交差点
「ん……?」
「おはようございます、ヒューゴ様」
目が覚めて身体を起こすと、目に映るのは見慣れそうにないそこそこ豪奢な天井。……そしていつ入ってきたのか分からないクラーラさんがベッドの横に立っていた。
「おはよう……」
「先ほどグローリア様もお目覚めになられました。お着替えを手伝わせて頂きます」
「……はい」
クラーラさんの表情は無いに等しく、何を考えているのかが全く読めやしない。この無表情の裏で、彼女は何を考えているのだろうか。
僕はベッドから降りると、机に置かれている聖女の服へ手を伸ばす。が、それはクラーラさんがそれとなく先に取ってしまい、僕の手は空虚を掴む事となってしまった。どうやら主導権を僕に渡してはくれないらしい……。
当然と言えば当然かもしれない。昨日は僕が一人で着替えたのだけれど、細かい部分はズレていたらしくてグローリアさんに手直しして貰ったからだ。その時のグローリアさんは楽しそうにしていたのだが、どうやら聖女にこの手の事をさせるのはあまり良くない事らしい。彼女がとても機嫌良くしていたのでオースティンさんが世間話として振った所、それを話したグローリアさんは注意をされてしまっていた。
なので、この状況もちょっとだけ予想していた。まさかクラーラさんが来るとは思っていなかったけど。
「では、両手を広げて下さい」
淡々と言われ、それに従うがやはり恥ずかしいものがある。単純に女の人に自分の着替えを全て任せるなんて普通に恥ずかしい。
(まだ男の人の方が──いや、いやいやいや……)
「どうかされましたか」
「……いや、なんでもないです。ごめんなさい」
とまで考えたが、次の瞬間には首を横に振る。僕の今の身体は女の子でありグローリアさんでもある。それはつまり、僕が素肌を見せるという事はグローリアさんの素肌を見せる事にも等しい。ならば男の人に見せる訳にはいかないだろう。
少し覚束ない手付きでクラーラさんは僕の服を着替えさせていく。初めの方はドキドキしたけれど、クラーラさんが作業のように淡々と進めていくのだから次第に羞恥心は消えていった。これが慣れ……? いやなんか違う……?
そんな下らない事を考えているといつの間にか着替えは終わっていて、着替えさせてくれたクラーラさんは僕から脱がした寝間着を少し雑に折り畳んでいる。意外と大雑把な性格なのだろうか?
「では、本日はグローリア様とご一緒にハーメラ王に謁見して頂きます」
この後は昨日と同じくお勉強──だと思ったけれど、どうやら違う予定が入っているらしい。
……って、待って? 今、王様に謁見って言わなかった? え……? 謁……見……?
(ええええええええええええええええええ!!?!?)
あれよあれよの間に僕達は王の間の前へ着いてしまう。隣にはグローリアさん、後ろにはオースティンさんとベネットさん。僕はいつかのように外套の被りを深くしていて、その怪しさから兵士さん達の視線がとても怖かった……。なお、今現在も謁見の間の扉の両脇を護る兵士さんの視線が鋭くて怖かったりする……。
ここに来るまでの間に謁見の理由を聞いてみたら、グローリアさんと同じ姿をしている僕が居るから、だそうな。流石にこれだけ重大な問題はハーメラ王としてもグローリアさんの父親としても報告しなければならないらしい。
ただ、その報告は僕達が保護された当日に送っているらしいのだけど、どういう訳か今の今まで反応が無かったという話だ。……まあ、娘さんと全く同じ姿の元男が現れました──なんて聞いたら頭か耳を疑ってもおかしくない。
……もしかして、その空白の時間は僕を確認していた時間だったのだろうか? 全く気付かなかったけど……。
オースティンさんがグローリアさんに視線を送る。それを受け取った彼女は一歩前に出ると、この重々しい扉を三回だけノックした。
「入りなさい」
すぐに中から返事が返ってくる。聞いた限りでは60代くらいの声だろうか。
許しを得ると、グローリアさんが扉に手を掛ける。……が、彼女の力では扉が僅かにしか動かない。見た目通りかなりの重さのようだ。
そんな姿を見た両脇の兵士さんが扉を開けてくれる。なんかとても簡単に開いたように見える。……恥ずかしそうにしているグローリアさんが可愛い。
僕達は開けてくれた兵士さん達に一礼をして中に入り、そして僕は一瞬だけ呆けてしまった。
優に十メートルは超えるであろう高い天井。その天井を支える四本の柱には細かで美しい装飾が彫られており、床は白と黒の市松模様。毎日丁寧に磨かれているのか外から入ってくる光に反射していて、その光沢さが見て取れる。深い赤色のカーペットが三段ほど高い玉座へと続いており、そこには金細工を施された豪奢な椅子に王様が座っていた。その金細工と同じような装飾がこの謁見の間の至る所に施されている事から、相当に手の込んだ場所だというのが分かる。
もう見ただけで王様だと分かる。肌で感じられるくらい威厳ある雰囲気と、それに負けない格式のある服装。加えて何事にも動じそうにないその姿から、この人がハーメラを統治する王だと伝わってきた。
傍には同じく格式のある格好をした老執事のような人が立っており、なんだか側近ぽく見える。部屋の端にはメイドが三人ほど居て、明らかに僕を不審に思っているであろう視線を向けていた。
「グローリアとその外套の者を除き、全員がこの間から出るように。宰相も例外ではない」
「え──?」
開口一番、唐突にそんな事を言われたものだから僕とグローリアさんは小さな声を漏らした。
「王よ! グローリア様はともかくなぜこの怪しい者まで!」
「問題無い」
老執事が焦った様子で言うも、王様は何食わぬ顔でただ一言だけを返す。……視線が重い。かなりの距離が開いているというのに、重圧で圧し潰されてしまいそうだ。
王様がそれだけしか言わないものだから老執事は戸惑っている。けれど、僕達へ向ける視線の重さに折れたのか、了承する言葉を残して段差から降りて行った。
途中で僕へ視線を向けられる。その目は疑心に溢れており、何か事があればすぐにでも首を刎ねてきそうなくらい冷たかった。
扉の閉まる音が謁見の間に響く。この場に居るのは僕とグローリアさん、そして王様だけとなった。
「二人とも、こちらへ来なさい」
「はい」
「……はい」
グローリアさんの言葉に続いて僕も返事をする。そして、彼女に倣うよう王様へと足を進めていった。
近くに来ると一層にその威厳さに圧倒される。グローリアさんと同じ色の髪と瞳のせいもあるのだろうか。恰好や雰囲気だけでなく、存在そのものが一般人と一線を画していた。
「外套を」
「……はい」
王様が命令をしたので、姿を隠す為に羽織っていた外套を脱ぐ。王様の目に入るはグローリアさんの生き写しかのような全く同じ姿の僕。流石にこれは王様も驚いたらしく、目を見開いていた。
時折グローリアさんへ視線を移しているのは見比べているのだろう。じっくりと確認され、妙な恐怖感が生まれる。
何が起こるのか、何を言われるのか、何を思っているのか、全てが分からない。それは隣に立つグローリアさんも同じなのだろう。どこか緊張している雰囲気が感じられた。
……あれ? これって片膝を着いたりしなくて良いのだろうか? ……グローリアさんもしていないし、僕もそういう目で見られていないから大丈夫、なのかな?
……とりあえず、今は考えないようにしておこう。
「名は……名は、なんと言う」
「日向、です」
「ん……? ひゅー……げぁ?」
「えっと……言い辛いようでしたら、ヒューゴとお呼び下さい……」
やっぱりグローリアさんと同じく日向という響きは言い辛いらしい。ヒューゴと何が違うのか本当に分からないけど、そういうものなんだと思っておこう。
「ふむ……。ヒューゴ……。初めて聴く名だ。……して、事のあらましは書面により知っておる。聖法で今の姿となったという事。元は男であったという事。それは違いないのだな?」
「……はい」
「ふむ…………」
考え込む王様。考え込んではいるけど、何を考えているのかは全く分からない。深く考えている、というのは分かるけど、視線が僕でもグローリアさんでもなく床に向かっているのだから予想すら出来ないのだ。
一分──
二分──
三分──
時間はゆっくりと、しかし確実に進んでいった。僕達の不安も同じように、ゆっくりと確実に成長していっている。
「……ハーメラ王」
「何かね、聖女グローリア」
グローリアさんはそれに耐えられなくなったのか、王様に言葉を投げ掛けた。ただ、その言葉の交わし方は、とても親子のそれじゃない。
「ハーメラ王として、ヒューゴさんをどのように扱うおつもりでしょうか」
「それは今考えておる。王家に属させる訳にはいかないのだが、その髪と目はハーメラ王家の血筋。どうあっても隠し切れるものではない。しかし他に置く場所が無いのも事実。残るは……」
秘密裏に殺す──。
言葉こそ紡がれなかったが、言わんとしている事は分かった。
背筋が凍り付く。心臓が早鐘を打つ。死という文字が脳内を駆け巡り、身体が震えた。
僕は、やっぱり死ぬ運命にあるのだろうか──。そう思ったが、一つの事に気付く。
「グローリアさん……」
僕の隣に立つ少女が、僕の手を取っていたのだ。泣いている子供を落ち着かせるような慈愛に満ちた笑顔で、全てを優しく包み込むような柔らかい手で、僕の手を握ってくれている。
その眉が少しばかり下がって強い意志を見せる。その表情は王様へと向けられ、王様も真正面からそれを受け止めた。
「この方は、私──アーテル教聖女、グローリアの命の恩人です」
その表情と同じように、確固たる意志を感じさせる言葉が彼女の口から発せられた。
「ハーメラ王が考えている事は分かります。合理的に考えるならば確かにその方法が無難であり闇に葬る事が最善に最も近いでしょう。しかし、それは同時にアーテル教の聖女である私を穢す事でもあるという事をご理解下さい。聖女を救いし勇気ある者を国とアーテル教の都合で処刑したとあれば……その時は、私の『聖女』という肩書も血に染まる事でしょう。……それとも、血に濡れた聖女もご一緒に処刑なさるのでしょうか」
ギュッと、グローリアさんから手を握られた。
震えている。グローリアさんは今、怖くて震えていた。
「その場合、私は全力で彼を護る為に動きます。誰であろうと……例えハーメラ王であろうと、私は彼に危害を加える人を許しません」
顔を見れば分かる。強い意志を感じさせはしているけれど、目の奥は恐怖がチラついている。それもそうだ。国のトップを相手にとっているんだ。しかも、それが父親でもある。怖くないはずがない。
下手をすれば彼女が言った通りのようにもなるかもしれないのに、グローリアさんは敢えてそれを言った。
流石に疑問に思う。なぜ、僕なんかにそこまでしようとするのか、と。いくら命の恩人だからと言っても、こんなにも危ない橋を渡ろうとするのは不自然だ。
どうしてか、と考えても予測にすら辿り着かない。本当、なぜグローリアさんはここまで僕を庇おうとするのだろうか──。
「それはあり得ん。もしそんな事をすれば儂だけでなく、ハーメラという国がアーテル教に背くという事に他ならない。それだけは絶対にあり得ん」
ホッとしたのか、少しだけ握る力が弱まった。
「残るのはアーテル教とハーメラでヒューゴという存在を隠すか、存在を公に認めるか、だ」
「公に認める……ですか?」
それは難しいとさっき王様自身が言っていた。ならば、どうやって僕の存在を認めさせるというのだろうか。
「うむ。どれだけの波紋を生むかは未知数だが、ヒューゴの存在を知った者には聖法の副作用で聖女グローリアと同じ姿になった、と説明してしまえば良かろう。聖法の作用は未知の部分が大半を占めておる。受けた者が使用者と同じ姿となる、と聖女グローリアが言えば誰もが信じるであろう。理由も本当の事をそのまま、聖女グローリアを命を賭して救ったと言えば良い」
あ──と声が出そうになる。確かにそうだ。グローリアさん本人がそう言ってしまえば相手も信じざるを得なくなる。なぜそんな簡単な事に気付かなかったのだろうか。
「だがそれは聖法を使ったと公言する事。聖法は女神が与えたもうた一度のみ許される神の奇跡。使う場面を考えなかったのか、と言われかねん。加えて聖女グローリアと見分けの付かない存在の出現により、本物の聖女グローリアであるか否か疑惑の目で見られるであろう。出来る限り隠し通し、語るにしても人々を納得させる言葉を選ぶよう注意するのだぞ」
「──はいっ」
再び、グローリアさんから強く握られる。今度は恐怖ではなく、希望に満ちたもの。自然と僕も握り返して、彼女から微笑みを向けられる。
──ああ、やっぱり可愛いなぁ。
…………………………………………。
「なんとかなりましたね」
「うん。……正直、ハラハラした」
「ふふっ、私もです」
最終的に、僕の存在は今まで通りなるべく隠す方向で落ち着いた。もし存在を知られた時に聖法の話を出せば良い──。簡潔に纏めるならばこうなる。
ドッと疲れがやってくる。民主主義の社会で暮らす一般人に王様と謁見だなんて荷が重すぎる。完全に力を抜いてしまえば馬車のゴトゴトとした揺れで更に疲れそうだけど、今はそれでも良いとすら思えるくらい疲れた。
「あーっと……グローリア様。ヒューゴに掛けたという聖法なんですが、確認させてくれませんか」
そんな揺れを恐らく一番気にしていないであろう人物──ベネットさんが確認をしたいと言ってきた。
どうやらベネットさんは頭を使う事が苦手らしい。僕が今の姿になった経緯を話しても、頭をかなり悩ませていたくらいだ。
「……女神様の奇跡をグローリア様がお使いになられて、ヒューゴはグローリア様と同じ姿になった。で、間違いないですかね?」
「はい。合っておりますよ」
「すみませんグローリア様……。俺の頭は不出来なもんで」
「いえ、私達も誰もが理解できる説明を出来るように頑張ります……!」
グッと両手を握るグローリアさん。その無邪気で真っ直ぐな姿に僕達は少しだけ笑いを零してしまう。
それに恥ずかしさを覚えたのか、彼女は僅かに顔を赤くして俯いてしまった。
まあでも、確かにベネットさんに説明した時は骨が折れた。理由を詳しく説明しても頭の上にクエスチョンマークが浮かび上がっているのだから、どれだけ簡単な説明にするか必死になったのだ。
結局は『聖女を助けたけど死に掛けたから女神様の奇跡を使ったらこうなった』という、これ以上短く出来ないんじゃ? という説明になった。
……六歳児にも分かるような説明が一番分かりやすいって聞いた事もあるし、その方が良いのだろう。
「カーラなら俺の説明でも一発で分かってくれるか……?」
(あ、そういう事か)
少し疑問だった事が解決した。なんでベネットさんは僕がこの姿になったのかを必死に理解しようとしたのか。それはカーラさんに説明をする為だったからか。
「ところでカーラさんはどちらへ? ベネットさんとご一緒でないのは珍しいですよね」
「ん? ああ、カーラなら団員と共に訓練をしていますよ。俺は護衛のついでに町の警邏をしてこいって言われましてね」
「なるほど、そうだったのですね」
「ええ。アミリオ大聖堂までご一緒して、そこから警邏に行きます」
どうやらそのカーラさんはカーラさんで別の仕事をしているらしい。グローリアさんの口振りからして、二人は大体いつも一緒なのだそうだ。
もしかして付き合っているとか? ──なんて邪推をしてしまうのは高校生の悲しい性なのだろうか。人の色恋沙汰はやっぱり気になるものである。
実際に、クラスの男子が隣の女子に告白メールを出した、なんて噂が現れでもすれば何日かはその話で持ち切りになる。幸か不幸か僕はそれとは縁の無い学校生活を送っていたけれど、そういう話が出てくればやっぱり多少は気になったしね。
「それで、団長はいつ副団長と番いになるのでしょうかね?」
「……冗談は止して下さいよオースティン大司祭。俺達にそんな余裕は無いですって」
と思ったら、どうやら二人は付き合っていない様子。だけどどこか悪くないと思っているような節があるのかな? ベネットさんの表情がどことなく優しく見えた。
「お二人ならば、きっと良いご夫婦になれますよ」
「グローリア様まで……。こいつは参ったなぁ……」
グローリアさんもそれに乗っかった。オースティンさんと違って、茶化そうという気持ちは微塵も無く純粋にそう言っているっぽかった。
この時のグローリアさんの表情はまさに『聖女』であり、全てを優しく包み込みそうな慈愛に満ちたものであった。その表情に僕が見惚れてしまったのは言うまでもないだろう。
こういう時間は好きだ。心が落ち着くっていうか、ホッとするっていうか。朗らかな時間というものは、やはり心地良い。
「──ん? なんか騒がしいな……?」
が、その時間は突然に終わる。ベネットさんが外の様子に違和感を覚えたからだ。
言われてみれば確かに何か騒がしい。賑わっている喧騒ではなく、何か問題があった時のような騒がしさだ。
オースティンさんも気になったようで馬を止めるようにと言っている。
「喧嘩、でしょうか?」
少しばかり眉端を垂れさせてグローリアさんは言った。
何を言っているかは分からないけれど、確かに荒々しい口調なのは分かる。
「……止めましょう。誰だって喧嘩を好き好んでする人は居ません」
彼女の言葉にベネットさんとオースティンさんは頷く。僕も合わせて頷いておいた。
──この喧騒が、僕を驚かせる出会いとなった。
…………………………………………。
「なあ、俺って荷物持ち? 荷物持ちなの? 荷物持ちだよな? 荷物持ちじゃねえかクソが」
もはや何度聞いたか分からない主任さんの愚痴。こちらももはや慣れてきており反応する気も消え掛けています。確かに今の主任さんはまるで荷物持ちのような状態となっておりますが……。それは私と社長さんも同じ事です。
手に入った報酬を使って生活用品を買っていたのですが、想像以上の量となったのです。
嵩張っている主な理由は衣類。そして食料の二つです。三日分くらいの食糧を買い込んでおり、その食料の全てを主任さんが持つという形。私達は衣類を分けて持っています。
最初は社長さんも食料を持っていたのですが、目に見えて無理をしているというのが伝わったので主任さんに持って貰ったのです。無論、主任さんは『モヤシめ』と罵りながらも荷物を持ちました。
「……流石にここまで体力が無いとは自分でも思わなかったよ」
「モヤシめ」
「わたくしも少し驚くくらい体力がありませんね、社長さんは」
「モヤシぃ」
しつこいです、主任さん。
「何よりも革袋自体が持ち辛いかな……」
「モヤシ連呼してたらモヤシ炒め食いたくなってきた」
「あ、良いね。タレは……無いし今は作れないから塩コショウかな」
「素材そのものの味を生かした塩とコショウこそが至高」
また突然に話を切り替える主任さん、そしてそれに対応する社長さん。本当に仲が良いですね。
社長さんが今日買った食材を声に出して確認しつつ献立を考えています。社長さんは美味しい紅茶を作ってくれましたし、きっとお料理も上手なのでしょう。期待大です。
「おう社長。やっぱりこの魔導書なに書いてんのか分かんねーぞ」
社長さんの口から零れ出る調理方法を耳にしてウキウキとした気分になっていた時、なぜか主任さんが荷物を片手に魔導書を開いていました。
主任さんが手にしている魔導書は魔術の基礎を教える時に使う物で、社長さんが勉強をしたいという事で買ったものでした。それを主任さんが何を思ったのか今開いて読んで……いえ、中身を眺めているという訳です。
「うん。それを元に文字の勉強もしようと思ってるよ。こっちの文字も読み書きできる方が何かと便利だからね」
「勉強なんてしなくても生きていけるからええわ……」
「いや、私が出来たらそれで良いから……ね? 一応見せて貰って良い?」
「おう」
どことなくズレた事を言う主任さん。もしかして自分も勉強しなければならないと思ったのでしょうか……? この人の考える事はやっぱりよく分かりませんね。
「……この絵、召喚か何かでもしているのかな」
「どの絵ですか? ……ああ、なるほど。そうですよ。これは低級の妖精を使役する召喚術みたいで──」
社長さんに本の内容を簡単に教えた時です。すぐ横の路地から誰かが出てきました。ぶつからないように足を止めたのですが、同時にその姿を見て一瞬だけ思考も止まりました。
「──淫魔?」
路地から出てきたのは、夢の世界を梯子して精を食らう魔の者淫魔でした。
黒髪から覗く短く曲がった角。面積が必要最低限の布を身に纏い、男を魅了する為にあるような身体つきと肢体。金色の瞳は魅了の魔術を保有する証の魔眼で、背中には蝙蝠のような羽を備えています。
あまりにも意外過ぎる存在です。こんな真昼間の人の街に居るような者ではありません。
「んぅ……?」
どうやら寝惚けている様子。口を閉ざしたまま声を出して目を擦り、こちらへ視線を向けてきました。そして、現状を認識したのかハッとした表情になりました。
「あー……そうだ! 一発抜いてあげるから黙っててくれない?」
「頭涌いてんのかよお断りじゃボケぇ」
片目を閉じて突拍子もない事を言い出す淫魔と相変わらずの主任さん。……いえ待って下さい。こちらは女性が二人なのに何を言っているんですかこの淫魔は?
さっさと無力化しようかと思いましたが、あんまりにも下らない事を言うものですから溜め息しか出ません……。
対して、かの淫魔は口をあんぐりと開けて驚き切った顔になっています。それはもう『信じられない』という言葉をそのまま表情としたかのような。
「え、ちょ……貴方ホントに人間? というか男? 股間に汚い欲棒ちゃんとぶら下げてる?」
「このクソビッチ犯されてえのか? オぉん?」
なんとなくですが一つだけ思った事があります。この淫魔、もしかして主任さんと同程度の知性なのでは?
「ローゼリアァ!! お前まぁぁたド失礼な事考えただろォ!!」
「いえ、才知に富む淫魔と同じ知性をお持ちだと感心しただけですよ」
「皮肉ぅ!!」
やっぱり主任さんは無駄に勘が鋭いです。どうしてこうも的確に悪口を感知できるのですかね?
なお、社長さんは腕が疲れたのか荷物を降ろして本を片手にただ眺めているだけでした。
「えー……じゃあ、何もしなくても黙っててくれるの?」
「ん? 今『何でも』って言ったよね?」
「言ってないでしょ」
言ってません。眺めているだけだった社長さんですら突っ込みました。
これ、どうすれば良いのでしょうかね? ──そう思った時、面倒な事が起こりました。
「あ、悪魔!? 悪魔がなんでここに!?」
恐らく、この現状で最も面倒な事になるであろう言葉が、しかも大声で発せられました。
声のした方を向くと、この町で暮らしているであろう住民の一人が指をこちらへ向けて蒼褪めた顔をしています。
「やっば……! 魅了ぉぉお!!」
「は!?」
今何をしましたかこの淫魔!? 今の声で人が集まってくるというのに魅了魔術を使いませんでした!? もっとややこしい事になるじゃないですか!
……当然ではありますけど、淫魔を見た事で大声を出した町人は魅了魔術を掛けられたので大人しくなりました。淫魔に心を奪われてしまったかのようにポーっと頬を紅潮させ、淫魔が今望んでいるであろう『静かにして』に従っているようです。
「ふー……。これでなんとかなるわね」
「よく分かんねーですけど、ぜってー面倒な事になるってのだけ分かるわ」
え? と、淫魔はキョトンとした顔になりました。本当に分かっていないようです。
「おいなんだ? 悪魔って聴こえたぞ」
「それにさっき強い魔術の発動を感じなかったか?」
「ああ、感じたし聴こえた。こっちだったぞ」
「お、おい! あそこに悪魔が居るぞ!!」
「結界を展開します!! 悪魔が逃げられないようにしますよ!」
異常事態に気付いた人々が続々と集まってきています。そりゃそうなるでしょうね。大声で悪魔って叫ばれていますし、おまけに淫魔特有の精神に干渉するような非常に強い魔術を使う癖に扱い方が恐ろしく下手です。無駄となった魔力が駄々洩れたので近くに居る方々がその余波を感じ取ってもおかしくありません。
トドメとばかりに結界まで敷かれたようです。こうなってしまえば淫魔は逃げる事なんて叶わないでしょう。
「……やっばぁ」
頬が赤くなる前のそこの住民のように顔を蒼褪めさせる淫魔。今になって自分の間違いに気付いたようです。
「まあ……もう手遅れのようですし諦めたらどうですか?」
「えぇ……ちょ……えー……。寝惚けて外に出ちゃっただけなのにナニコレ……」
寝惚けてってどんな間抜けな理由ですか。寝惚けて歩いたらこの状況になるってよっぽどですよ?
言いぶりからして本当の事なのでしょう。どうしようか、と混乱している様が見て取れます。
「久し振りに優しく積極的に精を分けて貰えてヤッターって思ったらこれとか……酷くない? ねえ酷くない?」
「知らんがな。つーか『分けて』とか綺麗な言い方やめろや。淫魔ってんだからどうせ無理矢理奪ってんだろ」
「違いますぅー!! 私はちゃんと合意の上で相手に合わせて分けて貰ってますぅー!! 今回だって最後は頭撫でて貰いましたぁー!」
「聞いてねーです」
(は……?)
またもやこの淫魔に驚かされます。淫魔の癖に無理矢理奪わないですって?
私の知っている淫魔とは、性欲に溺れた人間が魔族と同じ身体を手にする事で夢を行き来し精を食らい尽くすというものです。その際に襲われた人は大抵、精気を大量に吸われた事で体調を大きく崩します。
……………………。襲った人に魅了魔術でも使ったのでしょうか?
「どっちにしろ売春じゃねえか。いや物乞いか……。野郎に粘っこい牛乳くだちゃいって言ってんだし……」
「だーから私は優しく楽しく気持ち良くしてるってぇーのぉ!!」
「知らんがな」
どうやら主任さんの悪い癖が出てきたようです……。皮肉に皮肉を重ねて相手をからかっています。
ああもう……状況が分かっているんですか、この二人は……。
私は精神的に疲れてしまったので、唯一の常識……常識(?)人の社長さんへ目を向けます。
彼女は何か真剣な顔付きをしており、どことなくこの状況をなんとかしようと考えているように見えました。貴女だけが頼りです、社長さん。
ただ……残念な事に状況は最悪の方向へと転がっていきました。
「──こりゃ何の騒ぎだ?」
聞き覚えのある声が、喧噪の中からハッキリと耳に飛び込んできました。
全ての意識を声の聴こえた方へ向けます。人々が道を開け、一部の人は頭を垂れさせたり十字架を胸の前で握ったりしていました。そこから姿を見せるのは四人。正直に言って、流石の私も戸惑いました。
正義の団長、断罪の剣、大剣のベネットという異名を持つ、アーテル教聖堂騎士団歴代最強との声もある聖堂騎士団長ベネット──。
アーテル教次期教皇最有力候補、アミリオ大聖堂所属オースティン大司祭──。
アーテル教の象徴たる穢れ無き聖女、グローリア様──。
残りの外套の被りを深くしている人は誰かは分かりませんが、この三人と共に居るのです。只者ではないはずです。
周囲の人々もこの顔触れに気付いたのでしょう。あれだけ煩く騒いでいたのに静まり返っています。
ベネットはこちらの状況を把握したのか、目を細めて背中の大剣に手を伸ばしました。
「淫魔……? なぜこんな場所に悪魔の一族が居る。……何か企んでいるのか、微笑みのロゼ?」
「……まさか。ただの事故ですよ」
言っている事は嘘ではありません。こちらは寝惚けて出てきた淫魔と出くわしただけで巻き込まれた側なのですから。
ですが、私の異名を口にしたベネットの言葉で周囲が小さくザワつき始めます。
言葉が混ざり過ぎて何を言っているかは分かりませんが、私に関する噂話を話しているようです。
「あ、終わった……私の人生……」
ボソリと呟くのは淫魔。この淫魔もベネットの事を知っているらしく、諦め切った表情で遠い目をしていました。
「ほら言ったでそ? 面倒な事になるって。まあ物乞いなんていつ死んでもおかしくねー生き方してんだ。こいつみたいに頭良い奴か力のある奴でもねー限りは誰かに搾取されての搾取してので暮らすしかねーんだよ」
まあ、社長ならどうにか出来るかもだけどぉ? ──と。とても楽しそうに淫魔をなじる主任さん。……なんだか淫魔が可哀想に見えてきました。初めてですよ、淫魔なんて存在に同情をしたのなんて。そう思わせる主任さんは、実は凄い方なのではないでしょうか? 確実に気のせいでしょうが。
話に上げられた社長さんの方へ死んだ顔を向ける淫魔。それを見た社長さんは、とんでもない事を言いました。
「気が向いた。この場をどうにかするから三人とも話を合わせて?」
────は?
一瞬、何を言っているのか分からなくて、またも思考が止まりました。主任さんも『嘘やろお前』といった表情です。ですが、言葉の意味を理解する前に社長さんが続けました。
「今の状況は私達も危ないからね。切り抜ける為に上手く言い包めるよ」
……なるほど。そういう事ですか。確かに今の状況は非常に危ういです。
私が首を縦に振ると、社長さんは手にしていた初心者用の魔導書をひらひらさせながら前に出ました。
「騒ぎにしちゃったね。魔導書にあった召喚術を確認していたら、間違って出てきてしまったんだ」
片目を閉じ、これは参ったと身振りで表現する社長さん。少々苦しいですが、彼女の一挙一動は本当にそう思わせるようなものです。軽いような動きですが顎は引いていて背筋も真っ直ぐ。そして立ち方はしっかりとしていて、動きの軽さとの違いで雰囲気を引き立たせて不思議と説得力があります。
「……あ、もしかしてさっきのおかしいって思った駄々洩れの魔力って」
「そう。その時のものだね」
住民がそう口にすると、即座に肯定する社長さん。正直、巧いと思いました。もしかして、と思った事を肯定されたら信じてしまうのは人ならば当然でしょう。
一人が信じると、それが伝染していくかのようにジワジワと周囲も『そうだったんだ』と広がっていきました。魔力の余波よりも『悪魔が出た』という言葉の方が先だった事から、少し考えればおかしいと気付くはずなのに、です。
ですがそれもこの混乱した状況では小さい事でしょう。
街中に悪魔が出たという言葉──。大きな魔力の余波──。聖堂騎士団長に加えて大司祭に聖女様の登場──。一つ一つの存在感がとても大きくて、何がどういう順番だったのかなんて多少おかしくなっても不思議ではありません。
改めて実感します。社長さんに口で勝つ事は出来ないでしょう、と。
「君にも迷惑を掛けたね。用も無く呼び出してしまって」
「え? まあ、うん……」
急に話し掛けられた淫魔は相槌のような返事をします。どうも対応できないようです。……やはり主任さんと同程度の知性なのでは?
「ところで、君は何を貰ったら大人しく還ってくれるかな? いきなり呼び出したのにも関わらず『間違っただけだから還って』というのは礼儀が無いからね。何を要求するのかな?」
淫魔にも堂々として貰いたいと思ったのか、社長さんは淫魔が考えやすいように言葉を選んでいるようです。
……まあ、バカな淫魔はあまり分かっていないようでした。
「よーきゅー……。あ、寝起きでお腹が減ってるから精が良いかしら」
「……場所を移したら応えるから、一先ずは大人しくしていてね」
この子バカ。本当におバカ。今この場で渡せないモノを要求してどうするんですか。
淫魔を還らせる事が分かればもう少し楽に事が運ぶ所だったでしょうが、これではそうもいかないでしょうね……。
「──ふん、何を馬鹿な」
呆れと苛立ちを感じさせる男性の声が周囲の雑音を掻き消しました。……非常に宜しくない人物がこの場に居合わせていたようです。
「出鱈目だ。陣も敷かずに淫魔ほどの高位召喚をするなど王国附属魔術師でも居はしない。貴様は何者だ。魔族か?」
コツコツと革の靴を鳴らしながら出てきたのは、やはりというか大物でした。
身体は細く、壮年の翳りが見え始めてきた顔を気にしているという噂のルーファス。ハーメラ王国でも指折りの魔術師です。珍しい銀色の髪は魔術の研究をし過ぎた結果と言われるくらい魔術に長けており、魔術師ならば彼の名を知らない者は居ないくらいです。
これは……困った事になりましたね。いくら社長さんと言えども、魔術の道に精通しているルーファスに魔術関連の事で言い包めるなど極めて難しいでしょう。
「正真正銘、人間だよ。ただちょっと魔術というものを知っているだけの、ね」
「何をふざけた事を! 詠唱のみで高位召喚をする程の腕であれば王国附属魔術師はおろか、稀代の魔術師として名を馳せて当然であろう!」
当たり前過ぎて何も言う事の出来ない正論を叩き付けられました。
ええ……そうでしょうね……。普通に考えて、それだけの腕があるという事はそれだけ勉強をしたという事。特にハーメラは他と比べて魔術が進んでいる事から、魔術の道を歩む者であれば王国附属魔術師に憧れるのが当然です。
「私はそんなものに興味は無いね」
「なっ……!?」
まさかの言葉にルーファスだけでなく多くの人達が絶句しました。それもそうでしょう。一介の魔術師が王国附属魔術師になれば金銭面で困る事はまず無くなりますし、魔術の研究だって融通が利きます。更に個人の家も与えられる上に、入手が困難な素材を商工会に依頼する事だって出来るのです。ならない選択などありはしないのです。
社長さん、それは悪手ですよ。
「有り得ん!! 貴様には魔術への探求心が無いのにも関わらずそれ程の知識と技術を手にしたというのか!? 間違っている! そのような事は断じて間違っている!!」
「私は地位や名声が欲しい訳じゃないからね。私は、私自身と仲間を護れる力さえあれば良い。そうしてきた結果が今だよ」
彼女は腕を軽く組み、心底興味の無さそうな目をルーファスに向けています。
「掛け替えの無い仲間や自分を護る為に鍛錬してそれを行使する事に、何の間違いがあるの?」
「ぐっ……!」
何も言えなくなったルーファスは握った拳を震わせていました。
仲間と自分を護る為に魔術を使うという、冒険者として正当な理由を突き付けられたのです。彼のように目的が魔術の極致ではなく、魔術は冒険者と同じく手段でしかないと言い退けました。反論なんて出来やしないでしょう。
王国附属魔術師とは冒険者のそれと比べるのも痴がましい程に眩い存在です。そこらの冒険者が王国騎士や聖堂騎士に敵わない事と同じく、そこらの魔術師は王国附属魔術師に敵わないのです。特に魔術師となれば腕を買われて王国附属魔術師に誘われる事も稀ながら確実にある事。それが目的で冒険者をやっている魔術師も多く居るくらいで、冒険者に高名な魔術師が存在しない所以です。
しかし社長さんは地位や名声ではなく、仲間の安全を欲する為に力を付けたと宣言しました。堂々と言うものなのですから、信じない人が一体どれほど居るものでしょうか。
「だ、だが! 私は耳にすらした事が無いぞ! それほどの腕を持ち得ながら王国附属魔術師ではなく冒険者を選んだ稀有な魔術師など!!」
「当然でしょ。己の研究している魔術を秘匿するのと同じで、私もまた自分自身を隠してきたのだから。──もう一度言うけれど、私は、私自身と仲間を護れる力さえあれば良い。価値観の違いだね」
吠えるルーファスを軽く受け流す社長さん。流石にこうまで言われればこれ以上の問答など不要となりましょう。ルーファスは眉間にこれでもかと皺を寄せて肩を怒りで震わせていました。
そして、社長さんは小声で私に語り掛けてきました。ローゼリアの名前を借りるね、と。
すぐにピンときます。なので、私も一つ演技に参加しましょう。
「わたくしが認める魔術師ですわ。詠唱のみの高位召喚の一つくらい出来て下さらないと隣に立てませんよ」
この言葉で周囲がまたも大きくザワつき始めました。
一応、多くの人に知られているという自覚はあります。少なくとも、荒々しい方々も私の前では大きな顔をしないくらいには有名だそうなので。
その効果は絶大でした。まだ信じ切れずに疑惑の念を抱いていたであろう人々も恐怖や畏怖を露わにしています。有名になるのは好きではありませんが、この時ばかりは有名になっていて良かったと思えました。
「……お前みたいな化け物が他にも居るのかよ、世も末だな」
「あら、そう言う貴方だって世間一般では化け物の類いでしょう、ベネット?」
「冗談抜かせ。真正面からやり合ってもお前相手じゃ勝てるかどうか分かんねえよ」
「それはお互い様です。わたくしも貴方に勝てるかどうかなんて試したくもないですよ」
「と、いう事は……そっちの男も何かあるって事か」
そっちの男、と言って目を向けた先に居るのは面倒臭そうにしている主任さん。大柄の癖に、態度のせいで物凄く小物臭がします。もう少し真面目にしてくれませんか?
「さてね。さっきも言ったように自分達の手の内を教えるつもりは無いよ。まあ、察してくれたらありがたいかな」
「おーおー怖い事を言って下さるなぁ。二人とも隙だらけっていうのが余計に不気味だよ」
「戦う理由も無ければ必要も無いからね。それは立ち振る舞いで分かってくれると思うよ」
殺そうと思えば簡単に殺す事が出来る状況に敢えて身を置いている、という振舞いをしている意味ですか。確かに、実力のある者が真正面に敵を見据えて隙を見せるだなんて不気味な事この上ありません。罠にしか見えないですもの。暗闇に続く不自然に並び落ちている銀貨があったとしても警戒して拾わないのと同じです。
「ただ、気付いていると思うけど私は召喚術に疎い。今まで必要が無くて気にも留めていなかったからこその失敗だろうね」
「ああ、なるほど。そして勢い余って召喚しちまった、と」
これにはベネットも共感できる部分があったのか納得したようです。一先ずは安心でしょう。
「……ふん。どこの魔術師かは知らないが、その才能を完全に開花は出来ていないようだな。宝の持ち腐れとは正にこの事だろう」
と、ここでルーファスが皮肉を込めます。魔術に対する誇りは非常に大きいとは聞いていましたが、これは相当ですね。
「さて。才能があるかどうかは私は分からないけれど、これだけは言えるよ。総合力に関して言えば今の私は間違いなく貴方に劣る。私は偏った知識ばかり持っているからね」
さっきまでルーファスより大物の雰囲気を醸し出していた社長さんが、ここにきて一歩引きました。その意図が分からず、私はつい社長さんへ目を移らせます。
少なくとも怖気づいたようには見えません。小柄なその体躯と姿からは想像も出来ないような只ならぬ雰囲気を匂わせつつ落ち着いた表情は変わらずです。さながら平民の戯言に付き合う貴族のようなそれです。
これには少なからずルーファスも動揺の色を見せました。ですが、顎に手を当てて少しばかり考えると、彼なりに何か結論を出したようです。
「……あれだけ言っておきながら驕る事無く自分を冷静に見据える、か。とんだ化け物な人間も居たものだ。私では貴様の才能の底が見えんよ」
ルーファスは踵を返し、顔だけこちらに向けます。
「王国第三魔術部隊長及び王国附属魔術学校の教師、ルーファスだ。貴様の名は?」
「社長。それ以上でもそれ以下でもない、私を現す名だよ」
「……ふん。掴み所の無い女だ。──聖女グローリア様。恥ずかしい姿をお見せしてしまいました。お許しを」
「い、いえ……」
それだけ言うと、ルーファスは人ごみの中へと消えていきました。突然、話を振られたグローリア様も困惑気味です。単純にアーテル教徒として礼儀を払っただけでしょうけど。
なんとなくですが、社長さんが一歩引いたのはこれを狙っていたのでは? と思います。魔術に精通している人が近くに居ては、いつボロが出るのか分かったものではありません。それ故に相手を認める事でさっさとご退場を願ったのだとしたら納得できます。
少しだけ、社長さんに恐怖します。碌に魔術の知識も何もなく、口先だけでこれをやってのける彼女が……恐ろしい。絶対に敵に回してはいけない方でしょう。
一先ずは場が落ち着いた──かのように見えますが、まだ大きな問題が残っています。アーテル教の重要人物の方々をどうするか、です。
「まあ事情は分かった。だが、分かったからと言って放っておくっていうのは出来ねえんだ」
「だろうね。私達が何者なのかハッキリさせないといけないって所かな?」
「おう。そこの間違って召喚された淫魔がまだ還っちゃいねえ事だし、騒ぎが起こったってのもある。悪魔を放っておくなんて事は出来ねえからな。この場所ってのもアレだから聖堂騎士団の詰め所で話を聞かせて貰って良いか?」
当然そうなるでしょうね。これは覚悟しておりました。後はここさえ乗り越えたらなんとかなるでしょう。
──そう思っていたのですが、ここで黙っていられない方が一人居るという事を私は忘れていました。
「あ? 詰め所? そんな場所で『お話』なんてふざけてんの?」
そう、主任さんです。この人が今の今まで大人しくしていた事が奇跡だったのです。
「どうせ尋問とかすんだろ。そんで魔女狩りよろしく火炙りにするんでしょ。どっかの誰かみたいに」
……本当、どうしてそういう発想に至るのですか? 聖堂騎士団がそのような事をしてしまえば、アーテル教全体に悪影響を与えてしまうではありませんか……。
「有り得ない話じゃないね。詰め所で話すというのは少しばかり血生臭いかな」
ただ、意外な事に社長さんがこれに同意しました。恐らく私は今日一番驚いた事でしょう。
「んな事するヤツが居て堪るかよ……」
「……これがあったんだよね」
「ああ、あったあった。火炙りにして死ななかったら魔女で有罪。死んだら一般人で無罪っていうドン引きな事してたな」
そんな正気を疑う事をする人が居たのですか……。一体どんな恐ろしい地域から来たのですか、お二人は……。
「そもそもそこに御座すは聖女グローリア様じゃなかったのかよ。詰め所ってそんな場所でお話しましょうとか頭悪いんじゃねーの?」
「……立場分かってんのかお前」
「分かってるから言ってんだよ」
不満全開の主任さんに哀れすら感じます。主任さんが気付いているのかどうかは分かりませんが、主任さんが喧嘩を売っている相手は正真正銘、人間の可能性を突き詰めたかのような化け物です。
魔術無しで大型の熊を仕留めるのは朝飯前として、身の丈に余る大剣を片手で軽々と扱うのはおろか、一度振るったと思った瞬間には三つの傷が出来ているというものです。
特に最後のなんて何かしらの魔術を用いているのだと思えば、本人曰く『ただ斬り返しをしているだけで特別な事はしていない』と言うのですから恐ろしい限りです。
まず言えます。主任さんどころかこの国で彼に勝てる存在など恐らく居ないでしょう。目を細めるベネットに対し、主任さんはやはり面倒臭そうな顔を向けています。
瞬きをした瞬間に主任さんが絶命してもおかしくないですね、と思った矢先、意外な声が響きました。
「ベネットさん、無実であれば失礼に当たってしまします。ここは聖堂の一室で事情をお聞きした方が良いと思うのですけれど……」
「……グローリア様が仰るのであれば」
おずおずといった感じでグローリア様が提案します。流石にベネットもグローリア様のお言葉を無碍に出来ないようで、これに従いました。
後ろで佇んでいたオースティン大司祭もこれに賛成のようで、馬車を臨時で一つ空けるよう指示を出しておりました。中に入っていた聖堂騎士団の騎士はその場で降りて別の仕事に当たるようです。
……まったく。主任さんには困らされます。
…………………………………………。
現在はアミリオ大聖堂の来賓室。そこで淫魔を除いた私達は事情聴取を受けていました。とは言っても、語れる事などすぐに尽きて今はジッと待っているだけなのですが。
「くそが……クソが……クソガ……」
ただ一人、言葉を重ねる毎に機嫌が悪くなる主任さんを除いて。
淫魔が大聖堂に入るのはどうなのか、という事でさっさと還す扱いにしたのですが、精は口付けでも可能という事で主任さんが生贄となったのです。
ええ。あれは文字通り生贄でしたね。淫魔が社長さんを見ながら口付けを要求した所、主任さんを差し出したのですから。
おいバカやめろ、ざけんな、おいィ聞いてんのか、などと口煩く抵抗していましたが、社長さんのまさかの一言で主任さんに隙が生まれたのです。
「私はー……まだ、経験した事がないから」
正確には『は? 何言ってんのこいつ?』といった顔をして動きが止まった所を淫魔が主任さんの唇を掻っ攫っていきました。
主任さんは初めてではなかったそうですが、淫魔と口付けをするのは非常に不本意だったようでしたね。いやはや、こちらに投げられなくて本当に良かったです。だって、私も未経験なのですから。
ただ、少し不思議ではあります。淫魔の口付けは甘く痺れる快楽だと聞いた事があるのですが、主任さんからはそんな気配が一切しませんでした。社長さんはその姿を見て何やら感心していましたが、何に感心をしていたのやら。将来、捧げる相手を見付けた時の為の参考でしょうか?
「──ふむ。そうでしたか。ご苦労でした」
そんな事を思い出しながら、オースティン大司祭を待つ私達。彼は、あの時の状況を住民から聞いていた兵士が居たとの事でしたので、その人を呼び出して話を聞いていました。
パタンと閉められる来賓室の扉。そして、オースティン大司祭は振り向くと簡潔に話してくれまました。
「淫魔は社長さんが召喚していたと証言がありました。それからすぐに騒ぎとなったとの事のようですな。あの場所に最初から居た住民から提供して頂いたそうです」
「その言い方だと、まるで私が良くない事を企んでいたように聞こえるね」
「……これは失礼しました。明らかに意図していない召喚であったそうです。そして、先ほど伺った話との内容も一致しております。あなた方の無罪は証明されました」
僅か──本当にほんの僅か──だけ目を細めた社長さんに、オースティン大司祭は頭を下げます。相変わらず腰が少々低いお方ですね。
オースティン大司祭が席に着くと、社長さんは用意された紅茶に口を付けます。グローリア様もいらっしゃるからか、上質な茶葉を使っているようです。社長さんのミルクティーには劣りますがね。
ちなみに、ベネットはグローリア様とオースティン大司祭、そして外套を着込んだ者の後ろに立っています。聖女様や大司祭と同じ席に着くのは恐れ多い、だそうです。まあ、アーテル教の事実上頂点に立つお二人を前にしているのですから、その部下ともなれば当然でしょう。
しかし、あの淫魔もアホだとばかり思っていましたが役には立ちましたね。魅了魔術がまだ効いていたようです。でなければ私達の証言と一致するはずがないのですから。
「無礼を働いてしまいまして、申し訳ありません……」
「グ、グローリア様! 頭をお上げ下さい!」
深々と頭を下げるグローリア様を目の当たりにしたオースティン大司祭は慌てます。斯くいう私もこれには心底驚きました。アーテル教の象徴である聖女が一般人に頭を下げるだなんて光景を、一体誰が想像できるでしょうか?
「いえ、こちらも迷惑を掛けてしまいました。あの場においてはこういった事実確認をする事はとても大事です。こうする事で犯罪を事前に防ぐ事が出来るのですから。警察……いえ、警邏中に怪しい人を見掛けた時にも同じ事をするでしょう。それと同じです」
「──え? 警察?」
(ん?)
ふと、グローリア様が言葉を口にした……ように聴こえましたが、違和感がありました。声は確かにグローリア様で間違いありませんでした。ですが、その時にグローリア様は口を開いていませんでしたし、何よりも聴こえてきた声の方向が少しズレていました。
具体的に言うならば、この外套の者から聴こえてきたと思います。そもそもの話、この怪しい人は誰なのでしょうか? グローリア様やオースティン大司祭と共に席をしておりますので、それなりに地位のある方だとは思いますが。
「どうかなされましたか、ヒューゴさん?」
「い、いや……えっと……」
明らかに狼狽えている様子。……私達よりもこの人の方が怪しいのでは?
「──日本」
そう思っていたら、唐突に社長さんが何かを口にしました。
「アメリカ、ドイツ、ロシア、イギリス」
……………………? 次々と聞いた事の無い言葉を並べていく社長さん。なんの言葉でしょうか?
しかし、この外套の者はあからさまに動揺しております。
「それ、って……」
「へー……」
「…………なるほどね」
どうやら主任さんも理解したようです。……ちょっとだけ負けた気分になりますね。
社長さんは目を細め、両肘を机に落とし、両手の指を交差させてから言いました。
「この人の事、詳しく知っているのは誰?」
彼女の目から光が消え、まるで昔の私のような視線を眼前の人物に送っています。冷め切った心を前面に出して、仮面でも張り付いているかのように無表情で、感情が一切読み取れないこれは、相手に恐怖を与えるもの。一つ違うのは、喋り方がとても優しいのにも関わらず鋭く尖った氷のように冷たいという事でしょうか。
グローリア様と外套の者はビクリと肩を震わせ、ベネットはいつでも剣を振るえるよう警戒をしました。それに対して私も少しばかり気を張ります。
ただ、何があって社長さんはこのような態度を出したのでしょうか? それだけは全く分かりませんでした。
「わ、私……だと思います……。色々な事情をお聞きしましたので……」
「……残りの二人は?」
グローリア様へ一瞥した後、オースティン大司祭とベネットへ視線を投げる社長さん。オースティン大司祭は怖気づいたかのように、ベネットは警戒をしたまま、彼女の言葉に首を横に振ります。
「では、私と主任、そして聖女と外套の人とお話したい事があります。他の方は席を外して頂いて構いませんか?」
「……どう見てもヤベェ目をしたお前を放っておける訳ねえだろ」
「同意見です。グローリア様はアーテル教の象徴。その身に何かが遭うような事は、可能性だけだとしても避けなければなりません」
社長さんの要求を突っぱねる団長と大司祭。それも当然でしょう。
──ですが、社長さんはすぐさま代替案を出してきました。
「であれば外套の人だけではどうですか?」
「だ、ダメです!」
それに対して、少々意外な事にグローリア様が即座に口を挟みました。しかも何か必死となっています。
「あ、いえ……ダメというよりも、なぜヒューゴさんとお話をしようと?」
と思ったら、ハッとした顔になって気弱に訊ねてきました。聖女として声を荒げた事を気になされているのでしょうか。
「そちらの人が、私達と同じだからです」
「……同じ?」
「詳しくは口に出来ません。事情を知っていると言った聖女ならば、この意味が分かりますよね」
チラリと視線を投げる社長さんに対し、グローリア様は驚いたのか大きく目を見開いています。
事情、ですか。一体どんな事情なのでしょうか?
社長さんと主任さんの事をよく分かっていない私では、考えられるものも極僅か。だというのに、状況は考える間を与えずに進んでいきました。
「もしかして──」
「口には出さないで」
何かを言おうとしたグローリア様の言葉を遮り、冷たさしかない口調で社長さんは言います。
グローリア様はビクリと身を縮こまらせてしまいました。そうさせた張本人は、オースティン大司祭とベネットの鋭い視線を受けても尚、気にも留めないのか堂々と佇んでいます。主任さんですら眉間に皺を寄せて社長さんを見ている程です。
それ程までに彼女にとって『口に出来ない事』というのは重大なのでしょう。
「……話を戻すけど、ヒューゴ……だったよね? 君はどうしたいの?」
「え、そ、その……」
急に話を振られて困惑する外套の人。今のでハッキリしました。この人、グローリア様と同じ声をしています。それも似ている似ていないなどではなく、全く同じ声です。
これは一体、どういう事でしょうか?
「……………………こ、怖い、です……」
絞り出すように出てきた言葉は、凡そ回答になっていないものでした。
まあ……無理もないでしょう。今の今までずっと私達の近くに居ましたが、どう考えても無理矢理に連れ回されているような感じでしたもの。きっと、この人は小心者だと私は思います。
だからなのか、それとも別の理由があったのか、社長さんの張り詰めていた雰囲気が突然消えました。
机に乗せていた肘も下ろし、やってしまった、とでも言いそうなくらい苦い顔をして溜め息まで吐いています。
「……ごめんよ。怖がらせるつもりはなかったんだ」
背もたれに背中を預け、お腹の前で腕を組み、自己嫌悪しているのか言葉の力も弱くなってしまっていました。
一触即発の空気は無くなり、重々しく居た堪れない空気へと変わりました。一体、彼女をここまで大きく変えさせた原因は何なのでしょうか?
「まぁー……もう色々と話す空気じゃなくなったわな。おうローゼリア。俺達が今住んでいる場所を教えて良いよな?」
「……なぜ、そんな事を?」
「別ん日に話すぞって事だよ。こいつがこんなヤベェ言い方するなんざ只事じゃねー。ヒューなんとかって奴も絶対関係してくるから話した方が良いぞこれ」
たまに頭の回転が速い事を言う主任さんに、素直に驚嘆します。確かにそれならば私達の住んでいる場所を伝えて、都合が良い時に連絡を送る事も出来るでしょう。
ですが、それには一つ問題があります。あの場所は私達の拠点でもあるのです。私の経歴上、あまり他の人に知られて欲しくはありません。
「…………………………………………」
「どうしたんだよ。なんかマズかったか?」
……まあ、良いでしょう。今回はこの場に居る人にしか知られないようにして貰えれば問題ありません。
「分かりました。わたくしは構いませんよ」
「で、そっちは?」
「そ、そうして下さると、私もありがたいです……はい……」
「グローリア様……! 良いのですか? このようなどこの誰とも分からない者とそんな……」
オースティン大司祭が心配するように口を挟みます。それも当然でしょう。彼らにとって社長さんは危険視すべき相手になっていますし、私へも警戒をしていると思います。
しかし、グローリア様の意志は固いようです。小さく首を横に振ると、一つ呼吸を整えてから真っ直ぐに社長さんへ目を向けました。
「……一つだけ、約束して頂いてもよろしいでしょうか。そのお話とは、ヒューゴさんにとって悪いお話ではない……という事を……」
初めの方は普通に話せていましたが、段々と声の調子が弱くなっていくグローリア様。きっと、先程の社長さんの姿を見て怖がっていられるのでしょうね。
「約束しましょう。むしろ、今後の事について非常に重要な話です。そして、その話は必ず部外者を入れない、漏らさないようにして下さい。でなければ今後、何が起こるか分かりません」
今度は社長さんもいつもの調子に戻りました。ただ、非常に重要というのは本当なのでしょう。その眼差しはとても真剣味を帯びております。それに釣られたのか、グローリア様も顔を強張らせて真剣な顔付きになりました。
「……分かりました。ヒューゴさん、オースティン大司祭、ベネットさんと相談をして決めます。他の方へ絶対に話を漏らさないように致します」
グローリア様のその言葉が終了の合図となり、この場は一旦の終わりを告げました。……正直に言って、冷や冷やしたり肝を冷やされました。
淫魔騒動に王国附属魔術師との口論、果てにはアーテル教最上層部との綱渡り。疲れない訳がありません。
今日はいつも以上にゆっくりと湯船に身を沈めて疲れを取り、お風呂上がりにミルクティーで締めましょう。ええ、それが一番です。
……だというのに。
「やっほー! 来ちゃった♪」
「ブチ転がされてぇのかゴルァ」
……なんで、私の家に昼間の淫魔が訪ねてくるのですかね。というか、どうしてここが分かったのですか。
「あ、私リリィって名前なの。これからよろしくね!」
「ざけんな!! なんでテメェなんかとよろしくせにゃならんのじゃ! 寝言は寝て言えや!!」
「あら、夢の中なら良いのね?」
「その角と羽を毟り取って燃やしてやろうか」
「やーんこわーいっ」
「イラァッ……」
主任さんの不機嫌さは絶頂です。社長さんは面倒に思ったのかさっさとお風呂の用意をしに行きました。一番風呂は私に下さるようです。
思わず盛大に溜め息が出てきます……。どうしてこうなったのでしょうか……。
……………………
…………
……