生まれ変われたのなら
真っ暗だ。何も見えない。目を開く事ができない。
なぜだろう。なぜ俺はこんな場所にいるんだろう。
――痛い。全身に痛みがある。体が砕け散ったみたいだ。手足の先まで痛みでいっぱいだ。これが、死というものだろうか。
ああ、そうだ死だ。俺は死んだんだ。なのにどうして痛いのだろう。
死ねば天国や地獄に行くのだと思っていた。もしくは何もない無になるのだろうと思っていた。なのに俺にあるのは痛みだけだ。
閻魔も天使も、死神さえも俺の目の前にいない。あるのはただの闇だけ。星一つない真っ暗な空間だけ。体を動かすこともできない。叫びをあげることもできない。眼を閉じる事さえ許されない。ただ『痛み』という情報だけが充満し、そして溢れることがない。いうなればこれが地獄なのだろうか。想像していたものとは違った。
――妥当だと、そう思った。
俺は天国に行くことはできないのだろう。無として消えることもできないのだろう。きっとこれが地獄なのだ。誰も救えなかった、誰の為でもなく自分の為だけに『悪』を殺したこの俺は、地獄に落ちるべき人間なのだ。
後悔があった。ずっと昔、俺は後悔の果てにすべてを諦めた。守れなかった。守ることができなかった。だからこそ俺は後悔し、そしてもう守ることさえできないならと、すべてを諦めたんだ。全部、全部、全部、全部全部全部全部全部――。
体の痛みが強くなる。どんどん、それは叫びをあげても足りないほどに強さを増し、自身の
肉のすべてが痛みに置き換わってしまったようになる。爪の一枚でさえ、それは痛みで構成されている。
妥当。これは俺が当然受けるべき罰なのだろう。それはそうだ。守れもせず、あまつさえ諦めて、そのくせ女々しく縋り続けた。
――それでも。
それでも、もう一度守れたなら。もう一度”彼女”を守れるならば、俺はどうするだろうか。
どうもしない。きっとどうもしない。見て見ぬふりをするだろう。それが俺の見つけた平穏だ。『器用に万事をこなしてことなかれ』。それが俺が失敗から得た、人生の教訓だ。
――体を起こす。
だって、意味がない。守ったところでなんになるのか。その時、その一瞬を俺はヒーローとして過ごすだけだ。俺が死んだときのように。
第一、あんな死に方した俺に何ができる。一人救うのに命を一つ落とす俺に、何ができる。
――暗闇の中で、確かに眼を開く。
無意味だ。無駄だ。どうでもいい。どうしようもない。
――視界に、蒼く光る、ほんの少しだけ光る、六等星よりももっと暗い星がちらついた。
俺はもうできない。俺では成れない。俺は特別じゃないのだから。特殊でも、例外でも、何でもない普通の人間なのだから。
いやだいやだいやだ。もう何もしたくない。何をしたって無駄なのだから。自分が満足をするだけで、何の意味もない自己満足で、俺の行為は無駄になる。
――蒼い星へと、手を伸ばす。そして。
それでも――――!
――――――――――――――――――――――――――――――――。
――頬に伝わる熱に、目をあける。
チリチリと焼けるような痛みに顔をしかめながらゆっくりと辺りを見渡せば、視界のほとんどは深紅の炎に埋め尽くされていた。
「……なんだ、これ――痛ッ!」
目の前に広がる景色に思わず体をはね起こそうとするが、胸部に走る強烈な痛みにうずくまってしまう。強く打ったようなものでもなく、今まで感じたこともないような鋭い痛みに俺の頭は混乱するばかりだ。
「ッ――――!」
それでも、周りの炎に急かされるように俺は立ち上がろうと足に力を籠める。
ここがどこかもわからない。どうしてこんなことになっているのかも俺にはわからなかった。
――――そもそも、俺は死んだはずだ。
胸の痛みも、あの寒空の下も、覚えている。でも今の現状とはかけ離れている。
死にゆく自分を、確かに感じていたはずだ。まさか、あの状態から助かったのか?
何が何だか、分からない。死んだという実感も記憶もあるのに、今の状況は違いすぎる。
さっき見ていた、銃に撃たれる光景は走馬灯だったとでもいうのだろうか。
今の俺に唯一分かるのは、周りは炎に囲まれており、このまま蹲っていては火に炙られるだろうということだけだ。
「一体何が……」
周りはただ物の焼ける音と、黒い煙が空を覆いつくし昼か夜かもわからない。分かるのは、自分がいま立っている場所が背の低い草花の生い茂る場所ということくらいだ。あとは冬によく着ているチェスターコートを着ているということ。そして――。
「……なんで、俺……これ手に持って……」
手にはずっと、鞄についているはずの蒼い火打石が握られていた。
「とにかく、火から離れないと……」
火打石はひとまずズボンのポケットにしまい込み、ざっと辺りを見渡す。その中で火の手がなさそうな方向へと、胸部の痛みに耐えながら半ば足を擦るように歩き出した。その時。
「■■■!」
「……!?」
何か遠くから人の叫ぶ声が聞こえた。男の声だ。何を言っているのかは不明瞭だったが、短く叫ぶ声。助けを求めているような感じではなく、そしてとても大きな声だ。
もしかしたらこの火事に対する消防隊か何かかもしれない。
「……おーいッ! ここだー!」
思い切り声を張り上げようとするが、胸の痛みの所為でうまく声量が出ない。それでも降ってわいた助けに、俺は全力で縋りつくしかない。とにかく声の聞こえたほうへと歩みを進めながら、俺は彼らに声をかけ続ける。
「おーい! おーいっ!」
ゆっくりと近づいていくと、炎の熱でゆがめられた空気の向こう側にうっすらと人影が見えた。人影は数人おり、そのどれもが全身を銀色に光らせているようだった。
「良かった……消防の人だ」
昔、体験学習か何かで着せてもらった消防服のような、金属質な銀色の光が見えた俺は大きく安堵する。俺はおそらく何かの事故に巻き込まれたのだろう。運よく救助の人たちに出会えたことを感謝しながら、手を大きく振って助けを呼ぶ。
向こうも俺に気付いたのか、何かを呼ぶように手を掲げながら数人がどんどんとその影を大きくしていく。次第にはっきりと視界に映るようになった消防隊に、しかし俺は眉をひそめた。
「……? なんだ、あれ……」
近づいてくる銀色の人影は、確かに人型をしているが俺の知る救助隊や消防隊のそれではなかった。銀色に輝く身にまとう装備はそのどれもが動きにくそうな、全身を覆う鉄。布と金属の中間のような材質の消防服とは似ても似つかない。その腰にはホースやロープではなく、まるで映画で使われていそうな剣が下げられていた。
「……は?」
銀色の影達のうち一人が、こちらに走り寄ってくる。次第に聞こえてくるのは、ガシャガシャと金属同士がぶつかる音。令和の世にふさわしくないその姿が、こちらに走ってくる姿に俺は動揺し、思わず後ずさる。そしてそれと同時に聞こえてきた彼らの声にもまた、俺は恐怖に心を塗りつぶされていった。
「■■■■■■■■■■! ■■■■! ■■■■■■■■!」
「■■■■■――!」
「■■■■■、■■、■■■■■■!」
聞いたことのない言語だった。少なくとも俺が理解できる英語とフランス語とは違う。
まったくもって聞いたことがない。中国語だのアラビア語だのロシア語だの、この辺の人というような感覚すら持てない。全くの、異質。俺の知る人類の言葉ではないと、直観的にわかるほどに聞きなれない言葉だった。しかし、その語気からわかる事が一つだけある。
それは、彼が明らかな敵意を持っているということだった。
本能的に俺は踵を返し走り出した。
しかし――。
「ぐあっ!」
背後からタックルされたような、強い衝撃を受け前のめりに倒れてしまう。
なんだ? 何が起きた?
起き上がり、周りを見渡す。だが近くには誰もいない。鎧もまだ少し遠くを走っている。いったい何に突き飛ばされた……そう思っていると、その答えはすぐにわかった。
「■■■■■!」
追ってくる鎧、その一人が天に向かって剣を掲げながら何かを叫んだ。
すると掲げた剣に薄い炎のような光が纏わりだした。
ありえない光景に目を見張ると、剣を掲げた鎧は俺に向かって剣を振り下ろす。勿論剣の間合いなどではない。火災の熱気によって空気がゆがんでいるとはいえ、顔もはっきりと認識できないような距離で剣は振り下ろされた。
だがしかし、俺は鎧の剣より放たれた炎の球のような物が目の前の地面にあたり、その衝撃によってさらに吹き飛ばされた。
「があぁっ!!」
地面に叩きつけられ、視界が回る。左手に力が入らない。足もだ。上手く体を動かせない。
――なんだ? なんだなんだなんだ!! 今のはなんだ!
まるで魔法。そう形容するしかない攻撃を受け、俺の頭はこれ以上ないくらいに混乱してしまう。
マジックでもCGでもない。この身で感じた火球は熱く、その爆風は俺の肌を確かに焼いた。
「■■■■!」
また鎧の叫ぶ声がする。
手で這おうと力を籠めるも、鎧達は俺が少しも進まないうちに追いついてしまった。
何かもわからない怒鳴り声をあげながら、鎧が俺の髪を掴み上げる。
「ぐっ――!」
激痛に呻きながら、俺は体を後ろに沿ってしまう。動く手で鎧の腕をのけようとするが、もちろんこんな体制で力が入るはずもなく、ただ鎧の腕を掴むだけで抵抗らしい抵抗はできない。
俺が髪を掴む痛みから逃れようとしている間、鎧は何やら背中に下げた木の板を手に取りこちらに近づけた。
「――――ッ!」
それを見てぞっとした。彼が手に持ったのはただの木の板ではなく、両端に頑丈そうな蝶番のような金具。そして真ん中に開けられた丸い穴。それはまるでギロチン台の首置きのようで、そしてそれはまさしく、奴隷がつけられるような首枷だった。
鎧はそれを開き、俺の首へと押し当てた。それを意地でも振り払おうとするが、髪を引っ張られる痛みに加えて、横っ腹を殴られられ力が入らなくなってしまう。
それでも、俺は何とか目の前の脅威から逃れようと手足を暴れさせた。しかし鎧はやすやすと俺の首を拘束してしまう。
「くっそぉっ!」
それでも何とか、何とかこの状況から逃げ出そうと足掻いていた時、ズボンのポケットに硬い感触があるのに気付いた。反射的に、俺は動く右手でポケットからブローチを取り出し、三日月形にとがった部分を鎧に向けて振り下ろした。
素手よりも当たれば少しはひるませされるかも――とっさにそう思ったのかも知れない。しかしそんな俺の考えは虚しく、右手は空を切ってしまった。俺の大ぶりの腕を、鎧は器用に上体だけを逸らして避けてしまったのだ。勢いよく振り下ろされた俺の腕はそのまま、丁度目の前の兵士が腰に下げている剣の柄部分――赤い宝石のような装飾部分にかすっただけだった。
――瞬間、蒼い火花が散ったかと思うと、俺と兵士との間に小さな蒼炎が燃え上がった。
「――――■■っ!」
目に熱さを感じるほどの熱が巻き起こった。急な発火現象に、兵士は驚いて俺の左腕から手を離す。
やった! 拘束が解けた――!
さっきの炎がなんなのかもわからない。ただそれでも抜け出す好機だ。最後の力を振り絞るようにして、脚に力を入れる。起き上がってくれた体で、俺は無理やりに走り出した。
「■■■■■! ■■■■■■■■!」
だが、鎧もすぐに体制を立て直す。俺から手を離した鎧は、すぐさま剣を掲げた。
ヤバイ、またあの火球が来る――!
後ろを見ながら走り、剣を振り下ろすタイミングを見計らう。なんでか知らないが、あの火球は剣を振り下ろしたときに飛んでくる。なら剣を振り下ろした瞬間に少しでも今いる位置から飛んでやろうとした。
しかし、あの火球が飛んでくる様子はなかった。
掲げられた剣は、先ほどのように光を纏うことはない。鎧も驚いた様子で自分の剣を確かめだした。
――チャンスだ!
わからない。わからないことだらけだが、どうやらあの鎧はさっきの火球を出せなくなっている。
この隙に出来るだけ走れ。まっすぐ、とにかく走り続けろ。
自分がどこに向かっているのかもわからない。だかとにかく目の前の脅威から逃れたくてひたすらに走った。ボロボロの体だからか、まったく速度は出ない。いつ追いつかれるとも分からないが、それでも走った。
だが、またも不意に俺の体は宙を舞った。
まっすぐ走っていたその横から、俺を追い詰めていた鎧とは別の鎧が、その剣から火球を放ったのだと、地面に叩きつけられた後に気が付いた。
「…………ぐっ……」
体の中が三回転ぐらいしたような気持ち悪い感覚と共に強烈な吐き気が襲ってくる。俺が立ち上がろうとしている間に、最初の鎧にも追いつかれてしまった。
膝をついてしまった俺は何度か鎧に殴られながら、抵抗も出来なくなってきた辺りで手首にひやりとした感触が伝わる。
必死の抵抗も虚しく、意味の分からない現象に翻弄されながら、俺の首と手には枷が取りつけられてしまった。
「■■■!」
鎧のうちの一人の怒号にと共に、俺の首の板についた太い鎖が引っ張り上げられる。まるで犬のように地面を引き摺られながら、俺は痛みに耐えるしかなかった。
彼らは一体どこへ行こうというのか。それは分からない。草木とはいえ地面を無理やり引き摺られる小さな痛みが連続で襲ってくる。首を絞めつける木製の枷も、この自由の利かない両腕ではうまく抑えられない。
「あ、ああ……ぐっ……」
呻きを上げるだけで声にすらならない。俺はなすすべなく鎧たちに捕らえられてしまった。鎧たちは首枷の鎖を乱暴に引っ張り、俺を引き摺る。土と草の地面は整地もされておらず、
石や硬い植物の茎がどんどん肌の露出している手首や服の捲れた背中に刺さる。蹴られた頭と顔の痛みや全身のだるい痛みはまだあるのに、俺の脳はその小さな痛みもしっかりと認識していく。飽和することなく、痛みという情報が溢れていき、それぞれ種類の違う痛みを認識する。
発狂しそうだ。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――。
どうして、なんで、なんだ、なんなんだこれは。頭の中で問うも答えなど帰ってくるはずもなく、神様が答えをくれるわけでもない。その間も俺はどこかへと引き摺られて行く。枷が首を絞めつけるが、上手い具合に顎で止まって完全には絞まらない。それが俺にさらなる苦痛を、意識ある状態で与え続けてくる。
鎧たちが進むにつれて、周りから段々と人の声が聞こえだした。近くなると、やはりその声は全くと言っていいほど聞き馴染みのない言語だ。しかし、そのどれもに悲痛の叫びがあるのだけは分かった。
周りを見ようとするが、霞んだ視界では何が起きているのかはっきりと認識できない。声には女の声も男の声もある。老若男女入り乱れているようだが、そこにポジティブな感情による声は、一つとしてなかった。
どれくらい引っ張られたか。鎧たちは急に立ち止まると、今度は数人で俺の肩と足を持ち上げて、勢いよく投げ飛ばした。
「――っぐあ!」
何かに叩き付けられたような衝撃と共に、肺の中の空気を吐き出してしまう。地面に落ちたわけではない。手をついた場所には冷たい木の感触。地面ではないので部屋か何かだろうか?
痛みを訴え続ける体にそれを確かめる余裕はなく、次第に意識は暗く、深い場所へと引きずり
込まれていった。
「■■■■■■――」
「■■! ■――」
「――――」
周りの音が遠ざかっていく。まるで耳の内側から何かが膨らんで塞がれていくような妙な感覚。その感覚と共に、俺の意識は再び途絶えた。
がたがたと、何かに揺られている感覚に目を覚ました。優しい揺れではなく、かなり乱暴な揺れだ。痛む頭に眉をひそめながら、努めて意識を覚醒させようとする。
目を開くと、暗い部屋のような場所だった。しかし地面が揺れているし、正面にあるカーテンの隙間から、常に大量の木が流れていった。移動する箱型の部屋に押し込められたらしい。隙間から見える景色的に、森か何かだろうか。
しばらくすると意識も覚醒しきり、痛みと共に視覚や聴覚もはっきりしてくる。部屋の進行
方向から、蹄の音がする。もしかしたらこれは馬車なのかもしれない。薄暗い部屋は見通しがきかず、何人かの人の気配はするがそれ以上のことは分からなかった。
人の気配に近づくために体を動かそうとする。すると背骨を貫くような痛みが走った。満足に動けそうもない。一体全体、俺はどうしてしまったのだろうか。
一つ一つ、思い出していくようにする。落ち着いて、霞がかった記憶を探っていく。あの火
事の草原で目覚める前、俺は何をしていたか。日本、という場所は覚えているし、俺がそこで死んだ記憶も鮮明にある。実感もある。
ふと、自分の体を見てみる。自分が今外出用のコートを着ているのに気づいた。そしてその胸元に、一つ丸い小さな穴が開いていることにも気が付いた。
「っ!」
驚きとっさに手を当てる。しかしそこに銃創はなく、ただ自分の肌がかすかにのぞいているだけだった。
「……」
ますます混乱するが、胸に手を当てた時に目に入った枷を改めて見る。この枷はなんだ? いきなりこんなものを付けられて、そして今は(おそらく)馬車の中に入れられている。
手錠でも何でもない。これは”枷”だ。粗く削り出された枷はささくれ立ち、刺すような痛みを与えてくる。今時刑務所でこんなのは使わない。中世かそこらの死刑囚がつけるような奴だ。そもそも俺は死んだのになぜ枷を付けられてここにいる? やはりここが地獄なのだろうか。これから俺は裁きを受けようとでもいうのか。
――ああ、だめだ。思考がまとまらない。何を考えても理解の範疇を超えている。それに頭も痛い所為で碌に考えることができない。なにがなんだか分からない。
不意に馬車が急停止した。掴まる物もない馬車の中で、体は慣性に従い、奥の壁へと叩きつけられる。さほど強い衝撃ではないにせよ、今の俺には十分にきつかった。
馬車が止まってすぐ、正面のカーテンが一気に開かれた。急に光が差しこみ、闇に慣れていた目が赤く染まる。目を守るために反射的に顔を背けていると、馬車の中に何かが乗り込んでくるのが音でわ分かった。どうしようと思う間もなく、何かに首枷を強く引っ張られる。そのまま外へと投げ出された。もう何度目かも分からない体への衝撃に咳込みながらも、何とか上体を上げて周りを見た。少しでも自分の状況が知りたかった。
しかし、それは俺の想像していた景色とは、予想していた景色とはかけ離れていた。
目の前に広がっていたのは、地獄でも、天国でもない。ましてや無でもない。
首枷を引っ張られ、悲鳴を上げている女性。前掛けのような布だけを纏ったしなやかな体に
は所々切り傷が走っている。でもそんなものは問題ではない。彼女の上体の先、つまり下半身の方。そこにはあるべきはずの脚がなく、代わりに人間大の”蜘蛛の体”が生えていた。作り物でも何でもなく、目の錯覚というには大きすぎる。それは女性の悲鳴と共鳴するように、もがき苦しんでいた。
横に目を移す。そこには子供のような体に似合わぬ大きな頭。アンバランスなその顔は子供ではなく、髭に覆われた老人にも見える顔。鎧たちはボールでも蹴るかのように、その小人を弄んでいる。
ほかにもいる。頭に大きな二本角が生えている男、背中に鳥の翼が生えている女、さっきの小人とは反対に、人の二倍はあろうかという、浅黒い肌の巨躯の男――。
それに、馬車を引っ張っていたのは、ケンタウロスのような、人と馬が合わさっている姿をした化け物だった。
「…………」
開いた口が塞がらない。理解が追い付かない。ただ思考の停止した頭でそれを眺めていると、俺の近くに何かが落ちる音と、苦し気な女性の声がした。どうやら俺のいた馬車から引きずり出されたらしい。そちらを振り向くと、俺の脚のほど近くに、美しい女の髪と手があった。そのまま辿る様に彼女の体へと目線を移す。その下半身は、人ほどの太さもある大蛇の体。
半蛇半人の女が、うめき声と共に顔を上げる。彼女の目と、俺の目が合う。その顔つきこそ美しいものの、かすかに覗いた牙は蛇のそれ。舌も、頬に生える鱗も、そして俺を映す大きな金色の瞳も、まさしく蛇の”それ”であった。
「あ……あぁ……」
俺は地獄でも、天国にも送られなかったらしい。
俺が死後たどり着いた場所はすでに、俺の知っている世界ですら、なかった。