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クロス・レール  作者: 月雨刹那
プロローグ
2/41

プロローグ1 聖女

 ──酷く気持ち悪い。


 今現在の心境を表すならば、その一言だった。

 目の前が真っ黒という色に染まっていて、上下左右の感覚が完全に死んでいる。自分が落ちているのか止まっているのか、それさえも分からない。空間がぐにゃぐにゃしていると言うのが一番近い。

 ──なんでこんな事に。

 そう言ったつもりだったが、自分の耳に届かなかった。ここは音さえも存在していないらしい。

 さっきまで、僕は普通に歩いていた。今日はなんとなく読んでいる漫画の新刊が発売される日だから、学校帰りに本屋へ寄ろうと歩いていた。

 それだけだったのに、何も無い所でいきなり道を踏み外したかと思えば今の状態だ。訳が分からない。分かるはずがない。


「────────ッ!!」


 もはや何回目か分からない胃の中のぶち撒けで、喉に激痛が走り頭もくらくらしてきた。もう吐く物なんて何も残っていない。これは血や胃液でも吐いているのかもしれない。

 ……一体、これはいつまで続くのだろうか。何もかもがぐちゃぐちゃで、まともに物事も考えられやしない。そもそも、ここは一体どこなのだろうか……。

 それから幾分か経った後、いきなり重力を感じた。

 宙に浮いてはいるが、落ちているというのだけは感覚で分かった。


「う、ぁ……?」


 自分の声も聴こえる。光も見える。──ああ、やっとこの意味不明な状態から抜け出す事が出来るんだ。

 きっと、僕は貧血か何かで倒れたんだろう。それでこんな夢を見ているに違いない。目が覚めれば、またいつもの道に居て、倒れた僕を心配している通行人が居て、へらへらと笑いながら僕は本屋に向かうだろう。

 少しだけ、その事に嬉しさを感じた時だ。目の前の世界に違和感を覚えた。細く伸びた雲と澄み渡る空。人工物の見えない青々と広がる大地。そして──風を切る音。


「は……?」


 一気に頭が冴え渡る。不自然過ぎる光景に、逆に頭が冴え渡った。

 まず、雲が広がっていると分かった。そしてその向こうに、緑の大地が見えた。この時点で酷く違和感を覚える。

 そして自然と身体がくるりと回転し、純粋に黒い海と、黒い海に浮かぶ強烈な光の玉が目に入ってきた。──この時、薄々と何が起きているのか理解をし始めていたけれど、納得なんて全く出来なかった。

 視界が何度かくるくると回り、雲と同じくらいの高さになった所で『黒い海』が『空』へと変わる──いや……『黒い海』は『宇宙』だった事に気付いた。それと同時に、緑の大地が初めと比べて随分と近付いている事にも気付く。

 ここまで来てやっと、僕は現状を受け入れた。


 ──僕は空から落ちている。それも、限りなく宇宙に近い場所から。


 冴え渡った頭だったが、ここにきて逆に凍ったように固まった。

 どうすれば良いのだろうか──。いや、どうしようも出来ないんじゃないだろうか──? そもそもなぜこんな状況になっているんだ──?

 そんな考えがぐるぐると頭の中を巡っている内に、いつの間にか僕は目と鼻の先に地面がある所まで落ちてしまっていた。地面と勝てない喧嘩をするまで、もうあと十秒も掛からないだろう。


(ああ……良く分からないけど死んだな……)


 分からないなりに観念した直撃の瞬間、ふわり、と不自然な動きで地面への衝突が回避された。

 それは有り得ない動きだった。一直線に落ちていっていたはずなのに、そのスピードが消え去ったかのようにほとんど殺されたのだ。

 身体が大地にぶつかって弾け飛ぶ事はなかったが、それでも勢いは殺しきれなかったようで、地面を転がっていく。

 ガッ、ゴンッと頭を何度もぶつけ、痛みで意識がくらくらとしてくる。おまけに途中で何かにぶつかり、宙に舞った。

 視界が回りに回って訳が分からない事になっていたのだが、その一瞬だけは違った。

 今まで見てきた光の無い闇とは違うドス黒い何かが目に入る。そして──


「死ね」


 ──その言葉と共に、僕の意識はプッツリと切れた。




…………………………………………。




「────」


 何かが聴こえた。優しく、温かい声のような何か。

 けれど、いまいち何が聴こえているのか分からない。まるで深い夢から徐々に覚めていっているかのような、そんな感覚。

 ふわりと、頭をくすぐったく撫でられる。──いや、頭というよりは髪を撫でられていると言った方が正しいかもしれない。


「ぅ……」

「気が付かれました?」


 細く、鈴が鳴ったかのような声が僕の頭に降ってきた。

 綺麗な声だ──。

 耳にして初めに思ったのが、そんなチープな感想。

 どこかで聞いた事がある。本当に綺麗だと思える物を見た時、人は『綺麗』以外の言葉が浮かばないと。よくよく考えると当然だろう。これ以上混じりっけの無い『綺麗』を表す言葉は存在するはずが無いのだから。

 その綺麗な声に誘惑されたのか、僕の意識は段々とハッキリしてくる。重い瞼を渾身の力で抉じ開け、眩しい光で一瞬だけ目が眩んだ。

 徐々にその明るさにも慣れてきた頃、その綺麗な声の主は言った。


「大丈夫ですか?」


 上から僕の顔を覗き込んできたのは、一人の少女。

 薄く青色に透き通った瞳。染めたのではないと分かる自然な金色の長い髪。まだどこか幼さを残す、女性になろうとしている健康的な白肌の少女の顔。そのどれもが、とても美しく調和していた。

 正直に言って……ドストライクな子である。

 今になってやっと状況を把握する。どうやら僕は、膝枕をして貰っているらしい。

 ただ……そんな中にも一つだけ異質な存在が目に入る。


「血が……」


 彼女の首から下が、べったりと血で赤黒く化粧されていた。

 怪我でもしているのかと思ったが、すぐにその考えは捨てる事となる。これだけ大量の血を流しているのであれば、相応の大きな傷があるはずだ。けれど、彼女は聖母のように柔らかく微笑んでいる。それに、よく見るとその血は溢れ出てきたというよりもバケツで勢いよく掛けられたという感じだった。

 どうやらその予想は当たりらしく、彼女は小さく首を横に振った。自分の血ではないという意味だろう。

 だが、続けて紡がれた言葉に、僕は困惑する事となる。


「これは貴方の勇気の証です。助けて下さって、ありがとうございます」


 勇気の証? 助けた?

 何の事を言っているのか分からず、僕は何度か瞬きを繰り返す。


「魔族は去っていきました。今は安全です」


 またもや理解できない言葉が彼女の口から発せられた。

 魔族? 安全? どういう意味なんだろ?

 一先ずは頭を働かせる為、僕は身体を起こす事にした。


「身体は大丈夫ですか?」

「とりあえずは……」


 自分の声にどことなく違和感を覚えたが、とりあえず無視をする。


「ええと……それ、で…………?」


 身体を起こした事で、周囲の状態を初めて認識した。

 空から見た時は何も思わなかったが、知らない景色だった。僕の知っている、中途半端に発展の止まった町じゃなかった。

 コンクリートの建物も、アスファルトも、電柱も、信号も、車も何も無い。どこかの平原……のようだ。ほとんど霞んでしまっているが、遠くには低い山が見える。近くには林らしき木々が並んでおり、その木も記憶に無い種類だ。ゲームで見た事があるような景色といえば良いのだろうか。幻想的な、そんな感じだ。

 一際目に留まったのが、いくつかの馬車と少し赤みが掛かった黒くてズブズブの泥。更に言うならば散乱している泥の周辺に、軽そうな鎧や槍や剣などの武器も散らばっていた。なんだこれ?


「……………………」

「……酷いですよね。生き物を溶かしてしまう呪いのようです」

「呪い……? 生き物……?」


 彼女は『生き物』という単語を口にした。そして『溶かしてしまう』とも言った。

 じゃあ……この赤錆を含んだみたいな泥が、元は生き物だったって言うのだろうか?

 正直な話、まったくそうとは思えなかった。現実味が無いというのもある。だけど、何よりも生き物が溶けるだなんて考えた事も無いのだ。それに、生き物が溶けるだなんて早々ある話じゃない。むしろどう溶けたらこんな風になるんだ?


「周囲に広がった呪いのほとんどは浄化しました……ですが、あまり見て気分の良いものではないと思います。馬車の中で休みましょう」

「う、うん……」


 やはり自分の声に違和感を覚えるが無視をする。というよりも、この景色と生き物だったモノで頭が一杯で他の事を考える暇なんて無かった。

 白く煌びやかで宗教っぽい服を着た彼女に手を引かれ、僕は後ろにあった大きな馬車らしき物の内の一つへと足を運ぶ。……本来ならば馬が居るべき場所にある泥は、馬だったモノなのだろうか。

 ……って、なんだ? なんか妙に歩きにくい? バランスが取りづらいというか……まるで自分の身体じゃないというか……。そんな感覚だ。


「さあ、どうぞ」

「ありがと……」


 先に中へ入って手を差し伸べた少女に手を引かれ、少し高い段差に足を掛けて中へ入る。……ん? なんで素足なんだ僕? ……まあ良いか。

 馬車の籠の中は、一人ならば少し寛げそうなくらいの広さだ。だが、今はここに二人居るので丁度良いくらいだろう。親の軽自動車の中よりかはよっぽど楽に身体を動かせる。


「ん? ……んんんっ!?」


 身だしなみ用なのか何かなのか、全身を映せるような大きな鏡がある。が、その鏡は異常だった。


「ええっと……ハイ……。そうなんです」


 鏡には二人の人が映っている。この馬車の中には僕と隣の少女しか居ないのだから、当然僕とこの子という事になる。


「人を溶かしてしまう程の呪い……。直撃すれば私といえども死は免れなかったでしょう。そこへ庇って飛び出して下さったのが貴方です」


 僕の顔が自分でも分かるくらいに引き攣っていく。それと同時に、鏡の中の一人も顔が引き攣っていっていた。


「命の恩人である貴方を救う為に、貴方の身体を治そうとしたのですが……その……お恥ずかしながら私は男性の身体の構造というのが分からない上……貴方の姿をハッキリと見られた訳でもありませんでしたし……」


 鏡に映っているのは、二人の少女。その少女は……顔も、髪も、目も、肌も、身長も、何もかもが同じだった。


「…………それと、あまりにも急を要したので……その、一番よく知っている私の身体と同じに──」

「──なんじゃぁこりゃああああああああああッッ!!?」


 叫んだ。もう、腹の底から叫んだ。そして同時に理解した。

 声に違和感があったたのは自分の声ではなかったから。歩きにくかったのは、そもそも自分の身体ではなかったからだったからか!

 鏡に映る自分の姿は、恐らくこの少女と同じ身体に白く煌びやかなローブを羽織っただけ。前開けのそれから覗いている鎖骨やお腹、膝小僧にほっそりとした脚が眩しい。

 いや、正直に言うと神聖なエロさすら感じる。


「なんだ……! なんなんだこれは……!!」


 わなわなと身体が震える。ヤバイ……ヤバイよこれ……!!

 見た事の無い場所に居るとか、呪いがどうやらとか、魔族がなんやらとか、もはやどうでも良い!

 そんな事よりもだ……!!


「ご、ごめんなさい! あの、あまり魅力的な身体ではないと思いますが……どうしてもこうするしか……!」

「いや……そうじゃないんだ……」

「え……? えっと……?」

「僕が腹を立てているのはだ……!」

「は、はいっ!」


 少女が背筋を伸ばして怖がる。それに対して僕は、膝と手を床に落とし、ガクリと項垂れた。

 クソほど腹立たしいのは……鏡に映った自分が土下座したい程に好みのタイプだという事だ……!!


「……………………えっと……?」


 ガッ、と僕は床を叩いた。

 自分の身体が自分好みの女の子の姿になった──。単純に言ったらそれだけの事だが、重大な欠点……いや、欠点しかない!

 まず自分の姿を見たいのならば鏡を見なければならない事! そして鏡を見るという事は『自分の姿を見る』という意識が存在する事! つまりは僕は『僕』の姿を見て胸を恋する少女のようにキュンとさせる事になるのだ!!

 初めの何回かはそれでも良いかもしれない……しかし!! それは詰まる所、その後は良くないという事でもある!! 自分の身体であるからこそ分かる欠点もある!! その点を愛せなければ、どんなに理想の異性の姿をしていると言えども愛せなくなる!! 残念ながら、僕は自分を愛せるようなナルシストではない。とてつもなく残念だ。心底残念だ。どうして僕はナルシストじゃなかったんだ。

 それにありがたみが無くなるぅ!! こういうのは他人の身体だからこそ愛おしくて愛でたくなるんだよぉ!! ──いや、やっぱりダメだ!! 嬉しいがダメだ!! どうせ好きに出来るんだったら自分じゃない他人の身体を好きにしたいッ!!


「……………………」

「はっ──!!」


 人生で初めて感じた強力な欲望により手や頭を床に何度叩き付けたのか分からなくなった頃、僕は正気に戻った。恐る恐るとこの身体の本当の持ち主へ顔を向ける。常識的に考えて、こんな反応を取っていたら引かれる以外の未来が見えない……。つーか……気持ち悪すぎる……。いきなり目の前で涙を流しながら声を噛んで殺しつつ床を叩き出したら頭のおかしい人にしか見えない。


「…………」


 彼女の顔は暗くなっていた。当たり前である。こんな気持ち悪い行動をしていたら誰だって引く。第三者ならばどう見えるだろう、と考えた自分でさえ引いている。

 ヤバイ……。僕、取り返しの付かない事をしてしまった……。いくら理想の女性像だったからとはいえ、命の恩人らしき人物の前で取る態度と行動ではなかったのは猿でも分かるほどの愚行だ。

 例えこれが夢であったとしても、人としてまず言うべきなのは、助けてくれた彼女への感謝の言葉だっただろう。


「ご──」

「ごめんなさい……」

「……え?」


 謝ろうとしたら、先に少女が謝ってきた。

 僕の前で膝を下ろし、まるで腫れ物を扱うかのように僕の手に優しく触れてきている。

 ……なんでだ? なんでこの子が謝っているんだ?


「私が至らなくて、ごめんなさい……。本来であれば男性の姿へと戻してあげるべきでしたのに……。男性が女性の身体となってしまうのは、辛い……と思います」

「────────」

「もし私がある日、突然なんの前触れもなく男性の身体となってしまったら……辛くて、怖いです……。今まで出来ていた事も出来なくなり、周囲の方々からの反応も変わってしまうかもしれません。もしかすると、これが原因で友人を失ってしまう可能性だってあります……。本当に、ごめんなさい……」


 懺悔。この少女の言葉から、そう感じられた。

 それは僕にとって異常だとすら思える。そもそもの話、彼女は何も悪くないのだ。

 僕は空から落ちてきた。ただそれだけだ。そこに彼女が悪者になる理由なんて存在する訳が無い。それどころか、感情が暴走して奇行に出た僕の姿を見て、彼女は悪い意味で自分に原因があるとさえ思っている。

 彼女を聖人君子か何かかと感じたくらいだ。僕には絶対にそんな発想は出来ない。単純に頭のおかしい人を助けてしまった、と思うだけだ。

 それに状況はいまいち掴めていないけど、彼女の身なりを見る限りでは相当な身分の子なのだろう。この馬車もどこかへ向かう途中だったはずだ。そこまで考えると見えてくるものがいくつか出てきた。

 まず一つ目は、外にある元は生き物だったらしき泥。この大半が彼女を護衛する人だったのではないだろうか。煌びやかな服を着ているのだから、まずそうだと思う。もしそうであるのであれば、その中に彼女の知り合いも居ただろう。その人があんな状態になって、こんな心優しい彼女が悲しまないはずがない。

 そして二つ目。この子にとっては僕が命の恩人らしいが、この状況で見ず知らずの僕を優先して助けたという事実。彼女は僕を『治した』と言っていた。つまり、他の誰かを治すという選択肢もあったはずだ。知り合いも含まれているであろう、あの赤黒い泥になってしまった誰かではなく、彼女は『命の恩人だから』という理由だけで見ず知らずの僕を治したのだ。


「ごめんなさい……」


 だというのにだ。彼女は僕の事を考えて謝っている。本当は自分が一番辛いはずなのに、だ。

 多くの知り合いを失っただろうに。自分の未熟さに悔しい思いをしただろうに。襲ってきた敵が居るのであれば、いつまた襲われるか分からないだろうに。

 まるで聖女か何かかと思うくらい他人を気遣うその様にさっきまでの汚らしい欲望はスーッと消えて、代わりに罪悪感を覚えた。


「……謝るのは僕の方だ。ごめん」


 そう言うと、少女は首を力無く横に振った。

 僕は言葉を続ける。


「よくは分かっていないけど、僕は命を助けられた。だから、まず初めにお礼を言うべきだったんだ。……自分の事ばっかり考えて、ごめん。それと、助けてくれてありがとう」

「……………………」

「…………………………………………」


 沈黙が続く。

 髪に隠れた少女の顔は読み取れないが、相当に落ち込んでいるのは変わっていない。もしかすると、僕がいきなり謝ってきた事で余計に罪悪感が膨れ上がったのかもしれない。

 どうにか話題を変えようかと思った……が、何も考えつかない。そもそも、何の話をしろと言うんだ。

 訳の分からない場所で。訳の分からない事が起こって。現状、何がどうなっているのかすら分かっていないというのに。


「……あ。そうだ」

「…………?」

「そうだよ。僕、今どんな状態に置かれているのか分かっていないんだ。出来れば教えて貰っても良いかな」


 正直に言って、酷く強引に話を変えた。だが、この暗い雰囲気のままで居るよりずっと良いはずだ。

 良いかな、と催促をするように彼女へ声を掛ける。すると、彼女は手を離して膝の上に手を置いてから僕の顔を真っ直ぐ見てきた。

 その辛そうな雰囲気を残した顔を見て、やはりドキリと心臓が高鳴る。……こんな状況だっていうのに、可愛い子と一緒に居るのは嬉しいって事か。


「……エレヴォ軍が、本格的にアーテル教を攻めてきたのだと思います」

「ごめんちょっと待って。……エレヴォとかアーテルって、何?」

「──え?」


 僕はノータイムでそう言った。

 少女は心底驚いているのか、目をパチクリとさせている。……うん。ここじゃ常識かもしれないけれど、エレヴォとかアーテルって名前を聞いた事は無いんだ。

 そして、少し詳しくこの辺りの事を聞いてみたのだが……なんというか、信じられない事にここは剣と魔法──魔術とこの子は言っていた──の世界らしい。つまり、異世界という事かな……? んな馬鹿な……。だけど……僕の身体の事とかを見る限りじゃ信じるしかないんだよなぁ……。

 彼女の話を聞いていく内に、なんとなく中世ヨーロッパのような雰囲気が感じられた。いや、もしかすると魔法……いや、魔術がある分、科学が相応に停滞しているかもしれない。

 アーテル教とはこの世界で一番広まっている宗教らしく、ほぼ全ての人が信仰しているらしい。その総本山が彼女の住んでいるハーメラ王国であり、この世界で一番の大国だそうだ。エレヴォ軍というのは魔族の軍隊の総称らしく、国家エレヴォの軍勢だからそう呼んでいるとの事。

 そして、そのエレヴォ軍が聖女である彼女を狙ったらしい。そこに僕が突然現れたとの事だ。……よくもまあ本当によく助かったな、僕。

 この世界の事を教えてくれたので、ついでに多少だけど自分の世界を軽く紹介してみた。百以上の国があって、車──カラクリで動く鉄の馬車みたいな物と説明した──や飛行機──こっちは人が乗れる巨大な空飛ぶ金属の鳥──なんかがある世界で、生きるだけならば楽な国だとだけ言っておいた。──そう、生きるだけならば。


「……なんだか、夢のようなお話ですね」

「僕からすれば、この世界が夢みたいなものだよ」


 本当に夢で、実は目覚ましが鳴り響いているのかもしれない。もしそうだとしたら…………──いや、良いか。これは考えないようにしておこう。


「別の世界がある……という説は学者の間でも賛否両論でした。もしかすると、貴方はこの世界の救世主かもしれませんね」

「無い無い。それは無い。──っと、自己紹介がまだだったね。僕は草壁日向。ただの一般人だよ」


 今度もノータイムで否定した。自分の事くらいは弁えているつもりだ。……僕は、自分の家族にすら一歩を踏み出せない小心者なんだから。


「私はグローリアと申します。先程も申したように、アーテル教の聖女です。よろしくお願いします。……えっと、くさかべ……ひゅーぐぁさん?」


 なんだろう。名前の呼び方に凄く違和感を覚えた。


「日向」

「ひゅーげぁ……?」

「……もしかして、凄い発音しづらい?」


 この世界では馴染みの無い発音をしてしまったのかと思って、そう聞いてみる。

 すると、彼女は慌てて首を横に振って謝ってきた。


「ご、ごめんなさい……! あの……発音というよりも、名前の響きが私達の間ではあまり無いものでして……」


 そうなのか……。アメリカでは日本人の名前の発音とかがおかしくなるというのと同じなのかな? いやでも、今こうして日本語で話している訳なんだけど……。

 ……まさかとは思うけど、僕が日本語って勝手に思っているだけって訳じゃないよね? ……もし本当にここが異世界だというのならば、それがあり得るのだろうか?

 少しばかり悩む。グローリアさんにとって親しみのある響きにするには、どうすれば良いのだろうか……。


「……一応、英語っぽい名前をしてるし……それなら英語っぽくしてみた方が良いのかな?」

「えいご……?」

「ごめん、独り言。…………じゃあ、ヒューゴっていうのはどう?」


 日向に一番近いであろう英語っぽい名前を出してみる。これなら大丈夫だろうか。


「ヒューゴ…………はい、とても言いやすいです」


 ……ガとゴの違いなだけなんだけど、これにどんな違いがあるのだろうか。

 そういう言葉が喉まで出かかったけれど、グローリアさんの全てを包み込みそうな優しい笑みを見て、そんな事はどうでも良くなった。


「さて、と……。じゃあ、これからどうしようっか」


 そのついでに、これからの事を考える事にした。

 見渡す限りの草原。近くには町も村もあるようには見えない。おまけに、襲われた後なので人も馬も居ない。

 正直に言おう。……どうしよう、これ。もう歩くか助けが来るのを待つしかないんじゃないか……?

 それぐらいしか思い付かなかったので、グローリアさんの方へ顔を向けてみる。


「……………………」


 彼女は俯き、難しい顔をして考え込んでいた。それも仕方が無いだろう。なんせ、何かが出来るような状況ではないのだから。

 こういう時に携帯電話の便利さを実感する。電波さえ届いていれば、どこからでも連絡を入れる事が出来る。GPS機能だってあるから、知らない場所でも正確な場所を知る事だって可能だ。

 何気なくただただ使っていただけのツールだったけれど、本当に便利な物だったんだなぁ……。

 ……いや、待てよ。もしかすると、魔術で通信とか出来るんじゃないだろうか? 科学の代わりに魔術が進歩しているのであれば、充分に可能性があるはずだ。


「魔術で連絡を取ったりとか出来ないの?」


 僅かな希望を胸に、彼女へ訊ねてみる。


「ごめんなさい……。あるのかもしれませんが、私は治癒魔術しか知らないのです……」

「なるほどね……」


 回復専門のヒーラーみたいなものか。

 ……仕方が無い。こうなったら歩こう。少なくとも、襲撃された場所でいつまでも足踏みをしているよりかはずっと良いはずだ。

 そう提案をしてみると、グローリアさんは驚くほど素直に了承した。その事に少し違和感を覚えたが、今はそう言っていられないので考えるのを止めておく。

 あとどれくらいで日が沈むのかは分からないけど、夜になる前にどこか安全に過ごせる場所を見付けられたら良いな……。それに水や食料も必要だ。馬車に積んであるか調べてみよう。

 一応グローリアさんに一言だけ断りを入れてからこの馬車の荷物を漁る。まず出てきたのが衣服。彼女が着ている物と同じ服が五着ほどだったが、そのどれもが染みも傷も無い、新品で品位ある雰囲気の漂うものであった。

 ちなみに、下着も出てきたので即座に漁るのを止めた。流石に触るのは失礼だし、持ち主も触られたくないだろう。


「あ……」


 と、そこでグローリアさんが何か思い付いたかのような声を出す。何かあったのだろうか?


「ヒューゴさん、外套一枚ではお辛いものがあると思います。私の服で申し訳無いのですが、如何ですか?」

「……………………」

「ヒューゴさん?」


 一瞬、頭が思考を拒否する。『私の服』だって? つまり……。

 チラリとグローリアさんの身体へと目線が移ってしまったので、慌てて目を閉じる。……いかんいかん。この子は今見付けた服を前提に話しているだけだ。決してそんな意味で言った訳はないはずだ。

 一度頭を大きく振った後、さっき出てきた服に触れる。触っただけで素材の種類なんて分かりやしないが、柔らかく、きめの細かい肌触りからして良い布を使っている事だけは分かる。……それにしても、これってどうやって着るんだ? パーツが多くてよく分からない……。

 いや、それ以前に僕は女性の服を着なければならないのか……。女装ではないんだけど、気分的には女装をしているようなものなので気が進まない。

 ……背に腹は変えられないか。こんな痴女スタイルで居る方がよっぽど問題だ。

 観念してグローリアさんに礼を言う。そして、服をなるべく丁寧に持ち上げた。


「…………」


 パサッと軽い音が鳴って服の一部が床に落ちた。……え? 服が壊れた……?

 どういう事なのか理解できなくてグローリアさんへ目を向けると、彼女もまた少し驚いた表情を浮かべていた。……やっぱりおかしい事なのか。

 パーツのようにバラバラとなった服をどうしようかと考えるも、そっと戻しておくしか思い付かなかった。


「えっと……まずは下着から着けないと……」

「下着……」


 グローリアさんが、さっき漁った時に出てきた純白の下着を取り出してくる。それは大人しめの華やかさがある、紛れも無く女性物の下着だ。……驚いたのは、下着から手を出さなかったからなのだろうか?

 いや待て。それよりも……これを、穿けと? ハードルが高過ぎて、もうくぐれってくらいなんですけど……。

 しかし、穿かなかった場合はノーパンで服を着て歩き回るという事になる……。ああ……これも背に腹は変えられない……。それこそ痴女じゃないか……。

 両手で丁寧に手渡された純白の下着を手に取る。……うわぁ……こっちはもっと触り心地が柔らかい。


(……ええい! もうどうにでもなれ!!)


 半ばヤケクソになってそれを穿く。──うわっ! なんだこれ!? タッチが優し過ぎてすすんごい違和感があるんだけど!?

 ……なんだろうか。超えてはイケナイ一線を超えてしまったような気がする……。

 少し、なんてものじゃないくらい、羞恥心と罪悪感と自己嫌悪が入り混じった感情が胸の中でグルグルと動き回った。

 その後、グローリアさんに着付けを手伝って貰い、服をパーツ毎に一つ一つ着ていった。どうやらさっき服がバラバラになったのは壊れたのではなく、一つ一つ着ていかなければならない類の物だったらしい。気品はあるけれど、着るのが非常に面倒な服だなぁ……。


「……なんか脚周りがスースーする」


 しかも、ロングとはいえスカート状なので、脚周りが直に空気と触れていて下を履き忘れたのかのように感じてしまう。腰辺りも少し締め付けられている感じがして少し動き辛い。胸の部分は……割愛しておく。意識したら顔から火が出そうだ……。

 ……女の子にとっては、これが普通なんだろうか。

 僕が恥ずかしくて服のあちこちを見ていると、グローリアさんはなぜか小さく笑って僕を見ていた。


「なんだか、やんちゃな妹に私の服を着せたみたいです」

「……妹さんが居るの?」

「…………いえ、私は今、一人っ子ですよ。ただなんとなく、双子の妹が居たらこうなっていたのかなって思ったんです」


 そう言って彼女はまた微笑む。その笑顔にどことなく違和感を覚えたけれど、よく分からなかった。

 それよりも、グローリアさんは妹が居たらこうなっていたのかな、と言って笑っていたけれど、妹が欲しかったのだろうか? ……いや、ただの社交辞令だろう。今の僕は女の子の身体だけど、ついさっきまで普通の男だったんだから。普通に考えるとグローリアさんにとってあまり気分の良い状態ではないだろう。

 そっか──と話を切り上げ、予備のローブを全て手に取り馬車から降りる。グローリアさんは僕がローブを持って出た事に疑問を感じつつも一緒に降りてきた。


「グローリアさん、食料や水を積んでる馬車はどれか分かる?」


 後から降りてきた彼女へ振り返ると、グローリアさんは一瞬だけビクリと身体を震えさせた。けれど、僕の質問に彼女は口元に指先を当てて視線を空へ泳がせる。……急に質問したから驚いたのかな?

 その状態で十秒ほど待つと、最後列から二番目の馬車へ目線を動かした。

 周囲の赤黒い泥へはなるべく意識を向けないようにして、その馬車へ入る。

 中には木箱がいくつか並べられており、その内の一つを開けてみるとパンがそれなりに入っていた。その隣の箱にもそれなりの量の水の入った瓶があり、この二つの箱だけでも一週間近く困らなさそうだ。全ての箱を確認してみた所、燻製肉や干し肉、サラミみたいなソーセージに塩漬けされた魚とかドライフルーツなんて物もあった。その中でも意外だったのは、どこぞのカロリーや栄養が豊富そうなブロック状の特定保健用食品みたいなお菓子っぽい物があったという事だ。

 僕は持ってきたローブを二着だけ床に広げる。その一着にパンを山積みにさせていった。


「あ、なるほど」


 グローリアさんは理解したらしく、もう一つのローブには瓶を乗せていっている。その間にほどほどに積んだパンのローブを縛り、今度は干し肉をパンと同じく積み上げる。

 そして、彼女へ視線を戻して驚いた。


「ちょっと待って。流石にそれは無理だと思う」


 彼女は『え?』と言いそうな表情を浮かべて手を止めた。

 ローブの上には何本あるのか分からないくらいの瓶が積み重なっており、確かに縛るだけならばどうとでも出来そうだ。

 だが、それはつまり、それだけの量の水を運ぶという事だ。ローブの耐久性の心配もあるが、それだけ重い物を長距離運ぶのはキツいだろう。


「水って案外重いんだよ。だから、これの半分くらいにして……っと」


 ローブをパンの時と同じく縛り、持ってみる。……なんだこれ。結構重いぞ。どうなってるんだ?

 持ち上げると腕にズッシリとした力が加わってきた。体感的に三十キロくらいの重さだ。

 おかしい……見るだけでは十リットルも無い量のはず……。これくらいなら持てるはずなんだけど……。


「……………………」


 いや、そんな事よりもマズい事がある。十リットルも無いとなれば、二人でどれだけ短い間しか保たないのだろうか。

 確か……この間の授業の話だと、人は動かなくても一日に必要な水分は1500mlくらいらしい。これらを持ち運ぶ訳だから更に1000mlが必要と考えて……だいたい二人で一日5000mlという計算だ。水を多少我慢したとしても二日か三日が限界となる。

 ここでジッとしていれば長い間は大丈夫だろうけど、そういう訳にもいかない。助けが来なかったらアウトな上、グローリアさんを襲ってきたエレヴォ軍が戻ってくるかもしれない。それにもし悪人が僕達を見付けたら……想像もしたくないな。

 いや待て。そもそも何で僕はこのままの状態で運ぼうとしているんだ? ずっと持ち続けて運べる訳がない。間違いなくすぐに腕がギブアップする。

 何か良い方法は無いだろうか……。


「…………………………………………」


 ダメだ……。どうしよう……。問題は浮かび上がってくる癖に、良い案が浮かばない……。

 僕が必死で何か解決策を考えていると、グローリアさんは恐る恐る僕の顔を覗き込んできた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 不安そうに見てくるグローリアさんに生返事を返し、考える。せめて、この馬車が使えたら良いんだけど……。

 ……ん? 馬車? 引っ張る…………ああ、そうだ。


(なんでこんな簡単な事に気付かなかったんだ)


 心の中でだけ溜め息を吐きながら馬車の中を見渡して目的の物を探す。それは壁に掛けられていてすぐに見付ける事が出来た。

 見た目より明らかに重い水の入った木箱をふらふらしながら馬車から下ろし、本体を木箱の蓋の上に載せる。そして、壁に掛けられていたロープを蓋に縛り付けた。簡易的なソリみたいな物だ。

 試しに引っ張ってみたが思ったよりも楽に引っ張る事が出来た。これなら運ぶのも何とかなるだろう。


「なるほど、そんな手が……。私もお手伝いしますね」


 素直に感嘆しているグローリアさん。それを倣ってか、彼女はパンの入っている木箱を持とうとした。


「あー……ごめん。降ろすのは僕がやるよ」

「え?」

「良いから良いから。後で一緒に運んでくれたらそれで良いよ」


 女の子に重い物はあまり持たせるべきでないし、あんな華奢な身体で無理をさせるのも問題があるだろう。無いとは思うが、もし引っくり返ったりしたら大惨事だ。


(……ああ、そっか)


 見た目よりもやはり重い箱を持った所で気付く。そうなんだよな……。僕も今は女の子の身体なんだよな……。

 ここでやっと物が重い訳が分かった。なんて事ない。単純に力が弱くなっただけだったのだ。……いや、女の子の身体になった事は異常な事だけども。


「──ぁ…………」


 馬車から降りた所で、グローリアさんが絞り出したような悲しそうな声を漏らした。

 何があったのだろうか──。そう思って彼女の視線の先を見てみる。

 ……………………さっきと何も変わらない景色だ。一体、彼女には何が見えているのだろうか。


「……ヒューゴさん。お願いがあります」

「うん?」

「私は……犠牲となった方々へお祈りを捧げたいです……」


 僕へ訴えかけるように悲しそうな顔を向けるグローリアさん。その目は今にも涙が零れ落ちそうな潤みを帯びており、それを必死に我慢しているように見えた。

 そして、思う。さっきまで彼女は無理をしていたのだろうか、と。

 馬車から顔を出した彼女の表情は、中に居た時と完全に別だった。僕の世界の話に興味を持っていた顔も、妹が居たらこうだったのだろうかと言っていた時の微笑みも、どこにも無い。あるのは悲しみを必死になって堪えようとしている少女の姿だ。

 もしかして、彼女は僕に気を遣って平静を装っていたのだろうか? それとも、この現実から目を背けたかったのだろうか?

 本当はどうなのか分からない。ただ分かるのは、彼女は心に深く傷を負ってしまったという事だけだ。


「……うん、お願い。こっちの事は僕に任せて」

「ありがとうございます……」


 彼女は僕に深く頭を下げると、赤黒い泥となったモノの前で両膝をついた。

 両手を胸の前で組み、頭を軽く下げる。神へ祈りを捧げるようにも見えるが、その身に纏う雰囲気は似て非なるものだった。

 理不尽な死の後の安寧を願うように、戦死した者へ敬意を示すように、どことなく寂しさと悲しさを孕んだ祈り。司祭や牧師を見た事の無い僕でさえ、見ているだけで彼女は本物の聖職者なのだと強く思えた。

 いくらかの時間、それに見とれていた。そして違和感を覚える。それは、なぜエレヴォ軍はターゲットであるグローリアさんを見逃したのか、だ。

 残っているのはターゲットのグローリアさんだけだったはず。いつでも殺せるはずだったのに、なぜ……?

 少しだけそれを考えるも答えは出ず、僕は思い出したかのように出来る限りの荷物を纏めだした。




…………………………………………。




 ────それから、ゴールの見えないマラソンは始まった。

 馬車に残していく水を使って、血塗れとなったグローリアさんが綺麗になってから何時間くらい歩いたのだろうか。馬車や祈りを捧げられた赤黒い泥は勿論、近くにあった林さえもう姿が見えない。それどころか、空の色さえも強かった青は姿を隠し、茜色となった空は藍色に染まりつつある。

 グローリアさんの言っていたハーメラという国はその面影すら見えない。領土には入っているのかもしれないが、街はおろか村も人も何もかも無い。ただただ平原が続いているだけだ。

 土を踏みしめる足が痛い。ロープを掴む手がビリビリと鋭く痛む。引き摺られてガリガリと鳴る箱がうるさい。汗が目に入ってボヤけるのが酷く邪魔だ。

 パンの箱を引っ張っているグローリアさんも同じようで、辛そうな顔をしている。


「……今日は、ここまでにしようか」


 何回取ったか分からない休憩と違い、今日はここで足を止める事にした。

 近くにあった岩の陰まで荷物を移動させ、水瓶の箱を背もたれにして座り込む。道を通ってもあまり見付からないだろうという位置のはずだから大丈夫だろう。

 熱を持った身体のせいで暑く感じ、吹き出た汗が風で撫でられると冷たい。心臓は本当にマラソンでもしたかのようにバクバクと高鳴って、全身に血液を送っているのが分かった。

 ビリビリと痛む手の平を見る。手の平は叩かれたかのように赤くなり、所々が圧迫されて白くなっていた。

 何かに使えると思って予備の服を大量に持ってきて良かった。布越しにロープを握っていなかったら、今頃手の平の皮は破けて血塗れになっていただろう。


「グローリアさん、大丈夫……?」


 返事をしない彼女が気になって、彼女の近くへ寄ってみる。


「は、はい……! 疲れては、いますが……! 大丈夫、です!」


 僕と同じように汗を流し、肩で息をしている彼女が目に入る。違うのは、僕と違って笑顔だという事だろう。

 ──その笑顔で誤魔化されそうになったけれど、僕は見逃さなかった。


「……グローリアさん」

「はいっ。なんでしょうか?」

「手、見せてくれる?」


 瞬間、グローリアさんの顔が硬直した。


「え……はぇ……? な、なぜですか……?」


 オロオロと軽くパニックになっているグローリアさん。……ここまで分かりやすい子は初めて見たかもしれない。いや、単純に嘘が吐けない子なのだろうか?

 ジッと彼女の目を見る。すると、徐々に彼女の眉はハの字に垂れてゆき、顔を俯かせた。


「……はい」


 観念したかのように、顔は伏せたまま掴んでいた布を離して両手を前に出す。そして……僕の見た通り、彼女の手は血で赤黒く汚れてしまっていた。

 変な力を入れてしまったのか、手の平と指の第二関節付近の皮膚が剥けてしまい、そこからジワリと血が出ている。血が染み込んだ布は赤褐色に変色している事から、血が出ても我慢し続けていたのだろう。

 ──ちゃんと言って欲しいな。そう思った。


「グローリアさん……」

「……ごめんなさい」


 彼女の名を呼ぶと、呼ばれた少女は小さい声で謝ってきた。髪の隙間から僅かに見える表情は辛そうにしており、それが手からくる痛み故なのか、それとも僕に怒られそうになっているからなのか、それとも……僕を心配させてしまったが故なのか。

 恐らく僕を心配させたくなかったのだろう。そんな顔をしている。だからか、言おうとした言葉が全て喉の奥へと引っ込んでいった。


「……えっと、大丈夫?」


 それで出てきた言葉が、彼女の手を心配する言葉だった。


「え……? は、はい……。大丈夫……? です、よ?」


 それに対して頭にクエスチョンマークを飛び交わせる彼女。……なんだろう。聖女から小動物へイメージが変わってきた。

 試しにグローリアさんの頭を撫でてみる。するとビクリと身を縮こませたが、優しく撫でられていると分かると、目をパチクリとさせて僕を見てきた。

 新たにクエスチョンマークを浮かばせるグローリアさん。どうしたら良いのか分からず、混乱しているようにも見える。


「無理だけはしないでね?」

「はっ、はい! 頑張ります!」


 胸の前で弱々しく拳を作るグローリアさん。たぶん、痛いから強く握らないんだろうな。……そもそも、何をどう頑張るのだろうか。

 その後すぐ予備の服で彼女の血を軽く拭い、細い布を包帯代わりにしてから食事にする事にした。

 ……その味だが、正直に言って微妙だった。パンは硬いし全体的に味が少し雑な気がする。なんというか……間違った味付けすら半分やり忘れたというか、小麦の雑味を凝縮して固めた簡素な食品というか……ともかく、率直に言うと噛みづらい味だった。

 けれど……隣ではグローリアさんがニコニコしながら食べている事から、彼女にとっては悪くないのだろうか?


「? ヒューゴさん? どうされました?」


 僕がジッと見ている事が気になったのか、食事の手を止めて笑顔を向けてくるグローリアさん。

 その笑顔を見て、変わった味だね、などと言えなくなってしまった。


「なんでもないよ。ただ、こういうのを食べるのって初めてだから……」


 現代の食べ物って、かなり考えられて作っているんだなと本気で思った。それともアレだろうか。化学調味料最高とかなのだろうか……?

 初めて──。その言葉を復唱するグローリアさん。三回ほど目をパチクリとさせた後、彼女はハッとした顔付きとなった。

 ……なんだか嫌な予感がする。


「も、もしかしてヒューゴさんは王族の方とかだったのでしょうか……!?」

「え?」


 予想の遙か斜め上を行く言葉に唖然とした。


「なんだか美味しくなさそうにしていらっしゃっていたので……! え、ええと、ごめんなさい! このような質素な物しか無くて……!! で、でも他に食料が……!」


 ……………………。

 えーっと……どう反応すれば良いんだろう。

 …………とりあえず、まずは勘違いしている部分から直すか。

 僕は、オロオロとして軽くパニックになっている彼女を宥める事にした。


「普通の平民だから安心して良いよ。暮らしも食事も周りとそんなに違いは無かったはずだし」


 敢えて違いを述べるならば、ただちょっとだけ親との交流が少なかった事くらいだろう。

 けど、それは仕方の無い事だ。確かに一軒家ではあったけれど、ローンとかなんとかでお金は節約しないといけない、というような事を小さい頃に聞いた事がある。それ故に両親は共働きで、僕が学校から家に帰ってきても両親が居る事は滅多に無かった。いや、正確には母親が週に一回だけ昼でも家に居た事があった。けれど、その時はいつも疲れた身体を休める為に寝ていた。

 だから基本的に家族全員が揃うのは夜遅くの時だけで、おまけに両親は疲れた顔をしていたから声を掛けずに用意した晩御飯をそっと出していた。

 ……そういえば、前に何の変哲も無い会話をしたのはどれくらい前だっただろう。家事の事や学校行事はたまに話していたけれど、友達とするような下らない話やしなくても良い会話をした記憶がほとんど無い。

 まあ……こういうのも『よくある話』なのだろう。


「……ヒューゴさん?」

「ん、ごめん。ちょっと思い出してただけだから大丈夫だよ」


 自分で言って思う。何がどう大丈夫なのだろうか。たぶん……その答えは永久に見付からないだろう。

 そうこうしている内に太陽はその顔を沈め始め、夜を迎えようとしていた。


「さて……寝る準備しなきゃ」


 そこそこ控えめにした食事を済ませ、寝る準備をする事とした。

 ……実を言うと、寝る事を何も考えていなかった。今になって問題点が見えてきだしたのだ。

 まず一つ目、火が無い。起こす術も無い。どういう世界なのかは分からないが、夜に動物が襲ってくるかもしれない。そう考えると、火を起こせるよう何かしらの準備をしてくるべきだった。

 そして二つ目。寝る為の場所が無い。布団なんて勿論の事、夜の冷え込みを耐える為の物すら無い。せいぜい、持ってきたローブを毛布代わりにするくらいだ。……そもそも代わりになるのかどうかすら分からない。

 ……グローリアさんは知っているだろうか。


「……突然だけど、野宿の方法って知ってる?」

「えっ……」


 あまりに予想外だったのか、彼女は目を丸くして硬直した。

 野宿──。聞いた事はある言葉でも、実際に何を用意するのかなど考えた事すら無い。むしろ、日本で野宿をした人がどれだけ居るのやら。ただの高校生の僕には、その方法を知っている訳が無かった。


「え、ええと……その……………………すみません……。野宿をした事が無いので分からないです……」


 グローリアさんが知ってたら良いな、という程度で聞いてみたのだが、彼女は酷く申し訳無さそうにそう返してくる。きっと、僕と同じで見当もつかないのだろう。

 なので、とりあえず色々と試してみた。それで分かった事は、例え板でも地面よりは冷たくなくてマシという事。その板に服を敷くともう少しマシになるという事。そして──


「温かいですね」

「……うん、そうだね」


 ──身を寄せて服に包まるという事だ。

 もはや月明かりと星の光のみとなった暗さの中、僕と彼女はお互いをお互いの体温で温め合っていた。ちなみにこれを考えたのはグローリアさんである。

 勿論、最初は躊躇した。今まで女の子と特別な関係になった事の無い僕にとって、可愛い女の子と身を寄せて寝るだなんてハードルが高過ぎる。

 けれど、汗ばんでしっとりとした服は夜の空気で冷やされて冷たく、下手をしなくても風邪を引いてしまうんじゃないかという事──そして僕がそう感じるという事は、同じ身体であるグローリアさんもそう感じている事。そう考えると、彼女の提案に首を縦に振るしかないだろう。

 けれど、足先の冷たさだけはどうしようもない。グローリアさんも同じなのか、僕の冷たくなった足に出来る限りくっつけて温まろうとしているが、あまり効果は無いようだ。


(なんだろう……少し、落ち着く)


 不思議な事に、僕はこの状況に焦ってはいなかった。むしろ安らいでさえいる。

 これには自分でもよく分からなかった。確かに空から自由落下したり知らない世界に来てたり身体が女の子になったりと普通ではない事があったけれど、彼女と触れている肩や腰、手がとても心地良い。もしもいつもの日常の中でこういう事が起これば、恥ずかしかったりどうしたら良いのかと頭を混乱させているだろう。

 だけど、そういう事が一切無い。初めに躊躇ったのも、そうなりそうと思ったから躊躇したというのに。

 まるで僕が小さい子供になって、親に優しく抱かれているかのようにさえ感じる。

 ふと、顔を上げて空を見る。遮蔽物も人工的な明かりも無い空は星々と月らしき衛星が煌めき、その星は今までに見た事の無いくらいの数が広がっていた。

 ……僕は、この空から落ちてきた。今でもそれが信じられない。それでも今こうしてグローリアさんと身体を温めあっているのは紛れも無い現実だ。

 本当、何があってこうなったのだろうか──。


(……あれ?)


 空をボーっと眺めて何分か経った頃、触れ合っている箇所がとても温かい事に気付いた。

 なんで、と思ってグローリアさんの方へ顔を向けると、彼女は瞼を落として穏やかな寝息を立てていた。

 ──ああ、そうか。人って、寝る時に体温が上がるんだっけ。

 きっと、ここまで歩いた事で疲れが溜まっていたのだろう。僕はそうでもないけれど、やっぱり体力の違いがあるという事か。

 僕も明日の為に寝よう。明日もまた、歩き続ける事になるはずだから。

 色々な問題から目を逸らし、僕も隣の女の子と同じく目を閉じる。耳にはゆったりと規則正しい寝息が聴こえ、それが睡眠の導入になったのか、僕の意識もすぐ遠退いた。

 明日は、どんな朝を迎えるのかな。


 ――その夜、ふと目が覚めるとグローリアさんが声を殺して泣いていた。

 声を押し殺しているのは僕を起こさないようにする為だと思ったので、僕は起きていない振りをしてもう少しだけグローリアさんに身を寄せた。それに対し、彼女は少しだけ強く、僕の腕にしがみ付いてくる。

 この時の僕は、辛かったんだろうな……くらいにしか思っていなかったけど、それが当たらずとも遠からずだというのを知ったのは、もう少し後の事――。


……………………

…………

……




 ──違和感を覚えた。眠っているのに何かを察知して意識が覚醒する、そんな違和感。

 僕はこの感覚を知っている。これは良くない事が起きる前触れだ。授業中に居眠りをして教師に頭を引っ叩かられたり、寝ている途中で地震が起きた時とか、そういう時だ。

 パッと瞼を開く。もう既に明るくなっている時間らしく、一瞬だけ目が眩んだ。


「……二人?」

「なぜ、グローリア様が二人も……?」


 何重にも重なった金属が擦れ合うガチャリという音が聴こえる。その後の困惑した声が聞こえる頃には、もう目も慣れていた。

 目の前には十人を超える白騎士のような人達が全員膝を突いて頭を下げており、手にしている槍を地面から垂直に立てている。その一番前に居る紅髪の男性と茶髪の女性だけは長い白毛の付いた兜を脇に抱えて話し合っていた。

 ……いったい何事だろうか。危険ではない……と思うけれど、いまいち分からない。一先ず僕は、未だ眠ったままのグローリアさんへ少し身を詰めた。


「――む。起きられたようだ」


 僕の目が覚めた事を、冷静そうな女性の人が気付く。


「だが、もう一人のグローリア様はまだお眠りのままだ」


 続いて熱血そうな男性の人が真剣な顔付きで悩んでいた。

 膝を突いている人たち全員が長くて白を基調とした槍を携えている中、この男性は身の丈ほどもある美しい大剣のような物を背負っている事を考えると、きっとこの人がこの団体のリーダーなのだろう。この人の隣に居る女性の人も他の人達と同じく槍を持っているけれど、明らかに綺麗な装飾が施されている事からこの人もリーダー格なのだろうか?

 いやそもそも、この人達は誰で、なんで僕達に頭を下げているのだろうか。

 ……………………うん、まったく分からない。この世界に来てからというもの、本当に分からない事だらけだ。

 ただ一つ言える事は――


(……夢じゃなかったんだ)


 ――この言葉だった。

 目が覚めればベッドの上に居て、喧しく鳴り響く目覚まし時計の頭を叩く日常が始まる訳ではなかった。僕にとっては、目の前の人達の事や隣で寝ているグローリアさん、引いてはこの世界の事よりもそっちが当たり前なのだ。

 けれど、夢は醒めない。いや、夢のような出来事が現実となっている今、僕の心はどこかポッカリと空いてしまっていた。


「……そうか。お前はグローリア様じゃないんだな」


 男の人がそう言ってきたので正直ビックリした。なぜこの人は分かったのだろうか?


「ハハハ。なんで分かったのかって顔だな。顔付きで分かるってもんだ。グローリア様は例え寝惚けていても俺達をそんな風に見ねえって」


 でさあ、と男の人が口にした瞬間――


「テメェは一体何者だ」


 ――巨大で鋭い鉄の塊が、僕の眉間に向けられた。

 明らかに人の背丈はあるであろう大き過ぎる剣。それをこの人は片手で、しかも一瞬で、僕の眼前へと突きつけた。

 人の身体と同じくらい大きな剣だ。そんな物をこの身へ振るわれたら、剣に彫られた銀と黒の美しい装飾とは真逆の汚らしい血肉をぶちまけながら千切れ飛ぶだろう。

 ただ、現実味が無い。あくまでも『そうなるだろう』という予想は出来ても、そんな場面を見た事はおろか聞いたことすら無い。加えてどんな風に身体が千切れ飛ぶかの想像すら出来ない。本当に、ただただ現実味が無いのだ。

 そのせいで、僕は動く事も無くその剣をただただ見る事しか出来なかった。


「……驚いた。俺の剣を突きつけられてもそんな反応をする奴が居るとはな」

「ん……ベネット、少し待って貰える?」


 装飾槍の人が僕を――僕達を?――見て驚いた表情を浮かべる。


「どうしたカーラ」

「……どうしてグローリア様は、この子と仲良さそうに肩を並べて寝ているのかしら?」


 ベネット、と呼ばれた大剣の人は大きく目を見開いて僕とグローリアさんへ視線を交互に動かした。

 何度目かの往復の後、大剣の人は手にしている剣を背中の鞘に収めた。

 だが、目は疑ったままだ。何か事があればすぐにでも叩き斬るという雰囲気をあからさまに出している。


「……お前は一体、グローリア様とどういう関係なんだ? 俺は代わり役なんぞ聞いた事無いぞ」


 私もです、とカーラという名の女性は僕を観察しながら言う。

 正直に言うと、困った。僕が見て聞いた事をそのまま伝えたとして、果たして信じてくれるだろうか? 僕ならば信じない。信じる訳が無い。僕の居た世界でそんな事を言う人が居たら、即座に痛い子の扱いをされるかカウンセリング行きだろう。聖女のグローリアさんだって夢のような話だとか異世界の存在は賛否両論と言っていた事から、他の人はもっと懐疑的になるんじゃ?

 ――いや、一つだけ信じて貰える方法がある。


「あの、その前にグローリアさんを起こしても良いですか? 僕が言うよりも、グローリアさんに言って貰った方が信用しやすいと思うんです」


 なるほど――と二人は頷いた。なので、僕はグローリアさんの肩を軽く叩いた。……なぜか二人の目が厳しくなった。

 彼女は蚊が鳴いたかのように小さく声を漏らした後、とても眠たそうな感じでゆっくりと目を開く。そして同じく緩やかに首をこちらへ向けると、柔らかく僕へ微笑んでくれた。


「おはようございます、ヒューゴさん」


 その表情に、やっぱりドキリと心臓が高鳴る。理想とも言える子からそんな顔をされて胸が高まらない男なんて居るのだろうか? 僕は居ないと思う。少なくとも僕は冷静さを保つので必死だ。

 おはよう、と返事をするや否や、左からガチャリという少し前に聞いたような金属の擦れ合う音が聴こえてきた。グローリアさんはその音を聴いた瞬間、驚いた表情でその音へ顔を向ける。恐らく一瞬で事態を把握したのだろう。彼女はスッと立ち上がり、こう言った。


「聖堂騎士団の方々、援軍ありがとうございます」


 騎士団という言葉でなるほどと思った。憶測だけど、この人達はグローリアさんに仕える騎士達なのだろう。


「……残念ながら、護衛騎士の方々は全滅しました。エレヴォ軍による強力な呪術により、聖法式済み防具すら意味を成さず一瞬にして……」


 その言葉の続きは語られなかった。空気が暗く沈んだのが、詳しく事情を知らない僕でも感じ取れる。さっきまで僕と話していた二人に至っては、眉間に皺を寄せて悔しそうに顔を歪ませていた。


「恐らく、その呪術は私でさえ死に至らせる事の出来るものだったでしょう。術の発動後、極めて高い呪術耐性を持つエレヴォ軍が撤退した事が何よりも証拠です。私が生きているのにも関わらず、です」


 その言葉であの時の違和感の答えがやっと分かった。彼女は呪いを浄化したとも言っていた事から、残った呪いで自分達の命すら危うかったが故に彼女に手を掛けられなかったのだ。

 ……おかげで更に疑問が生まれた。じゃあ、なんでグローリアさんはその中でも生きていられたのだろうか? 単純に聖女にはそういう耐性でもあるのだろうか……。それと、呪いを浄化したのを見計らってグローリアさんを襲うという手段もあったと思う。なのに、なぜ魔族達はそれを狙わなかったのだろうか。

 ……今考えても分からない事だ。後で考えよう。


「申し訳ございません……! 我々が魔物の討伐に手を焼いたばかりに……!」

「そんな事はありません。東に現れた魔物は強力だったと聞いています。それを短期間で解決しただけでなく、こうしてすぐに駆け付けて下さったのです。賞賛される事はあれど、非難される事なんてあるでしょうか。皆さん、改めてありがとうございます」

「……勿体無いお言葉です」


 優しくも整然とした態度の彼女に、騎士団の人達は誰一人として頭を上げる事は無かった。漫画やアニメ、ドラマでしか見た事の無い光景に少しだけ呆けてしまう。だからなのか、僕も自然とグローリアさんへ正座をしていた。

 ふと、彼女が僕の方へ視線を向ける。すると、さっきまでの荘重たる姿はどこへやら、混乱したかのように慌てだした。


「そ、そんな! ヒューゴさんまでそのようにしなくても良いのですよ!? ヒューゴさんはこちらの事をよく分かっていないのですし、何よりもヒューゴさんは私を助けて下さったのですからっ!」

「いや……なんとなくこうした方が良いような気がして……」

「だ、大丈夫です! 大丈夫なので、どうか足を崩して下さい! もしくは立って下さい!」


 ワタワタと両手を動かすグローリアさん。あまりの慌てっぷりに、僕だけでなくこの場に居る全員がポカンとしていた。特にベネットという人とカーラという人は信じられないものでも見たかのように目を丸くしている。

 オロオロとし続けるグローリアさんを落ち着かせる為、とりあえず立ってみる。何十人ものの膝を突いた騎士達が目に映った。足を崩した方が良かったと後悔した……。

 今からでも普通に座ろうかと考えた所、大剣の人が間悪く質問をしてきた。


「グローリア様……失礼ですが、この者とは一体どのようなご関係で……?」


 ハッとした後、醜態を晒したとでも思っているのか少し恥ずかしそうに顔を赤らめるグローリアさん。彼女は目を瞑って小さく深呼吸をすると、柔らかい笑みと温かい雰囲気を纏って答えた。


「自分の身すら省みず、先ほど言った呪術を一身に受け止めて見ず知らずの私の命を救って下さった……私にとって、掛け替えの無いとても大事なお方です」


 ――違う。そう言った瞬間、今まで黙っていた騎士団の人々が驚きの声を数々と口にしたせいで掻き消されてしまった。

 おお、素晴らしい――。なんと献身的な――。聖女様の恩人だ――。そんな歓喜の声が、周囲の音を支配する。

 グローリアさんも何かを言いたげにしていたけれど、言うタイミングを逃したのか言葉を引っ込めたようだ。

 あれだけ疑惑の念を向けていた大剣の人も装飾槍の人も、彼女の言葉を完全に鵜呑みにしている。それどころか、驚いた表情を浮かべてから認めたように拍手をしていた。

 それからの聖堂騎士団の行動は速かった。ちょっと前の疑念渦巻く一触即発の雰囲気はどこへやら、誰一人として一切の不審を抱かずに僕を褒め称えながらグローリアさんと同じ馬車に乗せたのだ。ちなみに、大剣の人からはお互いに名前を名乗った後に頭を下げられた。正直に言うと困ったけど、ややこしくしないよう『気にしないで下さい』とだけ返しておいた。

 それにしても……余りにも急な事で困惑する。いくら聖女の言葉と言えど、少しくらいは疑ったりしないのだろうか? それとも、聖女とはそれほどまでに影響力の強い存在なのだろうか?

 分からない事がまた増えたけれど、これだけは言える。



 僕は、また彼女に救われた――



 本来ならば僕は、あの赤黒い泥と化した人達と同じ運命を辿っていたはずだ。そんな僕をグローリアさんは救ってくれた。彼女は僕に助けられたと言っているが、そんな事はない。僕はただ落ちてきただけだ。僕の意志とは関係無く、彼女は命を拾っただけなのだ。

 そして、今度は聖女の言葉として僕の身は潔白であると証言してくれた。そうしてくれなかったら、きっと僕は頭のイカレた奴として扱われていただろう。

 馬車に乗ってからのグローリアさんは、改めて僕への感謝の言葉を口にした。全てを包み込みそうな笑顔で、全てを受け止めるような雰囲気で、心から思っているのが分かる口調で――。

 ――本当に僕が感謝される理由などあるだろうか? 少なくとも、僕は有ると思えない。むしろ僕が『感謝しろ』なんて言ったら、恩着せがましい所か筋違いも良い所だ。


「……僕は、助けて貰ってばかりだ」


 余りの申し訳なさに、ポロリと言葉が漏れてしまった。

 馬車はガタゴトと揺れているが、この馬車には僕とグローリアさんの二人しか乗っていない。おまけに、僕は色々とグローリアさんに話し掛けられていたのにも関わらずダンマリとしていたのだ。彼女からしてみれば、理由も分からず落ち込んでいる僕がやっと発した言葉を聞き逃す訳が無い。

 当然、その言葉は彼女の耳に届いていた。


「そんな事はありません! ヒューゴさんが居なければ、私はこうして生きていません。仮に私が呪いで命を落とさなかったとしても、一人残された私ではどうする事も出来なかったでしょう。なので、ヒューゴさんは私の恩人なのです」


 屈託の無い笑みで、本当にそう信じていると分かる声色で彼女は断言する。それが僕の胸に抉るような痛みを与えてきた。

 僕はグローリアさんと会ってまだ二日と経っていない。それでも確信できる。彼女は心の底からそう思っている、と。

 どこまでも純粋で穢れを知らない真っ白なグローリアさん。薄汚い僕には、彼女という存在が眩し過ぎた。


(……あれ?)


 グローリアさんの目を見続けることが出来なくて視線を落とした時、気付いた事がある。

 手が綺麗だったのだ。昨日は白肌を赤黒い血が汚していたので、応急処置として布を巻いていたはず。それなのに、布はおろか傷すら無くなっていた。

 とうとう現実と夢の違いが分からなくなったのかと思ったが、僕の視線に気付いたグローリアさんがそうではないという事を教えてくれた。


「夜中に目が覚めてしまったので、その時に治しました」

「……ああ、そういえば治癒魔術が使えるって言ってたね」


 だけど、それだとまたもや疑問が生まれる。


「でも、なんで寝る前に治さなかったの?」


 寝る前どころか、食べる前でも途中に挟んでいた休憩中でも出来たはずだ。なのに、なぜ痛い思いを我慢していたのだろう?


「えっと……そ、それは……その……」


 なぜかグローリアさんは狼狽えだした。いくら昨日会ったばかりでも、これだけで分かる。これは間違いなく相手に気を遣わせないようにと必死で考えている姿だ。それと同時に、どうしてこんなにも困っているのかを考えた。

 それは昨日のことを思い出してすぐに分かった。彼女は誰かに心配して欲しくないのだ。……勿論、その理由までは分からないけれど。


「大丈夫だよ。全部言ってみて?」


 そう言うと言葉を選ぶのを諦めたのか、グローリアさんは少しの時間を置いてからポツリポツリと正直に話し出した。


「実は……ヒューゴさんを治した時に使った魔術なのですが……正確には聖法と言って、アーテル教の歴史を紐解いても使う事の出来る方は少ないのです」


 チラリ、と僕の顔を窺うグローリアさん。そして、そのまま視線を向けた状態で続けた。


「ヒューゴさんに使った聖法は、死んでさえいなければどんな状態の人でも治せると言われている聖法です。詳しい文献は残っていないので誰も詳細は分かりませんが、適正のある聖女が生涯に一度のみ使えるという事。使用者が望めば、相手の魂を含めた全てを浄化して姿を作り変える事すら出来るという事。そして……その聖法を使った者は精神力と体力を多大に消耗するという事が分かっています」


 彼女が一区切りつけた所で僕は待ったを掛けた。聞き逃せない事が二つもある。


「一回しか使えないって……それってもっと大事に取っておかないといけない事じゃないか。なんで僕なんかに……」

「……どうしても助けたかったのです。あの呪いは……例え誰であろうと逃げ出してもおかしくない――いいえ、誰であろうと恐怖を抱いて逃げるものでした。事実、護衛騎士の方々は戦闘中ではありましたが、誰一人としてその呪いに立ち向かう事は出来なかったのです」


 私に忠誠を誓ってくれた怖いもの知らずで有名の護衛騎士団長でさえ――と彼女は付け足す。彼女自身も恐怖で足が動かなかったそうだ。


「そんな恐ろしい呪いを向けられた私をヒューゴさんは救ってくださいました。誰も出来ないのではないかと思える程の大業です。呪いを受けたヒューゴさんは、しばらくの間を叫びながらもがき苦しんで……身体の所々が折れていきました……。この後の事は……ごめんなさい……言葉に出来ません……。ですが、命の恩人を救えるかもしれない術を持っているというのに、何もしないだなんて……私には出来ませんでした」


 話す前はあれだけ悩んでいたグローリアさんは、話し出すと堰を切ったようにその時の事を話してくれた。これは僕の勝手な憶測だけど、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

 ……そして、彼女の話を聞いていくにつれて僕の心は申し訳ない気持ちで一杯になっていった。


「僕は……グローリアさんを助けた訳じゃないんだ」


 気付けば僕は、僕の視点での起こった事を話していた。

 空の高い場所から落ちてきたという事――。地面へぶつかる直前の不可解な力により地面を無様に転がっていった事――。その結果、グローリアさんの盾になった事――。

 どこにも僕の意志なんて無い。ただただ単純に偶然そうなっただけ。加えて言うと、僕はもがき苦しんだ記憶も無い。死ね、という言葉だけは憶えているけれど、それ以降は意識なんて無かったんだ。


「――だから僕はグローリアさんを助けた事にはならない。おまけに苦しんだ記憶も無いから、僕は何もしていないのと変わらないんだ」


 むしろグローリアさんの方が深刻だ。僕がどうなっていったか言葉に出来ないと濁していたけど、あれは絶対に言葉にしたくないという意味だ。もがき苦しみながら身体の所々が折れるなんて言っていたけど、彼女の言う『人の身体が折れていく』なんて場面を眼前で見て平気で居られる訳がない。おまけに、初めに会った時に彼女は言っていた。あの大量の返り血は僕の勇気の証の血だ、と。つまり、血を噴き出したり身体が破裂したりして血を被ったという事になる。

 凄い――。素直にそう思った。僕の今までの人生経験じゃ想像も出来ない程の辛い経験をしているというのに、彼女はあんなにも優しい笑みを向ける事が出来た。相手を気遣う事も出来た。そんな経験をしたと感じさせなかった。

 そんな心の強いグローリアさんは明らかに動揺していた。何度も口を開きかけては閉じてを繰り返して、意を決したと思ったら次第に弱々しい顔になってというのも三回している。

 心苦しい。きっと彼女は言葉を選んでいるのだろう。出来るだけ僕を傷つけないよう、必死になって考えているようにしか見えない。

 さっきと同じように、素直な言葉を言って貰おうと思った時だ。


「……あの、ヒューゴさん。お願いがあります」


 グローリアさんがそう言ってきた。あまりにも意外な言葉だ。お願い? この場面で?

 なんだろうと思って、僕は彼女のお願いを訊ねてみた。


「私の、お傍に居て下さいませんか……?」


 少しの間だけ思考が止まった。正直に言って、何がどうなってそのお願いが出てきたのか分からなかったからだ。

 二、三度くらい瞼がパチパチした頃、グローリアさんは慌てだした。


「ご、ごごごめんなさい! 今のだけでは分かりませんよね!?」

「えっと……うん。どういう事だったの?」


 深呼吸をしてからゆっくり言ってみて、と促す。グローリアさんは言われた通りゆったりと深呼吸をすると、少しは落ち着いたのか説明をしだした。


「……先程のお話を聞いて、少しだけ驚きました。ですが、それでもヒューゴさんは私の命の恩人だと思います」

「……どうして?」

「例え運命のイタズラだとしても、そこにヒューゴさんの意志は無かったとしても、ヒューゴさんが居なければ私は今ここに居ない事には変わりません。仮に……あの呪いを受けた私が生きていたとしても、治癒は……出来なかったでしょう……」


 自分がその呪いを受けた姿を思い浮かべてしまったのか、言葉が途切れ途切れになっていた。


「その状態ともなれば一日として保たないと思います。それに、ヒューゴさんのおかげで私は心が折れなかったのです。私の知らない事を教えてくれて、心配もしてくれて、優しくもして下さいました。……実は、昨日の夜に私は泣いてしまったのです。ヒューゴさんは眠っていらっしゃったので知らなかったと思いますが、あの夜はヒューゴさんに縋ってしまいました」


 ここでやっと、僕は昨日の涙の理由をハッキリと知った。それと同時に、改めてグローリアさんは強いと実感する。どうしてこの人はそこまで我慢できるのだろうかとさえ思った。泣き喚く事もなく、自棄にもならず、誰かに当たる事もしない。それどころか自分がそんな状態だっていうのに、どうして他人を気遣えるのだろうか。この人は、この若さで一体どれだけの人生を歩んできたのだろうか。

 僕にはそれが、見当もつかなかった。

 おまけに、そんな状態であの荷物を運んでいた。これが聞き逃せなかった二つ目。けれど深く聞こうと思えなくなった。それを聞いてしまえば、ただでさえ傷ついて脆くなったグローリアさんの心に更に傷を付けかねない。

 だから、僕はこう言った。


「……辛くなったり我慢できなくなったら、僕に言って欲しい。助けて貰ったからとかそんなの関係無しに、僕はグローリアさんを助けたい」


 上手く言葉に出来なかったとは思う。元々僕は人の心に響かせる言葉なんて思い付けない。けれど、それでも僕は彼女を助けたいと思った。可愛いだとかそういう邪な考えを抜きにして、どうにかしてあげたかったんだ。


「その……それは、私の思い違いでなければ……先程のお返事と考えて良いのでしょうか……?」


 恐る恐るといった風に訊ねるグローリアさん。僕は『勿論』と返した。

 その瞬間、彼女の顔はパァっと明るくなった。小さな子供がお菓子を貰った時のような、そんな純粋な笑顔。その表情に、やっぱり僕の胸は高鳴るのであった。

 それと同時に、グローリアさんの心の強さを実感する。どう考えても普通の人ならばこんな笑顔を浮かべる事なんて出来やしないだろう。……本当、強いな。


「これからよろしくね、グローリアさん」

「はいっ! こちらこそよろしくお願いします、ヒューゴさん!」


 こうして、これからどうなるのか全く分からない新たな人生が始まった。

 ちなみに『お傍』とは比喩ではなくて言葉通りの意味だったらしく、後でグローリアさんがはにかみながら言ってくれた。

 その姿を見てやっぱり可愛いなぁと思ったのは、言うまでもないだろう――。

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