出会い:銀の老剣
「なんだよ……これ」
今俺の目に映る世界は現実なのだろうか。異形、そうとしか形容しようのない存在達がひしめいている。それもすべてが例外なく傷つけられ、泣いている。見て取れるだけでも殴打、むち打ち、切傷……とにかくいたるところに故意的な傷がついていた。
「■■■■……」
横に投げ出された蛇の女が、俺の脚に手を伸ばしてきた。その手は俺に着けられた木製の物とは違い、薄い金属製の手枷がつけられていた。変な文様の彫られた枷は、両手の枷同士が鎖で繋がれている。
手は驚くほどに白い。死体にも思えてしまえるほどに。それは元々の色なのか衰弱の果てなのかは分からない。白い腕には頬と同じように、薄紅色の鱗が生えている。作り物ではない、冷たい体温が、足に伝わる。
「あ……」
俺はどうしていいのか分からなかった。目の前の蛇人間は俺の脚を掴むと、ほんの少し力を込めた。もしかしたらそれが今の精一杯なのかもしれない。目は苦痛に染まり、言葉は分からなくても、救いを求めているのは明白だった。
ただ、彼女の眼を見つめることしかできない。黄色の眼には縦長の瞳孔。爬虫類的なその瞳からは、涙が流れていた。鮮やかな長い赤髪は、泥をかぶっている。汗で髪の張り付いた、まだ少女とも呼べそうな年頃の顔は、恐怖と、苦痛と、あとはなんだろう。とにかく絶望に染まっていることだけは確かだ。
もう声も出ないのか、パクパクと口を開くだけで音が出ていない。何を言っているのか分からない。触れていい物なのかさえ、判断がつかない。でも、なぜかこの状況において、俺は彼女の手に、無意識に自分の手を伸ばそうとした。だが――。
「■■■■ー! ■■ーーー!」
彼女は後ろから近づいてきた鎧の兵士二人に、首枷の鎖を引っ張られ、そのまま三メートルはある体を引き摺られていった。俺を見て、ボロボロと涙を流しながら、声を絞り出しながら、彼女はどこかへと連れていかれてしまった。
もう自分の足元に彼女の手はないというのに、俺はそこへ手を伸ばしたまま固まっていた。いまだ近くでは異形達が悲鳴を上げている。もしくは鎧の兵士たちに鎖を引かれて連れていかれている。うなだれ、諦めたように動かない者もいる。鞭で打たれながら、犬のように自分の脚で従うものもいる。
奴隷だ――。
それが分かったことだった。なんとなくだが、この異形達は奴隷なのだ。姿かたちこそ人と
違う、異形達。手綱を握り、家畜を率いるように歩く人間と思しき兵士たち。その構図はまさ
に奴隷と主人のようで、俺はそれを確信した。もちろん、枷を付けられている俺も例外ではないということを。
「あぐっ……!」
呆然としていると、急に走った首の痛みにうめく。どうやらいつの間にか兵士が俺の鎖を掴んでいたようだ。強く引っ張る兵士を思わず睨みを付ける。しかしその兜のスリットの奥にあるであろう目と視線が交わった瞬間、暴力の記憶がフラッシュバックした。同時に自分でも顔が引きつるのが分かる。睨めない。兵士と目線を合わせるのがどうしようもなく怖かった。味わったことのない純粋な暴力と、それに伴う痛みと恐怖は、理不尽な行為への苛立ちも、簡単に塗りつぶしてしまった。
情けなく震えていると、俺の鎖を掴む兵士に対して、また別の兵士が話しかけてきた。
何を言っているのか分からないが、一言二言だけ言葉を交わしている。――驚いたことに、鎖を持つ兵士の声は女性の物だった。かなり低くしゃべってはいるがその声は確かに女性のもの。鎧で体格が分からなかったが、確かにほかの兵士たちより一回りほど細身だった。
いくつか言葉を交わした兵士は、二人して俺のほうへ向き直った。
急に向けられた視線に体が震える。また何か暴力を振るわれるのだろうかと、無意識に奥歯が鳴る。兵士たちを真正面に捕らえることも出来ず、かといって目線を逸らし続けるのも怖かった俺の目は、あっちこっちにせわしなく動き続けた。
「■■■■■」
鎖を持つ女の兵士が、もう一人に何か言った後に俺に手を伸ばそうとしてきた。
迫りくるであろう痛みを想像し、きつく目をつむる。しかしその手が俺に触れることはなかった。
薄っすら目を空けて兵士のほうを見れば、俺ではないほうを見ている。その目線の先を俺も追うと、そこには三人の兵士がこちらに歩いてきていた。
ほどなくして三人の兵士は俺の前に立った。簡素な鎧に身を包んだ兜の兵士二人と、そしてもう一人。兜はないが、いやに凝ったデザインの鎧を着た細身の男が先頭にいた。
先頭の男は薄目の頭髪に口髭を生やし、少しえらの張った顔に厭味ったらしい笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「■■■? ■■■■■■」
「■■■■■」
「■■■■■。■■、■■■■■■■■」
兵士たちは少し会話をしたかと思うと、兜の兵士の一人が女の兵士から鎖を取り上げる。するともう一人がすかさず俺の襟首をつかんできた。
「■■■■■! ■■■■!!」
怒号を飛ばされるが、当然何を言っているのかは分からなかった。これから何をされるのか、道中でのことを思い出し肝が冷えていく。
何も答えるすべを持たない俺は、ただ冷や汗をかきながら戸惑うことしかできない。俺の襟首をつかむ兵士の拳に力が入るのが分かった。
しかし、兵士から暴力が来ることはなかった。
「■■。■■■■■■■■?」
女の兵士が、何かを言った。すると兜の兵士は俺を突き飛ばした。
痛みをこらえながら兵士たちの方を見ると、女の兵士が俺に向かって、自分の服のポケットをまさぐる仕草をする。その後、俺をゆっくり指さした。
なんとなく、俺もつられて同じようにポケットに手を入れた時、手にあの火打石の感触があった。
「…………」
なんとなく、状況が分かった。
俺は確か、ここに来る前にあの火打石を使っている。兵士への攻撃に。あの時は必死で何が何だか分からなかったが、何かを持っているという事は奴らの耳に入っているのだろう。
自分でもよくわからなかったが、確かにあの時、この火打石を振り下ろした瞬間に青い炎が燃え上がった。小さく、一瞬兵士を驚かせた程度の物ではあったが、奴らにとっては俺が”なんらかの抵抗”をしたと映るだろう。
武器を取り上げようとしている。おそらくそうだ。”あの時の武器を出せ”というようなことを言われたのだと思う。
事実、俺がポケットに手を入れた後逡巡したのを見逃さなかったのか、見ていた兵士がそのまま俺の手を乱暴に引き抜いた。そのまま勢いで火打石がポケットから転び出てしまう。
「っ!」
とっさに、俺は火打石に手を伸ばしてしまった。だがそれを兵士たちが許すはずもなく、思い切り手を踏みつけられる。あまりの痛みにうずくまっていると、兵士は火打石を拾い上げて口髭の男へと渡してしまった。
――駄目だ!
火打石を取り上外られた俺はどうしようもない焦りで頭がいっぱいになる。あれだけは、なぜかあれだけは取られてはいけない。取らせてはいけない。
だが、今の俺の体では立ち上がるのもやっとだった。脚に力を入れるが、まったく立つことができない。そのまま体制を崩して転んでしまうだけだった。
「や、めろっ! それは、それは駄目だ!」
やっとのことで口に出た叫びも、奴らは気にする風でもない。口髭の男は俺の火打石をまじまじと見ると、満足そうに嫌らしい笑みを浮かべた。それを自分の腰に下げている袋へと突っ込むと、そのまま踵を返して歩いていってしまった。
「――っ!」
俺はその兵士に向かって手を伸ばした。あの火打石だけは取られてはならないと、意味も解らず本能が警鐘を鳴らしている。どうしてかあれだけは、ほかの奴の手に渡ってはいけないと直感が訴えた。
しかしやはり、俺の体は痛みでうまく動かない。挙句取り巻きの兵士たちに抵抗しようとしているさまを見られて蹴りを入れられた。
「ごぉっ――かはっ!」
わき腹を蹴られ、うずくまる。口髭の男たちは、もう遠くへ歩いていってしまった。彼らが遠くに歩いていくのと比例して、妙な焦燥感も薄れていった。
火打石を持っていった兵士たちは、完全に見失った。焦燥感の代わりに、俺の心にはただ脱力感だけが残っていた。
不意に首の鎖が引っ張られる。女兵士が俺の鎖を引き上げようとしていた。
震えるくせに立ち上がろうとする足は、立ち向かうためのものではない。ただ大人しく従うためだけに力が籠められる。よろよろと立ち上がる俺を見て、兵士は黙って歩き始めた。俺はその鎖に引かれていく。養豚場の豚のように。
震える足ではうまく歩けないが、ここで転ぼうものならその後は目に見えている。どうなるか見たことがなくても、これまでの状況から容易に推察できた。大人しく引かれている限り、暴力は襲ってこないだろう。確証など、微塵もないが――。
歩く間、視線はずっと下を向いていた。もう周りを見るような余裕はなかったし、そんなことをしていようものなら殴られる気がした。大人しく、静々と。俺の置かれている状況は上を向く事すら不敬なのだと思えた。首枷――家畜の証を着けられた俺が、それを許されているはずはない。
目に映るのは踏み固められた地面と、俺の首輪から伸びる鎖だけだ。地面は明るいが、常に揺らめいている。炎の光だろうか。昼か夜かもわからない。いくつもの足跡が影の形を変える。踏み固められたこの地面には多くの往来があるのだろう。きっと、人間でない者たちの足跡も多くあるのだろう。
不意に、視界の端で何かが揺れているのがみえた。青いそれは、どうやら兵士の肘辺りにまかれている布のようだった。ゆらゆらと、歩みと共に揺れるそれを、俺はもうなにも考えられなくなった目で見つめていた。
しばらく連れられていると、視界に映る女兵士の脚が止まった。
かすかに視線を上にあげると、そこにはレンガ造りの壁がそびえたっていた。、2メートルくらいはあるだろうか。そしてその壁の向こうには、切り立った岩壁が見える。
女兵士はその壁に据え付けられた厚い鉄門扉の前で足を止めていた。
門扉の前には木の椅子に腰かけた男の兵士が一人。俺を引いている女兵士と何かやり取りをしている。ちらと目線を送ると、ちょうど座っていた兵士も俺へと目を向けたところだった。思わずぞっとして、とっさに下を向く。その後もいくつか兵士たちは言葉を交わしたかと思うと、立ち上がった男の兵士が、鉄の扉を押し開けていく。
耳障りな音を立てて軋む扉は徐々に開いていく。人が通れるほど開いたとき、俺の鎖を持つ女兵士が歩みはじめた。心の中では拒みながらも、俺の足は恐怖から自然と前へ出る。
――一歩、壁の中へと足を踏み入れた瞬間だった。奥から風が吹き抜けてきた。軽い空気の流れのそれは、俺にさらに異常なものを運んできた。
まずは、その臭い。生臭い、なんてレベルではなく何かが腐敗したような、それでいて甘ったるくもある、どろり――そんな表現が適切なグロテスクな異臭が漂ってきた。鼻を衝くような鋭いものではない。ただゆっくりと鼻腔を這いずり、ゆっくり、ゆっくり、しかとその異臭を神経へ刷り込んでくるような臭い。
そしてその臭いと共に運ばれてきたかすかな悲鳴。風にのってきたその音は苦痛の色だけを孕んでいた。唸り、喘ぎ、吠え、叫び、それらはすべてこの壁の中からの音だった。
足がすくむ。カタカタと音を立てているこれは、俺の歯だろうか。それとも全身の骨が軋んでいるのだろうか。背骨に鉄柱を入れられたように微動だにすることもできない。ただその場に立ち尽くすことしかできない。
女兵士が俺の鎖を引き寄せる。半ば引き摺られるようにしてその鎖に導かれていく。二歩、三歩、四歩――進むたびにその怨嗟の声と濃厚な腐臭は強くなる。
踏み固められた道の端は明かりのための松明が立てられていた。そしてその明かりに浮かび上がるのはボロボロの小屋、それが道に沿って何十件と建ち並んでいる。
レンガでできているように見える小屋は、そのすべてが道の側に入り口が設けられており、そしてそのすべてが牢屋で見るような鉄格子だった。
はぁ――はぁ――はぁ――はぁ――。
呼吸が短く、荒くなる。吸っても吸っても、当然肺に入ってくるのは異様な臭気のみ。えづく喉は干からび、絶え間なく汗が噴き出す。脚を踏み出すたびに強くなる異臭と悲鳴。もうすでに人生で嗅いできた臭いの記憶が塗りつぶされそうになる。それでも曳かれ進み続ける。
鉄格子を嵌められた小屋――いや、牢屋だ。牢屋内には松明はなく、外の松明から漏れる光のみが照らしている。中には人型や、少し人型から外れた男たちが詰められていた。一つの牢屋におよそ十人ほど。そのどれもが横になるようなスペースなどない。
ある者は項垂れ、ある者は格子に縋り、ある者は苦痛にもがき、ある者は死んだように動かない。
そのどれもが静かに、そしてかすかに呻き、それが飽和し合唱となる。安らぎの声など、あろうはずもなかった。
女兵士に連れられ、ただ歩く。途中にあった牢屋にはすべて同じように奴隷たちがひしめき合っていた。
歩き続けてどれくらいか。もう時間間隔などない。長いのか短いのか。もう一日たった気さえする。足はもうとっくに力など入らないのに、それでも進み続ける。恐怖に背中を押されるから。
――女兵士が立ち止まった。そこはもちろん牢屋の前。しかし、その牢屋は他と違い、人が一人しか
いなかった。異形ではない。その人物は奥の闇に浮かび上がる様に鎮座していた。うっすらと見えるのはつば広の帽子と、ひざ下まであるロングコート。どちらも黒く、それが余計に闇に溶け込んでいるように見えてしまう。
その小汚い人物がいる牢屋のカギを女兵士が開ける。腰に着いた巾着から取り出したレトロな鍵で格子を開け、そのまま俺の枷も外した。その後すぐに背中を押され、半ば倒れるように俺は牢屋の中へと入ってしまう。後ろを振り返ると、女兵士はじっと俺を見ており、その兜の奥からは表情が見て取れない。ここで逃げだすような勇気も体力もなく、俺は徐々に閉められていく格子を見ていることしかできなかった。
かしゃん――。
錠前の落ちる音が、洞窟の中で異様に響いて聞こえた。その音は単純な、ある意味この世界で初めての、日本でも聞いたことのある音だというのに、聴きなじみがあるとまではいかずとも、よく知る音であるというのに、それは心を黒く染め上げるのに十分だった。
女兵士は歩き去る。こちらを振り返ることもせずに、ただ当然のように歩き去る。
項垂れる。それしかできない。
涙の所為か、痛みの所為か……霞む目で地面を見つめる。岩の地面には小さな凹凸。そこを本当に小さな、アリのような虫がちょこまかと這っている。手の上にも登ってきているのに払う気にもなれない。ただずっと、自分よりはるかに自由に生きているであろうその虫を、もう何も考えられなくなった目で見ていることしかできなかった。
「――――□□□□□?」
ふと、何か、人のしゃべる様な音が聞こえた。遠く、まるで質の悪い古電話のような、はっきりと聞き取れない声。でも、それは俺の近くで発せられたものだった。
ただ、音の方へ目を向ける。そこには先ほど外から見えた人間がいた。何も言えず、俺は彼を見ていると、その人間はまた言葉を発した。
「□□□□□□□□□?」
何を言っているのか、俺には分からない。何一つとして。どこの国の人なのかも。ここが俺のいた世界なのかも、分からない。
ただ、首を横に振る。判らないという意味と、どうしようもないという意味。そしてすべてを否定したい気持ちを込めて。力なく、首を振る。
その様子を見て、その人はまた言葉を紡ぐ。その声は老人のようにしわがれていた。遠い電話のような音は、老人が声をかけてくれるたびに、段々とクリアになっていくようだった。意識が、徐々にはっきりとしてくる。ゆっくりと、俺に話しかける老人へと、俺の意識は向きだした。その声は、今まで聞いてきた声とは違う。そう、なんというか、優しさを含んでいるような声だった。
「□□□□□□□□□?」
でも、たとえ俺が彼に意識を向けても、どれだけ耳を傾けても、分からないものは分からない。もうすでに、俺は天国でも地獄でもない、別の世界へと来てしまっているのではないか。言葉も、生物も、文化も、何もかもが違うここを、地獄とすらも、もう思えなかった。
「□□□□□」
「……え?」
今度は、短い言葉だ。でも無駄だ。俺にはわからない。そんな優し気な声を出されても、俺には理解できないし、何もできない。
「□□□□□」
また、同じ言葉だ。それもかなりゆっくり。もう一度、老人へと目を向ける。すると老人は帽子のつばに隠れた目を合わせてきた。金色に輝く、その静かな目を俺に向けた後、老人は自分の口を指した。
「□□ク□□」
聞こえた、聞こえた気がした。まったく聞きなれない発音。でも、ゆっくりとしゃべる老人の声は、次第に俺の耳にはっきりと入ってくる。
「ス□ク□ド」
「す、く……」
繰り返した。言われたわけでもない。ただ老人の言葉を、聞こえたように、そのまま口に出した。それを聞いた老人は、ふっ、と笑った気がした。ひたすらに、繰り返す。
「すと、くーど……すとくーど……スト、クード」
何度目か。聞きなれない言葉、聴きなれない発音。それでも同じ言葉を繰り返し聞いて、そして口に出すことで何かがすとんと落ちてくる感覚がある。一つの言葉が、頭の中でかちりと音を立てて、はまった気がした。
「スとくード……スとクード…………ストクード」
繰り返す。老人はそれを聞いて、さっきよりももっと、皺のある口元をほころばせた。老人
は自分の胸を指さし「ストクード」と、ゆっくり力強く言う。
「――ストクード」
俺の言葉に、老人は確かにうなずいた。満足そうに。
名前、なのだろうか。この老人の名前はストクードと言うのだろうか。俺は繰り返した。何度でも。唯一覚えたこの言葉を。そのたびに老人はうなずき、笑顔を浮かべる。
そして老人は、今度は俺を指さした。その意味するところは、俺にもわかった。
「――士道。伏見、士道(フシミ、シドウ)」
名前を、俺の名前を繰り返す。老人が、ストクードがしてくれたように。「シドウ」と何度も繰り返す。老人も、その言葉を何度も繰り返した。
「シ……ドウ」
発音やイントネーションは日本と少し違うが、確かにシドウと、俺の名前を呼んだ。老人は何度か俺の名前を確かめるようにつぶやいた後、その腰を上げて手を伸ばしてきた。
無数の皺が刻まれたその厳つい手は俺の頭へと置かれ、不器用に、しかし優しく撫でてきた。
「あ、あぁ……」
そのぬくもりに、優しさに、俺の眼からは自然と涙が溢れ出していた。
今まで零さなかった、溜まっていた涙が溢れ出す。今までの恐怖に、痛みに、そしてこれから起こることの絶望に、黒く染まりあがっていた俺の心は、そのかすかな光に溶かされていった。声は出ない。それでもこうして感情を吐露することで、心は決壊するすんでの所で踏みとどまった。
老人の手はまだ、俺の頭を撫でてくれている。小汚さなど気にならない。今こうして、俺に優しさを向けてくれている者が近くにいてくれる。それだけで俺の心はいくらか救われた。たとえこれが一時の希望であったのだとしても、それを理解していても、この暖かさだけは偽りようがない。
「――――ありがとう。少し楽になった」
そう言って、老人の手を頭から離した。その行動で伝わったのか、手を引いて老人は笑ってくれた。
もう一度、老人を観察してみる。痩躯の体と堀の深い鉤鼻の顔は煤で汚れている。どうやら黒いと思っていたコートは限りなく黒に近い藍色だった。ロングコートの襟部分にはポンチョのような布が肘までを覆い、黒いワイシャツに細工のされた留め具付きのスカーフ。黒いズボンはスラックスのような構造で、いたるところが解れ傷んでいるが、なんというか紳士といった出で立ちだ。
老人のかぶっている帽子には幅広の白っぽい布が巻かれており、それは神父のストールのように体にまで垂れていた。帽子に隠された髪は白く、ぼさぼさに伸びている。髭も蓄えており、眉も伸びている。小綺麗とは言えない格好だが、その顔に宿る金色の双眸は知性と強い意志を感じさせ、小汚い印象どころか、古い樹木のような厳かささえ湛えているように思える。
まじまじと見てしまい、ストクードは少し怪訝な顔をしていた。弁明しようとするが言葉が分からない。狼狽えていると、ストクードはかすかに笑った。どうもおかしな動きをしていたらしい。
……それよりもだ。今俺はストクードに言葉を教えてもらった。俺が言葉を知らないと察してくれたということになる。そしてどうしてかはわからないが、言葉を、名前を教えてくれてた。信用できる人物であると思う。いや、正しくは信用するしか道がないのだが、それはいい。
それでもそう判断するしかないし、そうしなければ俺の心が持たない。今はこの老人を信じなければ、きっと俺の心は折れてしまう。
思索にふけっていると、ストクードが俺の目の前で手の平を動かしていた。はっとして俺はストクードへと向き直る。
すると彼はその右手に石を握っていた。少し鋭い、白い石。もう片方には枯れ枝。
なんだろうと思っていると、ストクード白い石で地面に記号のような物を刻んでいった。よく分からないが、規則的な並びをした線。俺はそれが文字であると理解した。
「ス、ト、ク、ド」
また、彼がゆっくり言葉をつぶやいた。文字を指しながら、ゆっくりと。
すると今度は持っていた石を投げてよこしてきた。
指示されなくとも、俺はその石を使って地面に同じように文字を書き始めた。俺にはまだ見たこともない記号のようにしか見えないが、絵の模写のように続けていく。次第に見れるバランスになってきたそれを見て、ストクードが一定の区切りで俺の手を止める。すると今度は俺の手を一文字分ほど離した場所まで移動させた後、手で続きを促してきた。
書ききった。ストクードの書いたものと比べるとバランスは悪いが、文字らしくなっている。
――俺はこの世界の言葉を一つ覚えた。そして単語の書きを一つ知った。
たった一単語……たったの一単語だが、このすべてが未知の世界においてこれ以上なく頼りとなる物だった。
もっと、もっと教えてほしい。
さっきまで絶望に暮れていた俺の心は、さっきの涙と、そしてこの新しい知識、頼れる老人の出現によって少しだけ光を取り戻したように思えた。
ストクードを見る。彼は目を少し驚きに開くと、またすぐに笑みへと変わり、俺の差し出した石を受け取った。すると今度は帽子を指さした後、地面に字を書きだした。
現実逃避の意味もあるのだろう。いや、確実に現実逃避だ。さっきまでの暴力から、いまは逃れられている。だからこそ夢中になれた。それは分かってはいたが、俺は目の前の知識にだけ意識を集中
した。
しかし、ストクードが急に動きを止めた。なんだと思い彼の顔を見ると、その顔は先ほどと打って変わってかなり険しい表情をしていた。感情の見えない、まるで硝子のような眼光。その豹変に驚いていると、ストクードは彼の隣にあった布切れをさっきまで文字を書いていた場所へと乱暴に置き、俺の方、つまり鉄格子の方を睨みつけるようにしていた。
思わず俺もそちらを振り向く。すると微かにだが、金属の音―― 鎧の歩くような音が響いてきた。それは近づいてきており、近づくほど乱暴な足取りであることが分かる。毎度毎度、地面を蹴るような音に、ぞっとして身を固くする。
その音の主は俺たちの牢屋の前に現れた。胴当てのみを外した姿。腕に青い布がないのであの女兵士ではないようだ。表情は兜で隠れているが、その全身から憤慨しているのが見て取れる。その手にはかなり大きな巾着のような袋があり、兵士は乱暴に格子を開けると持っていた袋を投げ入れてきた。格子の前にいた俺はその袋に思い切りぶつかり、思わずうめく。しかしそんなもの気にする様子もなく、兵士はまた肩で息をしながら、ずかずかと歩き去ってしまった。
投げつけられたものはそれなりに重量があったが、幸運にもそんなに硬くなく、直撃こそしたがそこまで痛くはなかった。
急な出来事に鼓動が早くなる。しばらく投げつけられた袋を凝視するしかなかったが、ストクードがふっと雰囲気を戻した。すると彼は俺に頷き、笑って見せた。
もう、大丈夫なのだろうか? 俺はその様子を見てから、ぶつけられた得体のしれない袋をどけようとした。しかし手を伸ばした瞬間”もぞり”と、確かにそれが動いたのだ。
ぞわっとして手を引っ込めてしまった。今も俺の腹の上で動いている。それはこの袋の中身は生き物ということであり、心配よりも恐怖が先に来た。何せここには異形が溢れている。恐ろしいものが入っているのではと、思ってしまった。
早くどけなければと、改めて手を伸ばした瞬間、その巾着の口元がゆるくなり、そこから細い指が這い出してきたところを見てしまった。
「――――ッ!」
それが人の物であると認識した瞬間に、俺はためらいなく袋を開け放った。
「――っぷは!」
出てきたそれはもちろん、袋の口がこちらを向いているのだから、お互いの正面が至近距離に来ることになる。勢いよく飛び出してきたそれは、正直この場に似つかわしくない存在だった。
それは白金に限りなく近い美しい髪を持つ、俺が今までの人生で見てきた中で最高と断言できるほどの、完全な美少女であった。