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北皇国の大将軍を、恐れぬ国はどこにもなかった。
一騎当千の兵。そして、万の兵をやすやすと統率し、ありとあらゆる武芸に秀でた、北皇国守護の要。
大陸中に名の知られた男が、とある南の小国に捕らえられた。月が欠けた新月の夜だった。
意識も、体の自由もないまま、敵の王城の一角に繋がれ。
唸り、怒り、男は抵抗した。
しかし、頑丈な鎖はひびさえ入らず、ありとあらゆる力でもってして、男は押さえつけられていた。
その声は獄卒たちを震え上がらせ、誰もかれもが、男に近づくの避けていた。
食事さえ、差し出すことに怯えられ、ないことも多い。
傷が増える。鎖で、石の壁で、その地面で、どこもかしこも血の付いた生々しい傷跡が出来た。服はとうに使い物にならないほど穴が開き、血なのか泥なのか、判別のつかない汚れで黒くなっていった。
獣さえも逃げ出すほどの、鋭く、昏い眼差しは――人とは、かけ離れていた。運悪くも見てしまった哀れな人間を震え上がらせ、さらに男の暗い噂を煽り立てた。
だというのに。
ひたひたと抑えた足音がした。
迷いのない軽い足取りは、すぐに男の繋がれた牢の格子の前で止まり、一本に手をかけた。小さな両手が、ぐっと力を入れて戒めの一部を取り外す。
空いたのは、かなり細い隙間だ。男は通れない。けれど。
「こんにちは。将軍様」
現れた小柄な少女は、なんの問題もなくするりと中へ入りこんだ。丁寧にも、外した格子を元に戻す。
男は目を閉じて、顔を伏せる。身体の力が、一気に抜けたように肩が落ちた。
「お姫さんよ」
この言葉を、いったい何度口に出したことか。続きは決まっていたが、今日は少女の方が早かった。
「あのねえ、風邪をひいたことはないのよ」
「……俺はまだ何も言ってねえが」
「そう? でも最初にそう言ったじゃない。で、いつも最後にそうやって追い出すんだもの、風邪をひくから帰れって。だから今日は、最初に言っておくの。 ――『風邪をひいたことはないのよ』」
「そりゃなによりだよ」
とどのつまりは帰らない、と宣言されて、男はげんなりする。痛む気のする頭を手で押さえたいほどだ。出来はしないが。
なんだってこんな小娘に声を掛けたのか、過去の自分を呪いたい。こんなことになると分かっていたのなら、絶対にやらなかったのに。
「普通は逃げるんだよ」
「どこに逃げるの?」
ぼそりと呟いても、距離のせいか簡単に感度のいい耳に拾われてしまう。こてん、と首をかしげながら訊き返された。
「だめよ。お兄様のお仕事を増やすようなことをしては。今でさえお父様がご不調で、とても忙しいんだもの」
「逃げんのは俺じゃねえよ」
お前さんだ、と口の中で苦く吐く。音にはしない。どうせまた楽しませるだけだからだ。
ズルリ、ガラリと、鎖が動く。腕は体より前にはいかず、立ち上がることさえままならない。堅固な牢、鈍重な鎖、歪に曲がった窓。石畳は湿気こそないが、冬も間近いこの時期は常に冷え冷えとしている。
重く、苦しい獄舎である。
けれど、少女は気にすることもなく、湿った石畳に座り込んだ。
ころころと笑い声さえあげながら、手さえのばせれば届く距離に。
無邪気な姫が座っているのだ。
忌々しいこと、この上ない――手枷もなく、汚れもせず。傷も罪も重荷もない。
ガイン、と乱暴に金属のなる音がした。男が無理に腕を伸ばしたせいで。
「だめよ。将軍さま。あんまり引っ張ると、手首が擦れて傷ついてしまうわ」
「お気遣いどうも、お姫さん」
とっくに傷だらけだよ、と吐き捨てる。目を丸くしたが、それ以上の反応はない。
なぜ、と心内で繰り返す。
なぜ、逃げない。
声を掛けたのは、逃げ出すと思ったからだ。自分の低い声が地の底のような闇から響けば、大の男でも震え上がる。
『目障りだ、失せろ』と。そう脅したというのに。
『だあれ?』と質問が返ってきたときには、男の方が言葉を失ったのだ。
もの珍しげにいつまでも居座る少女に、風邪をひくから帰れ、などと。
戯言めいたことしか言えなかった。
今日も今日とて、少女は膝を抱えて座り込んだ。
「あのね、将軍様は知ってらっしゃる?」
少女は美しかった。陽の光があれば、一層綺麗に輝くだろう、白い肌。澄み渡った空と同じ色の瞳。長い髪の色こそ闇色に近いが、綺麗な艶があるために、重い雰囲気はなかった。
「あの――」
「帰れ」
「空って――」
「帰れ」
「いつも」
「か、え、れ」
あまりにも邪険にされたせいか、ついに少女はムッとした顔になる。腹立ちまぎれの子供じみた行為だとわかってはいたが、先回りされた苛立たしさが勝った。
あのねえ、と少女が抗議する。
「ここは元々、私の場所だったのよ?」
「はあ?」
「だって、誰もいないし、ほかの所とは違うから、遊ぶのによかったのよ、ここ。だから、あとから来たのが将軍様なの。私のが先よ」
「俺より先にお姫さんがここにいたら、お前さんの首は飛んでるよ」
「どうして?」
「腕が壁に止められてなきゃ、とっくにそうしてるからだな」
ガシャン、と鎖を揺らす。短くて床に下すこともできない腕は、常に中途半端に釣り上げられたままだった。くい、と少女が首を傾けた。
「そうかしら? でも、私が使っていたんだもの。後から来た人が我が物顔で帰れなんて、おかしいでしょう」
「そうか? ここは俺のものじゃないが、お前さん物もでもないだろ」
「そうね……多分、お父様のもの、なのかしら」
考え込む少女の前で、男が盛大に顔をゆがめた。
あのねえ、と切られ始まるとりとめのない話。その中で得ていく確信が、時折男の身を震わせる。
「お姫さん」と、揶揄のつもりでそう呼んでいた。
よもやまさか、本物だとは誰が思っただろう。
兄、がだれで、父、がだれなのか。
目の前に座り込むのは、この国の一の姫。名前こそ伝わらないが、立ち居振る舞いも身なりも、すべて一級品。敵国の――美しの姫。
帰れ、来るな、と願う。
でなければ――いつか。
心が望むままに、その細い首に手を掛けてしまうだろうから。




