田舎町:ムディカル
山は既に教会付近からなら、頂上まではさほど距離はなく、すこし険しい山道を歩けばすぐに山頂だ。あとはそこから山を下って行くわけなのだが、一先ず川を目指すらしい。理由はあとで教えると、シュリファパスが言っていたが、旅の基本にそういうのがあるのだろうか。
旅といえばバイクで少し遠くへツーリングするくらいのものしかしたことのない俺は、この本格的な旅というものに期待や高揚こそあれ知識はほとんどない。
大人しく旅慣れしている皆について行くしかないのだ。
「ほれ、もう少しで山頂じゃ」
シュリファパスがふよふよと泳ぎながら、振り返る。
……とんでもなく違和感しかない光景だが、彼女は空を泳いでいた。
彼女の足回り、魚の体である下半身にはまるで宇宙空間に浮かぶ水のように、体に纏わるように形をして保っている。彼女はその状態で、地面より少し浮いた空間を、泳ぐようにして移動しているのだ。ちなみに荷物など一つも持っていない。
曰く、水中ほど速くは泳げないが、湿気の多い森や山中であればこのように水を集め操り、空を泳いで見せることなど朝飯前らしい。
そんな彼女は、悠々と空を泳ぎながら先陣を切って山を登っていた。
「人魚姫さんは元気だねぇ」
右隣を歩くティヴァが、苦笑しながら呟く。
この中でも一番重い荷物を担いでおり、装備も含めれば結構な重量な筈なのだが息一つ切らさず俺たちの歩みに合わせていた。流石、鍛えた兵士は違う。
アトスはというと、俺の左隣で、遊泳するシュリファパスを「ふぁ〜」なんて言いながら目を輝かせて見ている。やってみたいのだろうか。
あと無意識でやってるんだろうが、時々俺の袖をきゅっと摘むのはやめてほしい。なんかドキドキするから。
「……? どうしたの、シドウ」
だからその小首を傾げるのもやめてほしい。なんか鼓動が早くなってくるから。
「…………いや」
落ち着いて右隣を見る。するとティヴァと目が合い、嫌になるくらいのイケメンスマイルをかましてきた。白い歯が眩しい。
「……オーケー。大丈夫」
「……何がだ?」
ドキドキしない。鼓動も速くならない。大丈夫だ。俺はノーマル。ノーマルなんだ。アトスだけならいけるんじゃないか? とか思ってないとも。
「…………」
考えを振り払うため、後ろについてきているグループを見やる。
ナーゲルが息を切らしながら、死にそうな顔で付いてきている。荷物も最小限にしているのだが、いかんせんあのローブの重ね着は登山には向いてない。ぜいぜい言いながら杖をついている。
反対に女性陣は楽しそうだ。アソルを中心にシラシュィとネムルが談笑している。と言っても、ネムルは笑い、頷いたりをしているだけだが。
彼女、かなり過酷な環境でいたためか、過剰なストレスで言葉を上手く話せなくなってしまっていた。元々口数が少ないわけではなく、むしろ元気な子だったようだ。
それでも、今のように少しずつでも笑っていてくれるのは救いだ。快方に向かって、いつか元気な姿を見てみたい。
どうやら話しているのはファッションの話のようで、蛇人族ではこういうのが、竜人族ではどうだとか、そんな事を話しているらしかった。種族間の体の違いもあるのだろう。お互い楽しそうに話していた。意外、と言ったら失礼かもしれないがサティリスもそちらを興味深そうに眺めている。
「サティはな、ああいう性格だけど服とかヌイグルミとか大好きなんだよ」
俺の視線の先に気付いたのか、ティヴァがそっと耳打ちしてくる。
「美人なんだから自分で色々着りゃいいのに、恥ずかしがって遠慮しちまうんだ」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「余裕そうだなお前達。少し荷物を分けてやろうか?」
聞こえていたのか、サティリスが怖い顔でこちらを睨んできた。ティヴァはそれに両手を上げて足早に先へ向かってしまった。それを笑いながら見ていると、いつのまにかナーゲルがさっきよりも後ろへと遠ざかっているのに気付いた。
「……ナーゲルは大丈夫か?」
俺はナーゲルへと近づき、その疲弊した顔に問いかける。しかし彼は全く問題ないとばかりに、いつもやっているような大仰な仕草で答えた。
「おおおおおおおおお!!! 王よぉ! 私のような呪われし術師にまでその寵愛を捧げるとは……感激の言葉すらなまぬ――――ゴホッ!!」
ただでさえつらいだろうに、なんだってそんなオーバーな仕草で答えるのかと。もう少し楽にしていればいいのにと思いながら、俺は彼の背負っている荷物を一つこちらに移動させる。といっても大した重さではないので特に変わりはしないのだが。
「…………」
その俺の行動にナーゲルは急に動きを止めると、そのままその目に涙を溜めはじめ、ついには号泣しだした。
「うぇ?!」
「おおおお!! おおおおおお!!! これがっ! これが寵愛を授ける王ッ! 否! 神王!!」
テンションの高さに相変わらずついてはいけないが、彼は間違いなく優秀な人間なのだ。魔術に関しても魔法に関しても、神話に関しても科学に関しても、とにかく興味が向けばひたむきになれる。そんな人間は得てして大事をなすし、強い。このついていけないテンションにつかれてしまうことはあっても、あきれることはないんだろうなと、苦笑した。
「ほら、そんなことやってる間に頂上が見えたわよ」
サティリスの言葉に、ナーゲルと共に上を向く。もう少しで、東国――スネイロスを一望できる場所へと立つことができる。まだ見ぬ世界に心を躍らせながら、俺は駆け出した。俺に反応したアトスが一生懸命俺の後を追ってくる。そんな彼に笑いかけながら、俺はついにこの中央大陸を縦断する山脈の頂に立った。
――雄大な景色。輝く緑。
確実に、日本にいる限り堪能することはできない景色だと思った。この広大な大地。巨大な川。森や小さな山々に連なる、人の営み。
それらはすべて西日、つまりは朝日に照らされ煌々と輝いていた。うっすらと青みがかって見える薄い霧を通してみたこの世界は、今までの奴隷の生活しか知らなかった、日本でも何にも興味を示さなかった俺にとってこの上なく美しい、美しい世界だと思わせてくれるのに十分だった。
森や山、それに隣接するように小さな村がいくつか点在している。そして大きな川も、大陸中にいきわたる様に枝分かれしていっている。どうやらこの山から流れ出ている川はまるで果ても見えない地平線へと消えているようだ。そして視界の最も遠く、地平線の頂点には本当に小さな影がちょこんとあった。
「あれが、俺たちの国、東国だ。でっかい城があってな。あの影がそうだ」
隣に上ってきたティヴァが、景色に見惚れる俺に指をさして教えてくれる。俺たちは今から、あそこを目指すのだ。長い道のりにはなるだろうが、それでも楽しみで仕方ない。俺はこんなにも好奇心にあふれていたのかと、自分でも意外に思ってしまうくらいに、今は胸が高鳴っていた。
「きれ~……」
「いい眺めだな」
アトスやサティリスが到着し、その景色に同じく見惚れる。しかしそんな時間もつかの間、シュリファパスがこっちじゃと手招きしてきた。
まっすぐではなく斜めに下るような角度の位置にいるシュリファパスに、皆景色を見ながらついていく。「足を踏み外すでないぞ~」と言いながら、ツアーのお姉さんのように俺たちを導いていくシュリファパス。ナーゲルは軽く坂道になってきた辺りで少し呼吸に余裕が出てきたようで、今は問題なく俺たちにくっついてこれていた。
しばらく山を下ると景色は木々に隠れてしまったが、それでも時頼見える細い景色でも十分に美しいものだと言えた。
そんな景色の旅に時間を忘れながら歩いていると、どうやらもうすでにシュリファパスが目指していたという川まできてしまっていた。
これまた川もきれいで、全くと言っていいほど濁りがない。まだまだ上流ということもあってかごつごつとした岩が点在しているが、それに生えるコケや植物。ひんやりとした独特の空気などはまさしく大自然のなせる技だ。こんな経験したことない。
目の前の流れる川に飲みたいという衝動を持ちつつも、確か生水はいけないとか聞いたことがあるので踏みとどまった。この世界でもそうなのかは分からないが勝手して腹壊したりはしたくないので一応は自重した。ここ最近、脱獄を成功させてからどうも自重やらテンションの抑えが聞かなくなってきている気がする。王らしく振る舞えるよう気を引き締めなければ。
なんて考えている俺をよそに、サティリスやティヴァ、アトスやネムルなど、普通に思い思いに水を飲んでいる。その姿に一歩出遅れながらも水を飲んだ。
美味かった。人生で一番美味かった。間違いなくこれ以上の水など存在しないと言い切れるほどに、美味い。それほどまでに美味い水というのを俺は知らない。
美味いという感想以外の言葉など、それこそ無粋であるとでもいうくらいに美味いその水に感動して固まっていると、不意に腰に衝撃が走り、そのまま水面へと落下した。
「――――! ぶへ」
なんでこんなによく水に落ちるんだ俺は、と思いながら俺を突き落とした犯人の方を向こうと立ち上がる。そしておそらく犯人であろうシュリファパスのほうを睨もうとしたとき、異変に気付いた。
「ぬれ、てない?」
そう、まったく濡れてない。あれだけ盛大に水に落ちておきながら、俺の服には一滴の水もついていないのだ。
あまりのことにシュリファパスと自分の体を交互に観ていると、彼女はそのままその場にいる人間を皆川へと落とし、最後に自分も入ってきた。その水しぶきも顔にかぶったはずなのだが、不思議なことに濡れていない。
周囲のみんなも……ティヴァを除いたみんなも俺と同じようにきょとんとしている。が、きょとんとしていないシュリファパスとティヴァは、それはそれは邪悪な笑みを見せてくれた。
「――――な」
いやな予感がしてひとまず止めようとした瞬間、俺の背後――上流のほうからとんでもない鉄砲水がたたきつけてきた。津波のようにも思えるそれはあっという間に俺たち一行を飲み込み、そのまま押し流してしまった。
「――――――――! ――――!!」
何事かと何とか目を開けて周りを見ようとするが、ぐるぐる回る視界では正確な情報が入ってこない。挙句このままでは窒息してしまう。とにかく何かにつかまらなければ! そう思ってじたばたともがいていると、俺の隣を悠々と泳いでいるシュリファパスと目が合った。
「――お前っ!」
能天気に笑っている彼女に突っ込みを入れる。
――――あれ。
「あ……普通にしゃべれる」
呼吸も問題なくできるし、視界もゴーグルでも付けたのかというくらいにクリアだ。どうやら俺以外もそうらしく、アトスやネムル、シラシュィも何事もなく流されている。ナーゲルはなぜか正座してる。なんでだ。
前、というより下を向けばそこにはティヴァが大笑いしながら流れている。こいつら、最初からグルだったな……。シュリファパスが水を操り空中まで飛べる存在で、脱獄の際もあれだけの大量の水を操れていた実力者なのであれば確かに、『川をウォータースライダー』にして高速で下山することも可能なのだろう。いや、助かる。実に助かる。でもだ、それでもだ。後で覚えとけよ。
心の中でどうしてやろうか。どんないたずらをしてやろうかとかんがえていると、後ろから楽し気な声が聞こえてきた。
アトスやシラシュィがはしゃいでいるようで、アソルもきゃーきゃー言いながらも笑っている。普段水を操る種族と交流がある故郷で育ったサティリスははしゃがず黙って流されているが。
……何度見ても正座でそのまま流されているナーゲルに目が行くんだけどどうしたらいい。
「――ふいぃ。楽しかったのう!!」
満面の笑みで笑うシュリファパスにとりあえず軽くチョップしといた。
「あいたぁ!」
ティヴァにはあとで膝カックンでもお見舞いしてやろう。と狙いをつけていると、段々とみんなも上がってきた。
「――あはぁ! 楽しかったねシドウ!」
「結構スリルあるのねぇ……めったにない経験できたわぁ」
「はやかったですね~」
各々、ネムルも笑顔で上がってくる。ナーゲルは笑顔ではないが体の動きはうきうきしてそうだった。軽く跳ねている。まったくの無表情で。相変わらずテンションが分からない。
ネムルの護衛達も楽しそうに上がってきて、なんだ感だ楽しかったのでいいか。とも思っているさなか、サティリスだけが遅れて上がってきた。
「――――――――」
そんな彼女に近づき、ティヴァについて軽口でもいおうかと声を出そうとしたその時、急にふらりとその場で膝を崩した彼女に、そのまま腕を掴まれる。
とっさに踏ん張りつつ、なぜか膝を震わせながら俺の腕にしがみつくサティリスに、自分でもわかるほどに間抜けな顔を晒す。何が起きた?
「――――――――」
サティリスの顔をのぞき込むと、こちらを上目遣いに見上げる彼女と目が合った。
瞳をうるうるとさせ、いつもキリッと結んでいる眉と唇が今はふにゃりと八の字になったいる。
「――――――――ふ、ぇ」
「ふ、ぇ??」
いつものクールな彼女らしくないその姿に、すさまじく動揺する。怪我したわけじゃないだろう。シュリファパス達もそこまであほじゃない。ということはあれだ。これは。
「あー、大丈夫か? 怖かったかはっ!?」
そういって背中をさすってやろうとしたところで、はっとしたようなサティリスがきょろきょろとあたりを見渡し、自分が今注目されていると知るとすくっと立ち上がって今まで通りのキリッとした表情を作った。
立ち上がった際に肩の鎧が俺の顎を強かに打ち付けたのは、まあ、可愛かったから許すとしよう。
「――――さあ、山下りも終わったのだろう? 先を急ぐぞ!」
まるで何事もなかったかのように、いつの通りの調子ですたすたと歩き出すサティリス。顎を抑えながら、完璧に見える彼女にもあんな可愛らしい姿があるのだと知り、今度ふりふりのリボンでもプレゼントしてやろうかと画策しながら、俺も後を追った。
ちなみに周囲はずっと笑いをこらえてひくひくしていた。
どうやら流れ着いたのは山の麓、そこから結構流れた場所らしく、もう山は降りきり、少しあるったくらいのところにいる。
視界の端、十二、三キロくらい先に村らしき建造物と煙突からのかすかな煙がみえるあたりちゃんと計算してここに来たらしい。まずは川を目指す。その理由を今知った。今度はこういうサプライズはちゃんと事前に通達してほしい。サティリスが泣いてしまう。
「――――!!」
前のほうからとてつもない殺気を感じたが、これをスルー。シラシュィと一緒に飛んでるちょうちょを眺めて事なきを得た。
十二、三キロだったので、荷物込みで三時間ほどあるった結果、村の入り口と思しきところまでついた。
かなりのどかな雰囲気のする場所で、レンガ造りの素朴な家々からは煙突が突き出し、黙々と煙を出している。町の所々に風車が設置されており、それがオランダのような牧歌的な雰囲気を誘う。
思わず草むらで昼寝でもしたくなるような空気に、気が緩んでしまう。
「よさげな村じゃないか」
「そうだろう? ここは俺も何回か来ててな。特にシチューがうまいんだこれが。チーズがいい」
そういってティヴァがじゅるりと相変わらずのオーバーリアクションで説明してくれる。チーズたっぷりのシチューか。確かにおいしそうだ。今まではマシだといっても備蓄された保存食だったからな。そういった家庭的な味というのも恋しい。
牧歌的な村、ムディカル。それがこの村の名前だ――――。