歩いて来た道(レール) 5
ジェラード邸から帰ってきたその日、私とアメリアさんは社長に家事を教えて貰っていました。
私もアメリアさんも家事は出来るのですが、アメリアさんがとある事を言ったのが発端です。
「人によって家事のやり方は違いますから、社長さんのやり方を覚えたいです」
それを言われた時、素直に『なるほど』と納得したと同時に少し落ち込みました。だって、社長の役に立ちたいと言っておきながら細かい家事の違いを考えた事が無かったからです。そう考えるとアメリアさんの言っている事はまさしく社長の為です。……なぜ私は昨日、そこに気付かなかったのでしょうか。それが悔しかったのもあり、私は少し意固地になってアメリアさんと一緒に家事を教えて貰いました。
……いえ、本当は分かっています。悔しかったというのも意固地になったというのも嘘ではありませんが、もっと大きな理由がありました。
それは、アメリアさんがそれで頭を撫でられたからです。褒めているように頭を優しく撫でられているのを見て、単純に嫉妬したというだけです。そんなアメリアさんに負けたくなくて、私は対抗心が生まれたのです。
この気持ちはよく分かりません。ただ、その前兆はありました。社長は帰ってくると真っ先にアメリアさんの脚を手当てしました。痣になっていたその場所へ薬草を当て、布で巻くという簡単なものでしたが、その後に『頑張ったね』と言って頭をぽんぽんとしたのを見たのが一番初めでしょう。そしてそのすぐ後に彼女の首輪を取っていました。アメリアさんは物凄く驚いた顔をしていましたし、同時にとても救われたような顔もしていました。
柔らかく笑っていて、とても可愛らしく見えて……それがきっとアメリアさんの素顔というものなのでしょう。
「──さて、それじゃあ大事な話をしようか」
社長とアメリアさんが作った夕食を終え、皆が寛ぎ始めた頃です。社長が大事な話をすると言いました。
まず最初に主任さんへ視線を送りましたが、主任さんはあまり興味無さそうにしています。次に私の方を見て、そしてローゼリアさんを見ています。
なぜ私にも顔を向けたのかよく分からなかったのですが、お昼前に話していた事を思い出してピンと来ました。たぶんですが、社長の事を知りたいと言ったからでしょう。という事は、今から社長の身の上話とかが始まるのですかね? ……だとしたら、なぜ全員が集まっている今なのかは分からないですが。
「ロゼ、私達に聞き耳している人は居る?」
「? …………いえ、居ませんわ。どうかされましたか?」
ローゼリアさんは少しだけ目を閉じてから聞き耳している人は居ないと言いましたが、そんな事が分かるのですか……? 社長だけでなく、ローゼリアさんも大概な人のようです……。
それを聞いた社長は正面へと顔を向け、口を開きました。
「これから言う事は、今のところ秘密にして欲しい事。だから黙っていてね」
最初にそう言って、次に出た言葉は耳を疑うものでした。
「私と主任はこの世界の人間じゃない」
「……何言ってんだ社長?」
まず真っ先に声を出したのはレックスでした。けれど、それはたぶんここに居る全員が思った事でしょう。この世界じゃないってどういう意味でしょうか……。もしかして、御伽噺に出てくる三女神様の住まう神域からやってきたという意味ですか……?
主任さん以外が首を傾げましたが、社長は続けます。
「心当たりはあるんじゃないかな。見た事の無い生地の服に食べた事の無い料理や聞いた事もない武器、そして……私達は魔術が使えないという事とかね」
「あ、あの……? 魔術が使えない、です……?」
訳が分からなくて今度は私がそう言いました。あのルーファスさんが認めていると言われている稀代の魔術師の社長が、魔術を使えないってどういう事ですか……?
ただ、ローゼリアさんだけはいくつか心当たりがあるようで、どこかしら納得した表情をしていました。
「……なるほど。社長さん達の武器に使う『弾』がそうですわね?」
「そう。魔術陣自体は私が開発した物だけど、実際に魔力を込めているのはロゼだからね」
……今初めて知りましたよそれ。武器というのはあの不思議な形をしている長い……えっと、銃でしたっけ。それの事だと思います。弾が何かは分かりませんが、きっとその銃に使う大事な物の事でしょう。
社長は両手の指を絡めさせ、肘を机に落としました。その顔はとても真剣そのもので、嘘なんて言っているようには思えません。
「私が魔術師を名乗っているのは……なんて説明したものか。成り行きかな」
「まあ簡単に言えば、アホ面晒して人前に出てきたコイツを間違って召喚したって言い張る為ってとこだ」
「アホ面ってアンタねぇ!? 間違っていないけど言い方ってものがあるんじゃないのぉ!?」
バシバシと机を叩いて抗議するリリィさん。……一体何があってそうなったのか気にはなりますが、今は置いておきましょう。なんだか話が進まなくなるような気がするです。
「えっと……少し良いですか?」
「良いよ。どうしたのアリシア?」
私は、どうしても分からない事があったので手を挙げました。社長の許しも出ましたので、それを訊ねます。
「この世界の人間ではない事と、魔術が使えないって事にどういう関係があるですか……?」
分からない所とはここです。料理や服が違うというのは世界が違うから、という事で納得はできます。ただ、魔術が使えないという所が分かりませんでした。あんなにも便利なものは他に存在しないのに、どうして使わないのですか?
「それは、私達の世界に魔術はおろか魔力なんてモノすら存在しないからだよ。千年か二千年くらい前には本当にあったのかもしれないけれど、そんな不安定なモノじゃなくてもっと安定して誰でも使える技術があるからね。ただ、私達の世界に於いて魔術や魔力は存在しているとは一部では言われているけど実証は出来ていないよ」
「千年……ほえぇ……」
詰まる所、魔力が無いから魔術が使えないという事ですか。その代わり、そのもっと便利な技術を使っていると。しかも、魔術があったとしても千年二千年も前……。
まるで雲の上のような話をしています。そのせいか、現実味が無くてしっくりと来ません。
「何が言いたいかと言うと、私も主任もただの人間って事だよ。特別な何かなんて持っていない。街中で見掛ける一人の人間と何ら変わらない。平和で息苦しい世界で生まれ落ちた、死に辛いのに生き辛い世の中に辟易とした弱い存在だよ」
と、そこで少し気になる言葉が出てきました。平和なのに息苦しくて、死に辛いのに生き辛い……? 完全に矛盾しています。平和ならば息苦しいと感じる事なんてありませんし、死に辛いのならば生きやすいはずです。
それは皆も思った事なのか、全員が首を傾げて社長と主任さんを見ています。社長は目を閉じて首を振り、主任さんは悪そうなニィっとした笑い方をしました。
「平和が過ぎるとですねぇ、頭のぶっ飛んだ奴らが現れるんですよォ。都市一つを丸ごと焦土と化す兵器を振りかざしながら世界平和を謳うんだぜ? 殺す事はいけません、悪であり罪ですぅって口先では言う癖に他人を自殺に追い込んだりするしさぁ。国だってそうだぞ。殺したら税が奪えないから死なない程度のギリギリを狙って搾取していく。生かさず殺さずっスよ。言ってる事とやってる事がどいつもこいつも矛盾してんだよ」
主任さんは笑いながらそう言っていますが、目が笑っていません。語る口は軽いのにどこか諦めているようにも聴こえ、本当に苦労してきたのだと感じさせられました。
……平和な世界だと言っていたのに、どこにも平和な要素が見当たりません。そんなのただの生き地獄です。皮肉で言っているだけなのでしょうか……。
そんな主任さんの言葉に納得が出来なかったのか、ローゼリアさんが質問をしました。
「なんでそのような事を? 聞いている限りではまるで逆の事をしているではありませんか」
「金と利権が絡むからそうなるんだよ。それで馬鹿な奴らを騙せる。そうする事で自分の所に金が集まるし権力も手に入る。だったらやるに決まってるじゃねーか。そういう奴らで世界が支配されて世界が回ってたんだよ」
ですが、主任さんはそう答えます。……お金と権力に溺れる人が溢れていたという事なのですかね。なんだか、悲しいお話です……。そんな事をして虚しいと思わないのでしょうか。そんな事で世界が回っていただなんて俄かに信じられないです。ただ……社長が何も口を挟まないので、それは真実だったのでしょう。いつものように腕を組み、長い長い瞬きをしながら息を吐いています。
「簡単に纏めると、私達は魔術の無い世界からやってきた。魔術が無いが故に魔術に頼らない技術を進歩させ、それを享受してきた。その恩恵の一部があの武器や料理って所だね」
「もう一つ分からない事がありますわ。どういう目的でこの世界に来たのですか?」
社長が話を纏めた所でローゼリアさんが最大の疑問を口にしました。思ってみればそうです。確かに生き辛い世界だったのかもしれませんが、別の世界に来る事が出来るくらい技術が発展しているのであれば私達の世界は不便なのではないでしょうか? それなのにも関わらず、どうしてこっちへ来たのかが分からないです。
──そんな風に考えましたが、理由はもっと変なものでした。
「私達は『この世界に来た』訳じゃないよ。私達は『迷い込んだ』或いは『神隠しに遭った』って言った方が正しいね。……まさか、こんな事があるとは思っていなかったよ」
少しだけ雰囲気を落ち込ませた社長。彼女が言うには、自分の意思でこっちに来た訳ではなさそうです。おまけに、別の世界があるとは思ってもいなかったそうな。言われてから私も思いましたが、確かに別の世界が在るだなんて信じた事はありません。本当に別の世界が在ると確証しているのならば、何かしらの証拠があるはずですしそういった話題で持ち切りになっているはずです。それが無いという事は、別の世界が在るというのは御伽噺や吟遊詩人さんのお話の中だけなのでしょう。
「かみかくし……?」
と、そこでアメリアさんが首を傾げました。いつもの何かしらの比喩かと思いましたが、確かに神隠しとは何でしょうか。
社長は一瞬だけ硬直した後、左目を閉じて考え込みます。
「……通常では説明の出来ない超越した現象って考えて貰おうかな。人が何の前触れもなく忽然と消え失せる事を私達の世界では神隠しって呼んでいたの。神様の定義もこっちとは大きく違うから、三女神が関わっている話ではないから安心してね」
「そもそも神なんてもんは人が妄想して勝手に創り出した都合の良い存在なんだよ。もし居たとしても人が苦しんでる姿を見て愉悦を感じる優雅な奴に違いねえ」
「そこまでにしておこうか主任。この世界の全員を敵に回しかねない」
「へい」
……主任さんは過激な発想をする人のようで、なんだかちょっと苦手です。人を愛して祝福する神様がそんな事をするとは思えないですし、もし信心深いアーテル教の方が聞いたら物凄い剣幕で掴み掛かってきそうな言葉です。実際、私もあまり良い気分になりませんでしたし、ローゼリアさんもアメリアさんも目を細めています。
突然、ポン、と軽い音が鳴りました。音の発生源は社長で、両手を合わせている事から手で鳴らしたようです。皆がその音に反応し、社長へと視線を向けました。
「私達の一番の秘密はこれだよ。ロゼとアリシアの期待に応えられたかどうかは分からないけれどね」
「そもそもなんでこのタイミン…………面倒くせえなこれ……察しろ」
何かを言い掛けて途中で放り投げた主任さん。私達には分からなかったですが、社長は察せたようです。よく分かりますね、社長。
「そろそろ話しても良いと思ったからかな。ロゼもいい加減気になって仕方が無かっただろうし、アリシアからも知りたいと言われたというのもある」
「もう言っても大丈夫なのかよ」
「ここに居る皆にだけはね。まだ大っぴらには言えないよ」
「まだ、って事はいずれ言うつもりなんですかねぇ……」
「計画が順調に進んだらね」
お二人がトントンと話をしていき、またもや首を捻ってしまうような言葉を耳にしました。
「計画、ですか?」
社長は『計画』とハッキリ言いました。一体、どのような計画を考えているのですかね。
疑問を口にした私を見て、社長はその答えを言いました。
「あのシャロン城を拠点に、傭兵団を設立する計画」
「嘘やろお前……」
どうやら主任さんすら初耳だったようで、半分呆れたような驚いた顔をしていました。レックスとアメリアさんはよく分かっていないようでポカンとしていましたが、私はその危険さを知っています。
魔界とすら言われている東の最果て。私やレックスのような魔族が多く住んでいる、夜を作ったエレヴォ様の名を使う国家エレヴォ。そこに最も近いとすら言えるお城がそこです。
王子様達と一緒に調査へ行った時に現れた魔獣使いの魔族を思い出しました。怖くて足が竦むような魔獣を操って、空から氷柱を落としてくるような人……。そんな人達が住んでいる場所に近い所を拠点にするだなんて、どういう考えをしているのでしょうか。
「皆がどう思うかは分からないけど、私は人間も妖精も魔族も大して変わらないと思っているよ。ただの種族と信仰対象の違い……ただそれだけ。傭兵団は全ての種族を受け入れる場所にする」
「面白れーけど、そんな事できんの?」
「ハーメラには事前に告知しておいて、緩衝地帯として機能させる。調べた所、ここ最近は大規模な戦闘が発生していないらしいし、ハーメラ側もこの膠着状態をどうにかしたいと考えているはず。懸念としては魔族側がどう出るかだけど、レックスたち竜人を招くのも良いかもね」
「え、俺達?」
いきなり話を振られたからか、レックスは自分を指差して聞き返しました。
「そう。竜人ならばアーテル教側の人達でもまだ受け入れやすいはず。実際に街中を歩けているしね」
「あれって使い魔の契約をしているからじゃねーの?」
「それは勿論ある。けど、場所が違えば話は変わる。ハーメラでそれをやっても討伐されるだけだろうけれど、シャロンで新しい秩序を作れば出来ると私は考えているよ」
「なんですか。国でも作る気ですかお前」
「近いね」
「えぇ……」
呆れる主任さんと淡々と答える社長のやり取りを見て、私は唖然としてしまいました。この時世に国を作るような事をする人が現れるだなんて、誰が考えたでしょうか。……言っている事は難しいですが、もしそれが実現できるのならば世の中を変える事に繋がるのは間違いないでしょう。お互い手を出しにくい場所であるシャロンに、いわゆる中立地域を作る事で何かが起きる事は間違いありません。それが良い方向へ進むのか、それとも悪い方向へ進むのかは予測すら出来ませんが、何かの切っ掛けにはなると思います。
「──あははははっ!」
突然、ローゼリアさんが大きな笑いをあげました。何事かと思って目を向けてみると、お腹を抱えて心の底から笑っているように見えます。……一体どうしたのでしょうか。
ひとしきり笑ったローゼリアさんは、姿勢を正して大きく楽しそうな長い息を吐きました。その顔はいつもの微笑んでいるものではなく、どこか子供みたいな無邪気な笑い方をしています。
「国を作るとまでいきますか。本当、いつもいつも私の想像を遥かに越えた事を言いますわね」
未だに笑いが込み上げてくるのか、ローゼリアさんは小さく笑ってから続けます。
「とても、とてもとても楽しいですわ。私はその話に乗りましょう」
「お前やっぱ変な奴だァ……」
「あら。別の世界からやってきた人が国を作るという方がおかしくはなくて?」
「違いねーな」
「社長さん、建国はいつになさるつもりで?」
「……あくまで国を作る事に近いだけで、傭兵団だからね? それと、まだ計画段階だって事を忘れないでよ?」
とても乗り気なローゼリアさんだけが身を乗り出し、レックスも、アメリアさんも、リリィさんも、私も、どう反応をしたら良いのかが分からなくなっています。
ただ、どう反応すれば良いのかが分からないだけであり、私の中で答えは決まっていました。
「私は社長について行くです。どれ──」
「奴隷だから、って理由は無しだよ」
「う、ぅぅ……。完全に読まれているです……」
言葉を遮られ、先読みされてしまいました……。なんとなくそう言われそうな感じもしていましたけれども……。
「……でも、奴隷だからという理由だけではありません。私は、社長が行くのならばどこへだって行きます!」
そんな予感がしていたからこそ、ちゃんと別の理由も考えていました。困ったような笑顔をする社長ですが、こればかりは譲らないですよ。
それは社長に伝わったのか、苦笑いしたまま頭を撫でてきました。……なぜでしょう。何か勝ったような気分です。
「アリシアちゃんったらホント健気よねー」
「えへへ」
傍に寄ってきたリリィさんにも頭を撫でられ、悪い気はしない私。……心地良いです。本当あの時、社長が鎖を手に取ってくれて良かったです。そうではなかったら、今頃きっと辛い生活を送っていたでしょう。だからこそ、私は社長の為に何でもしたいと思えるのでしょうね。
「俺も行くぜ。社長とアリシアには世話になってるからな。村に残った仲間にも声を掛けてみよう」
レックスもニッと笑いながら協力的です。竜人さん達も今は大変な事になっているらしいので、移住先が見付かれば喜ぶかもしれません。
「で、お前はどうすんだリリィ」
「こんな面白そうな事、ついて行く以外ある? それにどうせ主任も行くんでしょ?」
「そっすね」
主任さんとリリィさんも行くと宣言しました。主任さんの素っ気無い返事にリリィさんは『素直じゃないわねー』と言いながらピットリと主任さんの腕にくっついています。……あ、振り払われました。
……とまあ、これでアメリアさん以外の全員が社長について行く事が決まりました。そして社長を挟んで逆側に居るアメリアさんはというと……とても困り果てた顔をしています。……それもそうでしょうね。何せ、この子は今日ここへ来たばかりなのです。ここに居る全員の事を知らないのにも関わらず、そんな大事な事を決められるはずがありません。
「話が勝手に進んでいっているけど、さっきも言ったように今は計画段階だよ。まだ土台が出来上がっていないから実行に移せない。傭兵団設立の為に彼是と根回しをしているから、もう少しだけ待って貰えるかな」
と、そこで社長が話をザックリと切りました。空気に帯びた熱は引きましたが、未だにその熱は皆の中に内包されているようで、傭兵団が出来た後の事を考えているようにも見えます。
ホッとするアメリアさんに、社長は手を伸ばして頭をポンポンと撫でていました。……なぜか少しだけウズウズとした気分になります。この気持ちは一体、何なのでしょうか。
「さて、それでは片付けをしよう。アリシアとアメリアは手伝ってくれるかな」
「はいっ!」
「はい」
話は終わりという意味でしょう。呼ばれた私とアメリアさんは食器を片付けていき、他の方々はゆっくりと寛ぎ始めました。三人にもなれば食器洗いもすぐに終わり、私たち三人も部屋へと戻ります。既に主任さんとレックスは夢の世界へと旅立っているようだったので意外だな、と思いましたがすぐに思い出します。今日は私たち以外は鉄鉱石を運ぶ仕事でした。きっとそれでお疲れなのでしょう。
社長が口の前で人差し指を立てたので、ひっそりと音を立てないように移動する私達。ですがここで一つ問題が発生しました。私たち三人に関わる、ちょっとした問題です。何がと言うと……私とアメリアさんが一緒のお布団に入って寝る事になったという事です。それも、社長の寝台で。そして社長はというと……床で眠るというとてつもなく奇妙な状態です。
なんでも社長曰く『寝台を作り忘れていたのは私の落ち度だから、それが出来るまでは二人がそれを使うように』との事。流石に三人は入れませんし、社長も頑なになって床で寝ると言い張ったのでこうなりました。
奴隷の私と使用人(で良いはず?)のアメリアさんが寝台で、主たる社長が床で寝るだなんて、どれだけおかしい状況でしょうか。ですが……私達が二人がかりで説得をしても社長には敵いません。結局は言い包められてしまいました。
結局、私達は何度も社長の方へ顔を向けながら寝台へ上がり、そして何度も頷かれながらお布団へ潜り込みました。奴隷と使用人の私達はお互い不安そうな顔をしながらも目を瞑り、そのまま身体を脱力させます。
「すぅ……」
すると、数分もしない内に可愛らしい寝息がすぐ傍で耳をくすぐってきました。どうやら、アメリアさんはもう眠ってしまったようです。
彼女は今日、色々な事が起きたからか不安そうにしていましたが、眠ってしまえばその色も消え去り、安堵して落ち着いた様子を見せています。15歳という年相応の垢抜けない寝顔で、私の胸の前で身体を丸めて寝ています。
「……………………」
そして私は逆に……眠れずに居ました。既にどれだけの時間が経ったのか分かりません。不思議な事に、眠いのに寝られないのです。体勢が悪いのかと思って何度か仰向けになったりうつ伏せになったりと色々試してみましたが変わりません。何が原因なのか色々と考えるくらい眠れず、そしてその原因は分からなくて……ゆっくりと確実に刻まれる時間に流されていました。
一体、どれだけの時間が経ったのでしょうか……。もうかれこれ数時間はこうしてモゾモゾとしているような感覚です。
窓の外は暗く、月明りに照らされて僅かに見える静まり返った家々が見えるだけ。時が止まってしまったかのような錯覚を覚え、心の底から沸いてくる妙な不安と緊張が私の感覚を狂わせています。
(……このまま、夜が明けるのを待つしかないのでしょうか)
周りには沢山の人が居るのに感じる孤独。心に穴が空いてしまったかのような寂しさ。それをなんとか振り払いたくて、何度も寝返りをした時です。ふと、社長の姿が目に留まりました。
私は息を呑み、音を立てないようにコッソリと布団から抜け出します。なんとなくですが、社長ならばなんとかしてくれそうと思ったからです。
猫のように気配と音を消しながら、ゆっくりと社長の傍へと寄って行きます。社長の小さくて、か細い息遣いが聴こえる距離まで近付いたその時、昨日の事を思い出しました。その瞬間、社長に寄り添おうとした私の身体はピタリと止まります。そして、そのままさっきまで以上に遅い動きで距離を空けました。
……過ちを犯す所でした。社長は身動ぎという些細な事で起きてしまうお方です。そんな、ただでさえ床で眠っている社長に寄り添ってしまえば起こしてしまうのは必至でしょう。
私は腰を下ろし、膝を立てる形で座り込みました。腕は立てた膝の下を通し、身体を太腿へ預けるようにしている状態です。視線の先には身体を丸めて横向きに眠っている社長の姿。私の、大切な主様です。
ボーッと社長を眺めている私。手を伸ばせば簡単に届くほど近くに居る筈なのに、どうしても近付けないくらい遠く感じます。起こしてしまうのは昨日と同じく一瞬だけ、とすら考えてしまいます。そうすれば、私はこの眠れないのに押し寄せてくる眠気に悩まされる事も無くなるでしょう。
ただし、それは私の我儘を押し付ける形です。社長は昨日、寝過ごすほど疲れていました。そんな社長を一瞬であろうと起こすなんて、私には出来ません。社長を困らせてしまうだけです。……それに、これだけ近ければ眠れるかもしれません。幸いにもこれだけ離れていれば社長も起きないようですので、このまま眠れるように頭を空っぽにしましょう。
私は、出来るだけ何も反応しないように何も感じないように目を閉じ、全身を脱力させてからボーッとさせました。意識はあるけれど頭は働いていない。そんな状態になるように──。
──それが、大きな過ちになるとも知らずに。
「…………っ!? アリシア──!?」
相当な長い時間が経った頃、擦れていながらも動揺した声が私を覚醒させます。ビックリして顔を上げると、心配している社長の姿が目に入りました。既に空は明るくなってきており、四つん這いで視線を合わせて私の頬へ手を添えている社長がハッキリと見えています。
「どうしたの一体……。なんでこんな所に……?」
「……………………」
驚きのあまり、私の頭は凍り付いたように固まっていました。社長が心配して声を掛けている事は分かるのに、それに対する返事が出来ません。
「……社長…………」
やっと出せた言葉が、目の前に居る人の名前。何の返事にもならないそれに、そのお方は表情を悲しそうに歪ませました。
この時、私は理解をしました。
ああ……私は、困らせてしまったのですね────と……。
…………………………………………。
「……先に謝っておくよ。ごめん、皆」
朝食が終わった後、社長が話を切り出しました。
「いきなりどうしたんだ社長?」
唐突に謝られたので、レックスのように疑問を覚えるのも無理はありません。視線は社長へと集まっていますが……私が申し訳ない気持ちで一杯でした。だって、これから社長が何を言わんとしているのか予め知らされているのですから。
「今日は休みを貰って良いかな。……身体の疲れがあまり取れていないの」
「もー……無理をしたら身体を壊すのは当然でしょ? 寝た方が良いわよ絶対」
「今日はお休みして下さい。わたくし達がその分まで働いてきますわ」
リリィさんとローゼリアさんが気を遣っています。社長へ向けられた優しい言葉なのに、私へ鋭く刺さる言葉です……。社長に、嘘ではないけれど本当でもない事を言わせてしまっているからです。
社長は目を瞑り、首を横に振りました。
「いや、全員を休みにしようと思っているよ。一回ここで全員の身体を万全の状態にして、また明日からしっかり働けるようにしよう」
「あら。わたくし達はいつでも万全ですわよ?」
「おう。むしろ身体を動かさないと鈍っちまう」
「私達も程々に頑張るように収めておくからさー? 社長はゆっくり休んでいなさいって」
「……むう」
言葉が出なくなった社長は、左目を閉じて考えているようです。ああ……本当、私は何を言わせているのでしょうか。
自分で自分が嫌になります。ただ私が眠れなかっただけの話なのです。そして、私が弱音を吐いたからこうなってしまったのです。
社長の傍でないと、眠れないのかもしれません──。私は心配してくれた社長に、ポロっとそんな事を言ってしまいました。あの時、私は完全に頭が働いていませんでした。だから、結果が見えている悪手を打ったのです。
言ってから気付きました。こんな事を言ったら、社長が何をするかなんて容易に想像がつきます。そして案の定、社長は私を庇っています。身体の弱さを理由にして、私が咎められないようにしているのです。
「……なら、アリシアを傍に置いて良いかな。何かあったらアリシアを頼る事にするよ」
「お前も素直じゃねーよなぁ」
そこで、意外な事に主任さんがそう言ってきました。なんだか私を一瞬だけ見ていたような? ……もしかしてあの時、起きていたのですか? そうでないと私を見る理由がありません。
一瞬の間を置き、社長は私へ問い掛けました。
「アリシア、頼んでも良い?」
「……はい!」
私は出来るだけ元気に返事をします。眠い事を悟られないようにする為に。社長の気遣いを無駄にしないように。
話はそれで纏まり、ローゼリアさんがリリィさんとレックス、そして自室に行こうとした主任さんの首を掴んで商工会へと向かって行きます。主任さんは全力で嫌がっていましたがローゼリアさんの力に全く敵わないらしくされるがまま姿を消しました。
アメリアさんは頑張って家事をすると言っていましたが、社長はそこで指示を出しました。ゆっくり休みながら最低限の事だけやるように、と。アメリアさんは困っていましたが、彼女も足を怪我しているのです。無理をしたら悪化する可能性もあるでしょうし、それを突かれてションボリと納得をしていました。
「──さて、アリシア」
「はい……」
部屋に入って、すぐに社長は私を呼びます。罪悪感に苛まれながら、私は社長の言葉を待ちました。
「寝よう。……私も、気を抜きたい」
ただ、掛けられた言葉は違和感のあるものでした。なんと言えば良いのでしょうか……いつもの社長らしくない、というか……。苦しそうに、もしくは辛そうに目を細めながら弱々しい声色でそう言ったのです。張り詰めさせていた緊張の糸を緩めたという表現が近いような気もします。……もしかして、本当に疲れ切っていたのでしょうか。
少しフラつきながら寝台へと向かう社長が怖くて、私は急ぎ足で社長の傍へ寄り添います。社長は私が近くに居る事を気にも留めていないかのように眼鏡を外して髪を解きながら寝台へと寝転がりました。
投げ出された髪は布団へ乱れ、遥か遠くを見ているかのような目で私をボーッと眺めています。その視線がなんだか寂しそうで、自分の姿と重なって見えてしまいます。
だからでしょう。どうすべきか考えるよりも先に身体が動いていました。私も寝台へと上がり、社長の放られた腕へと触れ、驚かせないようにゆっくりと身を寄せていきます。すると、社長は一昨日のように私を抱き締めてきました。あの時よりも強い力で、むしろ商人から鎖を奪い取った時のように私を抱き寄せています。
その瞬間、強烈な眠気が襲ってきました。目を開けていられないくらいで、頭が強制的に寝ろと命じているかのようです。
急速に抜けていく力と意識。全ての感覚が溶けたように朧ろげとなった頃、私の頭上から声が降ってきました。
「良い夢、見てね──」
その言葉で誘惑されたのか、私は夢の国へと旅立っていきました──。
──夢の世界は不思議な事で溢れている。昔、誰かが言った言葉です。誰が言ったのか、どこで聞いたのかは憶えていませんが、この言葉だけは頭の片隅に残っていました。
実際そう思います。夢はどんなあり得ない事でも実現されるからです。
そう……例えば──
「アリシアは最近どうなのです?」
「良い子にしているわ。本当、良い子よ」
「教育がしっかりしている証拠だな」
「なに。我らは普通と少々違うのでな。不安ではあったが、上手くやっていけているのであれば何よりだ」
──こんな夢。真っ黒の空間なのに、なぜかハッキリと見える姿。
向かって左側には私を生んでくれた吸血鬼のお父さんとお母さん──そして、右側には私を引き取ってくれた人間のお父さんとお母さん。その四人が向かい合って食事をしていました。これは絶対にあり得ないです。人間のお父さん達とは、吸血鬼のお母さんが殺されてから会ったですし、何よりも全員……ソポータ様によって神界へ逝ってしまったのですから。
両脇に居る二組の両親。私はどっち側にも座っておらず、両親達の横に位置する場所へ座っていました。そのおかげで全員の顔を見る事が出来て、お父さんはお父さんと、お母さんはお母さんと楽しそうに会話しているようです。
あって欲しかった、もしもの光景。大好きで大切な両親達と揃って食事をする、叶わない願望。それが、夢であるここでは実現していました。
「──アリシア」
嬉しくて眺めていると、左に居るお父さんが声を掛けてきました。
「これだけは忘れないように。自分にとって大切な人が困っていたら、迷わず助けるのだぞ」
私と同じ、長くて金色の髪をしたお父さんがそう言います。
「吸血鬼にはそれを実行するだけの力があるですからね」
私の口調に影響を与えたお母さんはそう言いました。
「そうねぇ。アリシアもお父さんのように、大切な人を大事にしなさいね?」
今度は右側に居るお母さんがそう言います。
「お前こそそうだっただろ? 見ず知らずの怪我人だった俺を手当てしてくれたのはエマ、お前だったじゃないか」
そして、右側のお父さんも微笑みながら言います。
……ああ、これには聞き覚えがあるです。吸血鬼のお父さん達も、人間のお母さん達も、前に私へこんな話をしていました。
懐かしいです──。そう思いながら、吸血鬼のお母さんが人間のお母さんに馴れ初めを訊く姿を、私は温かい気持ちを抱えて見ていました。
そんな時です。ふと、視線を感じたので後ろを向きました。
両親達が居る真っ暗な空間とは真逆の、真っ白の空間。そこに、女性らしく腕を組んで後ろ向きに立っている社長が居ました。
ああ、やっぱりこれは夢です。人間のお父さん達とならともかく、吸血鬼のお母さん達と社長は絶対に会えなかったのですから。
「アリシアを……私達の自慢の娘を、頼みます」
両親達の誰が言ったのか、そんな声が後ろからしました。ですが、振り返ってみるとそこには誰も居なく、更にはさっきまで並んでいた料理や椅子、机すらも無くなっています。在るのは、真っ暗な空間だけです。
もう一度、社長の方へ向くと、社長は変わらず背を向けて立っています。
私は立ち上がり、黒い空間を抜けて白い空間へと足を踏み入れました。すぐ目の前に在る、頼れる後ろ姿。纏められた長い髪を揺らしながら、その方は私の方へ身体を向けました。
差し伸ばされる細い手。私がその手を取ると、社長は優しく微笑んで引き寄せてきました。
──私は吸血鬼です。力の勝負で人間に負けるなんて事はありません。なのに、どうしてでしょうか。社長にこうされると一切抗えませんし、むしろ抱き留められて幸せを感じています。
温かい抱擁──
解れる心──
柔らかい幸福感──
それらを享受し、さっきまで居た両親達の事もあり、私は気付きました。
(ああ……きっと私は、社長に『両親達』を求めているでしょう──)
──目が覚めました。
場所は社長たちの部屋の、お布団の中。目の前には夢と同じように私を抱き締めている社長。夢と一つ違うのは、この大切な方が眠っているという事でしょう。
詳しい時間は分かりませんが、窓から入ってくる陽の光の傾きからしてお昼の真っ只中でしょうか。長くも短くもない時間を私は寝ていたようです。
(お父さん達、お母さん達……)
夢の中での事を思い出して、心の中でそう呟きます。
私が社長に求めている気持ち。親という、絶対的に安心させてくれる存在。それに社長は応えてくれているのでしょう。だからこんなにも安心できるのでしょうし、不安定な私は社長の傍でないと寝られないのでしょう。
そう考えると、やっぱり心の中でしっくりときました。私は社長へ『親のように安心させてくれる』事を求め、ているようです。年齢は不詳ですが、恐らくあまり変わらない歳である社長へ。そう思わせてくれるくらい社長は優しく、そして厳しい人です。
思ってみれば、もしかしたら社長は既に子供を授かっていたのかもしれません。だって、こんなにも親のように思えるのですから。もしかしたら元の居た世界で誰か素敵な人と結婚をして、幸せな日々を過ごしていたのでしょうか……。
一瞬、訊いてみましょうかと考えましたがすぐに振り払います。もし本当にそうだったとしたら、とても残酷な事を訊いている事になるからです。
社長を傷つけかねないその質問を私は胸の奥に仕舞い込み、私は眼鏡を外した社長の寝顔を見詰める事にしました。
「ん……」
……のですが、またもや社長は起きました。今度は身動ぎすらしていません。……まさか、視線で起きたですか? いえ、そんな事はないと思うのですが……。
色々な事を考えていると、社長は私の顔を見て微笑んできました。
「……眠れた?」
「はい。……良い夢でした」
二度と顔を見る事が叶わないと思っていた両親達。その両親達の笑顔を、夢の中でも見られたのは良い事です。だから、私は良い夢だったと答えました。
「良かった。……今度からは一緒に寝るようにしようか」
「はいっ」
社長のその提案に、私は笑顔で返事をしました。
ああ……やっぱり社長は親のようです。こんなにも安心させてくれる人は、他に居ないでしょう。
社長は眼鏡を手探りで探し、見付けたら身体を起こしました。私も同じように身体を起こし、腕や背中を伸ばします。凝った身体は伸ばされる事で気持ち良さが生まれ、意識がハッキリとしてきます。そうしている内に社長は髪を首の後ろ辺りで簡単に纏め、私と同じように腕や肘を伸ばしていました。
「……良し。私も身体を休められたみたい」
どうやら身体の調子を確認していたようです。手を開いたり握ったりして頷いています。
社長は寝台から降り、私の方へ振り向きながら言いました。
「さあ、顔を洗ったら任せっきりにしているアメリアを手伝いに行こうか。私達の一日は今から始まるよ」
「無理は禁物ですよ?」
「勿論。程々に頑張るよ」
どこかしら、いつもより柔らかい表情で言う社長。もしかしたら、私と同じく良い夢が見られたのかもしれませんね。
そんな事を思いながら、社長の言っていたように私達の一日が始まりました──。
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