ヒトというモノ 1
世の中には決められた流れというモノがある。例えば朝になったら太陽は昇るし、太陽が昇れば多くの人達が外に出る。何日かこのアーテル教で過ごしてきて、ここの決められた流れというモノを憶えてきた。
まず、朝起きた時に着替えがある。当たり前だと思われるかもしれないけど……なぜかその時はクラーラさんが僕を着替えさせてくる。どうやらクラーラさんの練習も兼ねているらしく、偉い人が決めた事みたいなので逆らわずに従っておいた。まあ、やっぱりちょっと恥ずかしい……。ちなみにクラーラさんの服の畳み方は変わらず雑だったりする。
その後、顔を洗ってから朝の祈り。この朝の祈りはアーテル教が信仰している三女神を讃え、一日が平穏に過ごせるようにと大聖堂の廊に集まって祈りを捧げる……らしい。この時に一般の信徒も集まってきており、リアが祭壇前で膝を下ろすと一緒になって他の信徒の人も胸の前で手を合わせて祈りを捧げていた。最近では僕も顔を隠したまま、グレッグさんやクラーラさんの隣で祈っている。
そうして祈りが終わったら食事。その際にリアはオースティン大司祭やアミリオ大聖堂に所属している信徒と共に朝食を取って、人前に出る訳にいかない僕はもちろん別室……だったのだが、二日前くらいから変わった。具体的に言うと僕とリア、オースティンさん、グレッグさんにクラーラさん、そしてベネットさんとカーラさんだ。なんでも、警備と安全の考慮の為に限りなく人数を減らしたらこうなったらしい。グレッグさんとクラーラさんは僕とリアのお世話係でもあるらしく、特にグレッグさんからは食事の作法なども教えて貰った。
そして朝食が終わると──
「──はいっ。今日のお勉強は終わりですっ」
「ありがとう……リア……」
──勉強の時間である。本来ならばリアの少ない自由時間でもあるらしいのだが、それは僕が来た事でリアの勉強時間となった。そしてそれも終わった今、男というものの勉強はかなり少なくなってきている。グレッグさんとクラーラさんから教えられた事は全て教えたので、後はリアの希望と僕の采配でリアに教えるかどうかを決めて良いようになった。今ではリアが困った時だけ教えるような形だ。
……まあそれで、晴れて自由時間を取り戻したリアなのだが、彼女はこの時間で僕の勉強をしようと言いだした。
「すみません。難しいかもしれませんが、大司教の皆様が仰っている事も無視は出来なくて……」
「まあ……こうなっても仕方が無いとは思うかな……。リアと同じ姿だし、アーテル教にも護られているんだから経典の内容くらいは覚えとかないと……」
「ですが、とっても早く覚えていますよ。つい数日前まで文字の読み書きが出来なかったとはとても思えません!」
そう言って目を輝かせて喜ぶリア。僕が学習していくとまるで自分の事のように嬉しそうにしてくれるので、僕としてもその笑顔を見たいが為に勉強をしている──なんていう邪まな理由で勉強をしていたりする。
勉強内容は主に文字やアーテル教の事についてだ。僕がリアと同じ姿をしている以上、何が起こるか分からないので臨時的にでもリアの代わりが出来るように──というのがオースティンさんを含めた三人の大司祭の決定である。
経典を読む為には文字が読めないといけないので文字も覚える事にした。最初は意味不明だったけど、文法は日本語と同じだったので割とどうにかなった。というのも基本的な文字という物があるらしく、それが所謂ひらがなと同じ役割を持っていたからなんとかなったと言った方が正しいかもしれない。
「これならば大司教の皆様も満足されるでしょう」
「ハハ……そうだと良いんだけど……」
リアはとても良い笑顔でそう言うけれど、正直不安である。
オースティン大司祭はきっと褒めてくれるだろう。なんとなくそんな気がする。しかし、残りの二人はどうだろうか?
──ちなみにだけど、この世界で国と認められているのは四つある。僕達の住んでいるこのハーメラ王国に、敵であり魔族の本拠地である国家エレヴォ、北方の厳しい環境にあるオーリア帝国、そして西方で海に囲まれた島のクローナスだ。
大司教とはエレヴォを除いた三国に一人ずつ存在していて、各々がリアを中心として各国のアーテル教を指導する役職らしい。
……僕が不安に思っているのは、そのオーリア帝国とクローナスの大司教についてだ。
まず、オーリア帝国の大司教のレナードさんは……なんというか猪突猛進な所がある。真面目が服を着て歩い──いや、走っているような男の人で、貧弱そうな見た目と違って熱意もあってハイテンション。それ故か勝手に暴走しているような節がある。その熱意により、僕とリアが別人であるという事を理解して貰うのにとても時間が掛かった。何せ『グローリア様がお二人いらっしゃる!? もしや私が知らぬだけで三女神様のようにグローリア様も三人いらっしゃるのですか!?』という考えを固定させてしまっているくらいだったから。この間違った解釈を正して貰うのに一時間は掛かっていたりする。……なので、何がどうなるか分からなくて極めて不安だ。
次にクローナスの大司教のミーシャさん。この人はエルフのような見た目をしていて、種族も人間ではなく妖精族らしい。妖精って言われたら僕は小さな手の平サイズを思い浮かべるのだけど、ちゃんとした人間サイズ。大司教の妖精らしく(?)丁寧な口調かつ可愛らしい澄んだ声をしているんだけど……不機嫌になると口調が少々荒くなって声も低くなる怖い人だったりする。自分達に連絡を入れる前にアレコレと僕の処遇を勝手に決めていたオースティンさんに対して『会議も開かず勝手な事をしおってからに……。いくらグローリア様の前と言えど、度を過ぎた行動は我も怒りが沸いてくるものぞ』なんて言っていた。……社長さんとは別ベクトルで怖かった。……そういう事で、僕はミーシャさんが怖いので不安にもなっている。
先行きが不安極まりないこの状態。そんな僕を気遣ってくれたのか、リアは話題を変えてくれた。
「ところでヒューゴさん、これからのご予定は?」
「ん……? 特に決めてないよ」
良かった、と何やら楽しそうな笑顔を浮かべるリア。僕に用事でもあったのだろうか?
「では、お話をしませんか? 数日前に約束した、面白そうなお話を持ってきました!」
約束……約束……?
心の中で首を捻る。一体なんの事だろう? ──あ、まさか……この間のベッドで言った事? あれは気にしなくても良いよって意味で言ったんだけど、どうやらリアは本気で受け取っていたらしい。……これからは不用意な事を言わないようにしよう。きっと、リアは全部その通りにしようとしかねない。
(それはそうとして……)
リアはとても良い笑顔をしている。この上無いくらいニコやかにしていている事から、きっと自信があるのだろう。
「どんな話?」
「はいっ! アーテル教の三女神の御伽噺です!」
……おとぎばなし? なぜ?
一瞬、どうしてリアがそれをチョイスしたのか分からなかったけど、ちょっと考えてみたらそれも当たり前だろうと思った。
まず、この世界は娯楽が少ない。当然ゲーム機なんて無いし、漫画も無ければ映画も無い。せいぜい、チェスみたいなのや賭け事、見世物、ちょっとしたスポーツなどがあるくらいだ。
新しい物や噂話なんかは街のどこに行ってもされているくらいだから、もしかすると『お喋り』はこの世界で一番人気の娯楽なのかもしれない。
「三女神っていうと……たしか、オルトークとシセカルとソポータの?」
「はいっ。その三女神様です」
三女神とは、全ての運命を司っている神様だ。オルトークが運命を生み出し、シセカルが運命を人々に分け与え、ソポータが終わった運命を集めるか切るかすると言われている。それとは別に、オルトークは天上に還ってきた生命を浄化して新たに生み出し、シセカルはその生命を大地に降ろし、ソポータが尽きた生命を天上に送っているともあるらしい。
信仰無く罪を犯した者は死んだ後ソポータに回収されず、この大地で魂が擦り切れて無くなる運命との事。つまるところアーテル教は死後の救済を中心とした宗教のようだ。昨日、勉強したばかりなので流石に覚えていた。
「この御伽噺は、数百年以上も前から語り継がれていると言われています──」
そう言いながら、リアは小さい子に読み聞かせるような優しい顔で語りだした。
──太古の昔。世界が生まれて間もない頃、三人の女神が天上の世界より現れました。
女神達はオルトーク、シセカル、ソポータという名で、昼と夜すら無いこの世界に、三女神は自身の子供である三人の子をお創りになられたようです。
子の名は快活な人間の青年アーテル、全てを愛する妖精の少女クローナス、そして物静かで冷静な魔族の青年エレヴォ。生まれ出た子供達は三女神に知恵を与えられ、思うがままに世界を渡り歩いていました。
アーテルはその身から輝く光により昼を生み出し、エレヴォはその背後から光を呑み込む闇を生み出し、クローナスは時を動かして生命を誕生させます。
アーテルの光は生命を動かして世界を豊かにしていき、エレヴォの闇は生命を眠らせて安息を与えていました。
また、クローナスはアーテルとエレヴォの二人を愛し、二人もクローナスを愛していられたそうです。
世界は緑に溢れ、動物も、植物も、皆が分け隔てなく平和に暮らしていました。その様子を、三女神は優しく見守っていました。
しかし、その平和は突然エレヴォの手によって引き裂かれる事となります。エレヴォはクローナスの愛の全てを我が物にしようとしたのです。
エレヴォは光の全てを喰らい尽くさんと世界を闇へ陥れ、クローナスを攫ってしまいました。
世界の全てが闇に染まる事は、全ての生命が永遠の眠りに着くという事です。アーテルは力を振り絞り、世界を光で包み込みました。
光によりエレヴォとクローナスは姿が見えます。その事にエレヴォは怒り狂いました。クローナスを独占できなくなったからです。
アーテルとエレヴォは争いました。豊かだった世界は争いの炎に包まれ、その大半が死に絶えてしまう事となってしまいました。
アーテルとエレヴォ、その二人の争いは同士討ちという形で終わりを迎えます。世界はエレヴォの独占欲により崩壊してしまったのです。アーテルの身体は天へと昇って太陽となり、エレヴォは地へ沈んで影となりました。
全てを愛し、その中でもアーテルとエレヴォの二人をとても深く愛していたクローナスは悲しみました。その涙は海を作り、争いの炎をゆっくりと鎮めていきました。
昼を生み出していたアーテルと、夜を生み出していたエレヴォ。二人の死後も昼と夜は在り続け、それをクローナスが『時間』という形で動かしていきました。
その後、クローナスは寿命が来るまで新たな生命を世界に産み落としていきます。クローナスの命が尽きた時、三女神は大地に降り立ち、変わり果てた世界を見て嘆き悲しみました。
このままでは世界が滅んでしまう──。そう思われた三女神は、それぞれが身に付けていた『髪飾り』『首飾り』『腕輪』の三つを世界に残し、天上との繋がりを作り、三女神は天上へと帰っていかれました。
もう二度と世界を破壊する者を生み出さないよう、三女神はクローナスの遺した生命の運命を司る事としました。
尽きた生命をソポータが天上へと送り届け、オルトークが魂を浄化し、シセカルが大地へ降ろす循環を作り上げたのです。
こうして、世界は三女神の祝福を受けて再び平和を迎える事となりました──。
「──この御伽噺はとても古くからあるもので、種類も沢山あります。どのお話が原典なのか未だに知られていないそうなのですよ。今お話ししたものはアーテル教が最も支持しているお話で、主に教会の修道士の方々が子供達に読み聞かせるものなのです」
話し終えたリアは、最後に聖女らしい柔らかい笑みを浮かべていた。久し振りに誰かにこのお話をしました、と言った事から、どうやら話したリア本人も楽しんだようだ。
その姿を見て、僕は実感する。僕の進もうとしている道は、とても苦難なものであると。
この世界の人達は生活の基盤にアーテル教がある。それは今のリアの話で分かった。僕は、そんな子供も知っているような御伽噺すら知らなかったんだ。言うなれば、アーテル教に関して僕は十歳の子供と比べても十年と言うハンデを背負っているのと変わらないという事になる。
さらにリアとは聖女としての教育を受けたかどうかという追加要素まである。僕がリアと同じように振舞うには、リアが積み重ねてきた十六年の歩みを走り抜けなければならない。それは、生半可な努力では到底届かないだろう。
そんな彼女は今、僕の感想をワクワクと待っている。その無邪気な様を見て、なんだか温かい気持ちに包まれながら答えた。
「うん。勉強になったよ」
「……はぅあっ!?」
すると、なぜかリアは『やってしまった!』という反応をした。……え? なんで?
「ごっ、ごごごごめんなさい!! 私、決して勉強のつもりで話したわけではなくて!! そのっ! 純粋に楽しんで頂こうと思って!!」
リアは慌てふためきながら僕の疑問に答えてくれた。
……なるほどなぁ。勉強になったって言っちゃったから、リアはそんな風に思ったのか。
「大丈夫。ちゃんと面白い話だったよ」
むしろ、感情が暴走した僕と同じように暴走するリアを見ていて、なんだか親近感も沸いたくらいだ。
失礼だけど、可愛いなーって思ってしまった。……だけど、自分が暴走した姿は絶対に見たくない。恥ずかしさの余り悶絶する姿が容易に思い浮かぶ。
オロオロしていたリアはピタリと動きを止め、はにかむ姿を見せてくれた。
「もしかしたら、こうして私がヒューゴさんと出会えたのも三女神様のおかげかもしれませんね」
話を逸らしたかったのか、それとも純粋にそう思っただけなのか、リアはさっきの御伽噺に出てきた三女神様のおかげと言った。
「えっと、そういう運命を手繰り寄せてくれたって事?」
「はいっ♪」
それは少し面白いな、と思った。確かに僕はどうやってこの世界に来たのか分からない。気付いたら光も闇も無い空間でゲロってただけだし。
……そういえば、社長さんと主任さんはどうだったんだろう? 僕と同じようにいつの間にかこっちに来ていたのか、それとも何かあったのか。訊いておけば良かったなぁ。
思い出してみようと何かあったかと記憶を掘り起こす。しかしやっぱり、学校帰りに本屋へ寄ろうとした道中までしか記憶にない。……そういえば、僕はこっちに来てから鞄も何もかも持っていなかった。空中で落としただけなのか、それともあの変な空間の時に失くしたのか。もし空中で落としたのなら、地面に落ちた衝撃で中身はきっとボロボロの悲惨な事になってるんだろうなぁ。
(……あ)
鞄の中に入れている教科書がボロボロになったのを思い浮かべて、隠れていた記憶が呼び覚まされた。夕暮れの公園で、泣いている女の子を、思い出してしまった。
心臓が重くなる。身体から力も抜けてしまう。目の前に映っているリアの姿が認識できなくなる。整った彼女の顔が、煌びやかな内装の部屋が、記憶の風景に塗り潰される。
──ああ、やっぱり、あの世界は辛かった。
「……ヒューゴさん?」
その声でハッとなる。記憶に侵食されていた視界は正常な機能を取り戻し、この豪奢な部屋も、心配そうにしているリアもしっかりと認識できた。
「……ごめん。ぼーっとしてた。どうしたの?」
「いえ、その……なんと言いますか……なんだかヒューゴさんが遠くに行ってしまわれていたような……そんな気がしてしまいまして」
「……………………」
その言葉に、思わず喉が詰まった。そっか……遠く、遠くか。
それは、あながち間違っていないかもしれない。確かに僕は今さっき、もう手の届かないであろう世界を視ていたのだから。
「──はっ! ご、ごめんなさい!? 私、とても変な事を言ってしまいました! 気を悪くしてしまってすみません!!」
僕が黙ってしまったのを見てか、リアがまた慌てだす。……ああ、本当……こういう子が居たらまた違ったんだろうなぁ。
「うん、大丈夫だよ。嫌な気持ちにはなっていない」
ただ──と言って、僕は続けた。
「間違っては、いないのかも」
「はい……?」
リアは僅かに首を傾げる。分からなくて当然だろう。僕は今、リアの知らない世界を前提に話しているのだから。
「遠くに行ってたっていうの。……元の世界の事、思い出してたんだ」
「それ、は……」
今度はリアが言葉に詰まる。ああ、本当……他人の事なのにどうしてこう彼女は考えてくれるのだろう。こういう子がもっと居たら、あの子もああはならなかったんだろうに……。
「ねえ、リア」
「は、はいっ!」
「ちょっとだけ……聖女としてのお仕事を頼んでも良いかな」
「……はぇ?」
目をパチクリとさせるリア。きっと、彼女にとって意外な言葉だったのだろう。
「お仕事、と言いますと……懺悔などでしょうか?」
「……それもあるかも。もしかしたら、話を聞いて欲しいだけなのかもしれないけど」
むしろ聞いて欲しいだけだろう。どうしようもないこの感情を、誰かに吐き出したいだけなんだろう。
「──はいっ。私で宜しければ!」
リアは一瞬だけホッとした顔になると、快く了承してくれた。そして僕は、彼女の優しさに縋った。
「ありがとう。……僕さ、実は元の世界にあまり良い思い出が無いんだ」
「苦手、なのですか?」
リアのその問いに、首を横に振る事で否定した。
「苦手というより、嫌いって言った方が良いかもしれない。……前にも話した事があったっけ。僕の居た世界がどんな世界だったのかって」
「はい。まるで夢のような世界だと思いました」
「……うん。この世界で暮らしていると、確かに僕の居た世界は便利な事に溢れていたと思う。──けど、それを考えても、僕は嫌いだよ」
「……何か、許せない事やお辛い事があったのですか?」
今度は縦に振る。一度だけ、ゆっくりと。
「あったよ。犯罪は巧妙になっていって被害者は年々増えていく一方だったし、平和を謳いながら戦争をしている所もあったし、弱い者イジメも沢山あった。それに……本来ならば弱い人を守る立場の人すらイジメに加担している事もあった」
「守るべき方が……? それは、どうして……」
「僕には分からない。皆がストレス……じゃなくて、精神的に疲れていたからかもしれないけど、僕にはやっぱり理解できなかった」
教師や親が生徒や子供をイジメや虐待するという話は、僕にとってどうしても分からない。子供が好きだったり、子供を育てたいと思ったから教師や親になるんじゃないのだろうか。そうじゃないのなら、どうして教師や親になるのだろうか。
「そのイジメも陰湿でさ、分からないように物を隠したり壊されたり、挙句には暴力だって振るってる事もあった。傍から見ていて凄く気分が良くなかったよ」
教室の中で行われていた、とある女の子へのイジメが思い出される。教科書は勿論、ロッカーに入れていたであろう私物を壊したりゴミ箱に捨てたりして笑っていたクラスメイトの姿は、何年経った今でも忘れられない。
「そして……僕はそれを見て見ぬ振りしていたんだ」
「……見て見ぬ振り、ですか」
「うん。そうしないと、今度は僕がイジメられるっていうのが分かってたんだ。……止めようとした女の子がイジメられたのを、見た事があったからね」
イジメを止めさせる為、勇敢にも立ち向かった女の子。その女の子は別に特別正義感が強いとかそんな事は無かったと思う。単純に、ただただ普通に、そういうのを見るのが我慢できなくなっただけなんだろう。
「正しい事をしたというのに、それが原因で矛先が向けられたのですか……?」
不安げに、そして困ったようにリアは言った。彼女の言った通り、正にそれが起こったのだ。
「そうだよ。しかも、その子は自殺したんだ」
一瞬、時間が止まったかのように感じた。自殺した、と耳にしたリアは身体だけでなく表情すら硬直してしまい、部屋の中は誰も音と立てなくなったからだ。
数秒経って、やっとリアが声を出した。
「え……?」
辛そうな声だった。きっと、どうして自殺したのかまで理解してしまったのだろう。
そこへ、僕は今でもこびり付いて離れない記憶を口にした。
「話した事はほとんど無かったんだけど、一回だけ相談された事があった。夕暮れの公園で、ボロボロにされた本を拾っていたのを見ちゃってさ。泣きながら拾っていくのを見ていたらなんだか可哀想になって一緒に拾ったんだ。その時に話した事は、今でも忘れられない」
『誰かを助けようとするのは、正しくないのかな……』
『お父さんやお母さんは誰かを助ける事は良い事だって言ってたけど、ちっとも良い事じゃない』
『どうして私はこんなにも痛い思いをしなくちゃいけないの……?』
「──って、その子は言ってた。……僕は、分からないって答えたんだ」
そこまで言うと、とうとうリアは何も言葉に出来なくなったのか黙り込んでしまった。
ふと、その女の子のボロボロになった教科書を思い出す。使い込んで撚れている訳ではなく、叩き付けられたり折られたりして酷い状態になったあの教科書を手に取った時、僕は凄く悲しい気持ちになったのを憶えている。どうしてこの子がイジメられなければならないんだろうって、僕がイジメられている訳じゃなかったのに辛い気持ちになった。
「その後、その子は『そっか』って言って、鞄を置いたまま走っていったんだ。まるで、家に帰るみたいに軽い足取りで。残された僕は少し呆然としてたんだけど、忘れていった鞄を届けなきゃって思ってその子を探したんだ」
ぼう、っとその時の情景を思い出す。
愁いを感じさせる、朱色に染まった町並み。シチューでも作っている家があったのか、良い香りが漂い始める公園。頬を撫でる肌寒くなってきた風は、まるで人の心のように少し冷たかった。
「あちこち走り回って、暗くなってきた頃にさ……大きな橋の真ん中に人だかりが出来てたんだ。嫌な予感がして近付いたら、大人達が大慌てで『女の子が飛び降りた』って言っているのが聞こえてきたんだ」
「それって……」
「うん……忘れられた鞄の子」
あからさまに表情が曇るリア。僕は今、どんな表情をしているのだろうか。
「その後の詳しい事は僕もよく知らないんだけど、イジメの主犯格は学校に来なくなった。どこか遠い場所に引っ越したって話もあったんだけど、本当かどうかは分からない」
日に日に傷だらけになっていくランドセルは、その女の子の心を現しているようだった。初めは女の子と同じように多少傷付いただけだったけど、何度も何度もしつこいまでに痛めつけられると、やっぱり壊れてしまった。
女の子もまた壊れてしまったのだろう。心が折れて、自殺という道に走ってしまったんだろう。
「……とても悲しい結果は残ってしまいましたが、脅威は去ったのですね」
「ううん。僕にとって一番辛かったのは、この後なんだ」
そう。この後こそが僕の人生の中で一番辛かった。
「この後……?」
リアは、もう終わりではないのですか? と悲しそうにしている。残念だけど、これは酷く後味の悪い話なんだ。
「笑ってたんだ」
「笑って……?」
どういう意味なのか分からなかったのだろう。リアは悲しそうにしたまま首を傾げる。
僕は、少し躊躇しながらその説明をした。
「学校の時間が終わる時、その子が死んだ事を先生が伝えた。黙祷も捧げた。そして解散した後、周りの皆は何も無かったかのように笑ってたんだ。いつものように。これからどこに行ってどこで遊ぼうかって話もして。なんの変わりもなく馬鹿話や恋愛の話をしている人も居た」
勿論、全員が全員そうだった訳じゃない。けど、それは数えるほどだ。ほとんどが、先生までもが無関心だったんだ。
「なぜ……なぜですか……? いくら迫害されていたと言っても、いつも会っている人が自分で自分の命を終わらせるのは悲しい事ではないですか! それなのに……なぜ皆さんは……」
叫ぶように、悲痛な声で納得がいかないと言うリア。
僕は窓の向こうに見える、記憶とは真逆の蒼い──リアの瞳と同じ色の──空に目をやった。
「どうしてなんだろうね……。イジメられる前まで仲良くしていた子も、全く気にしている様子なんて見せずに本の話をして笑ってたよ」
友達とは何だろうか、と小さいながらにも思った。そして、それは今になっても答えを出せずにいる。
「あんまりにも皆がいつも通り過ぎて、僕がおかしいのかとすら思った。それでも納得いかなくて、僕は僕の中でだけ死んだ女の子の事を考えてたんだ。──あの時、僕がもっと気の利いた事を言ったら死ななかったんじゃないかって。もしかしたら、僕の言葉で自殺を決意させたんじゃないかって」
「……違うと思います」
「……そうなのかな」
「ヒューゴさんは悪くありません! その方が死を選んでしまったのは、イジメを一身に受けてしまったからです! 絶対にヒューゴさんの責任ではありません!」
リアはさっきと同じように声を荒げる。僕のせいではないと。僕が決断させたのではないと。必死になって否定してくれた。
「そう言ってくれると、ちょっとだけ楽になるかな……」
「むしろ、ヒューゴさんは助けようとしています……。ボロボロにされてしまったその方の本を一緒に拾ったのでしょう……? もしも私がその方の立場であったら、嬉しくて泣いてしまいます。周りの方々が冷たくする中で、ほんの少しでも優しくして下さったら、私ならば絶対に泣いてしまいます」
なぜかリアは優しく僕の手を撫でてくれた。きっとそれは、教科書を拾った手を労っているのだろう。
「……うん、ありがとうリア」
だけど、イジメは無くならない。小学校の時のように、中学や高校に入ってもイジメは当然のように周りで起こっていた。
だからだ。だから……。
「だから、僕は元の世界が嫌いなんだ」
「ぁ……」
彼女の柔らかい手の動きがピタリと止まる。優しい温かみを持った手は、その温度を保ちながら確実に弱々しくなっていった。
「皆が皆そんな人ばっかりじゃないのは知ってる。優しい人だって居るのは分かってる。……それでも、僕はそれが引っ掛かるんだ。その女の子の友達だった子のように、元の世界は利害だけで回っているようにしか見えなかった。……実際、僕の両親も僕に興味が無かったみたいだしね。まともに話したのも、最後はいつだったか思い出せないくらいなんだ」
親が自分に興味が無い──。それは、恐らくリアも感じている事なのだろう。ハーメラ王とリアのやりとりを見た時、どうしても親子の会話のそれには見えなかった。王という立場の都合上、仕方が無いのかもしれないけれど……。
「でも、こっちは違うと思う。リアは誰かの為に涙を流しているし、ベネットさんやオースティンさんもリアを守る為に頑張ってる。もし三女神様が現れたらお礼を言いたいくらい──」
そこでハッとした。自分の事ばかりで、リアの事をしっかり見ていなかった。今のリアは、悲しみで圧し潰されてしまいそうな顔をしている。
その姿を見て、僕の胸の奥がズキリと痛んだ。
「……ごめんね、リア」
「え……? な、なぜヒューゴさんが謝るのですか?」
「だって……リア、すっごく辛そうにしてる」
「それは……。…………………………………………」
それは、と言ってリアは口を閉ざしてしまった。
言い淀んでいるのか、言葉にする決意が揺らいでいるのか、何度も目を合わせたり逸らしたりしている。
彼女が意を決したのは、たぶん五分くらい経ってからだった。
「っ……ヒューゴさん。私は──」
コンコンコン──。
その時、部屋の扉をノックする音が響き渡った。心なしか、少し焦っているような感じがする。
そしてそのノックの主は、リアの返事を待たずに扉の向こうから声を掛けてきた。
「グローリア様! 緊急の連絡でございます! 西の山に魔族が陣地を構築しているとの事です!」
オースティンさんの声がした。そしてその内容は、どうあっても聞き流せないないものであった。
魔族の国であるエレヴォは東。そして、その逆側に陣地を作っている。それはつまり、放っておけば挟み撃ちにされるという事だ。
「──魔族が!?」
リアもそう思ったのか、酷く驚いた様子だった。
──この時、僕は嫌な予感がした。リアや僕の心を抉るような何かが、近付いているような気がした。
…………………………………………。




