命の果てに、何を見る
浅いまどろみから意識が覚醒していく。
少しばかり重い頭を軽く振りながら薄く目を開ければ、見慣れた図書館が映った。
国立の大学らしく、それなりに大きな図書館にはいくつもの本棚が並び、微かに黴臭い香りを放っていた。
自分が突っ伏していた机の上を見れば、やり終えたレポートが閉じられてる。たいして苦労して作り上げた訳でもないが、どうやらひと段落した後に寝落ちしてしまっていたようだ。
左手の腕時計を見れば、すでに夜の八時前。そろそろ閉館の時間だ。俺がいる二階にはもう人の気配がない。
「……帰るか」
ひとりごち、引っ張り出していた資料を鞄にしまい込みながら席を立つ。
図書館の中央を貫く妙に西洋風な螺旋階段を降りながら、今日の夕飯はどうしようかと考える。しかしすぐにコンビニ飯でいいと落ち着き、一人退出ゲートへと歩いた。
学生証をかざすと駅の改札口のようなゲートが開き、小さく「ぽーん」と気の抜けた音を出す。いつもなら気にならない程の音だが、閉館間際の人のいない図書館の中だと妙にはっきりと聞こえた。
そして、その静かな図書館だからこそ、改札口の音に交じって何かの落ちる音がよく響いた。
軽い金属質なものが落ちた音が、俺のすぐ背後で鳴る。振り返れば、蒼色の宝石が埋め込まれたブローチが落ちていた。
「…………」
そのブローチを横目で見て、自分が落としたものだとすぐにわかる。他に人もいないのだから当然だ。いつも使う鞄につけている、それなりに高価そうなブローチだ。値段は分からない。子供のころ川辺で拾って、交番に届けたらそのまま持ち主が見つからずに俺の物になった品だ。
普通なら――普通の人なら拾うだろう。しかし俺は、すぐに拾えばいいものを少し逡巡し……そして踵を返そうとした。
「おーい。君、これ落としたよ?」
しかし、視界の端に入ってきた男がブローチを拾い上げた。この図書館の司書の一人である男はブローチを当然、落とし主である俺に差し出してきた。
「……あぁ、ありがとうございます……」
差し出された蒼く光るブローチを、俺は大人しく受け取った。
図書館を出ると、すぐに冬の冷たい風が頬をかすめた。刺すような冷たさに思わず、スタンドカラーのコートに首を埋める。マフラーでも巻いてくればよかったと思いながら、サークル棟を追い出されてきた学生たちに交じって学生バスへと乗り込んだ。
しばらく揺られた学生バスを降りて、すぐさま帰路につく。途中夕飯を買おうと下宿先の近くにあるコンビニへと立ち寄った。昨日食べたものと同じものを飽きもせず買い、暖かい缶コーヒーをコンビニの外で一気に煽る。少し甘めのコーヒーの強い香りと熱が胃を満たし、鼻に抜けていった。
ふと、図書館を出てからずっと握りっぱなしだったブローチを眺めた。
……いや、正確にはブローチではない。これは、妙に凝ったデザインの火打石だった。
銀の台座に名も知らぬ蒼色の宝石が埋め込まれている。よく見れば銀細工の部分には丁寧な彫金が施され、蒼色の宝石にもかなり細い幾何学模様のような物が薄っすら彫り込まれている。しかしどこか濁ったような昏い蒼色は、誰もが思う、美しい宝石とは違う輝きだろう。
植物モチーフの彫金に楕円カットの宝石。一見すればブローチのようなデザインだが、台座部分から三日月形の黒い金属がせり出していた。そしてその端から細いスネークチェーンで六角柱の石英がつながっている。これが火打金と火打石の役割を果たしていた。
どうしてこんな凝った形の火打石が、川辺に落ちていたのかは分からない。赤い小さな火花を散らすだけのこの火打石を、それでも俺は、これを自分の『正義の証』としていつも持ち歩いていた。
火打石を眺めていると、宝石にうっすらと自分の顔が映りこむ。少ない知り合い曰く、普通に整っている方だという顔と、少し癖の付いた黒髪。まあ、どこにでもいそうな、町ですれ違ってもたいして印象に残らないような風貌だ。ただその目だけは、昏い宝石に映りながらもさらに昏い、何も映していないような瞳だけが、我ながらに異質だった。
――くだらねぇ。
ただ一言、その言葉が頭をよぎる。いつも朝、歯を磨くときに見る瞳だ。小学校を終えるあたりですでにこんなんだった。もう、対してなんとも思っちゃいない。しかし俺は、自分のその死んだ魚すらマシに見えるほどの昏い瞳が大嫌いだった。
ため息がてら夜空を仰ぐ。目に入るのは都心の夜空。深夜でもないその空には星など一つも見えず、街の明かりにかき消されていた。オリオン座ですらうっすらとしか見えない。一等星ですらあれなのだから、六等星など塵ほども見えないだろう。まるで黒い画用紙を敷いただけのようなのっぺりとした空は、どこまでも深く汚い沼のようだ。
――――俺の、瞳のようだ。
「……ちっ」
大学の図書館で、昔の夢を見たからだろうか。言いようのない、淀みのような何かが胸に詰まっていくような感覚にいら立った。
勝手に出た舌打ちを隠すように口をつぐみ、空も目に入らないように俯きながら帰りを急ぐ。まだまだ人通りの多いこの道には、まだまだたくさんの人が歩いている。サラリーマンに派手な女、俺と同じ学生風の奴に高校生……親に手を引かれて歩く子供もいる。
今この視界に映る人間は皆、俺よりはましな瞳をしていた。中には似たような瞳をしている者もいる。しかしまあ、俺よりましと言ってもドングリの背比べだ。どっちにしろ濁っている。子供くらいだ、瞳をきらきらと輝かせているのは。
「…………」
果たして、この世界に真に瞳が輝いている人間などいるのだろうか。そう思えてしまえるほどに、俺の視界には目が死んでいる人間しかいない。
――何かに挫けた、何かに成れなかった、俺と同じような目だ。
「……くだらねぇ」
ついには口に出た言葉は誰に聞かれるわけでもない。ただ昏い空に消えていくだけだった。
俺は視界に何も入れたくない気分になり、わざと人気のいない裏道へと足を向ける。裏路地を抜け、怪しげな店の前を通り過ぎながら自分のマンションまでの道を最短で歩いていく。防犯意識なんてたいして無いが、いつもは大通りを歩く。ただ単にそっちの方が道が明るくて歩きやすいし、途中に店もあるからだ。今歩いているこの裏路地を歩いたところで、家につく時間は精々五分くらい早まる程度だ。しかし今は、ひたすらに早く眠ってしまいたい気分だった。
誰もいない、街灯すらない道を歩く。遠く聞こえる車の音と、何かの喧騒。時折近くで、猫か何かの動く音がする程度だった。
しばらく歩いていると、もう誰も使っていないような公園の横を通る道に出た。路地裏よりも少しばかり広くなっているが、都心だと言うのに――いや、だからと言ってもいいか。使われなくなった公園の中には、古びた街灯がぽつんと立っている以外の明かりはない。ここまで暗い場所だったかと疑問に思ったが、先ほど空を見上げた時に月らしきものが見えなかった。どうやら今日は新月で、だからこそ記憶より暗く感じたようだ。公園の中には明滅する街灯のギリギリに、錆びた鉄棒が暗闇の中から浮かび上がっていた。ホラー映画でも撮れそうな雰囲気だ。
下らないことを考えながら、公園の横を通り過ぎようとする。
しかし丁度入り口近くに差し掛かった瞬間、公園のほうから甲高い、鉄同士をぶつけるような音が響いてきた。
「ッ!」
急な異音に驚く。確かに公園のほうから聞こえてきた音は……そうだ、まるで時代劇の剣戟ような音だ。
だがそれ以降、特に物音はしない。妙な静寂が辺りを支配する。
……変な奴らが騒いでいるのかもしれない。そう思い、足を早めようと公園から視線を外そうとした。だが、俺のその思考はすぐに停止する。
「――――!」
外そうとした視界、その端に一人の人間が転がり込んできた。その人間は、赤い服を着ており、暗闇でも妙に映える長い金色の髪をしていた。地面に転んだその人物は、這いずったままひたすらに後ろを何度も振り返り、何かから逃げるように体を擦っている。
……ただ酔っぱらった誰かが転んだ、にしてはその体勢に違和感がある。転んだ人間はずっと両手を胸の前で組んでいた。転んだのだから手を突いて体を起こせばいいのにそうしない。匍匐前進のように体をくねらせて動くだけだった。
それだけでも、ぞっとするような光景だ。ましてや、さっきまでホラー映画でも撮れそうな雰囲気だとか思っていた場所でだ。身の毛のよだつ出来事に、俺の頭はすぐさま走って逃げるよう脚に命令を伝達する。そしてその本能に従い脚に力を入れようとしたとき、さらにぞっとする出来事が起こった。
転んだ人物の背後の暗闇から、ぬっと男らしき誰かが出てきたのだ。公園の街灯に照らされながらも、その姿は闇に溶け込むような黒ずくめ。帽子も、服も、そしてマスクも全部が黒で統一されている。唯一肌を晒している目元も、深くかぶったニット帽でよく見えない。その黒ずくめはゆっくりと、転がっている人物へと近づいているようだった。
そしてその手には、街灯に照らされる――この距離から見てもはっきりと認識できる大きな刃物を携えていた。
――――ヤバイ。
ただただ、そう思った。脳が警鐘を鳴らす。しつこいくらいの警告を繰り返す。
街灯の幽かな明かりが照らす、公園の中で起きている異常に、俺の目はくぎ付けになっていた。よく見れば、紅い服の人物は小柄な女性のようだ。しかも腕は何やら白い布のような物で縛られている。手を突いて体を起こさないのではない。あの状態では這いずるしかないのだ。
刃物を持った男が、女性の服を掴む。女性は体をひねって逃れようとするが、上手く力が入らないのかその場でのたうつだけだ。男はそのまま女性の背中に馬乗りになると、服に刃物を当てだした。
恐怖におののく女性はそれでも全力で逃げようと踠く。悲鳴すら上げられないのは、口に布か何か詰め込まれているからのようだ。
必死に暴れる女性に対し、男のほうはまるで焦ったふうでもなく淡々と女性の服を裂いていく。
――――ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ――――。
今目の前で、俺の目の前で、女性が暴行されそうになっている。法治国家において殺人と並び立つ凄惨な犯罪が行われようとしている。しかし――。
逃げろ。俺の頭の中はそれだけだった。どうせ俺には何もできない。何もしてやれない。
俺ごときに何ができる。何もできないじゃないか。俺では何もできない。どうしようもない。
――俺では何かを、救えない。
不安、恐怖、躊躇、絶望――肝の冷えるような感情に、俺の頭は氾濫する。
俺には何もできない。
ならば声を上げるか? ヤツに気付かれた俺が殺されるだけだ。
ならば走ってどこかに助けを呼ぶか? そんな悠長なことしていたら間に合わない。
ならば警察を呼ぶか? 来るまで見物でもしていろと言うのか。
何が最適解だ? どれが最善だ? どれが堅実だ?
――――どれが、”正義”だ――――?
「――――――――――――――――――――――――――っ」
ふと、手にひんやりとした感覚が走る。
無意識に、蒼い火打石を握りこんでいたようだ。手に跡がつくほど強く握りこんでいた火打石を見ると、そこに俺の腐った……この夜空のような濁った眼が映っていた。
――――答えなど、決まっている。
脚に力を籠める。強く地面を蹴って走り出す。ただまっすぐ、まっすぐに――――。
「――ぁぁぁぁあああああああああっ!!」
雄たけびをあげながら、俺は女性に馬乗りになっていた男に思い切り体当たりをした。
鈍い痛みを肩に感じたが、なんとか男をうまく女性の上から突き飛ばすことができた。
「逃げろっ! 速く!」
俺は女性の体勢を立て直しながら叫ぶ。ちらりと見えた女性は驚いたような顔をしているが、何とか立ち上がると、すぐさま公園の外へと走り去っていった。
女性の走り去る足音を背後に見届けた後、男のほうへ向き直る。人影のほうも体勢を立て直していた。
「……ふーっ……ふーっ……ふーっ……!」
ひどく興奮したように、肩で息をする太めの人影。汚い呼気からは、今にも襲い掛かろうとしているのが分かる。その手にぎらつく刃物を注視しながら、俺は後ずさった。
――戦うな。タイミングを見て逃げろ。相手がどれくらい走れるか知らないが、俺に追いつくなら少なくとも百メートル十一秒台いかなきゃ無理だ。逃げ切れれば御の字。逃げきれなければ、そもそも運動神経の差で戦っても負ける……とにかく逃げること。それが先決だ。
じりじりと後ずさる。どうにか背を向けてもいいタイミングを見計らう。混乱寸前の頭で何とか付近の地図を思い浮かべる。どうにか広い路地へ最短で行ける順路を組み立てる。
女性は逃げただろうか。相手は何者なのか。どうしてこんな事件に巻き込まれているのか。様々な疑問がよぎるが、それを振り払い目の前のことに集中しようとした。
しかし、その集中は目の前の男の行動で、途切れてしまった。
――チャキ。
頭が、真っ白になる。男はパーカーの前ポケットから、黒光りするなにかを取り出した。まるでプラスチックのような軽い音。その手に握られた、刃物ではないそれに、俺の思考は止まってしまった。
冷静に考えれば愚行だ。少しでも動くべきだった。いやしかし、仕方ないだろう。冷静になどなれるものか。日本で暮らしている以上、”それ”はほぼ空想上の物体なのだから。
ジワリと、胸部に熱を感じる。遅れて、ゲームやドラマで聞いたのとは少し違う、思ったよりも乾いた情けない音が、俺の耳に響いた。
あぁ……熱いな、これ――――。
痛みよりも、何よりも先に来たのは熱さ。足から力が抜けていき、膝をつく。ぼうっとする目で男のほうを見ると、周りを見渡しながら焦った様子で、女性とは逆方向へと走っていくのがみえた。
――ああ、よかった。反対に行ってくれたか――。
それを確認した後、俺は脱力したように地べたに倒れる。自分の流した血と、地面の土と、涎や涙に、汚れていった。
――――どれくらい経ったのかは、分からない。しばらくそうしていたのだろうか。冬の寒さを感じなくなるほどに体が冷たくなりはじめた時、遠くに救急車とパトカーのサイレンが聞こえた。
ふと、ほとんど見えなくなった視界にぼやけた人影が映りこむ。何かを言っているようだが、まるで水の中で聞く音のように言語として判別できない。周りではサイレンの音ばかりが鮮明に聞こえ、それ以外の音がみんな壊れたラジオのようだ。
何かが俺の手を握る感覚があった。救急隊だろうか、警察だろうか……それとも先ほどの女性だろうか……。視界には、紅い影だけがある。
異様に冷たい体の中で、自分の右手だけが、分け与えられた確かなぬくもりを持っていた。
――ああ、もしこれがあの女性の手だったのなら……あの女性が無事に逃げ延びた証だったというのなら――。
周りが騒がしくなってくる。騒音に紛れて、女性の泣き声のような音が混じっていた。
――助かったのだろうか。
――それなら、よかった。
大したことじゃ、ないのかもしれない。
きっと正義のヒーローなら、もっとカッコよく助けられたのだろう。賢い王様なら、もっと穏便に済ませられたのだろう。そもそも、こうして死ぬこともなかっただろう。
俺はそんな存在にはなれない。とうの昔に知っている。自分にそんな力も器もないと、嫌というほど思い知っている。この現状が、俺の現実だ。
それでも、俺は夢見ていた。いや、縋り続けていた。もう必要ない、かつて正義の証と宣って、いつも持ち歩いていた蒼い輝きを、今でも持ち続けていた。
捨てようにも捨てきれず、理由を付けては失くそうとしたその輝きを、俺は今こうして冷たくなりゆく時にだって、強く握りしめていた。
諦めきれて、いなかった。
もし叶うなら、贅沢は言わない。誰か一人でも、本当の意味で救える存在になれるようにと。
――だからって、これはないだろうよ。情けねぇ――――。
視界に映るのはもう、くすんだ夜空だけ。右手のぬくもりも、感じ取れなくなっていた。
――あぁ、悔しいな……諦めた夢でも、挫けた理想でも、叶えられないっていうのは。妥協した夢すら、満足に出来ないっていうのは――。
碌な夢じゃなかった。大人になれば失笑されるような夢だ。正義の味方など、馬鹿な子供が、勘違いした子供が抱く下らない幻想だ。早々に卒業しなければならない妄想だ。
それでも、悔しかった。大したことも出来ずに死ぬというのが、とても悔しかった。
――もし……もしもう一度……挑むことができるなら――――
自分で思うセリフに、笑いがこみあげてくる。こんな子供じみたことを思ってしまうほどに、俺は成長できていなかったんだと、あきれてしまう。それでも、思わずにはいられなかった。
――来世があるなら、夢を叶えられるだろうか――――。
もう明かりを奪われた視界の中、夜空に一つ、蒼い微かな星が輝いた気がした。