を、その悲鳴を、その死を――。


 何もなかった俺の心は絶望に染まったはずだ。死んで、目覚めたら違う世界。異形の世界。死を恐れて泣きじゃくった、弱い俺がいた。

 でも確かにあったはずだ。『助けたい』と思う心があったはずだ。微かでも、マッチの火よりも小さな明かりだったとしても、確かにあったはずなんだ。

 情けない結果だったとしても、誰かを救いたかった。俺が死んだときのように。

 

 正義のヒーロー。正義の王様。悪を許さず、正義を愛し、人を愛し、みんなの笑顔を作れる存在。誰もが憧れる、夢のような男。


 俺は、そんな男にはなれなかったよ。昔の俺が、絶望しても、後悔しても、惨めに諦めきれずに持ち続けていた火打石ゆめは、いつしか忘れてしまっていたよ。


 ――でも、今思い出した。


 あの綺麗な蒼い火打石を、正義の証と信じて。ただの拾い物の火打石を大切に、後生大事に持ち続けてまで夢見た存在は、はるか理想の彼方――。

 元からどこか壊れていたんだろう、俺は。だからこそこんな荒唐無稽なことをやらかしたんだ。傲岸不遜な事を願ったはずだ。


 ――手を、伸ばし続けていたはずだ。


 もうだいぶ時間は経ってしまっているけれど。自分の命さえ、一度はもう取りこぼしてしまっているけれど。だからこそ、もう一度――もう一度手を伸ばしてみようと思う。


「――――ふざけたこと言ってんな」


 自己満足は変わらない。きっと、いやこれは完全なる独善だ。偽善だ。自分がここで折れないために寄りかかる柱が欲しいだけの、完全な自己愛だ。そんなもの理解しきっている。分かっている。俺は所詮、『復讐』しかできないロクデナシだ。


 ――それでいいじゃねぇか。自己満足で。自己愛で。独善で。偽善で。復讐で。


 今度は間違えない。正しい復讐をする。

 自由に、利己的に、最大限自分勝手にやってやろう。周りの為に俺自身を犠牲にするのが、俺の自分勝手だ。

 自分の為に復讐しよう。俺自身へ復讐しよう。馬鹿な自分に、無知な自分に、無力な自分に、そして矮小な自分に復讐してやろう。今度は誰かの笑顔の為の復讐をしよう。

 その為にも、今はこう言ってやるべきだ。こう宣言するべきだ。こう呪ってやるべきだ。ほかならぬ自分自身に。「下らねぇ」とさえずるだけだった、下らねぇ自分自身に。

 目の前の男へ――いや、目の前にあるはずの微かな蒼い光へと手を伸ばす。


「――手も伸ばさねぇで沈んでるお・・に、理想を貶める権利はねぇよ――!」


 瞬間、景色がはじけ飛ぶ。砕け散った景色の先に現れたのは、またあの暗闇。

 でも違う。今は自分の伸ばした手が見える。体が動く。遠く光っていた蒼い星は、もうマッチ程度じゃかき消せないほどに強く、煌々と輝く星になっていた。

 まだ遠いけれど、それでも、この暗闇を俺は確かに進んだ。あの光に近づいたんだ。

 少しずつでもいい。巌窟を掘り進めるように、俺は進む。少しずつ、少しずつ。


「だから、待っていやがれ――!」



 



 視界に光が戻る。その光は暗く、ちらちらと揺れる炎の光。重厚な腐臭が鼻を衝くそこは、蜘蛛人の這う天井でもましてや夜空でもない。狭い牢屋の天井だった。

 なぜか上に突き出されている握りこぶしを見ると、もう血は出ていない。乾いて膜となった血糊が張り付いていた。起き上がり、ゆっくりと手を開く。そこには、盗られてしまった火打石の感触の覚えだけが、確かにあった。

 目を横に向ければ、ストクードが目を伏せ座っている。どうやら寝ているようだ。反対側には、少し離れたところからこちらをうかがう少女。どうやら俺はあの広間のような空間で気絶して運ばれてきたらしい。殺されていないだけ有情なのだろうか。それとも奴隷たちは死んでいなければここに運ばれるのがルールなのだろうか。


 体を動かすたびに体中をくまなく走る激痛に、歯をくいしばって耐える。

 この痛みも、自分への戒めだ。復讐といっていい。だから 我慢しなければ。まだ俺はこんな痛みで音を上げていいほど罪を償っていない。しかし体は正直なもので、うぐぐとうめき声をあげてしまった。

 その声で、ストクードがわずかに反応を示した。彼はこちらをゆっくりと見ると、なぜが目をぱちくりとする。

 改めてストクードと少女を見ると、二人ともなんというか、ちょっと呆けたような表情をしていた。理由の分からないその反応に、俺も呆けてしまう。するとストクードがいきなり吹き出した。


「……ふ、ふははははっ」


 なんだそれはと、ストクードを軽く睨むと、彼は誤魔化すように咳払いをした。

 俺も空気を仕切り直すために咳払いをする。今ここで、彼らに言っておきたいことがある。さっきの夢、そして思い出した夢。全部自分の愚かさが招いた結末。それでも、一ついいことも思い出せた。

 この気持ちは、決意は、口に出して言っておきたい。初めて俺を助けてくれた老人に。言葉

は通じずとも。


「――――俺、皆を助けたい。正義の味方みたいに、なれるように。誰かを助けられる存在になれるように」

 

 口に出すと余計に突拍子もない言葉だ。それでも本気だ。これは、この思いだけは成し遂げる。

 当然、俺の言葉は二人には理解できないだろう。いやまあ、言葉を理解できたところで意味不明なことを言っている自覚はある。しかしこれは一種の誓いのようなものだ。意味が通じずとも、言葉として彼らに伝えたこの瞬間、たがえられない夢となったのだから。

 二人は変わらす俺の顔を見て目を見開いている。俺も言ったはいいが、その後言葉を紡ぐことも出来ずにそのまま二人を見つめ返していた。

 そんなことをしていると、隣に少女が近づいてきた。


「シ……ドウ?」


 まだつたないが、俺の名前を呼んだ。さっき俺が労働に出ている間に覚えたのだろうか。さっきは怯えていたためにちょっと意外に思った。しかしもう彼女の顔に怯えはなく、むしろその空色の瞳を輝かしていた。

 てとてとと、四つん這いのまま俺に近づいてくる。その所為でゆるい服の胸元が見えてしま

いそうになる。こう言っては失礼だろうが、薄い胸部の所為で余計に服との隙間が目立つ。何とか視線を外しながら、彼女の眉間辺りに目線を集中した。あまりにも無防備なその行動にひやひやしながらも、至近距離にまで近づいてきた彼女の顔を見る。

 改めてとんでもない美少女だ。そんな美少女としばらく目を合わせる。俺の目を覗き込むように見ていた少女は何かを確認するようにうなずくと、俺の手を握りだした。


「ッ!?」


 思いもよらないその行動に戸惑うが、彼女は血の汚れなど構わず俺の手をしかと握る。そして何を思ったのか、その手を自分の口元へと持っていった。

 かすかな吐息が手をなでる。正直何をしようというのか不安になっていると、少女は深く息を吸い、また同じく深く息を吐きだした。

 吐いた息は当然俺の手にかかる。妙に暖かく、そして優しくなでる吐息にどぎまぎしていると、今度はそんなトキメキなど一瞬で吹き飛ぶ現象が起きた。


 手が、光った。


 いや、比喩でも何でもなく、本当に光った。物理的に。淡い光ではあるが、蛍のような黄緑色に、俺の手が光りだしたのだ。あまりの事態に驚いて手を引っ込めようとすると、少女はむうっとした表情で頑なに俺の手を離さない。

 混乱している俺をよそに、光はだんだんと弱くなり、消えてしまった。そしてその光がおさまった後、引き気味に自分の手を確認してみた。

 そこにはどういうことか、血に汚れている”だけ”の手があった。

 そう、汚れているだけ。全くもって正常な、怪我の一つもない手だ。


「――――」


 何度目だろうか。開いた口が塞がらない。それでも驚かずにはいられなかった。

 確かに想像していなかったわけじゃない。詳しくなくても、こんなファンタジーゲームのような世界なのだから『魔法』の一つもあるのだろうかと考えていた。それが今、目の前で行われたのだ。

 魔法以外の何物でもないだろう。手が光って、怪我が完全に治っているなど。こんなの魔法以外にあり得ない。

 あまりのことに唖然とし続ける俺。すると 少女は俺の体を慌ただしく触りだした。半ば抱き着かれる形でぺたぺたと体を触られる。その体勢にさすがに正気に戻り、彼女をなんとか剥がした。おろおろした様子でこちらを伺う少女に、ひたすらに首を縦に振って大丈夫だというような態度を示す。するとほっとしたのか、ため息をつくとふにゃっ――と、そう形容するのが正しい柔らかな笑顔を見せてくれた。

 思わず見とれてしまう。その笑顔を見つめていると、彼女も俺を見つめ返してきた。すると

何かの言葉を発する。それは繰り返し、同じ言葉が紡がれていった。

 俺はその意味をすぐに理解し、聞きに徹する。そして確かに俺の中にその言葉がすとんと入ってきたとき、その言葉をつぶやいた。


「アトスネーヴ……?」


 その言葉に、少女は可愛らしくうなずく。

 その様子を見ていた横の老人はひたすらに笑いを堪えているようだったが、まあいい。これで俺はこの世界で二人の名前を知った。

 まずは一歩。確かに踏み出せた気がする。

 ストクード、アトスネーヴ――この二人と俺は言葉を交わした。名前だけのものだったとしても、何も知らなかった最初とはずっと違う。

 今一度、俺は二人に向き直り宣言した。決して違えられない決意を。


「俺はみんなを――救ってみせる」


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