出会い:白金の天使
目の前にある少女の顔は、それはもう、とんでもなく美しかった。
美人――それをさらに幼くした、とでもいえばいいのだろうか。世界三大美女とうたわれた女性たちの幼き時の姿とでもいえばいいのか。とにもかくにも、美しい、その言葉しか浮かんでこなかった。
でも美人という言葉から受ける、ある種冷たいクールな印象は全くなく、かわいらしさやあどけなさの残るその顔はそれこそ(あまり詳しくは知らないが)アニメや漫画の美少女と大差ない。むしろ俺にはあの絵の少女たちよりも断然こちらのほうがかわいく美しく見える。
髪はストクードのような白ではなく、白金色。光り輝いてすら見えるその白髪は一本一本が絹糸のようでさらさらと流れている。ボブレイヤー? というのだったか、もみあげの部分のみが肩まで伸び、襟足はうなじほどで切りそろえられている。
大きな丸い目にはアクアマリンのような輝く空色。それを縁取るまつ毛は長く、そしてビューラーで整えたかのようにくるんとしている。幼さの残る口元には、その幼さに似合わない異様な色気が、さくら色の小さな唇を濡らしている。
袋から出ている上半身はか細く、そしてしなやかだ。長袖のワンピースのような、薄く青に染まった緩めの服を着ており、そこから除くわずかな肌はこれも絹のようにきめ細かく、そして白く透き通っている。
ともかく、どれだけ言葉を尽くそうともこの美しさ、かわいさは表現しきれないんじゃないかというほどの可憐さがこの少女にはあった。
しかし、今少女からすればおそらく捕らえられた後、袋からやっと出れたと思ったら知らない顔の男が目の前にあるわけで、当然その後の反応は火を見るよりも明らかだ。
「――――っひ!!」
小さく悲鳴を上げると、その顔をあっという間に絶望へと染め上げる。
少女は袋と俺の上から必死にもがいて降りると、そのまま四つん這いで壁の隅まで逃げ、そして此方に恐怖に満ちた目を向け震えだした。自分の体を抱くようにして震えるその姿に、俺は何とか声をかけようとしたが、言葉を話せないことに気づく。どうにかしようと、とりあえずストクードを見やった。
するとストクードは少女に向けて、ともすると俺に話しかけた時よりももっと優しい声色でもって彼女に話しかけた。
「□□□□□、□□□□□□□□?」
その声に少女は再び身を縮ませると、そのままこちらを見ることもせずに顔をも細い腕で覆ってしまった。
少女の服はワンピース型で、かなり薄くだが意匠が施されていた。ワンピース型といっても、何枚もの形の違う布が折り重なり、ワンピースのようなシルエットを作っているようで、単純ながらもよく見れば凝った作りをしている。
そんな少女に、ストクードはもう一度、優しく声をかける。すると少女は震えるままに、腕から目だけを出すようにしてこちらをうかがってきた。彼女はこれでもかとおびえている。こんなにも、ただでさえ小さい体をさらに縮こまらせて。その姿に、何か俺の心の奥底を突き刺すような痛みを覚えた。
そうはいっても、俺にできることは彼女とストクードの会話を見守ることだけで、その内容でさえ判然としない。つまり、今俺にできることは何もないわけだ。
「□□□□□□?」
再びのストクードの問いかけに、びくっと反応した少女だったが、その沈んだ表情と目線が、段々と上がってきた。今ではちゃんとこちらに顔を向けて、ストクードの話す言葉を聞いている。
それを見て、俺も少し安心できた。顔を見せているということは少し警戒を解いているということだろうし、体を抱く手にも段々こわばりが無くなっていくのが見れる。
「□□□□□。□□□□□?」
「□□□□□□。□□□□□□□□□□、□□□□□□□」
少し長めの会話をしているようだった。そのうちにだんだんと少女は警戒を解いていく。今ではもう、涙目こそ治っていないものの、此方をちゃんと見てくれていた。まったく会話の内容が分からないというのは、置いていかれているようで、妙な焦燥感と恐怖があったが。
「ストクード、□□□□□。□□□□、シドウ」
ストクードの言葉の中に、彼の名前と、そして俺の名前が出てきていた。自己紹介の言葉なのだろうか。これも後々に教えてもらわないと。
言葉が分からないというのは、こんなにも不安なことなのだと、改めて思いしった。すこしでも分かる様にならないと、きっと今よりも、今までよりももっとひどい目に合うことはさすがに予想できていた。
しばらくの会話の後、彼女は自分の胸に手を当てて何かを言っていた。何度か同じような発音を聞いた気がするから、もしかしたら名乗っているのかもしれないが一度や二度、ましてや会話の流れの中でとなると正確には聞き取れない。今度ゆっくり教えてもらおう、そんなことを考えていた時、ふと嫌な予感がした。
その予感と同時に、隣のストクードが険しい顔になる。その顔はさっき見た。つまりは――。
かしゃん、かしゃん、と音が聞こえてきた。少女も気づいたようで、さっきまでの怯えた表情に戻ってしまう。
無意識に俺は横へとにじり寄る様に動き、自分の背に彼女を隠せるような位置取りをしていた。自分でもしてから驚いたが、自然に動いたこの体を、元の位置に戻す気は起きなかった。
近づいてくる足音は先ほどとは違い、ずいぶん冷静なものだ。等間隔に、静かにくるそれはやはりこちらに近づき、そして格子の前で止まった。その兵士の腕には青い布がまかれ、俺をここまで連れてきた、あの女兵士であるということがわかる。
女兵士はなぜかこちら側を視界に入れた瞬間少し止まり、しばらく、もしかしたら俺のほうを見ているのかもしれない。兜がこちらをまっすぐにとらえていた。
「…………」
なんだ、と思うがすぐに思い当たる。さっきまでいなかった少女が、自分が奴隷を放り込んだ牢屋に増えているのだ。いくら彼女が小柄でも、俺の上半身だけで隠せるわけはなく、目につけば当然注視するだろう。
しばらく止まっていた兵士だが、鍵束を取り出し、格子をあける。すると一言、つぶやくようにして言った。
「■■■」
その兜のスリットの奥は確かに俺をとらえており、その言葉は俺に向けられている。
汗が、噴き出た。
わからないのだ。俺にはこの言葉はわからない。この短い言葉、おそらく命令のたぐいであることは想像できる。なんだ? どういう意味だ?
わかるのは、ただ一つ。この命令に逆らえば、痛い目を見るということ。
(……奴の言葉は短い。たぶん単純な動作だ。でも単純な動作って言ってもなんだ! 立てばいいのか? わざわざこっちに来たんだから俺に用があるはずだ。『立て』という命令なのか? いや、この子が増えてる。そして俺は隠すような位置にいる。この子を見るために『どけ』ということもありうる。それなのに立ち上がればもうそれは”叛逆”と同じだ。殴られる。下手すればここにはほかに人もいるんだ。ストクードとこの子まで被害にあいかねない。なんだ、どうする? どうしたらいい!? 考えろ! 考えろ!)
数々の言葉が頭の中を駆け巡る。パンクしそうなくらいに回転させても、未知の言語の壁は簡単には越えられない。しかも一番問題なのは”何もしない”ことだ。それが一番問題を大きくしてしまう行動だ。それだけは避けなければ、今すぐに、何か行動を選択しないと――!
そう思うが、それでも間違ったらという思いが、俺の行動をほんの少し鈍らせる。どうするという問いが頭の中を巡りだしたとき、視界の隅で少しばかり動くものがあった。
(――――!)
俺はそのまま、できる限り早い動作で――といっても今の俺の体でだが――立ち上がる。はたから見れば生まれたての小鹿が立ち上がるようなものだろうが、これでも今の俺には限界だった。
兵士は無言だ。嫌に長い時間に感じる。強くつばを飲み込む。緊張が走る。その時、兵士の体に動きがあった。
「――――っ!」
思わず体を震わせるが、兵士はそのまま開けた格子の前で半身になっただけだった。開けられた格子には、人一人が通れるくらいの空間。
(出ろって、ことか?)
そのまま、もう後ろを向くこともできないので足を踏み出す。一歩、踏みしめても兵士に変化は見られない。そのまま続けて足を前に出して格子の外まで来た。
すると兵士はそのまま俺を外に、格子を閉めた。
「――――」
音の出ないように、静かに息を吐きだした。よかった。あってた。
閉まる格子越しに、俺はひそかに『枝を立てて持った』ストクードに目線を送った。あの動作を見て、『立て』と言われているのだと解釈したが、本当に助かった。余計な被害は出ずに済んだ。
ストクードも静かにうなずき、口元の端を笑みの形にする。だが、その表情はすぐれなかった。
女兵士はすぐに俺の首に鎖のついた枷をはめる。当然、今この状況で抵抗などできるわけもなくおとなしく鎖を引かれて歩くことしかできなかった。
鎖を手繰る女兵士は、俺が連れてこられた方とは逆――壁の向こうに見えていた岩壁のほうへと俺を引き連れていく。
ひとまずの不安は解消されたが、今度はこっちだ。どこに連れていかれるのか。なにをされるのか。わからない。本当にわからないことだらけで、想像することもできない。
俺はただ、黙って女兵士の後をついていくことしかできなかった。
道は歪ながらも岩壁へと続いており、何度か曲がり角のような所に出くわしもしたが、基本的には一本道だった。
その途中にはやはり奴隷が詰められた牢屋がいくつも並び、その中の奴隷たちはみな憔悴しきっていた。きっと、死んでいる者もいるんだろう。
さっきまでの、ストクードと会話していた時の安心感は消え去り、またとらえられた時の恐怖心が背筋を登ってくる。すっと肝が冷える感覚を味わいながらも、女兵士の歩みに合わせて歩くしかなかった。
散歩している犬でさえ、もう少しまともに連れられているだろうに、今の俺は犬以下だろう。人という理性がありながら、首輪を着けられ手綱を引かれるというのは、無条件に精神をすり減らしてくる。
そんなことを考えていると、岩壁はもはや目の前というところまで来た。
どうしてこんなところにと思い、目を伏せたまま周りを見ると、岩壁の一部に人が通れる程度の穴がぽっかりと開いていた。
(洞窟……?)
岩壁には人為的に掘られたような穴が開いており、その中からは松明の明かりが確認できる。
まるで校外学習か何かで見た日本軍の塹壕遺跡の入口のようであるが、もう使われなくなったものと比べると、松明に照らされた壁の色つやは生々しく思えた。今もここを多くの奴隷たちが通っていると考えると、この壁の湿り気が水ではなく血のようなものにすら思えてくる。
女兵士はためらわず、化け物の食道のような洞窟へと入っていこうとする。
――いやな考えを振り払いながらも、俺はおとなしく兵士に引かれ洞窟へ足を踏み入れた。
中は足元が少し見える程度にしか照らされていない。洞窟自体は簡単な木組みで補強されてはいるが、ところどころが朽ちて補強の役目を果たしているようには見えない。かなり古びて見える。
唐突の激しい地面に足を取られそうにもなるが、いまだ暴力の跡が痛む体にいうことを聞かせて足を上げる。この暗さと歩きにくさでいまだ転げていないのは、皮肉なことに女兵士に鎖を引っ張られているからだろう。
無言のまましばらく歩いた。ここにきてから時間間隔が自分の中で信用ならなくなっているが、それでも大体十分程度か。
何度目かのゆるい曲道を曲がると、急に眼に入る光が強くなった。思わず顔をしかめながら目の前に広がる光景を見たとき、今まで勤めて出さずにいた声が出てしまった。
「なッ……!」
仕方ないことだと思う。こんなものを見せられて驚かない奴なんていないと思う。少なくとも、俺の知っている世界ではありえない風景だった。
洞窟を抜けた先、そこには広大な空間が広がっていた。
ざっと半径二、三十メートルほどだろうか。高さもかなりある。ほぼドーム状に開けた空間だ。ここから向こう側の壁まで、かなりの距離がある。しかも俺の視線の先、広間の向こう側には高さ四メートルはある重厚な扉が鎮座していた。
広間には天井を支えるように等間隔に巨大な丸柱が何本も建っている。そしてその柱に沿うようにして、多くの男たちが無心に何かを振り下ろしていたり、大量のレンガを背負わされていたりした。大勢のその男たちはみな一様に首輪を嵌め、そして手から血を流しながら木槌と鑿のようなものを振るっていた。
……そしてもう一つ。高い天井部分。その岩肌には手のひらほどの大きさに見える蜘蛛が何匹もうごめいていた。生理的に嫌悪感を覚えても仕方ない光景。きっと蜘蛛が苦手な人なら卒倒するだろう。なにせこの距離で” 手のひらほどに見える” 蜘蛛がうごめいているのだ。遠近法的に、あれが間近にいれば人間など平らげてしまえる大きさだろう。唯一蜘蛛らしくない部分といえば、蜘蛛の頭の代わりに、人間の体が生えていることくらいだった。
「………………」
開いた口が塞がらない。なんだこれは。改めて非現実を突き付けられる。死んだことさえいまだ夢のようで、それだというのにこうしてこんな非現実を突き付けられてはもう頭は追いつかない。
呆けていると、背中に衝撃が走った。思わずそのまま倒れてしまう。後ろを振り返ると、女兵士が手を前に出していた。押されたらしい。そのまま女兵士は俺に近づくと小さな袋を渡してきた。受け取ったのを確認するとそのまま鎖を引っ張り始め、俺を空間の外周、奴隷たちが並んでいる場所の少し間の空いているところへと乱暴に追いやった。
壁を前に座り込むと、横目でちらりと隣の男がこちらを見る。でもすぐに視線を戻し、目の前の柱に鑿を振るい続ける。
女兵士は俺をそこに追いやると、そのままどこかへと歩き去っていった。
渡された袋の中には、ぼろぼろの木槌と鑿が入っていた。それを見て、おそらくは、隣と同じ事をしろということだろうと思い至る。
俺はかすかに震える手で鑿と木槌を持ち、壁に当て、隣の男の見よう見まねで振り下ろしてみた。しかし乾いた音がするだけでまったく削れている様子がない。
「…………」
もう一度、振り下ろす。しかし結果は同じ。少しの粉が散る程度。
思わず周りを見やる。自分が下手なのかと思い、どうにか周りのやり方をまねようとした。こんなところで、まったく削れていないようではきっとまた痛めつけられてしまう。後ろでは何人かの兵士がこん棒のようなものを持ち、暇そうに歩き回っている。そして遠くでは、そのこん棒で叩かれる人影も。
恐怖心と焦燥感にさいなまれ、きょろきょろとあたりを見渡す。しかし、この刃こぼれした鑿と木槌で目に見えて岩壁を削れている人間は見える範囲でいなかった。皆一様に、粉のような欠片を出しながら、壁を無心で打ち付けている。
みんな、そうなんだ。俺が特別下手なわけではなく、この岩壁と、そして鑿ではこれが限界なのだ。
思わず考えてしまった。この鑿で、この空間を削りだすのにどれだけの日々を使ったのかと――。
どれだけの命を、使い果たしたのかと――。
さすがにこれだけの空間を一から削り出してはいないだろう。でも、もともとあった空洞にせよ、これだけドーム状に近く、そして柱まで削り出すとなったなら、それにはどれだけの労力が必要なのか。
奴隷としての、これはおそらく労働なのだろう。ここにいる奴隷たちは人外問わずにここの何らかの施設の建築に使われていると思って間違いない。
何をする場所なのか。そしてなぜこんなにも奴隷を多く使役できているのか。どう見たって兵士の数よりも奴隷のほうが何倍も、下手したら何十倍も多い。なのに彼らは無言で従っている。
長い年月使われている様子と、そしてこれだけ暴動の気配もないこの様子を見て、完全にそれが当然であるかのようだ。
それだけ、この世界にはこの奴隷が染みついている。人間と思しきあの兵士たちが、すべてを牛耳っている。
わからないことと、そして状況から見て取れる予想と、それらがすべて頭の中の、かすかな光さえも塗りつぶしていくようだった。
カタカタと震える手が動かない。ここはどうしようもない。光も、希望もない。そう思うと体は動かなきゃならないのに動いてくれない。力が抜けていくような錯覚を覚える。
その時、隣で何かを落とす音がした。見れば男が鑿と木槌を落としていた。もうどこを見ているかも分からない目は、男が極限状態であることを教えてくれる。そんな横顔を見ていると、不意に男の顔が消え、兵士の脚に成り代わった。正確には、兵士の脚が何の躊躇もなしに男の頭を壁に叩きつけたのだ。
トマトか何かがつぶれるような、卵が割れるような水っぽい音と共に、俺の頬に何か生ぬるいものが飛び散った。
ずり落ちる男から流れ出る血。その量にもう死んでるんじゃないかと思った。
「■■■■■! ■■■■ッ!」
兵士はつぶれた男に対して、罵声と思しき声を叩きつける。そのままこん棒でも二発。叩かれた男はピクリともせず、なすが儘にされていた。
「――――ッ!」
血の気の弾いていた頭に、再び血が上る。見知らぬ男だろうが、目の前で行われている彼への暴挙に、俺は無意識に兵士を睨みつけた。
兵士はそんな俺を見るやいなや、おもむろにこん棒を振るう。
「あぐっ!」
側頭部を叩かれ、うずくまる。
兵士はそれで満足したのか、そのまま壁沿いに歩いていった。
頭に響く痛みに耐えながらも、俺は隣の男を見やった。
「……くそっ! おい、大丈夫か!」
俺は隣の男に声をかけるが、何一つとして反応がない。倒れた男は瞬きもせず、弛緩したように口を開けっ放しにしている。そこに呼吸の気配はない。
「…………」
素人目に観ても、死んでいるのは明らかだった。
それでも、と俺は男に手を伸ばそうとした。しかしその腕は反対側にいた男に掴まれ阻まれてしまった。
「っ! なにを……」
止めようとしてきた男を振り返り、その目を見て声が出なくなってしまった。
「□□□□□□…………」
言葉は相変わらずわからない。しかしそこに”懇願”する感情があるのだけは理解できた。避難でも、怒りでも、戸惑いでも、ましてや忠告でもない。「余計なことをしないでくれ」という、ただただ願う想いだけが感じ取れた。
「――――っっっ!」
その目に、声に、表情に――俺は手を下ろし、歯を食いしばった。
なんだ、これは。
なんでそんな表情をする。怒りはないのか。悲しみはないのか……男を非難するのは間違っていると十分わかっている。だがそれと同じくらい、男の感情も理解できてしまえたから、俺は止まらざるを得なくなった。
俺自身、諦めの果てにすべてに興味をなくしていた男なんだから。
俺はおとなしく、地面に転がっていた鑿を手に取り壁に押し当てた。
ただひたすらに壁を削る。体力の残りなんて考えない。ひたすらに木槌を鑿に振り下ろす。かすかに削れ行く壁などもう意識にない。がむしゃらに、狂ったように木槌を振り下ろす。怒りと、悔しさと、やりきれなさと……とにかく口に出して叫びたい感情をこめて、何度もたたく。
何十発も、何百発も、何千発も、振り下ろす。
手がしびれてくる。硬い壁からの反動は手の骨にまで衝撃を与えてきた。汗で滑る手を握り直して振り下ろす。目測がずれて鑿を持つ指を叩いてしまう。手を放しそうになるが、男の最期が甦り、耐える。落としはしなかったものの、爪は完全に割れていた。
涙があふれる。痛みもひどい。恐怖と怒りで歯が震える。隣の男を救えなかった事実に、心臓が張り裂けそうになる。見ず知らずの男の死に、まるで心臓を刺されたように苦しくなる。何よりも、何もできなかった自分に、腹が立つ。
悔しくて、痛くて、怖くて、惨めで、情けなくて、ぐずぐずに泣く。恥も外聞もない。男として情けないことこの上ない顔だろう。それでも涙は止まらず、視界は薄くなっていく。それでも手は止められない。泣きながら、情けなく泣きながら、木槌を振るう。
手に違和感を感じた。血で滑るのではない。おそらく木槌を握っている部分の皮が肉とずれだした。そのずれは大きくなり、やがて皮膚の耐久力を超えて破ける。血でもない体液が染み出し、皮膚のないやわらかい肉に木槌のささくれが刺さる。
終いには血が出て、道具は扱いづらくなる。それでも、やっぱり止められない。止めたら次は、俺の死だと思えてしまうから。
痛い、怖い、痛い、怖い、痛い、怖い、痛い、怖い――。
振るう度に、血が飛び散る。それでも恐怖は俺を突き動かす。
涙で目が痛い。自分が何を削っているのかさえ分からなくなってきた。手の感覚もない。そのくせ痛みは感じる。小さな子がぐずるような、鼻水と涙で濡らしきった顔は、きっと泥や血で汚れている。
それ以降、俺はどれだけ木槌を振り続けたのだろう。時間もわからない。ただひたすら、欠片すら出さぬ壁を削り続けた。
気を失い、目の前が真っ暗になるまで――。