act22. 静寂と永遠
act22. 静寂と永遠
「信じる心が魔法の力になる、という言葉があるけど、あれは綺麗事に見えて案外的を得ているわ」
幼き魔導の天使は、その手には大き過ぎる新聞を広げる。
『海辺の連続食人鬼被害縮小——有志による討伐か』、そんな魔導界ではよく見かける他愛無い記事の下には、やはり魔族の異常流出がその被害を知らしめていた。
しかし不幸中の幸いか、魔導界人民大量虐殺という事態には陥っていないようだ。エダーニア一家や他にも失った生徒の家族達の悲嘆を思うと、胸が痛む。
しかし随一の情報屋、ジャックが敵である今は、この記事から彼女が人間を狙って襲撃場所を厳選している事が明確になった。
問題は、ノエルの魔族吸収能力だ。
ジャックの反応から見て、あれは彼女にも予想外だったに違いない。
アンジェリカに協力を名乗り出た魔導士——レギオンの中にも少数だが魔族が居る。彼らの潜在的な魔力に気付かれても可笑しくはない。
「魔法の発動に必要なのは、魔力と技術、そして術者のイマジネーションよ。そして常人が魔法の習得に必要なのは、血反吐を吐く様な努力」
あれからノエルの動きはなかった。ジャックの居場所が探れないのか、何か考えがあるのか、不気味な程静かだった。
同胞一同は各々戦闘準備を済ませ、張り詰めた緊張の中臨戦態勢を保っていた。
アンジェリカも、血に汚れた学院制服から着替えて、いつもの黒地に白いフリルがふんだんにあしらわれた膝丈のドレスを纏っていた。高い位置で結った二本のツインテールは、いつもの様に毛先だけ縦巻きにされ、優雅にふわりと揺れる。長く尖った耳には雫のような宝玉のピアスが飾られ、それには予備の魔力を貯蓄してある。
「ノエルの魔力は、ジャックの年齢から考えて大魔女というパターンではない。だとすると、元から眠っていたものの覚醒と考えられるわ」
——アンジェリカはノエルの出現まで、ジャックに同じくハイエルフの妹がいるなどという情報は知らなかった。
ハイエルフならば、簡単には絶えない生命力を持っている筈。そして霊体であったにも関わらず物質に干渉し顕現した彼女自身の、『庇った』という言葉。
現状アンジェリカに推察できるのは、ノエルは一度死んでいるという事。
——死者の復活。復活というより、転生と言った方が適切だろう。それを成し得ただけの魔力が、彼女には備わっている。
アンジェリカは内心、純粋に魔力への嫉妬を覚えた。これが、完全なハイエルフで、自分と同型の本来の魔力……。
「でも何故、師匠は私の翼の可能性を知っていたの?」
ソファに深く腰掛け、珈琲を持った師が目線を上げた。
己の師を真っ直ぐ見据えながらも、珈琲の芳醇な香りに顔をしかめる。アンジェリカは年齢も相俟って、珈琲を好まなかった。
キルケは慎重に回答を思案する様に、長い沈黙を置いた。
「——それは、この人が説明してくれるさ」
行儀悪く大胆に伸ばしたキルケの爪先から白く輝く魔法円が浮かび上がる。それは冥界へ通じる召喚魔法円であった。
魔神の出現と同時刻。
アラクネのネクロマンサー、ザンシアは、セイレーンのアンデッドであるシードルと共に戦場と化した魔導界を眺めていた。
「私達を歓迎しなかった世界、ね」
ザンシアがふと言葉を零した。
シードルが怪訝そうに隣を見る。
「ジャックが言っていたの。ああ、その通りね、って。……私達は何の為に生まれてきたのかしら」
寂寥の吐露につられるように、シードルも呟く。
「そうね…… 世界は鮮やかだわ。鮮やか過ぎて—— 何を見たら良いのか分からない。分からない事が、分かった」
シードルは柔らかく微笑んで、ザンシアの手を取った。
「全部、教えてくれたのは貴女よ。ザンシア。ありがとう」
しかし、ザンシアの表情は晴れなかった。シードルの純真な双眸から俯きがちに顔を逸らす。
「それも、私は貴女に残酷な事をしてはいないかしら」
「そんな事ないわ」
シードルは即座に否定した。
「知らない方が残酷よ。私の世界には、私だけだった。喜びも悲しみも温もりも無かった。水底は冷たいだけだった。あの日貴女が掬い上げたのは飲み水だけじゃない。私もなのよ」
ザンシアは濡れた瞳を震わせると、目を伏せた。手を握り返し、再び目を開く。眼前には、己を覗き込む優しい桜貝の瞳があった。
「私もね、同じ。ずっと独りだった。ねぇ、貴女と出会えて良かったわ」
「私も—— 大好きよ、ザンシア」
「ええ…… 私も、」
その先の言葉が紡がれる事は無かった。
ザンシアの胸に、鋭利な白い羽根が突き刺さっていた。
ザンシアの火傷跡の走る口腔から鮮血が吐き出される。
ぐらりと後方に倒れた体を支えようと手を伸ばしたシードルは、しかし、支える事は叶わなかった。
腐敗停止魔法の解けたシードルの羽毛の腕が、ぼたぼたと順に千切れて地に落ちた。
シードルの四肢が崩れ、肉の潰れる音と共に赤黒い血の海の中へ倒れ伏す。
一拍置いて、ザンシアの肢体も隣に倒れた。
ザンシアの鮮血と、輸血されたシードルの血液が混ざり合い、鮮やかな草や土を塗り潰す様に赤黒い血溜まりを広げていく。
「……シー、ドル」
「ザン、シ、ア……」
唯一動く目線で必死に自分を捉えようとするシードルの頬を、震える手で撫でた。彼女の頬は異常な程に柔らかく、頭蓋の形に沿って音を立てて潰れた。
シードルの腕は千切れてしまったので、再び手を重ねる事は叶わない。代わりにその細い肩に手を添えた。
残酷な現実に涙が溢れる。しかし、最期の言葉を、伝えなければならない言葉を、振り絞り微笑む。
「……一緒、よ……ずっと……」
言い終えた途端に、ザンシアの魔力と生命力が死の天使の羽根に吸い取られ、全身が急速に土色の塊と化した。
目の前で砂となって風に吹かれていく最愛の友人。
シードルはその眼球が、頭蓋から崩れて地へ転がり落ちるまで、その姿を焼き付けていた。
やがてシードルは口元に優しい微笑みを浮かべた。彼女は腐敗しきった屍に戻り、潰れる様に血の海に沈む。
——ただ、最期に沈んだ海は、孤独ではなかった。
お読み頂き大変有難く存じます。
シードルとザンシアは報われたと思います。
次回もお付き合い頂ければ幸いです。