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クロス・レール  作者: 月雨刹那
第一章
4/41

法の国、事件の日、始まりの日

「到着しました」


 短く感じた馬車の旅は、ベネットさんの言葉を以って終わりが告げられた。……まあ、外から中の様子が見れないように閉め切られているから風景は楽しめなかったけど。その代わりにグローリアさんと楽しくお話ができたので良しとしよう。


「ですが、降りるのは少々お待ち下さい。すぐに外套を持ってきます」


 けど、カーラさんがカーテンを少しだけ開けてそう言ったので降りるのはもう少し先となった。

 ……外套なんて滅多に聞かない言葉なのでしっくりこない。初めてグローリアさんと会った時にチラッと言っていたのを聞いたくらいだ。その聖女のグローリアさんに着せるのだろうかと思ってグローリアさんに訊いてみるも、こういう事は初めてらしく結局なんの為か分からない。

 お互い頭にクエスチョンマークを浮かべてしばらくした後、カーラさんが戻ってきた。持ってきた外套はグローリアさんの服に雰囲気がよく似ていて、冬場はこれを羽織るんだろうなという感じだ。


「こちらをヒューゴさんが纏って下さい。被りもお願いしますね」

「……あの、カーラさん。どうしてヒューゴさんに外套を?」


 僕たちが感じた疑問をグローリアさんが質問する。何か問題があったのか、それともこうしなければならない理由でもあるのか。

 内心ハラハラしながらカーラさんの顔を見ると、彼女は少しばかり困った表情を浮かべて答えてくれた。


「グローリア様を命懸けで救って下さったのですから、本来ならばヒューゴ様を大聖堂の参道で讃える所ですが……御姿がグローリア様と全く同じな為、混乱を呼びかねないのです」


 そうなのだろうか……? どうして混乱が起きるのだろうか。

 チラリとグローリアさんへ顔を向けてみると、彼女も困った顔で僕を見ていた。さっきよりもクエスチョンマークが増えていそうである。

 より深まった疑問。カーラさんは続けて説明してくれた。


「実は……聖堂騎士団の間でもヒューゴさんの姿に疑問を持つ者が居るのです。どうして聖女様と同じ姿をしておられるのか、と。……実のところ、自分も気になっているところでもあります。元々その姿をしていたのであればアーテル教の耳に入ってくるはずなのですが……」


 これは……どう説明すれば良いのだろうか。グローリアさんの聖法でこうなりました、と言っても良いのだろうか?

 ……たぶんだけど、ダメだと思う。本当になんとなくだけど。


「ヒューゴさんのお姿を見て混乱、ですか……。…………仕方がありませんね。ヒューゴさん、お願いしてもよろしいでしょうか? ヒューゴさんのお姿についてですが……今は何も言えません」


 この世界に来て分からない事だらけだけど、余計な混乱を生むべきではないのは僕でも分かるので頷く。カーラさんもグローリアさんの言葉に頷いていた。

 僅かに装飾されたローブ……いや、外套──そう言っていたので僕もそれに倣った──はとても軽く、着ていると仄かに温かい。何かに護られているような気すら起きるそれは、きっと僕の世界には存在しない代物なのだろうな、と思える。フード、じゃなくて被りも深く被って顔があまり見えないようにした。


「それと……これはグローリア様への提言なのですが、もしヒューゴ様をお隣に歩かせるつもりでしたらお控え下さい」

「ぁう……はい……」

「やはりそのつもりでしたか……。事の順序を間違えてはなりませんよ?」


 優しく諭すカーラさんと反省するグローリアさん。どことなく、この二人が少し歳の離れた姉妹のように見えた。……教師と生徒と言っても良いかもしれないけど。

 それにしても、事の順序……? 何があるんだろう? 少なくとも僕には分からない事であった。


「はい……大司祭様と今後の事をお話しして決めます……」

「グローリア様はお優しいですからね。私もそのお気持ちはよく分かります」


 しゅん、と小さくなるグローリアさん。そんな姿を見たカーラさんは、どことなく少し困っているように見える。予想以上に落ち込ませてしまった、とでも思っているのだろうか、すぐにフォローを入れていた。僕はそんなやりとりをしている二人を尻目に、やっぱりこの服装は落ち着かないな、なんて思っていた。

 二人が話を終え、カーラさんに手を引かれて馬車から降りる。すると、そこには厳格な雰囲気を持った本当に大きな聖堂が佇んでいた。全体的に空へ向かって細く尖ったデザインで、一見すると城のようにさえ見える。中央に巨大な扉があり、それの両隣にある一回り小さい扉でさえ人間の何倍もの大きさだ。その建物の前には手入れされている芝の広場があり、敷地の入り口であるここから聖堂までその広場を通して一直線に道が伸びている。

 予め言っておくけれど、僕はオカルトを信じない。神や幽霊の存在なんて信じていなかったし昔の人が考えた絵空事とすら思っていた。

 だけどこれは違う。気圧されるような雰囲気を持っており、自然と畏れてしまう存在感がある。


「どうした? アミリオ大聖堂を見るのは初めてか?」


 突然声を掛けられたので身体がビクリと跳ねた。声の主はあの大剣の人、ベネットさん。どうやら僕が圧倒されているのを見て話し掛けてきたらしい。


「えっと……うん。なんか、凄い」


 それに対して出来た返答はなんともチープなものだった。自分でさえ『もっと他に言葉は無かったの?』と思ってしまう。

 ただ、これだけは言える。人は自分の物差しで測れないモノが出てくると言葉を失う。僕は、それを今ここで実感した。


「まあそうだろうな。アーテル教の総本山だ。何も感じない訳が無え。──ほら、行くぞ」


 そう言われて僕はグローリアさんを先頭に聖堂騎士団の人達と一緒に歩き出した。

 なるべく首は動かさず、視線だけで周囲を見渡す。聖堂の存在感が大き過ぎて気付かなかったけど、広場の中心辺りから聖職者らしき人達が道の脇に並んでいた。その人達から更に離れた後ろではアーテル教の信者らしき人々が遠目に僕達を見ている。

 きっと、グローリアさんと聖堂騎士団が帰ってくるのを待っていたのだろう。聖職者らしき人達は首から掛けている十字架を胸の前で両手に取り、首と身体を道と垂直にして僕達が歩いてくるのを待っているようだ。


「聖女様、おかえりなさいませ」

「おかえりなさいませ、聖女様」

「はい、ただいま帰りました」


 横切る度にグローリアさんは声を掛けられ、それを律儀に返事をしていく。皆とても慈愛に満ちた笑顔で、グローリアさんが帰ってきた事を喜んでいるように見える。中にはなぜか涙している人すら居た。

 だからだろうか。僕自身の場違い感が酷くて物凄く気まずい……。

 グローリアさんの三歩ほど後ろを僕が中心として両脇にベネットさんとカーラさんが、そしてその幾分か後ろでは何人もの騎士達が足並みを揃えている。なんだろう……もはや連行されているような気すら起きてくる……。だって被りも深くしているし、ニュースとかで見た事のある護送されている犯人そのもののような気が……。

 僕一人だけ気まずい思いをしているであろうこの行進。時間にすれば五分も歩いていないはずなのに、一時間は歩いたと思える長い道もようやく終わりを迎えた。大聖堂の中央扉の前までやってきたのだ。

 扉は三人の女神っぽい彫刻像がシンメトリーで囲まれるようになっており、まるで入ろうとする人を温かく迎え入れるかのように造られている。その扉の前で待機していた人に開けられ、グローリアさんは一言お礼を言ってから入っていく。僕もそれに倣おうかと思ったけれど、ベネットさんもカーラさんも何も言わなかったのでひっそりとしておく事にした。


「わぁ……」


 思わずそんな声が漏れてしまった。中は整列された何本もの太い柱が建物を支えており、天井はそのまま屋根となっているのか見上げるほど高い。よく見ると、さっきの三つの扉の間を基準に柱を並べているらしく、アーチで繋げて三つに区画分けしているかのようだ。高い位置と低い位置で均等に作られた大きなガラス窓からは日の光が差し込み、床を窓の形で照らしている。その窓ガラスさえ装飾が施されていて、突き当たりにある壇上付近の窓なんて女神を描いたステンドグラスになっていた。

 そんな神秘的な芸術とも言える造りに、素直に目を奪われた。

 グローリアさんがそんな僕を気遣ってくれているのだろうか、歩みが心なしかゆっくりになっている。

 誰も座っていない長椅子の間を抜けていき、壇上へと歩み進んでいくと、突然おじさんの声が聞こえてきた。


「おお、グローリア様! ご無事でしたか!!」

「オースティン大司教!」


 壇上の横にある通路から現れたのは短く整えた灰色の髪に少し頬こけた男性。大司教というのがどれくらい偉いのかは分からないけれど、ゆったりとして装飾の施された白い服を纏っている事から明らかにさっきの聖職者達よりも偉いと分かる。聖堂騎士の人達も右腕を肩から少し低い位置にまで上げ、手を胸元に当てた。きっと、何かの礼儀作法なのだろう。


「身体に異常はありませんか? どこか痛む所とかは……」


 心配性なのか、笑顔のグローリアさんへ駆け寄ってきた。まるで子供が転んだのを見た過保護な親が飛んで来たかのようだ。

 娘を心配する父親が居れば、きっとこんな感じになるのであろう光景。そんな二人の姿を見た僕は、心の中で羨ましいなと感じていた。


「どうかご安心下さいオースティン大司祭。私の窮地は、護衛騎士団の方々と──こちらのヒューゴさんによって救われました」

「うん? ヒューゴ……? 聞かない名ですが、この外套の者ですか?」


 半信半疑の顔を向けるオースティンさん。まあ……そう思うよね。僕だって未だにグローリアさんを救ったとは納得していないのだから。


「はい。魔族によって向けられた、誰もが恐怖して動けなくなる呪術……それを一身に受け止めて下さいました」

「…………なんと! それは偉業ではありませんか! あぁ……よくぞグローリア様をお護りしましたな。ヒューゴさん、あなたはグローリア様、ひいてはアーテル教の恩人です」

「い、いえ……そんな……」


 よっぽど驚いたのか、僕へ近寄って賞賛をするオースティンさん。

 ……なんというか、やはり感性の違いなのだろうか。きっとこの世界の人達は魔族の呪術の恐ろしさを知っているのだろう。だからこれだけ褒め称えられるんだ。

 が、ふとオースティンさんは疑問を浮かべた顔となる。あまりに突然の事で、何か粗相をしてしまったのかと不安になってしまった。


「……ヒューゴさん、被りを下ろして頂いても良いですかな?」

「えっと……」


 この姿を見せても良いのだろうか、と困ったのでグローリアさんへ視線を送る。すると、彼女は少しばかり強張った表情で首を縦に振った。

 それを見た僕は僅かに嫌な予感を抱きつつ、顔があまり見えないようにしていた被りを下ろした。

 その瞬間、オースティンさんの顔は『信じられない物を見た』と思っているのが分かるほど驚愕していた。焦りを感じてすらいそうだ。

 無理もないだろう。今の僕は、グローリアさんと同じ目と、顔と、髪と、声をしていて、完全に同一人物に見えるのだから。


「これは一体……。他人の空似などでは説明が付かない……」


 疑うように、あるいは観察するように僕の顔を細かく見てくるオースティンさん。……ちょっと怖い。

 じっくりと時間を掛けて見た後、オースティンさんは難しい顔をして口を開いた。


「グローリア様……そしてヒューゴ様、詳しくお話がしたいのですが良いですね?」

「……はい。オースティン大司教」

「……わかりました」


 オースティンさんはやってきた廊下へと僕達を促す。僕達は聖堂騎士団の人達へ一言だけお礼を言ってからオースティンさんへついて行った。

 案内されたのは一つの部屋。三人の女神で装飾されたベッドに小さな机が一つあり、その机を中心に十字となるよう椅子が向かい合わせとなっている。机の上には本が一冊だけ置いてあって、知らない文字だけどそれが聖書である事はなんとなくの雰囲気で分かった。

 まずグローリアさんが椅子に座り、それを確認したオースティンさんが僕へ座るよう顔を向ける。そして僕が座った後にオースティンさんが座った。


「さて……ここならば誰にも話を聞かれないでしょう」


 どうやら、相当大事な話らしい。そうでもなかったら話を聞かれないようにする必要は無いはずだ。


「まず初めに確認させて下さい。私はヒューゴ様の事を存じておりません」


 ……………………。えっと、なんで様付けになってるんだろう……? 最初は普通だったような……。


「ですが不可解です。その髪色と空色の瞳はまさしくハーメラ王族にのみ引き継がれる特有のもの。ですがハーメラ王の子は二人だけのはず……しかもグローリア様とまったく同じお姿となれば、なぜ今の今まで誰にも気付かれなかったのかが不思議で堪りません。一体、何があったのですか?」


 この話を聞いて思考回路がショートした。王族、引き継がれる、ハーメラ王、二人だけ、聖法、生涯に一度だけ、代わり役、隠し子扱い? スキャンダル? ……大事件? 様々な言葉がグルグルと頭の中で駆け巡る。

 それらの整理が進み、徐々に戻ってきた正常な回路を駆使してグローリアさんへ首を向けた。自分でも分かる。身体が震えている。まだまだ整理が充分ではないらしい。


「ええと……先にハーメラ王国と私の関係について詳しく説明しますね。──確かに私は王族ではあります。ハーメラ王は私の父で、私は第二子に当たります。けれど、王家には属しておりません」


 今度は混乱した。王族ではあるのに王家ではないってどういう事なの……。

 ただ一つ分かるのは……僕は今、物凄くヤバイ立ち位置に居るんじゃないだろうか──という事だ。


「アーテル教はハーメラ王国の一部という訳ではなく、一つの独立した存在です。国という枠組みに囚われておりませんので、三人の女神を信仰する集まりと言った方が分かりやすいかもしれませんね。私は生まれる際に次期聖女であるという天啓があり、生まれながらにしてアーテル教に属する事となったのでハーメラ王家から外れているのです。……拙い説明だったとは思いますが、大丈夫ですか?」

「……なんとか」


 本当になんとか理解できているって程度だけど……。

 えっと、グローリアさんは聖女だと天啓を受けてハーメラ王国からアーテル教に属する事になった、って事だよね。……王家が王女をそんな簡単に渡したりするのだろうか。それともアーテル教や聖女というのはそれだけ強い存在という事なのかな。

 この辺りは触れないでおこう。触らぬ神に祟り無し、だ。


「続いて、ヒューゴさんの事なのですが……一言で伝えますと、絶対治癒の聖法を使いました」

「なんですと!? あの聖法を!?」


 オースティンさんは身を乗り出すほど驚いた。それもそうだろう。生涯で一度しか使えないと言われている聖法というものを僕なんかの為に使ったのだから。


「……はい。ヒューゴさんは私にとって掛け替えのない命の恩人です。ヒューゴさんが居なければ、私はあの場所で死んでいたのは間違いありません。その恩人が死と直面していて私には救う手段があるというのに、どうして見過ごせるでしょうか」

「なるほど……そのような理由がありましたか。ならば絶対治癒の聖法を使うというのも頷けますな」


 どうやら納得してくれたようで、僕もグローリアさんもホッとした。


「……しかし、なぜグローリア様と同じ見た目に? あの聖法は確か自由に姿を変えさせる事が出来ると言われてはいますが……何があってこのような事に」


 が、次の問題とぶつかった。言うならば、僕にとって最大の修羅場でもある。


「それは……姿をしっかり見る間すら無かった事と、ヒューゴさんが男性だったからです」


 多少、詰まりつつもグローリアさんは理由を述べた。

 嫌な汗が流れる。心臓もガタガタ震えるように早鐘を鳴らしており、僕は自分が動揺している事を他人のように感じられた。

 傍から見れば女になった男である。人によっては生理的に無理と思われてもおかしくない出来事だ。


「……………………」


 オースティンさんが硬直する。僕とはまた別の意味で様々な感情が巡っているのか、口の端がヒクついていた。グローリアさんに至っては自己嫌悪の権化となってしまったかのように暗い顔をしている。……やっぱり、今の身体にさせてしまった事を気にしているようだ。そんなグローリアさんの姿を見ていると、物凄く居た堪れなくなる。


「……グローリアさん」

「はい……」


 あの時のように元気の無い声が部屋に小さく響く。それと同時に、あの時と同じ罪悪感が僕の心を支配した。


「言葉が足りなかったみたいだから、改めて言わせて欲しい。──僕は、グローリアさんが助けてくれなかったらあの場所で死んでいた。グローリアさんは僕の事を命の恩人って言うけれど、僕にとってもグローリアさんは命の恩人なんだ」

「……………………」


 彼女の顔は暗く俯いたままだったけど、視線が合っていなくても僕は続けた。


「グローリアさんは生涯に一回だけしか使えない手段を躊躇う事なく僕に使ってくれた。グローリアさんが躊躇ったり、僕を見捨てたりしなかったから僕は今ここに居る。……確かに僕は女の子の身体になった。けど、逆に言えばたったそれだけの事で死なずに済んだんだ。……だから、ありがとう。僕を助けてくれて、僕を見捨てなくて、ありがとう」


 あの時は気が動転していて言えなかった言葉の全てをここで伝える。これが僕の精一杯。僕の送ってきた人生で紡げる事のできる言葉の限界だ。

 グローリアさんがどんな風に受け取ってくれるかは……僕なんかじゃ分からない。だから僕は願う。僕の気持ちが彼女に伝わる事を。


「……ありがとうございます、ヒューゴさん」


 その願いは、ある引っ掛かりを残して叶う事となった。

 救われた──。まるでそう言いたげな表情のグローリアさんだけど、明らかな違和感があった。なにせ、グローリアさんは僕に『感謝』をしているように見えたのだ。


(感謝……? なんで……?)


 なぜか頭に浮かんできた単語。理由は分からない。ただ、確信とも言えるくらい強く覚えたこの違和感は、きっと気のせいなんかじゃない。

 グローリアさんとの距離は一メートルあるかどうか……。だというのに、僕にはこの距離が何百何千──いや、もっともっと開いていると錯覚した。

 それと同時に、僕の言葉では……いや、僕の心は彼女の心に届かないというのも、どことなく感じ取れた。


「──素晴らしい」

「え?」


 突如、部屋にそんな声が響いた。その声の出所は、大司教のオースティンさん。当たり前だけど僕はその意味が理解できず、グローリアさんも同じくどういう意味なのか分かっていないような感じだ。

 本人もそんな空気を感じ取ったのか、繕うようにしてその続きを言ってくれた。


「コホン……失礼。……実は、グローリア様の勉学で以前から悩んでいた事がありましてな」

「私の勉学、ですか?」

「ええ。先ほどもグローリア様自身が仰っていたように、グローリア様は男女の違いというものが何であるのかよく分かっておりません」


 ……そう言えば、初めて会った時にそんな事を言っていたような。男の身体の構造がよく分からないとか何とか。


「グローリア様は聖女。幼い頃よりなるべく穢れを持ってしまわないようにとアーテル教全体で徹底した管理をしていたのです。野蛮な考えを持つ者やグローリア様へ忠誠心を持っていない者からは少々やり過ぎたかもしれないくらい遠ざけてきました。ご自身で様々な判断が出来るようになってから男女の違いを勉強して頂こうと思っており、その事で悩んでいたのです」

「……えっと、普通に教えたんじゃダメだったんですか?」

「なりません。グローリア様もお年頃ですので、男性から教えさせるなど言語道断。どんな者であってもその男性が何を起こすか分かりません。かと言って女性が教えるというのも難しい話です。いくら男性への理解を深めたとしても男性の心情までは理解できないでしょう。男女の二人組で教えるという考えもありましたが、やはり男性が絡むとなると不安がありましてな……」


 それはまあ……なんとなく分からないでもない。グローリアさんの姿を見るなりかなり心配していたみたいだし、過保護になってしまうのだろう。


「聖女という立場上、色々な悩みで相談される事もありますでしょう。ですが、男性に関わる内容は途端に答えられなくなってしまうと、グローリア様へ頼ってきた者も残念に思ってしまいます。そうなってしまうとグローリア様のご性格ではご自身も悲しまれてしまうでしょう。それを回避するには、男性の心を持つ女性という矛盾した存在が必要だったのです」

「あ、だから僕が?」

「そうです! 男性でありながら女性の身を持つ奇跡の存在であるヒューゴさんがお教え下さるのが最善かつ安全なのです!」


 少し興奮しているのか、語尾が強くなるオースティンさん。……なんというか、本当にグローリアさんの事が大事なんだな、この人。


「グローリア様もヒューゴさんを信用なされていらっしゃるようですし、私の目から見てもヒューゴさんは危険ではないと思えます。なので! どうかグローリア様へ男性についてご教授願えませんでしょうか!」


 ズイッと顔を近付けてきて懇願される。なんかちょっと……近い……。

 熱く語っているところ申し訳ないけれど、男性についてと言われても何を教えろというのだろうか……。男女の違い、とは言われても……その、一番の違いは身体の違いというか……うん、そういう事だし……。いやいやいやいや、心情とか言っていたからそういう意味じゃないはずだ。うん。そのはず。……大体、たぶん、恐らく、きっと。

 仮にそんな事も教える事になったとしたら……。

 男女の身体の違いを教える→アレの有無→なぜ有るのか無いのか→子供を作る為とかの説明→その先は?

 あ、これ無理ハードル高過ぎ……もうくぐれってくらい高い……。徹底的に管理してきたって言ってたし、恥ずかしい恥ずかしくない以前の問題で容赦なく無垢に聞かれる可能性とか充分にありえる……。

 ……断ってしまおう。そう口にしようとした時、ドアを焦り気味にノックする音が聞こえてきた。


「誰かね。今はグローリア様と話しておるのだぞ」

「も、申し訳ありません! 王家より緊急の文書が届いております!」


 王家と聞いて嫌な予感しかしなかった。まさか……僕の存在がどこかで知られて……?

 冷や汗がダラダラと流れ出る。ドアへ歩いていくオースティンさんを引き止めてしまいたいという気持ちすら沸き上がってきた。

 けれどそんな行動力が僕にあるはずなく、ただただ事の成り行きを見守るしかなかった。

 オースティンさんは僕を気遣って、なるべく部屋の中が見えないようにドアを開けて手紙を受け取る。その閉じられた手紙の表面を指先でなぞると、ひとりでに手紙の口が開いた。どうやら魔術かなにかで鍵を掛けていたようだ。

 便利だなぁ……なんて暢気な事を考えていたのだが、内容を読んだオースティンさんは難しい顔を浮かべていた。


「グローリア様、緊急事態です。……勇者の家に強盗が入り、勇者の母が殺されました」

「…………え?」


 青ざめ、少しばかり震えた声を出すグローリアさん。それに対し僕は、物騒な話だな、程度に感じていた。

 だけど実際はそんな単純な事ではなかったらしい。


「オースティン大司教、今すぐナリシャさんの下へ向かいましょう!」

「いけません。それでは彼女が勇者であると宣言するようなものです。王家を介して呼び出します」

「王国騎士団の馬車を使えば気付かれる事はないはずです! ナリシャさんを一人にさせられません!」

「……分かりました。至急、要請を出します」


 グローリアさんとそんな会話を交えたオースティン大司教は、足早に部屋から出て行った。きっと、今言っていた王国騎士団へ馬車の要請を出しに行ったのだろう。


「……グローリアさん、何が起こったの? 勇者、とか言っていたけど」


 その間に、現状が分かっていない僕はグローリアさんから詳細を教えて貰う事にした。

 彼女もオースティンさんのように難しそうな顔をして考え込んだけれど、程なくしてポツリと独り言を漏らした。


「いずれヒューゴさんも知って頂く事になりますよね……。オースティン大司教も目の前で勇者と言葉にしていらっしゃいましたし……」


 ……なんだろう。その言い方だと、他の人は知ってはいけない事なんじゃないだろうか。王家と関係もあるようだし……。


「ヒューゴさん。ヒューゴさんの世界では勇者と呼ばれるお方はいらっしゃいましたか?」

「ええっと……実際にそう呼ばれていた人は大昔に居た、かな。でも、かなり勇気のある人を称えて言った事があるくらいで、役職とか職業じゃなくてただの評価だったよ」


 歴史の先生がナポレオンの側近にそんな人が居たとか言っていたような気がするけど、教科書にも乗っていない事だったのでよく憶えていない。会話の雰囲気からして、グローリアさんの言っている『勇者』とは違うだろう。


「そうなのですか……。では、こちらの勇者とは違うのですね。──勇者とは、特別な力を持つ者を呼びます。その潜在能力は果てが無いとすら言われており、伝承では人間の勇者は剣の一振りで天空を斬り裂き大地を割り、魔族の勇者は視線を向けるだけでその場に存在する全ての生き物を死に至らしめたと言われています」

 ……この世界の勇者の説明をして貰ったけれど、あまりに突拍子もなくて反応に困った。

 伝承だから話が盛られているのだろうけれど、どうやって剣で空と大地を斬ったり視線で殺したりするのだろう。……魔術か何かだろうか?


「人間と魔族のどちらにも一人だけ存在されるとなっており、何らかの要因で亡くなった場合は数年の時を経るまで次の勇者は現れません。なので、勇者が誰なのかは国で隠し通しています。いくら勇者と言えど、潜在能力を引き出しきれていないのであれば集中的に狙われてしまう恐れがあるからです」


 なるほど。危険な存在は芽の内にさっさと摘んでしまえば良い理論か。


「今現在の勇者はナリシャさんという名の女の子です。私の秘密の友人でもあります。……ナリシャさんはご両親をとても大事にされていて、不幸が起きたとなればどうなってしまわれるか……」

「……あの、グローリアさん? それって本当に僕に教えちゃって良かったの?」


 それって国家機密レベルに知られちゃいけない情報のような……。


「私と行動を共にするとなれば、いつか必ず会うはずです。なので、今お教えしても何も問題ありませんよ?」

「いや……僕が秘密を漏らしちゃうとか考えなかったのかなって……」

「────────」


 グローリアさんの表情が凍りついた。


「あ、あのそのえっと! 絶対に秘密でお願いします!! だ、誰にもバラさないで下さい! 本当に人間族の危機となってしまいますので!」

「う、うん……それは勿論だから落ち着いて?」


 なんだろう……グローリアさんはパニックになるとこうなっちゃうのだろうか……? 初めて二人で食事をした時にもこんな感じになったような……。

 とりあえず三回か四回ほど深呼吸をさせて落ち着かせたけど、さっきの姿を見せたのがそんなに恥ずかしかったのか顔を真っ赤にさせて肩を縮こまらせてしまっている。

 ……正直に言おう。小動物みたいで可愛い。……こんな状況で何を言っているんだって話だけど、そう思ってしまったのは僕の心が穢れているからだろう。


「でも……どうしてそんなに僕を信用できるの? もしもの事を考えたら、僕に教えない方が良いと思うんだけど」


 そう言った途端、彼女の表情が強張った。顔の赤みは一気に引いてしまい、逆に翳りさえ生み出してしまっている。

 あまりにも大きな変化に僕は困惑する。会ってまだ二日目の僕に、どうしてあんな重要な情報を教えてしまうのかも分からなかったけど、彼女の反応も同じくらい分からない。

 一分──二分──三分──。時間は無慈悲に進んでいく。グローリアさんは悩んでいる……いや、言うべきか迷っているようで、決心したかのような素振りを見せたと思ったらほんの僅かに首を横に振って顔を逸らしたりしている。ゆっくりと確実に時間が進む毎に僕の不安は大きくなっていった。

 何を言われるのだろうか──。どんな理由があるのだろうか──。そんなに躊躇うほどならば逃げてしまえば良いんじゃないだろうか──。

 僕は強い意志を持ち合わせていない。それは自覚しているし、強い意志なんて持つべきじゃないと考えて生きてきた。……そう、あの時から。だから僕はこの息詰まった空気が耐えられない。状況を改善させようとすれば崩れて壊れてしまいそうなこの空気が、凄く嫌いだ。

 僕は行動するべきじゃなかった。どうにかしようだなんて思うべきじゃなかった。例えどんなに気になっても、心から心配をしても、劇を見る観客のように静かにしておくべきなんだ。

 改めて自分で自分を戒める。もう、余計な事はしない。しては、いけない。

 そうやって心の奥底でゆっくりと自分に言い聞かせていた時、部屋のドアがノックされた。


「──お待たせしました。丁度、王国騎士団の馬車が近くを通っているとの事ですので今すぐにでも出発が可能です」

「は、はい! ありがとうございます!」


 帰ってきたオースティンさんの声を聞いてハッとしたグローリアさん。明らかに動揺した声色で、誰がどう見ても不自然だった。


「ナリシャさんの事を気に掛けるのは分かりますが、少し落ち着きましょう、グローリア様」

「……はい…………」


 けれど、オースティンさんはそれが勇者を心配するように見えたらしい。僕には到底そんな風には見えないけど、グローリアさんの人望がそうさせるのだろうか。

 ただ、オースティンさんもどこか心ここに在らずだ。もしかしたら、この人も勇者を気に掛けているのかもしれない。

 僕はここまで歩いてきた時のように被りを深くし、グローリアさんの三歩ほど後ろを歩いて王国騎士団の馬車へ乗った。

 移動中は誰もが口を閉ざしており、オースティンさんが僕に勇者の説明をしても良いかとグローリアさんへ相談した事。そしてグローリアさんが既に説明をしたと短い会話をした以外では誰も口を開こうとしなかった。

 気まずさしか漂っていない馬車はゴトゴトと揺れながら僕達を運び、しばらくしてからその動きを止めた。たぶん、勇者の家に着いたのだろう。


「到着しました。人払いは済ませてあります」


 どうやら僕達の姿を見られないように人払いをしているらしい。先に降りた二人が王国騎士団らしき軽装の人にお礼を言っていたので、僕もその流れでお礼を言った。──いや、言ってしまった。


「ん……?」


 それはマズかった。王国騎士団の人は僕に疑問を抱いてしまったのだ。

 冷静に考えると当たり前だ。いくらアーテル教の外套を着ているとはいえ、顔を見せていないし声なんてグローリアさんと同じなのだ。これでおかしいと思わない訳がない。アミリオ大聖堂の時は静かにしていたのに、どうしてこんな所でミスをしてしまったんだろう……。

 自分が嫌になる。どうして僕は余計な事をしてしまうのだろう。ついさっき言い聞かせたはずなのに、また過ちを繰り返す。

 僕が何かをする事で何かが壊れる……僕は、それが怖い。そう……とても、怖い。そうだというのに……。


「──ヒューゴさん」


 鈴のように綺麗な声。それが僕を現実へと引き戻した。


「行きましょう」


 聖女と呼ばれているグローリアさんの声。綺麗以外の言葉が見付からない、優しく僕を起こしてくれた声。

 その声の持ち主は、心配した顔で僕へ手を差し伸べていた。それはまるで迷子になった子供へ伸ばされた手のように、縋りたいと強く感じさせるものだった。

 僕も手を伸ばし、おっかなびっくりしながら手を重ねる。彼女の体温が手を通して感じる。僅かに震えているというのも分かった。ただ、グローリアさんが僕の手を握ると、道中ずっと弱々しかった彼女の表情が少しだけ元気を取り戻し、慈愛を感じさせる儚い笑みを浮かべてくれた。

 その顔を見て、僕は思った。


(ああ……僕はまた、助けられたんだ)


 命だけでなく、立場も、心すらも助けてくれた。放っておけばどこまでも自己嫌悪に落ちていく僕を、引っ張り上げてくれた。

 傍から見れば今回はとても小さな事だったと思う。けれど、僕にとっては大きな事だ。僕が窮地に立たされている時に助けてくれたり、安心させてくれる人なんて、今まで一人も居なかった僕にとっては……。


「え……」


 だけど──彼女の手に引かれて勇者の家に入ると、そんな憂いも何もかも吹き飛んだ。

 強盗が入った。それは聞いていた。だから家の中が滅茶苦茶になっているっていうのは分かっていた。部屋の至る所は荒らされ、開けられる物は棚や扉を区別せず全て開けられ、恐らくは金目の物を全て奪っていったのだと分かる。

 だけど、一つだけ……これだけは予想できなかった。


「……ナリシャさん」


 床にある赤黒くて大きな染みの前で崩れたように座り込んだ少女。薄茶色の髪は肩に掛からない程度に切られており、癖があるのか少し跳ねている。その少女に、グローリアさんは歩み寄った。

 妙に記憶に引っ掛かるこの色を、僕は知っている。グローリアさんと初めて会ったあの場所、あの泥の色だ。そして、気付かないようにしていたあやふやな憶測が、ハッキリと形作ってしまった。

 あの泥の色は、血の固まった色だったんだ──。

 途端に気分が悪くなる。上下の感覚すら無かった黒い空間で一生分は吐いたと思っていたけど、また吐きそうになる。泥状になった肉体は、溢れ出た血が固まって色付いた。そんなの分かっていた。分かっていたけど気付いていない振りをしていた。何かと理由を付けて逃げていた。


「ナリシャさん。私です。グローリアです」


 ナリシャさんと呼ばれている子は明らかに壊れていた。糸の切れた人形が崩れ落ちたように力無く座り込み、人形のように生気を感じさせていない。事実、グローリアさんがどんなに声を掛けても、手を握っても反応が無い。人形と、なんら変わらない状態となっていた。こんなの、予想なんて出来る訳がない。

 ……きっと彼女は母親に愛されていて、同じく母親を愛していたのだろう。でなければ、こうなる訳がない。……そしてきっと、僕はその気持ちを一生知る事はできないんだろうな。


「ナリシャさん、分かりますか……? ナリシャさん……」

「ううむ……全く反応しませんな……」


 何度も声を掛けるグローリアさんだけど、人形のようになっている少女には声が届いていない。次第にグローリアさんの声色も弱々しくなっていき、それにつれて表情も悲しそうに変化していっている。オースティンさんは諦めたのか、首を横に振っていた。


「……あの」


 それでも呼び掛け続けるグローリアさんの姿が痛々しくて、見ていられなくなって……僕はまた愚行を犯そうとした。また余計な事を言い掛けた。咄嗟に言葉を飲み込んだけれど、もう遅い。既に声は出てしまった。

 二人は僕に視線を向ける。特にグローリアさんなんて今にも泣きそうな顔をしていた。

 ……無理だ。こんな状況じゃ『なんでもない』なんて言えない。喉まで出掛かって飲み込んだ言葉を吐き出さないといけなくなってしまった。

 怖い……怖いけど、どうにかしてあげたい。気になっている子がこんなにも悲しそうな顔をしているというのに、放っておくなんてどうしても出来なかった。


「ま、まず……ナリシャさんが、えっと……何かされたりとかしたのかな、って思って……」

「ふむ……原因の特定から、という事ですな」

「はい。原因が分かれば、どうすれば良いのかとか、方針とか決めやすいかな、と……」


 噛んだり言葉が詰まったりとしながらも声を出して思った事を伝える。心臓がバクバクとしている。手も震えているのが自分ですら分かる。また悪い結果になってしまうんじゃないかと怖くて仕方が無かった。


「ナリシャさん本人に危害は加えられていないというのは確かでしょうな。話によると、ナリシャさんが王国騎士団の訓練に出向いている間に近隣の住民が不審者を見掛けて中の様子を見て事件が発覚したそうですので」

「やっぱり、お母様が亡くなられた事が原因でしょうか……」

「恐らくは。ですが、少々疑問も残ります。確かにナリシャさんは母親を大事にしておりましたが、こうなる程とは考えにくい。何か別の要因もあったに違いありません」


 原因は一つではない、という事だろう。言われてから『そうだろうな』と思えた。よくよく考えたら母親のため以外に生きる理由が無いとでもない限りこんな風に抜け殻になるなんて只事じゃない。きっと、他にも原因があるはずだ。

 じゃあそれは何か──……なのだけど、ここからは僕ではどうしようも出来そうにない。ただでさえこういう探偵みたいな考えをした事なんて無い上に、感性がズレている僕じゃ猫の手にもなりやしないだろう。

 と、思った時だ。グローリアさんがオロオロといった感じで僕とオースティンさんを交互に見ていた。しかもなんだかやたら困り顔だ。一体どうしたのだろうか。

 僕達は視線を交わすもグローリアさんがどうして困っているのかは分からずに首を傾げる。そんな様子を見たからか、グローリアさんはおずおずと質問してきた。


「大切な家族が亡くなってしまったら、こうなってしまうのが普通ではないのですか……?」


 ──そう言われて、頭の中が真っ白になる。彼女の疑問に、僕は何も答えられなかった。

 普通……。普通なら、どうなのだろうか。悲しむというのは間違いないだろう。それは僕ですら予測できる。ただ、ナリシャさんのようになってしまうのかと言われたら疑問だ。なんとなくだけど、ここまで酷い状態にはならないと思う。

 けれど、それをここで言えるだろうか? そんな事はないと思うよ、なんて言えるだろうか? 少なくとも僕は絶対に言えない。だからといって他に掛ける言葉も出てこない。それはオースティンさんも同じなのか、僕と同じくだんまりを貫いている。

 グローリアさんは更に困ったようで、僕達へ不安げに視線を向ける。……やがて、彼女の目尻に涙が溜まってきた。


「……………………ごめんなさい……」


 それでも僕達が何も答えられずに居ると、グローリアさんは小さく謝ってしまった。僕達に背を向け、最初のようにナリシャさんの手を取って優しく包み込んでいた。

 ただ……その背中は酷く脆く見えて、触れるどころか声を掛ける事すら躊躇してしまうくらい弱々しい。彼女の手の甲には小さな水玉が零れ落ちていて、顔は見えなくても泣いているのが見て取れた。

 ──誰も声すら出さなくなってからしばらくして、王国騎士団の人が声を掛けてきた。どうやら人払いに限界が近付いているらしい。誰かに見付かる前にここから離れないといけないようだ。

 オースティンさんが馬車へ戻るように促し、僕達はそれに従う。グローリアさんはナリシャさんへ断りを入れて立ち上がるも、どこか名残惜しそうにしていた。

 そして、この部屋から出る時にグローリアさんが不意に足を止めた。


「……ごめんなさい」


 それは誰に対して言ったものなのか。ナリシャさんへか、それとも僕達へか、あるいは全員へか。

 真意は分からない。けれど、一つだけ分かる事はある。


「……グローリアさん」


 僕が出来る事──いや、やるべき事は、これだろう。


「行こう」


 僕にしてくれたように、僕はグローリアさんへ手を差し伸べる。

 彼女は意外にも僕と同じように恐る恐ると手を重ねてきた。その細い指を、小さくなった僕の手で握る。すると、彼女も縋るように握り返してくれた。


「ありがとうございます……ヒューゴさん」


 そのお礼の気持ちが僕と同じかは分からないけど、グローリアさんが少しでも救われたのならば良いな……。彼女の瞳から新たに零れ出た一粒の涙が、その意味ならば……。

 手を繋いだまま外に出て、ふと空を見上げる。

 傾き始めた太陽は黄色味を帯びており、これから伸び始める影を形作っている。遠くに広がっている薄く伸びた雲は穏やかで、明るい世界にこそ似合うものだ。……その青空の下では、こんなにも悲しい事が起きているだなんて思えないくらい、平和的な空だった。

 僕達は聖堂へと向かう。これからの事を考える為に。これからの苦難を乗り越える為に──。

 ──ただ、これだけは言わせて欲しい。せめて当人から了解を取って下さい。有耶無耶になったと思ってたグローリアさんへの教育がなんで僕達の意思とは関係無く決定されているんですか。しかもオースティンさんが一部の偉い人にも話を通していた。それどころかグローリアさんすらも僕が良いとまで言い切った。これで断れる人が居たら尊敬する。なんでこうなったんだ……。

 ナーバスになっていた僕の心は一転して滅入り、どうしたら良いものなのかと悩む事となる。

 何はともあれ、ここから僕の新たな生活が始まった──。

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