聖女の名
夜も半ば。虫達のささやかな音楽会が開かれだした暗い夜。魔術か何かなのか、蝋が無いのに燃え続けて消えない燭台で照らされたグローリアさんの部屋では僕を含めて昼下がりの四人が集まっていた。
その誰もが険しい顔をしている。グローリアさんでさえ困ったかのように眉が垂れてしまっていた。
そうなった原因なんて簡単だ。今日会った『社長』『主任』『ローゼリア』という人達といつ話すか、である。
「さて……何から話せばよろしいものか」
まず初めに口を開いたのはオースティンさんだった。内容は今誰しもが思っているであろうもの。事態が不明瞭過ぎてどう話せば良いのか試行錯誤の状態だ。
「まずは……そうですね、現状の整理をしましょう」
そう言ったグローリアさんの言葉に、誰もが頷く。今何がどういう状況に置かれているのか──を把握すれば、自然と問題点も浮き上がってくるだろう。
「事の発端は、社長という女性が手違いで淫魔を召喚してしまった所でしょうな」
「違いないです。その騒ぎを聞きつけた俺達が様子を見ると、今度はルーファスまで顔を出す始末。あれで余計に拗れた感はあったと思いますぜ」
「ふうむ。私もそう思いましたが、あれはあれで良い情報は手に入れられましたな。社長という女性は、あのルーファスですら嫉妬を覚える程の魔術師のようです。それと……これは私の勘ですが、彼女は恐ろしく頭が回るのでしょうな」
「ええ……それは私も思いました」
「ん? なんでですかいグローリア様、オースティン大司祭?」
「話し方がそのように感じられたからです。警邏で例えて下さったのも私達の気持ちを汲んでの事でしょうし、最後に話していたヒューゴさんとの対談の要求も……まるでこちらが何を答えるのか分かった上で話しているかのようにも思えました」
「あ、確かに……」
警邏の例えは単純に分かりやすく、かもしれないけど……社長さんが怖くなった途端、予め用意していた言葉で答えているかのような感覚がした。迷路に迷い込んで手探りで進んでいるのにも関わらず、なぜか誘導されている……とでも言えば良いのだろうか。そんな感じだった。
それはつまり、社長さんは僕達がなんて返すのか分かった上で話している事……なのかもしれない。……もしそうだったら、本当はもっと怖い人だって事かも。いや実際に怖かったし。
「その油断ならない相手との対談。見た事の無い服装をしていた事から、恐らくは国外の人間かもしれませんな。調べようとしても情報は出てこないでしょう」
チラリ、とグローリアさんが僕を見てくる。一瞬、なんで僕を見たのかが分からなかったけど、オースティンさんの今の言葉を頭の中で復唱して気付いた。きっと、話さないようにという意味だろう。
国外の人間だから調べても情報が出てこない──それは間違いないだろう。何せ、あの人達は僕と同じくこの世界の人間じゃないんだから。あと、たぶんあの二人は日本人だ。社長と主任って名前もそうだし、顔も日本人顔だった。
個人としての情報は出てこないけれど、この世界の人との違いは出てくるだろう。……けど、それは怖いのでパスしたい。ここで元の世界の事を話したら社長さんから何をされるか分かったものじゃない……。
「……となると、考えられるだけの対策を立てる、ですか?」
「そうなりますな」
なので『僕から情報を得る』という選択肢から目を逸らさせる事にした。正直、一か八かだったけど上手くいったようだ。
「対策っても相手は魔術師。何があるのか分かったもんじゃないですぜ?」
「確かに……。団長、魔術師がその力を存分に発揮できない状況は存じていますかな。私は戦いに詳しくはありませんので、いまいち不明瞭なのですが」
「たぶん皆が知っているのと変わらないと思いますぜ。詠唱や集中に邪魔が入るっていうのが一番嫌なはずです。……火の玉を出すとか、そういう簡単な魔術は多少の事じゃ不発しないそうですが」
ああ、やっぱり──と僕は思った。ゲームでも魔法使いのみで敵と戦う時は基本的に詠唱の短い魔法を使って、隙がある時に大技を使うのと大体同じらしい。違う所と言えば、簡単な魔術であればある程度は中断しても大丈夫との事。つまり詠唱を途中で止めて回避に専念だとかが出来るらしい。
「ふうむ……。では何人かの騎士を部屋の中で待機させて──」
「ルーファス以上の可能性もありますぜ。窓の外にも弓兵を──」
「もしもの事を考え、矢の罠も──」
ゲームの戦闘システムって、考えた事も無かったけど現実の行動を単純化させたものなんだなぁ……なんて呑気な事を考えていたら、結構物々しい話にまで発展していっていた。罠ってちょっと……。
「あ、あの……そんなに厳重になさらなくても……」
「なりませぬ。グローリア様の御身に何かがあれば、アーテル教の存続にも関わります」
「ああ。違いないです。むしろどれだけ戦力を詰め込めるかも考えた方が良いんじゃないかと」
「ぁぅ……」
グローリアさんの言葉は一蹴された。しょんぼりと肩を落としてしまっている。
……言わんとする事は分からないでもないけど、流石にやり過ぎなんじゃ? とは僕も思う。なんかベネットさんが攻撃して良い条件とかの話までしだした。過保護だ。絶対に過保護だよ、これ。
「…………っ」
半ば呆れていた所、グローリアさんから助けて欲しそうな視線を向けられた。両手の指を祈るように固く握って太ももの上に置いていて、さながら親に叱られている所で兄弟に助けを求める子のように見える。
正直に言おう。好みの子からこんなSOSを送られて動けない人なんて居ないだろう。少なくとも僕は無視なんて出来ない。
なので、僕はヒートアップ中の二人の間に割って入っていった。
「そ、そんな風に構えられると、向こうも余計に警戒するんじゃないですか……?」
あ。とでも言いそうな顔になる過保護者二名。それと同時に今まで以上に難しい顔へと変わっていく。本気で悩んでいるのがもう見た目と雰囲気で十二分に伝わってきた。本当に過保護だ……。
そんな時、ふとベネットさんと目が合う。頭から湯気が出ているように見えるのは気のせい、だよね……?
「ヒューゴ……だっけか? 何か良い方法とかねえかな……」
八方塞がりで打つ手無し。それでも打開策を練ろうとしている目を、ベネットさんはしていた。
僕はこの目を知っている。人が本当に困った時にする目だ。クラスメイトがルービックキューブをああだこうだと言いながら自力で六面を揃えようとしていた時──結局一面で諦めてた──や、両親が喧嘩をして一人残された方がリビングで頭を掻き毟っていた時がそうだった。
特に両親の時の方を思い出して僕の心に突き刺さる。どうにかしたいと思ってもどうにも出来ない事なんて、生きていれば両手の指じゃ足りないくらいあるのなんて知っている。それどころか、どうにかしようとして余計に状況が悪くなるなんて事もあるから質が悪い。
だから一瞬だけ戸惑った。僕が今思っている事を言っても良いのか? それによって悪い方向に進んでしまうんじゃないだろうか? そもそも僕なんかが考え付く事なんて、もう既に考え終わった後なんじゃないか? ──そんな風に思ってしまう。
「……一つ、あると思います」
それでも口にしてしまうのは、頼られてしまったからか。それとも別の世界に来たという異常事態があったからか。もしくはその両方か。
途端に三人の期待する視線が僕に集中する。胸の奥がキュウッと締め付けられるような感覚に耐えながら、僕は声を絞り出した。
「そ、そもそもだけど、社長さんって人にとって用事があるのは僕だけ、ですよね」
「それは……」
グローリアさんが何かを言いかけるけど、僕が視線を向けると彼女は言葉を切った。僕が何を言おうとしているのか察しが付いたのだろう。
「……だから、僕だけが話に行けば、良いと思うんです」
根本はそこだ。社長さんに用があるのは僕。同じ世界から来た僕だけだ。わざわざ『僕だけと話す』という提案をしてきたくらいだからそうに違いない。
グローリアさんを危険に晒したくない二人の意見にも沿っているし、社長さんの要求も満たしている。これ以上無い方法だ。
けど、そうはいかない理由がある。
「それ、は……」
彼女、グローリアさんがそうだ。
あの時、グローリアさんは僕一人で社長さんと話すのを拒んだ。理由は聞きそびれてしまって分からないままだけど、彼女が嫌がったという事は間違いない。
「…………?」
「グローリア様?」
「どうしたんですか?」
皆、僕を含めて一様に同じ反応をする。なにせ、グローリアさんは自己嫌悪を感じているのか酷い顔をしていたのだから。
正直に言って訳が分からなかった。今までの会話で何がどうしてそんな風に思ったのかが検討もつかない。それと同時に焦り出す。僕が何か無神経な事を言ってしまったんじゃないか? 僕が気付かない内に彼女を傷付けてしまったんじゃ? そんな不安が胃の奥から込み上がってきた。
あるとするならば、僕が一人で行けば良い、という発言だ。確かにこれは彼女の意志に反する事でもある。ただ、それはあまりにも理由が弱い。……と思う。だって、グローリアさんは自分の意見が通らなかったら拗ねるような子じゃないからだ。それくらいは僕でも分かる。だったら何が原因なんだろう。
「……………………」
ただ、この状況があまり良くないというのも分かる。今のグローリアさんの姿を見るのは……僕にとっても少し辛いものがあった。
「えっと……上手くは言えないんだけど……」
頭の中で必死に言葉を探しながら声に出していく。
「僕一人でも……うん。大丈夫のはずだから」
大丈夫──。そうは言ったけど保証なんて無い。その理由を話しながらなんとかして考える。
(……あれ?)
そこで気付いた。これ、本当に大丈夫なんじゃ?
「だって危ない目に合うって考えても、あの場で話し合おうとしたっていうのはおかしいよ」
「──おお、なるほど」
どうやらオースティンさんも気付いてくれたようだ。ベネットさんと気が沈んだままのグローリアさんはまだ分かっていないらしい。けど今から言う事を聞いたらきっと納得するはずだ。
「ほら、あの場で僕達に危害を加えたら社長さん達だって無事に帰れるとは言い切れないでしょ? ベネットさんも近くに居たし、そもそもこの聖堂の中で暴れたらすぐに聖堂騎士団の人が飛んでくるはずだから」
そう。社長さんにとってはあの時に済ませても良かった用事だったんだ。だから初めから僕達に攻撃的な行動はするつもりが無かったという事になる。
よくよく考えてみれば、グローリアさんはアーテル教の象徴である聖女だ。そんな子に手を出したらアーテル教全体を敵に回すって事にもなるんだから、頭が回るって評価された社長さんがそこまで考えないって訳でもないだろう。
あの時は社長さんの怖い雰囲気で危険だって思ったけど、この事を踏まえると話し合いに応じても問題が無いと言えると思う。
「お、分かったぞ。敵陣のド真ん中で派手な事すりゃ囲まれて死ぬってのと同じか」
ベネットさんも納得してくれたようなので僕は頷く。後は、グローリアさんが納得してくれればオッケーだ。
「だから大丈夫だよ。グローリアさん」
……けど、それでも彼女は納得できない様子。むしろ更に暗い表情にさせてしまった。
こういう時、僕は自分の無力さを残念に思う。たった一言でその場を明るくさせるような、クラスには一人か二人は居る人になりたかったと思う事がある。それは才能であり、きっと僕なんかじゃ一生手に入れる事が出来ない能力だろう。
その能力があれば、僕も今のグローリアさんを元気付ける事が出来るのだろうか……。
「……………………」
ずっと目を伏せていた彼女が僕に視線を合わせる。いつもは快晴のような空色の瞳は曇りが掛かったかのように仄暗い。
……いや、何か違う? 不安に思ってくれているようには見えるけど、少し違うような……?
その瞳は瞼によって隠され、一回だけ小さく頷いたと思ったら雲は少しだけ晴れていた。
「……分かりました。では、私もご一緒して大丈夫ですよね?」
「いや、それはまたちょっと別というか万が一というのも考えて……」
「お願いしますっ!」
「う……」
言葉が詰まる。頭まで下げられてしまったら止めようにも止められなくなってしまった。
オースティンさんとベネットさんに助けを求めて目を向けるも、二人も二人して酷く困った様子。挙句には諦めたかのように一回だけ首を縦に揺らしていた。流石にここまで強い意志を見せられると二人とも口が出せなくなるらしい。……うん。その気持ち、凄く分かります。
「……あの、良いんですか?」
念の為、二人に訊いてみた。
「ううむ……。私としては団長がご一緒してくれるのであればなんとか……」
「俺もそう思います。いくらグローリア様のお望みであっても、もしもの事は考えなけりゃなりません」
「……はい。では、そのように連絡を──」
「む、いえ。少々待って下さいますかな」
ベネットさん同伴ならば──といった所でオースティンさんは待ったを掛けた。何やら深く考えているようで、声には出していないけど口元が僅かに動いていた。
そして、少し意外な事を言ってきた。
「ふむ……この一件はグローリア様とヒューゴさんのお二人に任せましょう」
ちょっとだけ驚く。グローリアさんもまさか自分の希望がそのまま通るとは思っていなかったのか、僕と同じように驚いた表情を浮かべていた。
「良いんですかいオースティン大司祭。何が起こるか分かりませんぜ?」
「正確には彼女たちの動向を見てからですがな。この町に滞在している以上、何らかの活動はしている筈。それを見てからでも遅くはないでしょう。もしも問題が無いと判断が出来ればお二人にお任せするのが最善ですし、問題有りであれば『検討の結果許可できず』と連絡をすれば良いのです。まあ、ヒューゴさんが仰ったように大丈夫だとは思いますがな」
なるほど。確かにそれが一番良い。僕達は今の今まで向こうの事を調べるって発想が抜け落ちていた。やっぱり、こういうのは思慮深い人が考えてくれると頼もしいなぁ。
一先ず、様子を見てから判断という事で話が纏まった。それに伴い、この場は解散となる。僕達はお互いにおやすみと挨拶を交わし、一礼してから部屋を出ようとした。
「……あのっ! ヒューゴさん!」
が、グローリアさんに呼び止められてしまった。思い詰めたかのようなその声は、既に部屋を出た後の二人まで立ち止まって振り向かせていた。
「お話、したい事があるので……もう少しだけ残って下さってもよろしいですか?」
話? 一体何だろう? ……いやその前に、今の言い方だと僕だけのような気が?
「えっと、僕だけ?」
「はい。ご迷惑でなければですが……」
……ますます不思議に思う。僕と二人で話す事ってなんだろ?
僕より先に出たオースティンさん達へグローリアさんが目を配らせると、二人はもう一回だけ頭を下げてから廊下の向こうへと消えていった。
一人残された僕は扉を閉めて部屋の主と向かい合う。その主は、さっきの話し合いの時と同じく辛そうな表情を浮かべていた。
「あの……大丈夫?」
「…………え……?」
辛そうな表情はそのまま、反応が少し遅れたグローリアさんは首をほんの僅か傾ける。……今にも壊れてしまいそうで、見ていて少し不安になる。
「話している間ずっと元気が無かったから、どうしたんだろうって思って」
「……ごめんなさい」
あ──と思った時にはもう遅い。彼女は俯いてしまい、酷く悲しそうな顔となってしまった。
「いや! いつもは明るいグローリアさんが何か思い詰めている感じだったから何かがあったんだろうって! それでいきなり話って言ってたから、よっぽど辛い事があって相談したかったのかなって思ったんだ! うん!」
僕は慌てて取り繕った。
もはや自分でも何が言いたいのかサッパリだけど、とにかくグローリアさんにそんな顔をして欲しくなくて必死になる。だって、気になる子が辛そうにしていたらなんとかしたくなるじゃないか。
が、それも逆効果だ。彼女は今にも泣きそうになってしまった。床に向けられた瞳に涙が滲んでおり、いつそれが頬を伝い落ちてもおかしくない。
必死で言葉を探す。けど、なんて声を掛ければ良いのか分からない。そもそもの話、グローリアさんがなぜこんなにも辛そうにしているのかが分からないのだ。根本が分からないのに、それを解決できるはずがない。
困った。心底困った。話題を変えるような空気でもない。かと言って、これ以上踏み込むのも危うい。進めないし戻れない。ついでに方向も変えられないときた。そうなってしまうと、もはや僕に残されたのは『立ち止まる』だけだった。ただただ時間と相手に任せ、僕自身は何もしない方がまだマシだとすら思えてくる。
それが本当にマシなのかどうかは分からない。時間が過ぎればもっと悪くなる事だってある。それでも、今僕が出来る事は何も無いというのも真実だ。
そう考えると、僕は奇妙な感覚に陥った。またあの感覚だ。グローリアさんがオースティンさんに聖法を使ったと伝えた時に感じた、あの感覚。自分の見ている世界がやけに『遠く』感じて、自分の視界がまるで第三者の目線になったかのような、世界がズレてしまったかのような、自分が今ここに居るのかすらフワフワとした奇妙な感覚。
僕はこれが嫌いだ。自分を客観的に見る事が出来て、自分の浅はかさが、愚かさが、間違いが浮き彫りになるからだ。
グローリアさんは歩いて数歩の場所に居る。けど、それが凄く遠い。近付こうとしても、一向に近付けないと頭が認識してしまっている。
きっと、僕なりの現実逃避なのだろう。こうやって僕は、嫌な事から逃げているのだろう。……本当、僕はこれが嫌いだ。
「……ヒューゴさん、お願いがあります」
「……はい」
僕は身構えた。余計な事を言ってしまった僕は、何を言われるのだろうか。普段は優しいグローリアさんも怒るのかな……。それが酷く怖かった。
「少しだけ……見苦しい姿をお見せするのを、お許し下さい……」
「え?」
けれど、彼女は僕の予想とは全く別の事を考えていた。しがみつかれたのだ。まるで子供がどうしようもない悲しみを抱え、親に縋り付いているみたいに。
彼女は声を擦れさせながら泣き声を吐き出す。両手は僕の肩を横から握り、胸元へ顔を埋めて泣きじゃくっている。
なんでグローリアさんが泣いているのか、全然見当もつかない。むしろ、この子がこんな風に泣いているのなんて想像も出来なかった。
いつも笑顔でいっぱいで、他人を思いやって、時には勇気を出して物を言っているグローリアさん。……ああ、いや、ちがうか。
今になって思ってみると、彼女がなぜそんな風に振舞っているのかがなんとなく分かった。彼女は、自分よりも誰かを大事にしているんだ。自分の意見よりも他人の意見を尊重している節があったし、必死になるのも誰かの為になる時ばかりだ。
聖女なんて重要なポジションに就いているんだから当たり前なのかもしれないけど、その『当たり前』をするには彼女はまだ幼い。見た目からして僕と同じかもう少し下の歳。周りの人も基本的に年上の人ばかりで同年代らしき人はナリシャって人くらいだった。そしてそのナリシャさんは今、魂が抜けてしまったかのようになっている。二人がどれだけ仲が良かったのかは分からないけど、もしかしたらグローリアさんにとって唯一近い歳の友人だったのかもしれない。
そう考えると色々と限界がやってきて泣きたくなるのも当然だ。だからこそ、歳の近い僕に彼女は泣きついたのかもしれない。
「……………………」
恐る恐る、グローリアさんの頭を撫でる。意味なんて無い。ただなんとなく、こうした方が良いと思っただけだ。
一瞬だけ泣き声が止まる。そして一瞬後、もっと感情を出したような鳴き声が部屋に響いた。
僕は、彼女が泣き止むまで頭を撫で続けた──。
…………………………………………。
「……ありがとうございます。落ち着きました」
「え、と……どう致しまして?」
どれくらいの時間が経っただろうか。十分かもしれないし三十分、もしかしたら一時間かもしれない。それくらい長い時間の間、グローリアさんは泣き続けていた。
ちょうど僕たちの間には一人分の隙間が空いている。そんな至近距離に居る彼女の眼は赤く充血してしまっており、それだけでも結構な時間を泣いていたというのが見て取れた。
と、そこで僕の劣情が掻き立てられる。潤んだ瞳や上気して染まった頬、軽く触れて触れられているこの状況。それに意識が向いてしまうと胸が高鳴って仕方が無かった。
我慢……我慢だ……。うん。我慢……。
「あ……」
「? どうしたの?」
荒ぶりそうになる心を落ち着けている途中、グローリアさんは視線を僕の胸元辺りに落として何かに気付いた。
どうしたんだろう、と思って僕も視線を落としてみる。そして『なるほど』と納得した。
「すみません……服……汚してしまいました」
なんて事はない。単純に涙で染みが出来ただけだった。
「大丈夫だよ。グローリアさんこそ大丈夫?」
「はいっ。ヒューゴさんのおかげでこの通りですっ」
ニッコリと満面の笑みを浮かべるグローリアさん。泣いたせいか少し頬が赤くなっているけれど、どうやら元気を取り戻してくれたようだ。
「困った事があったら言っても良いんだよ? 聞くくらいしか出来ないかもしれないけど、それで楽になるんだったら僕はいくらでも聞くよ」
「……本当、私は弱いですね」
「……うん?」
元気を取り戻したグローリアさんだったけど、今度は困ったような顔になった。ついでに、なんでそんな返答をしたのかが分からなく、僕は首を傾げる。
「私は皆さんの悩みを聞き、解決する道へ導かなければならないというのに、こうやってヒューゴさんを困らせてしまっています……」
そう言われて驚いた。僕は困ったような素振りを見せてしまったのだろうか? ……いや、思い当たる節が全く無い。それどころか僕自身、困ったとすら思っていないのだ。だというのに、グローリアさんは僕が困っていると言った。
……うーん? 一体どうしてそう思ったんだろう?
「むしろ逆です。私はヒューゴさんに頼ってしまい、悩みを打ち明けそうになっています。……これでは、まるっきり逆です。私は、聖女だというのに」
自嘲するような苦笑いをしつつ告げられる理由。その理由に、僕は呆気に取られてしまった。
「……ちょっと良く分からないんだけど、それってダメな事なの?」
「──え?」
「グローリアさんだって聖女の前に一人の人間だよ。悩みとか困っている事なんていくらあってもおかしくない。だから、誰かに相談したってダメな事じゃないと思うよ?」
グローリアさんはまるで呆けてしまったかのように固まる。空色の瞳が瞬きで何回か見え隠れするだけで、ビデオを停止したかのように止まっていた。
……僕、何かおかしい事でも言ったかな。
「……………………あ、の……」
「? グローリアさん?」
「……ずるい、です」
またもや瞳に涙を溜めるグローリアさん。けれど、今度は悲しそうな顔をしていなかった。むしろ、どこか嬉しそうにしている。
「そんな風に声を掛けて下さったら、もう相談するしかないじゃないですか」
くるり、と踊るような軽やかさで彼女は反転する。そのまま数歩だけ足を進めると、ベッドの脇で僕へ振り向いた。
「ここからは聖女としてではなく、グローリアとしての相談です。もし相談に乗って下さるのでしたら、こちらにお掛け下さい」
……………………。なぜベッド……?
少し考えてみるも、それっぽい理由が思いつかない。ただなんとなくだけど、テーブルで向かい合うよりもベッドに腰掛ける方が心の距離が近いような気がするから、それなのかな?
いや、それよりも……。
「聖女として、じゃないんだよね?」
「はい。私個人の、グローリアとしての相談です」
そうグローリアさんは答える。ならば僕の返事はただ一つだ。一人の人として相談をしたいって言うくらいなんだ。それだけ他人へ口にしにくい内容なのだろうし、何よりもそれだけ僕を信頼してくれているって事でもある。ならばそれに応えるのが礼儀というものだろう。
「この相談は、誰にも話さない方が良いんだよね?」
「そうして下さると、とてもありがたいです」
「うん、分かった。誰にも言わないって約束するよ」
僕はグローリアさんの近くまで歩くと、彼女へ一度顔を向けてからベッドへ腰掛けた。
うわ、なにこれ凄いふかふかしてる。やっぱり聖女って立場になると、こういう調度品もしっかりした物になるんだなぁ。
ふかふかふにふにするベッドの手触りを確認していると、グローリアさんは一言断ってから僕の隣に身体を落ち着かせた。その距離はとても近い。拳一つ入るかどうかくらいだ。な、なんでこんな近くに? 心臓がびっくりしたのが自分でも分かった。
「ありがとうございます。やっぱり、ヒューゴさんはお優しいですね」
(──あ)
いつものように柔らかい笑顔を向けるグローリアさんだけど、少しだけ違う事に気付く。聖女のような柔らかさは勿論、そこに子供っぽさというか嬉しそうなというか、そんな感じの笑顔でもあったのだ。
彼女は目の端で僅かに残っていた涙を指で掬うと、落ち着いた様子で口を開いた。
「……相談というのはですね、私がヒューゴさんに出来る事についてなんです」
「出来る事?」
なんの話? というのが本音の内容だった。グローリアさんが僕に出来る事って言われても……そもそもどうしてそんな話になったのかが分からないので何とも言えなかった。
「はい。ヒューゴさんは私に救われたと仰って下さいましたが、それは私も同じ事です。いいえ、むしろ私はヒューゴさんにもっともっと助けられています。だから、私もヒューゴさんをお守りしたいのです。……今の私に出来る事と言えばそれくらいしかない、というのもありますが、同時に私の本心でもあります」
強い意志を感じさせる目をしていた。きっと、彼女は心の底からそう思っているのだろう。……僕自身は助けたって自覚が無いから困りものである。
「そしてこれは私の勘ですが、社長さんと対談は実現されるでしょう。ヒューゴさんがその席に座るのはほぼ確実でしょうけれど……あの様子では私がどうなるのか分かりません。……正直、私は社長さんが怖いです。あの目で見られた時、心臓を掴まれたかのような錯覚さえしました」
「あー……うん。それは分かる。僕も怖かった」
あの目を向けられた瞬間、全身に寒気が走った。凡そ、人が人に向けるような視線ではなかったとは思う。
「きっと、社長さんはヒューゴさんと同じ世界からやってきたのだと思います。……けれど、どう考えてもヒューゴさんの世界の話について花を咲かせようという雰囲気ではありませんでした。私とも話したいと仰っていた事から、何か特別な事を話すのだと思います」
「うん……どんな話かは分からないけど、あの人と話すのは僕一人じゃ怖くてまともに話せない、かも」
「私もです。私がヒューゴさんの立場でしたら、誰か信頼できるお方と一緒でなければ不安で圧し潰されてしまいそうです……」
その言葉にも同意する。あの時は腹を括ったけど、今でもあれは悪手だったと思える。もし本当に僕一人だけだったら、プレッシャーに負けていただろう。
「ですので、ヒューゴさんからも希望して下さい! 私と一緒ならば良い、と。差し出がましいかもしれませんが、私がヒューゴさんの支えとなってみせます! 私一人ではオースティンさんとベネットさんを説得できなくても、二人ならばきっと出来るはずです!」
だから、とグローリアさんは必死な声と共に僕へ言う。
「……だから、対談の席へ私も一緒に連れて行ってくれませんか?」
空色の目が僕の目の奥を見てくる。雲一つ存在しない、晴れ渡った空のように純粋な気持ちだと誰もが理解できるくらい彼女の瞳は透き通っていた。
グローリアさんは『差し出がましいかもしれない』と言ったが、そんな事はない。むしろ、僕にとってはありがたい事だ。さっきも思ったけど、僕一人ではプレッシャーで圧し潰されていたに違いない。けれど、グローリアさんが一緒ならばなんとか耐えられるような気がする。
だって、一目惚れとはいえ好きな子の前では頑張ろうって気になるでしょ?
「うん。こっちこそよろしく」
そう答えると、彼女はパァっと笑顔になった。その屈託のない笑顔は、自然と僕の顔も綻ばせてくれる。この笑顔の為ならばどんな怖い事にだって立ち向かえる気すら起こるんだから、僕も現金なものである。
それから少しの間だけお喋りをした。どれも他愛の無い話ばかりだったけれど、楽しそうに話しているグローリアさんの顔を見ているだけで僕も楽しかった。ちなみに、やっぱりクラーラさんは大雑把な性格をしていると判明した。昨日、クラーラさんがグレッグさんと修道服の補修をしている時にクラーラさんはグレッグさんから教わりながら針を縫っていたそうだ。難しそうな顔をしていたらしく、グローリアさん曰く『苦手だったのでしょうか』と言っていたけど今朝の服の畳み方を見る限りではそうじゃないと思える。
「──あ。そろそろおやすみしないと」
グローリアさんは楽しそうに話していたけど、ふと何かに気付いたようにそう言った。言われてみれば確かに結構長く話していた気がする。楽しい時間は過ぎるのが早いなぁ……。
(そういえば時計とか見当たらないけど、どうやって時間とか確認してるんだろ)
軽く部屋を見渡してもそれらしき物は見当たらない。街中に時計塔みたいな物はあったような気がするから時計自体はあるんだろうけど、この世界ではまだ時計が普及していないのかもしれない。
「今日はありがとうございます。おかげで心が軽くなりました」
「そんな。大した事なんてしてないよ」
本当、何をどう助けたのか僕自身が分かってないし。僕はただ、グローリアさんの話を聞いただけにしか過ぎない。言うなればグローリアさんが自分で自分を助けたっていうのが正しいだろう。
「もしかしたら、ヒューゴさんは聖女としての適性があるのかもしれませんね」
その言葉に一瞬だけ硬直する。……聖女? 僕が? いや……いやいやいや……。男が聖女をするって、もう字面からしておかしい。
けれど、彼女は本当にそう思って正直に言っただけだろう。嫌味とかで言う子じゃないっていうのは充分に分かっている。
「……それは素直に喜んで良いのかな」
「……はぅっ!?」
そう言ったら自分の言った事がどういう意味なのか理解したのだろう。あからさまに『どうしよう』という顔になってアタフタと慌てふためいた。
「す、すすすみません!!! た、大変失礼な事を口にしてしまいました!!」
「えっと……悪い意味で言ったんじゃないっていうのは分かるから大丈夫だよ?」
「うぅ……」
やってしまった、とでも言わんばかりにグローリアさんは気にしてる。もう凄い気にしてる。肩も落として項垂れていて、後悔しているっていうのが全身から伝わるくらいだった。
本当、この子は心から聖女なんだな……。僕は、それを一層強く感じた。
「……じゃあ今度、面白そうな話をして貰って良い? それで帳消しって事で」
長く気にされると今度は僕が滅入りそうなので、そんな提案をしてみる。
「え? は、はい……構いませんが、そのような事で良いのですか?」
良かった。どうやら沈んだ気持ちから少しは浮き上がってくれたようだ。
「そりゃグローリアさんと話せるだけで嬉し──」
あ。と思った時にはもう遅い。何を言ったのかを理解した僕は、顔が徐々に熱くなっていくのが感じられた。
「……ごめん。今のは聞かなかったことにして下さい」
彼女から視線を逸らし、ついでに顔も逸らす。こんなの『貴女に気があります』って言ってるのと何が違うのか。
またやってしまった……。本当、僕は同じ間違いをするな……。
「あの……」
「…………?」
見かねたのだろう。グローリアさんが気を遣って話し掛け──
「私もヒューゴさんとお話できて嬉しいです、よ?」
────────────。
「? ヒューゴさん?」
「……ごめんちょっと待ってそれ反則だから」
「え、え?」
一瞬だけ世界が停止した。絶対に止まった。間違いなく固まった。
いや、いやいやいや。待て。慌てるんじゃない。グローリアさんは気遣ってくれただけだ。ただそれだけの話だ。そもそも僕と話が出来て嬉しいっていうのは僕に合わせて言ってくれただけだろう。そのはずだ。うん。違いない。そうじゃなかったら理由が思い付かないしね。うん、うんうん。きっと──いや170パーセントそうだ。
そこまで考えると、多少は頭も落ち着いてくれた。僕はゆっくりと深呼吸をした。
……よし。落ち着いた。
「グローリアさん、そういう事は簡単に言っちゃだめだよ? そういうのは、もっと親しい人に言う事だからね?」
「そう、なのですか?」
キョトン、としてから難しそうに考え込むグローリアさん。……こういう反応をされると少し困る。本気でそう思ってくれているんじゃないかって期待しちゃうじゃないか。
「親しく……。────! ……ヒューゴさん。今日、この場では私を聖女ではなくグローリアとしてお話してくださいましたよね?」
「? うん。そうしたけど……」
何かを閃いたのか、彼女は期待を膨らませた目になった。頭の上に豆電球が光ったように見えたのは気のせいだろう。
「であれば、私はヒューゴさんと一緒におやすみをしても良いのですよねっ?」
「…………待って。どういう流れでそうなったの?」
いや本当に、なんで?
「ヒューゴさんと、もっと親しくなりたいからですっ」
ぅ……。面と向かってそう言われると、その……嬉しくて困惑する。計算してやっている子を見た事があるけれど、あれは傍から見て怖かった。だって、目がギラギラとしていて内側の黒い部分を必死に隠しているんだから。けど、グローリアさんはそれを天然でしているように見える。
顔色を見れば分かる。両親や先生、通販の営業さんのような表面なものや欲に駆られた表情じゃない。バカをやっている時のクラスメイトや小さな子供のそれと同じ表情をしている。
……やっぱり、真っ直ぐ向けられる感情は苦手かな。目を逸らしたら失礼だから目を合わせるのだけど、それが少し恥ずかしい。
「先代の聖女様が仰っていました。立場や役職、種族の壁などを理解した上で越えられる方は、とても信頼の出来る方である──と。そのような方が現れたならば、自分が一番無防備となる就寝時を共にしても良いくらいで、もしそうしたならばより一層強く相手を信じられるでしょう──とも仰っておられました」
「……それは……どうなのかな」
先代の聖女さんも怖い事を言うものだ。僕だったらとてもそんな事は言えないだろう。
「ヒューゴさんはそう思われないのですか?」
「んー……ちょっと難しい、かな。軽い気持ちでそういう風に行動しちゃう人も居そうだし……」
軽い気持ちだけならばまだ良い。相手を信用させた上で裏切るなんて事も無いとは言い切れない。
そんなのはいくらでもあった。この世界でも例外じゃないはずだ。
そう思ったけど、グローリアさんには言わない方が良いだろう。
「ですが、ヒューゴさんは軽い気持ちではなかったですよね?」
「まあ、そりゃ……。だって、あんなに深い意味がありそうな言い方だったし……」
「はい。私にとってはとても大事な事でした。そしてヒューゴさんはそれを分かった上で相談に乗って下さいました。だから、私は信頼できると思っているのです。……ダメですか?」
またもや言葉に詰まる。ダメなんかじゃない。そう思う反面、一歩が踏み出せない。
踏み出せば彼女は笑顔になるだろう。きっと嬉しそうに顔を綻ばせるだろう。──けど、本当にそれで良いのだろうか? グローリアさんは僕を信じ過ぎている気がしてならない。会ってまだ数日の僕に、どうしてここまで心を開けるのだろうか? 僕が見抜けていないだけで、彼女は奥底に何かを隠しているのかとすら考えてしまうくらいだ。
今までの人生、顔を見たらなんとなく分かってきた僕だけど、グローリアさんは真っ直ぐ過ぎて逆に分からない。初めこそは聖女だからこそ素直で真っ直ぐなんだろうなって思っていたけど、ここまで来ると疑ってしまう。……そう思ってしまうのはきっと、僕が誰も信用していないからなのかもしれない。
「……明日の朝、大騒ぎになるかも」
だから、逃げた。イエスでもノーでもなく、三つ目の答えで逃げた。
「大丈夫ですっ。だって、前に私と同じ部屋で就寝するかどうかの議論だってあったじゃないですか。つまり、厳密にはどちらでも良かったという事ですよ」
が、そう返されてしまって何も言えなくなる。確かにあの時の雰囲気はそんな感じだったし、恐らく万が一の事態が上回っただけなのだろう。もしグローリアさんが良いか否かの一言を投じればそれだけで議論が終わっていたと思う。
……どうしようかな。
「もう夜も遅いです。眠りましょう、ヒューゴさん?」
「…………う、うん……」
そして流される僕。ニコニコと屈託の無い、小さい花のように笑う彼女の姿に、僕の心は欲望に負けてしまった。
ああ……本当にグローリアさんと居ると僕の知らない僕が出てくるなぁ。
ちょっと困ると同時に、僕はどこかでそれを心地良く思っていた。
もぞもぞと二人してベッドに潜り込む。僕たち二人が寝転がってもまだ少し余裕のあるベッド。だけど二人が大の字で寝られる訳ではないので、必然的に僕達の距離は近くなった。
まるで友達の家に泊まっているかのように楽しそうな笑顔を浮かべるグローリアさんと、緊張して身体がカチコチになる僕。姿は全く同じなのに、反応は全くの逆だった。
(……それにしても、グローリアさんと一緒に寝るのは初めてじゃないけど、あの時は状況が状況だったからなぁ。一緒にベッドに入るっていうのはやっぱり全然意味が違うよ……)
と、そこである事に気付く。部屋がさっきまでと比べて僅かに暗くなっている気がするのだ。
……いや、確かに暗くなっている。燭台の火の勢いが弱い。なるほど。グローリアさんはこれで時間が経ったと判断したのか。
「なんだか、あの時の事を思い出してしまいますね」
「えっと、初めて会った日の夜?」
「はいっ。ヒューゴさんとの運命の出会いの日の事です」
どうやら彼女も同じ事を思い出したらしい。
寒さを凌ぐ為に採った苦肉の策。月と星が煌めく空の下、服を毛布の代わりにして身を寄せ合ったあの時の夜の事だ。
「運命、か……その言い方は、ちょっと恥ずかしいかな」
いや、ちょっと所じゃない。胸の奥がくすぐったくなる。
しかも部屋はゆっくりゆっくり暗くなっていくので、雰囲気も非常に良い感じとなってきている。それも僕の心を焦らせる原因の一つだった。あの時の事を、鮮明に思い出せてしまうから。
「ふふっ。あの時よりも、ずっとずっと温かいですね」
「う、うん……」
段々と月明りと同じくらいの明るさに近付いてくると、目よりも耳の感覚が強くなってきた。身じろぐと肌と布の擦れ合う音が聴こえてくるし、吐息すら小さいのにハッキリと聴こえてくるくらいだ。
こうなってくると肌の方も敏感になってきて、触れていないのにグローリアさんの体温がほんの少しだけ伝わってくる。
そのせいで僕の心臓はあの時以上に暴れ回って熱くなっていた。無論、それを抑えるのに必死である。
「……ヒューゴさん、一つよろしいですか?」
「……ど、どうしたの?」
「私、実は好きな愛称があるんです」
「ん、んん? 愛称?」
あまりにも予想外な話に、少しだけ頭が冷静になる。そういえばイギリスとかだと『そうなるか』って愛称があったりしたな、なんて思えるくらいに。
「はい。ナリシャさんが私に使って下さる愛称です」
「へぇ……。なんて愛称?」
そう訊きつつ予想をしてみる。エリザベスとかだとエリーやリズなんて呼ばれ方がするから、グローリアさんは……ローリア? それともリア? ローラとかもありそう?
「リア、です。響きが可愛らしくて、私はそう呼ばれるのが好きなんです。──如何ですか?」
どうやらリアで合っていたようだ。確かにグローリアって響きは畏まっているというか固いイメージがあるけど、リアだと女の子の名前みたいで可愛らしい。
「うん。僕もそっちの方が可愛いと思うよ」
顔はほとんど見えないけれど、グローリアさんは子供っぽく笑ったような気がする。だって、無邪気な笑い声が聴こえてきたんだから。
「ふふっ、そう言って下さると嬉しいです。……もしよろしければ、これからはリアと呼んで下さいませんか?」
「え、っと」
少しだけ考える。けれど、答えなんて決まっているようなものだった。
「…………うん。分かった。リ、リア……」
「はいっ♪」
この状況で、こんな風に言われて、断れる人なんて居ないだろう。リア……リア、か。
目の前に居る彼女の顔を思い浮かべながら、その愛称を胸の内で復唱する。あ、これすっごい恥ずかしい……。嬉しさとかもあるけど羞恥心が凄い……。
落ち着きを取り戻し掛けた僕の心臓がまた忙しなくなってきた。もしかしたら聴かれてしまっているかもしれない。そう思うと、余計に恥ずかしくなってきた。
「あはっ──おやすみなさいませ、ヒューゴさん♪」
「お、おやすみ……リア」
胸の内で何度か復唱したおかげで、すんなりと愛称を出せた。自分でも少し驚くくらいに。
それにしても……リアは心底嬉しそうに言う上、僕の手に指を絡めてくるのだから本当に卑怯だ。こんなの、ドキドキするに決まってるじゃないか。
(ずるい……。ずるいなぁ、リアは)
そう思いながら、僕は苦笑する。
──初めて女の子を愛称で呼んだ。それは、僕にとって大きな事だった。
たかが呼び方一つ。だけど、僕は一つ確信していた。この愛称は、きっと誰にでも言わせている訳ではないのだろう、と。
なぜなら彼女を『リア』と呼んでいる姿を今まで一度として見ていないから。そして彼女の口から『ナリシャさんが使っている』と言ったから。
ナリシャさんが大変な事になったと聞いた時の慌て振りや、リア自身が秘密の友達と言っていた事から結構な仲だったのだろう。そんなナリシャさんと同じくらい、リアは僕の事を特別に思ってくれているのかもしれない。
聖女という役職を通してではなく、もう一歩近い彼女自身の気持ちが聞けた。そんな気がした。
(悪い気はしないかな……)
むしろ嬉しいくらいだ。きっと、元の世界ではこんな気持ちになる事は無かっただろう。
絡められた指を優しく握り返す。そうすると、リアももう少しだけ深く握ってくれた。それが、とても心地良かった。彼女の温もりが、優しさが、手を通して伝わってくるから。
ドキドキはしているけど、今日は気持ち良く眠れるだろう──。
そう思いながら、僕は今日の一日を終えた。
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