変わらない世界に訪れた変化 2.1
朝、目が覚めると皆さんは何をするでしょうか?
顔を洗う。髪を梳く。腕を伸ばす。着替える──。他にも様々な事があると思います。それは一日の始まりであり、それをしないと一日を上手く過ごせない人だって居るでしょう。
「……………………」
そして……愛おしいあのお方の寝顔を見る事が、私の朝一番にやる事でした。……過去形です。それは昨日、もう見る事が出来なくなってしまいました。
聖女という理由で与えられた、寝心地の良い寝台。窓を開ければ風の入る過ごしやすいお部屋。朝になると入り込む陽の光。それら全てが色褪せて見えます。火の消えた燭台よりも、もっと寂しく思えてなりません。
「……………………」
いつもならば愛おしいヒューゴさんの肩を揺すり、おはようございます、と声を掛けたでしょう。そして愛おしいお方は少し眠そうな顔のまま目を擦り、腕を伸ばしてから微笑んで『おはよう、リア』と返してくれていました。それだけで私の心は嬉しい気持ちで満たされ、今日一日をずっと笑顔で居られるような気分になるのです。
……それも、今日からはありません。
目が覚めれば部屋の中は人の気配はせず。寝台に空けた一人分の空間へ手を伸ばしても冷めた布の感触が。いつもは二着あるはずの着替えは一着のみ。
なんて寂しくて虚しい朝なのでしょうか。……どれだけ私は、ヒューゴさんの笑顔に惹かれていたのでしょうか。失くす前から大事だと思っていたのに、失くしてから自分の思っていた以上に大切で掛け替えの無い存在だったと気付かされます。
思わず、首を横に振ってしまいました。……気持ちが切り替えられません。こんな事では、聖女としての役割を果たせないでしょう。
何度も何度も頭を振っているのに、それでも脳裏には昨日のヒューゴさんの諦めてしまった顔が離れてくれません。……正直に言うと、あの時のヒューゴさんの言葉には酷く傷ついてしまいました。諫めて下さい、と。間違った道に進んでしまわないよう正して下さい、と。ヒューゴさんは言いました。
ヒューゴさんはご自身を犠牲にしたのです。私を守る……ただただそれだけの為に。……一晩考えて、それが漸く分かりました。あの時、私は説明すれば必ず皆さんが分かって下さると考えていました。だからこそ、私はあの時のヒューゴさんの行動に焦りと絶望を覚えたのです。あんな事を言ってしまえば、ヒューゴさんは必ず何かしらの処遇を受けるでしょう。アーテル教は魔族を完全に敵視しています。場合によっては魔族と交流があるだけでも、そして使い魔であろうと排除されてしまう事もあります。
それは、聖女であっても例外ではありません。事実、先代の聖女様は魔族を助けたという理由で反逆の聖女として処刑されてしまいました。もしも私があのままヒューゴさんを庇い続け、そしてヒューゴさんがああ言わなければ……私もどうなっていたか分からなかったでしょう……。
私はまた助けられたのです。一度目のお返しもままならないというのに、二回も助けられました。この恩は、どう返せば良いのでしょうか……。
「……………………」
服を一人寂しく着替え、鏡で確認。……もう何年も同じように着替えてきたので、例え目を閉じていようと同じように着替える事が出来るでしょう。
けれど、鏡に映る私の姿に一つだけ決定的に違う箇所がありました。鏡の中の私が沈んだ顔をしている事です。それも、自分ですら見た事が無いくらいに。
そんな自分の姿を見るのが辛くて、私は逃げるように鏡の前から離れました。……しばらく、鏡を覗き込まない方が良いかもしれませんね。
「あぁ……」
まるで溜め息をしたかのように声が漏れました。思ったよりも時間を掛けてしまった気がします。朝の礼拝の準備をしなくてはなりません。
「今日からは私は、一日を上手く過ごせるのでしょうか……」
酷い顔をしていた鏡の自分への問い掛け。そして問い掛けられた私は、その不安で塗り潰された疑問に答える事が出来そうにありません。もしかしたら自分で自分を圧し潰してしまうかもしれません。だからこそ、私は鏡の真正面に立てず口にしたのです。
そしてそれは予想通り、私は私自身の問い掛けに答える事が出来ずこの部屋を出ました。……頭の中では分かっていても、それを認める訳にはいかないのですから。
けれど、例え認めていなかったとしても問題が解決する訳ではありません。それはただ目を逸らしているだけで、逃げているだけなのです。
「グローリア様? 体調が良くないのでしょうか?」
「え……? あ……ごめんなさい……」
だからこそ、この朝食の場でもクラーラさんを始め、皆さんにも心配を掛けさせてしまいました。
「修道士クラーラ。そっとしてあげるべきだろう」
「…………? 分かりました」
ああ……それだけでなく、クラーラさんがグレッグさんに注意もされてしまっています……。私のせいです……。私がもっとちゃんと平静を装う事が出来ていれば、こんな事にならなかったというのに……。朝の礼拝の時と、その後に信徒の方々との軽いお話まではなんとかなったのですが、そこが私の限界のようでした。
申し訳ない気持ちになってクラーラさんに謝ると逆に謝られ、更には味すらも分からない朝食が終わり、私は自室へと戻ります。その部屋の前には、いつもは一人のはずの聖堂騎士団の団員さんが二人も立っておられました。……昨日、ヒューゴさんが魔族かもしれないという話は、このアミリオ大聖堂内で務めていらっしゃる方々には知られています。だからこうして私の周りと大聖堂周辺の警備が強化されているのです。
警備の方々にお礼を言い、部屋に入ります。起きた時から少しだけ変化のある部屋。着替えた衣服は回収され、寝台の布団も私が直すよりもとても綺麗になっています。
私はいつものように、寝台の隣に立ちました。ここで振り向けば居る筈のヒューゴさん。朝のこの休憩時間で、愛おしいあのお方とお話をしていた時間。今日の時間、私が寝惚けていて全てが嘘であったのならばどれだけ良かったでしょうか……。
けれど、現実は厳しいのです。振り向いても当然ヒューゴさんがそこに居る事などなく、誰も居ない部屋が目に映るだけでした。
「……ヒューゴさん」
胸がキュゥッと苦しくなって、愛おしいあのお方の名前を呟いてしまいました。今日という一日が始まってまだ四時間と経っていないはずなのに、私はもう耐えられそうにありません……。この後は信徒の方々と交流して、神の祭壇で禊や修練をし、そしてお昼を挟んで懺悔の時間もあるというのに……こんなの全く出来そうにありません……。
時間が経てば経つほど、何かをすればするほどにヒューゴさんとの思い出が頭に浮かんできます。こんな気持ちは……初めてです……。先代の聖女様が処刑されてしまわれた時は悲しいという気持ちが胸中を占めていました。なのに、ヒューゴさんはまだどうなるか分からないというのに悲しみだけでなく苦しみや喪失感、辛さに寂しさで掻き回されています。もはや、自分で自分を御せないほどです……。
「……ヒューゴさん…………」
この感情をなんとかしたくて、また名前を呟いてしまいます。だというのに、どうしてでしょうか……今度は涙まで溢れ出てきます……。私は、何かが壊れてしまったのでしょうか……?
ヒューゴさんは今どこに居るのかすら知らされていません。きっと、私に教えてしまえば会いに行きかねないと考えられたのでしょう。それは間違っていないと思います。もしもこの中央のどこかにいらっしゃるというのであれば、私は休憩の時間を使って走って行ったと思います。もし別の街や国と言われたら……私はその時は、どうするのでしょうか。
頭の中では休憩時間で行けない場所は無理で諦めると思います。ただ……聖女の立場を投げ捨ててでも向かってしまうかもしれない、というのも否めません。だから、私にヒューゴさんの居場所を教えないというのは正しい事なのだと思います。
……きっと、私がどれだけ願ったとしても、ヒューゴさんと会える未来は訪れないでしょう。魔族の疑いが掛けられたとして、それを払拭させる事など出来るのでしょうか……? 魔族の残滓の有る無しで判別できそうな気もしますが、ミーシャ大司教は魔族だと──それどころか魔王や魔神だと断言してしまっています。そんな疑いが掛けられたのならば、そう簡単に解放なんてされないでしょう。
私は通常の魔術に詳しくありませんが、それでも魔術を『破壊』させる事だなんて普通ならば考えられません。魔術とは陣に魔力を伝わせて発動させる神秘。既に発動した魔術を破壊だなんて、どうすれば出来るのか……。それが解明できれば、ヒューゴさんは解放されるのでしょうか……?
私では到底できそうにもない話です。実際に私は通常の魔術が分かりません。基本的に魔術は攻撃的なので、聖女である私は敢えて教えられる事なく生きてきたのです。例え私が通常の魔術の勉強をしたいと申し出たとして、普段ならばともかく今のこの状況で許しが出るとは到底思えません……。
私に出来る事が何も無い──。それが分かった時です。扉をコンコンと叩く音が聴こえてきました。
(……ヒューゴさん?)
あり得ない事だと分かっています。疑いを掛けられてしまったヒューゴさんがたった一晩で帰ってくるだなんて、どう考えても違うと言えるでしょう。けれど、それでも私は……その一抹の望みに縋ってしまいました。
涙を拭き、ふらふらと音の鳴った扉へと歩み寄り、そのまま扉を開けます。扉を叩いたであろう人物は少し驚いた声を出していています。……オースティン大司教でした。淡い希望は更に薄まって消え、そこに残ったのは落胆という感情でした。私は、なんて失礼な感情を抱いているのでしょうか……。
「……ごめんなさい、オースティン大司教」
「いえ、私は構いません。……それよりも、少しお話をよろしいでしょうかな?」
「お話、ですか……?」
「ええ。ヒューゴさんについてです」
その名前を聞いて、私は目が見開いたのだと自分でも分かりました。
「どうぞ、お入り下さい」
私はオースティン大司教を中に招きます。ヒューゴさんの事について少しでも何か教えて下さるというのであれば、どんな小さな事でも教えて欲しかったからです。
足早に椅子と机の方へと進み、オースティン大司教を待ちます。落ち着いた様子で歩く姿が、とてももどかしく思えてしまいました。
私が座るように促すと、オースティン大司教は私の対面となる席へ座りました。私もそれを見てからすぐに座り、私から口を開きます。
「ヒューゴさんは、ご無事なのですか?」
考えるよりも先に出てきた言葉がそれでした。やっぱり私が今一番知りたいのは、ヒューゴさんが痛い思いや苦しい思いをしていないかどうかのようです。
「いえ……恐らく苦しまれたでしょうな」
そして、オースティン大司教の言葉で私の胸にズキリとした痛みが走りました。オースティン大司教は立ち上がり、背を向けます。
「夜になると、ヒューゴさんを調べ尽くす執行者が現れます」
「執行者……?」
オースティン大司教がなぜ立って背を向けたのかも分かりませんでしたが、私は執行者という言葉の方が気になりました。そのような存在を、初めて耳にしたからです。
「恐らくは、アーテル教の黎明期に教皇を務めていた魂でしょうな。罪を全て吐き出させ、アーテル教の立てた道筋に逆らうのであるならば徹底的なまでの贖罪と断罪を行使し、執行者の納得がゆくまで無限に繰り返されるという話です」
なぜか、独り言でも言っているかのような雰囲気でオースティン大司教は語っています。……もしかすると、聖女の私に知らせるのはあまり良くない事なのかもしれません。だって、そんな執行者が存在する事も、居る場所も私は知らなかったのですから。
「……その過程で死する事がほとんどだとも言われておりますな」
「っ──!!」
とても怖い事を言われ、身が竦んでしまいました。
死んでしまう……? ヒューゴさんが……?
それを考えるだけで、私の目の前の全てが現実ではないように見えました。私の目で見ている世界が、まるで別人の視界のようにさえ思えます……。なんて嫌な感覚なのでしょうか……。変な風に頭がくらくらとしています……。
オースティンさんは『独り言』を終えたのでしょうか、ゆっくりと席へ座ります。そして優しい顔をしながら、私へ話し掛けました。
「グローリア様、本日は出来る限りお休みしましょう。祭壇での禊と修練は必須なのでどうしようありませんが、懺悔などは気持ちの整理がついてからが良いでしょうな。そのようなお気持ちでは信徒の方々と上手く接する事が出来るとは思えません」
「…………はい……」
一瞬それでも頑張ろうと思いましたが、朝の不出来を思い出して素直に頷きました。今の私では、信徒の方々だけでなく全員に迷惑を掛けてしまいます……。ダメですね、私は……。
時間は刻々と進み、窓の外からは人の声も聴こえてきています。ああ……今日はとても辛い日です……。何をしようとも皆さんに迷惑を掛けてしまうだなんて……。
「ヒューゴさんの事について分かった事がありましたらすぐにお伝えします。……なので、少しばかり辛抱して下さいますかな」
「はい……よろしくお願いします……」
少しの間だけ話してくれたオースティン大司教は退室をしました。……きっと、話してはいけないギリギリの所まで話して下さったのでしょう。だって、あんなにも暗いお話がアーテル教にあるだなんて初めて知ったのですから。
一応、このアミリオ大聖堂にある書物のほとんどは私も目を通しています。しかし、その中には今回の話があったとは記憶していません。こんなにも印象深いお話ならば憶えていてもおかしくないので、きっと書物へ書き留めず言葉でしか伝えられていない事なのでしょう。
改めて自分が無知だと思い知らされます。一般的な常識もそうですが、私の人生──いえ、生まれる前からでずっと隣り合わせにあったアーテル教の事についてすら知らない事がありました。本当……聖女として失格でしょう……。
「守らなければならなかったのに……」
ポツリと呟いてしまいます。誰にも言えない……ヒューゴさんにすら言えていない、私の秘密。神の奇跡に巻き込まれたであろうヒューゴさんは、私が絶対に守らないといけないのです。
だって──
「私が願ったせいで、ヒューゴさんはここへ来たのですから……」
…………………………………………。




