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細い腕に本を抱えて現れて、太い格子の向こうから手を振られた。
バカなんじゃないかと思っていたら、片腕だけではやっぱり支えきれなくて慌てている。どうにか、石の床には落とさないで済んだ。
外されたままの格子から、まずは本、それから自分の順で少女は牢獄へ入ってきた。
「あのね、将軍さま。今日は本を持ってきたわ」
見て、と表紙を押し出されれば、いやでも目に入った。表題は「北皇国譚」。
「知ってる?」
「ああ」
「読んだことある?」
「あるが、お姫さん、なんだってそんな――」
古めかしいと言おうか、バカバカしいと言おうか、それとも子供っぽいと言おうか。どうにも取り繕えない本への感想は、結局飲み込んだ。なんにせよ、大人になって今さらお目にかかるとは思っていなかった。
立派な装丁と固い響きの表題からは、まるで歴史書の重みを感じるが――実際、前書きには歴史書と銘打ってある――中身は古い伝説と寓話と、いくばくかの歴史が入り混じった、子供向けかと思うような短編集だ。少しでも北皇国の歴史を学んだ人間なら、一笑に付して終わりだけれど。
「北皇国の昔の人ってすごいのね。広い国を一日で駆けて、怪我もあっという間に治ったなんて」
無知な子供にはちょっと有害かもしれない。頭が痛くなりそうだ。
「たかだか二百年の間に、そんなに人が変わるわけないだろうが」
「そうかしら? かなり長いと思うわ」
「限度がある」
「北皇国にも、怪我がすぐ治る人はいないの?」
なぜいると思う、と訊きたい。
「将軍様、一日で国境まで行けたりしない? 出来るかしらって思ったのよ」
「あんまりバカなことを言うもんじゃない」
「そんな言い方ってないわ」
「お姫さんよ」
ムッとして膨れた頬に、ため息が出た。
「お前さん、一体俺をなんだと思ってるんだ?」
悪魔だ怪物だと、さんざ言われてきたが、皇国譚のおとぎ話をあてはめられたのは初めてだ。
ふふ、と少女はやっぱり笑った。
「もちろん、将軍様だと思っているわ。だから、もしかしたらって、思ったのよ」
「……その本を信じると痛い目にあうぞ」
苦り切った忠告を、あらら、と少女は受け流した。
「残念ね。じゃあ、この空飛ぶ蜥蜴みたいな生き物に乗る人たちのお話もウソなの?」
「蜥蜴じゃない、竜だ」
「竜?」
「飛竜隊は北皇国軍の要だ」
栄誉ある飛竜をトカゲと同列にされて、少なからず頭にきた。なぜ知らない、と音にしなかった部分は、ちゃんと伝わっていた。もう、と少女の頬がまた膨れる。
「だってこの国にはいないんだもの。じゃあ、その竜、は本当にいるのね」
「嘘なわけあるか」
たちの悪いことに、こうして事実も含まれているから、ややこしい。
「将軍様も、竜に乗れるの?」
「……」
しまった、と思った時には遅かった。きらきら輝く青い両目が、期待を込めて返事を待っている。
「……乗れる」
乗れなければ、否、竜を得なければ、北皇国で将軍位につくことはできない。別に秘密でも何でもないのだが。
「すごいわっ。だから空のことも雲のことも見てきたみたいに知っているのね! みたい、じゃなくて、本物を見てるのね」
「……」
「夜空を飛んでも、星は触れないのかしら? 月は大きくならない?」
勘弁してくれ、とうなだれた。予想通り、はしゃぎまわって質問攻めだ。
「雨は空で氷の粒なのは本当? 雲の中には何があるの?」
「……」
「真っ白い空は……」
「んなのは自分で確かめろ。連れ――っ」
続けそうになった言葉を、寸でのところで飲み込んだ。息が詰まって喉がおかしくなる。
今、自分は。
何を言いそうになった?
「あ……」
「あ?」
凍り付いたのは、男だけではなかった。少女もまた、棒立ちになっている。浮かれた雰囲気は瞬く間に消えていた。
ほんの少し、肩を落として、そうね、と呟く。
「そう。そうね……自分で見に行くもの。楽しみはとっておかなくちゃ」
「なに……?」
「ごめんなさい、将軍様。私ったら、すっかり忘れていたわ」
服のほこりを払う。手を前に組んで、胸に当ててひざを曲げて見せた。この国での、女性がする丁寧なあいさつだと、男は知っていた。
「私、天へ行く日が決まったわ、将軍様」
穏やかにほほ笑むと、ひどく大人びていた。
「あとひと月……そうしたら、この国の一番寒い日が来るの。その日よ」
「……戦は終わってねえはずだろう」
ころころと笑った。笑った声だけが、牢に響く。
「将軍様、ずっと閉じ込められているのによくご存じね」
「……」
「そう。戦は終わってないんですって。でも、戦争には勝たなきゃいけないでしょう? だから、お父様は戦勝記念じゃなくて、戦勝祈願のために私を天へお送りになるそうよ」
「……バカな」
吐き捨てた声は、ほとんどただの唸り声で、さすがの少女にも拾えなかった。
「だからね、持ってきた本は、お別れの贈り物のつもりだったのだけれど……ほら、北皇国って書いてあったから。でも、気に入ってもらえないんじゃ、意味がないわね。違うものを持ってくるわ」
黙ったまま、男は動かなかった。体を固くし、口を引き結んでいた。手のひらには強く爪が食い込んでいても声を出すことはしなかった。
気づいているのか、いないのか。
本を抱えて、少女は立ち上がった。出ていこうと背を向けて、思い出したように振り返った。
「将軍様」
青い空と同じ目が、いつでも真っすぐに男を見る。
「将軍様は、悲しくていらっしゃる?」
「んなものとっくに捨てちまった」
「そうなの。悲しみは捨てられるのね……私は、悲しいってよくわからないの」
ぽたり、と落ちる。雫に似た、声が沁みた。
「ただ、ちょっと残念だわ。将軍様とお話しするのは、楽しかったもの」
また来るわ。と言い残したのは、初めてだった。




