501号室
一行を乗せたワゴン車は事件現場となった漁港からほど近いヘリポートまで移動し、そこからは高速ジェットヘリで埼玉県内のとある大学病院まで飛んだ。診断の結果、つぐみは経過観察のための入院、一方の青空には目立った損傷もなく帰宅することになった。
中学校に置きっぱなしだった彼の荷物はクラスメートがすでに自宅へ届けたという連絡を受け、彼はタクシーチケットを渡されてそのまま帰宅することになった。
自宅はJR桜宮駅から徒歩圏内に建つ、築20年の10階建てマンションの5階にある。
入り口のタッチパネルで501号室を呼び出す。何しろカードキーは通学用カバンに入れっぱなしだったのだから仕方がない。
スピーカーから母親の声がして、彼はカメラに向かって手を軽く上げる。エントランスのロックが外れ、自動でドアが開く。
黒い石のタイルが敷き詰められたエントランスホールには2台のエレベーターがある。青空がボタンに触れようとすると小さな可愛い手が下から伸びてきてボタンを押した。
にっこりと笑うモモの顔が青空を見上げた。
「はっ? モモ、おまえエレベータに乗るのは初めてだよな?」
「なーにをおっしゃいますかマスター! 私はずっとマスターと共に暮らしていましたですよ?」
「あーっ、そうだったぁー……」
それにしても子供というものはどうして自分でボタンを押したがるものなのか。人間よりも遙かに長い寿命をもつドラゴンが幼女の姿に実体化したからと言ってそれを子供と呼ぶにはいささか無理があるかも知れないが……
チーンという合図と共にエレベータの扉が開く。
ととと……とモモが先に乗り込み、その後を青空が追う。
5階のボタンは幼女化した彼女には届かない。青空が押す。
「いいかモモ、おまえは俺が良いと言うまで部屋に隠れているんだぞ? 物音を立てたり、鳴いたりするんじゃないぞ!」
「はい、分かっているのです、マスター!」
右手をおでこの前に伸ばして敬礼するモモ。
長いミミがぴくぴく動いている。
青空がモモを連れて帰ることになったのには深い事情があった。一心同体となった2人は、一定時間以上離ればなれになると命の危険があるというのだ。主に青空の方に……
青空の生体エネルギーは全てモモに流れている。モモはそのエネルギーを利用して実体化しているのだが、余ったエネルギーを青空に戻すことでエネルギーの循環が成り立っているという理屈らしい。
「マスター」
「お、おう……」
モモの小さな手を握る。手を繋ぐことでも少量のエネルギーが流れ込んでくるらしい。『らしい』というのは、科学的に証明された原理ではなく、あくまでもモモから説明を聞いた範囲内での知識に過ぎないからである。ドラゴンの知識は人類種のそれを遙かに超えるらしい。
5階フロアに到着するなり、まるで小動物のような可愛らしい動きで駆け出すモモ。501号室の玄関ドアの前で急ブレーキをかけ、にこりと笑った。
ドアの鍵は開いている。カードキーを持っていない彼は、ほっと胸をなで下ろす。いきなり玄関先でモモを紹介せずに済んだからだ。ほんの少し心配事が先延ばしになったに過ぎないのだが。
深呼吸をして、そうっとドアを開ける。すると、決して広くはない土間スペースに見慣れない運動靴がかかとを揃えて置かれていた。
「ん? 誰か来ているのか?」
「クンクンクン……メスの匂いがするのです! マスターを狙う不届き者に違いないのです!」
「おまえは犬か! それに俺には女友達など一人もいないぞ!」
女友達は言うに及ばす、家に呼ぶような男の友達もいないのだが、そこまで言う必要はない。3年間片時も離れず彼にくっついていたモモに今更暴露する必要はないのだ。
「モモ、ここで靴を脱ぐんだぞ!」
「はい、分かっているのです、マスター!」
ちょこんと右手で敬礼するモモ。
太くて短めな尻尾がピンっと水平に伸びた。
「んしょっ!」
可愛らしい声を出しながら茶色い小さな靴を脱ぎ、青空の運動靴の隣にちょこんと置いた。
「…………」
「マスター、どうしましたか?」
「あ、いや……モモの身体は俺の生体エネルギーで実体化しているのは分かったけど……身につけていた物が離れた後も……消えないんだな……」
「あー、そのことですか。もちろん私が消そうと思えば消せますよ? マスターがお好みでしたら今身につけている服もぜーんぶ消せちゃうのです!」
「マジ!?」
「マジです!」
「ドラゴンの力ってすごいな。でも絶対にやるなよ! いいか、これは断じてフリじゃないからな! 絶対に服を消して裸にはなるなよ!」
「はい、分かっているのです、マスター!」
ちょこんと右手で敬礼するモモ。
何から何まで可愛らしい動きをする幼女である。
青空家は玄関を入ってすぐ左側には青空の個室。右側には水回りの設備。その奥には父母の寝室。長めの廊下の奥にダイニングキッチンと客間という3LDKの間取りになっている。
青空が自分の個室のドアを開けると、モモはするりと中に入っていった。
ベッドと机、そして本棚とハンガー掛けがあるだけのシンプルな部屋。
本棚にはマンガ雑誌や中高生に人気のライトノベルの他、ゲーム関係の雑誌がぎゅうぎゅう詰めに入っている。
照明を点けたときには、モモは勉強机の上にちょこん乗っていた。
「えっと……何をやってんだ?」
「マスターが昨夜途中で観るのを止めてしまった映画の続きを見るのです!」
レンタルビデオ店のDVDのケースを開けながら、モモは答えた。
ノートパソコンの起動が完了し、トレーにディスクをセットした。
「や、止めておけ! 怖くて眠れなくなるから……」
「マスターは怖がりさんなのです。私は最後まで観たかったのです!」
確かに青空はホラー映画は苦手である。そんな彼がなぜそれをレンタルしてきたかと言えば……話が長くなるので割愛するが、彼は昨夜はそれを見始めたものの途中で断念していたのである。
「じゃあ、一人で大人しく見ているんだぞ!」
「はい、分かっているのです、マスター!」
シュタっと敬礼するモモを残してドアを閉める。そして足早にリビングへと向かう。
そこには彼の予想通りの来客がいた。
「お帰り照臣!」
「お帰りなさい、アオ君!」
エプロン姿の母親と楽しそうに談笑している小泉志乃が笑顔で迎えていた。




