act10. 地上の蜘蛛と水底の妖精
act10. 地上の蜘蛛と水底の妖精
ザンシア・ネグローニはアラクネ族の蜘蛛の足を交互に動かし、森を進む。
ザンシアは今日も、友人に会う予定だった。
湖で出会った、セイレーンのシードル。
—— ザンシアは上半身はそこらの少女と変わらないが、下半身は蜘蛛そのものである。その見た目の不気味さから、誰からも愛されず、近寄られず、またそんな孤独を受け入れつつあった。
己は一生ひとりで生きていくのだろう、と諦観していた。
ある日、森の湖で水を飲もうと掬った瞬間、手首を掴まれた。そのまま前屈みに引き摺り込まれ、顔面が水没した時に謎の手の主と目が合った。
「ご、ごめんね!」
自分の手を引っ張った水中の存在はザンシアに平謝りで、曰く魔族だとは思わなかったらしい。
「でも、どうしてこんな湖に一人で来たの?」
「それは……」
セイレーンの人懐こい笑顔に惹かれて、ザンシアはぽつぽつと己の過去を語り始めた。
アラクネは他人には受け入れ難い種族だと。
きっとこの少女ももう少し上体を水面から出せば、私を嫌うだろう。
そう怯えながら視線を上げると、既にセイレーンは上体を陸に上げ、両肘をついてアラクネの肢体をじっと眺めていた。
「あ……」
「素敵ね!」
「え」
彼女はきらきらと瞳を輝かせ、ザンシアの8本の足を眺めていた。
「そんなに足が生えていたら、走るのも速いの?何が出来るの?きっと、うんと自由で便利なんでしょうね」
少女は夢見るように、蜘蛛の足にそっと触れる。その手は小さな羽毛で形成されていた。
そんな反応をされたのは初めてで、ザンシアは面食らってしまった。
「なら…… 地上を見てみる?」
ザンシアは己の口から出た無意識の言葉に自らも驚いていた。
「出来るの?」
セイレーンは蓋し嬉しそうに飛び上がり、胸の前で両手を合わせた。ザンシアは暫し思考を巡らせる。
「糸に水を溜めて……」
小さな冒険が始まった。
濡らした糸で魚の下半身を覆い、蜘蛛の半身へ横座りに腰掛ける。腕はザンシアの腹部に回して掴まる。
「座り心地は、悪いでしょうけど」
「いいえ!夢みたいだわ!」
いとけないセイレーンは辺りを見回しながら、あれは何?これは何?と木の実や草を指差し尋ねる。
「地上って、鮮やかなのね」
少し切なげに呟いた水中の魔族に、ザンシアはもっと広い世界を見せてやりたいと思った。
「セイレーンって、どんな水でも大丈夫なの?」
「ええ。私はただの魚とは違うから。でも、どうして?」
「湖よりも広い水溜りがあるのよ。海と言って、どこまでも広がっているの」
「まぁ!私、どこまでも泳げるの?素敵ね!」
桜貝色の瞳を輝かせるセイレーンは、両手に翼を持てども、それは小さ過ぎて体重を支えられず、空を飛ぶ事は出来ないのだと語った。
「ねぇ、じゃあお礼に歌を歌ってあげるわ。いつも練習しているの。小鳥達と合唱する事だってあるのよ。お聴きになって」
セイレーンは歌で人間を誘う。
しかしザンシアの為だけに歌われたその歌は、何処までも清らかに、無垢に響いた。
その提案が、悲劇の引き金となる事を誰が予想出来ただろう。
「釣れたぞ!…… 何だこれ…… うわぁ!!」
浜辺が騒がしい朝、ザンシアは何事かと草陰からその様子を伺った。無邪気な少女を解き放った海へ、彼女の様子を見に行こうと訪ねたのだ。
目を凝らすと、釣り人が陸に上げたのは水死体……ではなく、少女の形をしながらも両手が羽の形で、下半身が魚の……
「——!!」
あのセイレーンだった。彼女は釣り針で眼球を貫かれ、そのまま眼孔を引っ張り上げられて上半身を陸に打ち上げられていた。魚の下半身には腰の辺りに銛が突き刺さっている。
打ち寄せる波に鮮血が混じり、無情に流れていく。
「そりゃ、セイレーンだね。いや、お前は偉い事をしたよ。こいつらは歌は綺麗だが、俺達を水底に引き込んで食っちまう魔物さ」
「なんだ、良かった!」
—— 良くなんてない。その子は、その子は……!
ザンシアは物陰から飛び出し、驚きに目を見開く漁師二人の首へ蜘蛛の糸を飛ばし、捻り切る。二つの頭部が跳ねる様に地に落ち、転がる。
吹き上がる仇の鮮血を浴びながら、人間への憎悪と、友人の変わり果てた姿に絶句する。
「ごめんなさ、私が、海なんて、貴女に……」
震える手で少女の冷たい体を抱き上げる。
「……いい、のよ」
辛うじてまだ息のあった彼女は力無く微笑んでみせる。
「その人の言う通り…… 私…… 沢山人間を食べてきたから……」
片目でザンシアを見上げる。
「……ね、貴女の名前…… まだ、聞いてなかった……」
「…… ザンシア。私はザンシアよ……」
「私…… シードル。ねぇ、ザンシア…… 海は広かったわ…… ありがとう……」
海水と混ざった鮮血がザンシアの黒いドレスに染み込んでいく。
ザンシアは、力を無くしたシードルの骸を糸で包み、人間の声が徐々に近付いて来る浜辺から森へ向けて歩き出した。
「—— ネクロマンス」
初めて出逢った湖。二度と瞳を開く事はない唯一無二の友人を浮かべると、ぽつりと呟いた。
それは、いつか本で読んだ降霊術。死者を、死霊としてこの世に繫ぎ止める術。
「そうだ、それが良い」
突如背後から掛けられた声に振り向くと、そこには悪魔のような、燕尾服のハイエルフが居た。
「僕は君を肯定するよ。君も知っているだろう、死者を呼び戻す術を。君はネクロマンサーとなる代わりに、その命は死後地獄に堕ちるだろう。いつか永劫の苦しみに身を投げても、それでも、助けたいのなら」
…… 初めて自分に笑いかけてくれた、友人。シードルには、まだ見せていないものが沢山ある。
見知らぬ悪魔は笑う。
ザンシアは藁にも縋る思いで、彼女の助言を聞きながら、禁じられた術式を始めた———
「ザンシア!待ってたのよ」
いつもと変わらぬ無邪気な声で水面から手を振るセイレーンに、ザンシアは我に帰る。
ふと、昔の事を思い出していた。それも、あの日自分に禁忌のまじないを囁いた少女からの招待状が久々に届いたからだろう。
好奇心旺盛で無邪気なそのセイレーンは、他の同族とは決定的に違っていた。
片目は赤く焦げた様な裂傷の真ん中で閉ざされ、その肌は薄緑色で光を反射していなかった。
ザンシアはアンデッドとなったシードルへ歩みを進める。
「シードル。ジャックからお茶会の招待状が届いたの。一緒に行きましょう。」
「まぁ!私ね、ザンシアとお散歩するの大好き!世界がキラキラしているんだもの!」
魚の下半身を糸で優しく受け止めながら、ザンシアは微笑む。
ザンシアはあの日の代償として、煉獄の炎で腕や顔を焼かれた。煉獄の炎は死者を浄化するが、それに生者が手を伸ばして引き戻したのだから仕方がない。
水面に映った己の火傷痕を見て、これで良かったのだと、自分に言い聞かせる。
いつものように、シードルは自分に抱き着く様に蜘蛛の半身に座る。なるべく揺らさない様に、ザンシアは慎重に歩き始める。
「そうだわザンシア、今日も歌を歌ってあげる!どんな歌が良い?」
シードルを引き上げた湖は、キラキラと木漏れ日を反射していた。
お読み頂き有難く存じます。
名前だけは先に出てきていた二人の過去です。
次回もお付き合い頂ければ幸いです。