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 瞼が震えたのは、薄闇の中だった。ゆっくりと開いて、視界が像を結ぶころ合いで目が覚めたか、と声をかけた。

 瞬きが多くなった。


「……ベッドの中なのに、将軍様の声がするわ。これは夢ね?」

「現実だよ、お姫さん。残念ながらな」

「残念ではないけれど……ごめんなさい将軍様。どこにいらっしゃるの?」


 きょろきょろと周囲を探す少女に、すっと暗がりから男が姿を現した。逞しい体は、全く音もたてずに滑らかに動く。寝転ぶ少女を覗き込めば、花のように笑った。


「よかった将軍様……元気になったのね」

「お姫さんは本当にのんきだな。おかしいと思わないのか」

「おかしいって?」

「お前さんの部屋に、俺がいることが、だ」


 無邪気に両手まで伸ばされて、全部の毒気を抜かれてしまった。腕をとって引き起こせば、座ったまま、少女は少し考えこんだ。


「……将軍様は、北塔から出てもよくなったの?」

「だからってここにいていい理由にはならんが」

「心配して来てくれたんでしょう?」

「……もういい」


 平和ぼけした頭に警戒心を持てというのは無理だと判断して、話を切り上げた。代わりに、長い寝衣をまとった少女を観察する。


 顔色は悪くなかった。声の調子もいつも通り。触れた肌にも熱はなく、体調不良はないと判断できた――まるまる四日間、眠り続けていたにもかかわらず。


 枕もとにあるテーブルから、水差しをとって水を飲む。別に切迫した様子もない。ただ欲しかったから飲んだ。それだけ。

 かつて異能を迫害した人間の気持ちは、分からなくもなかった。これは確かに、あまりにも「違う」から。

 だからと言って、男が少女を恐れる理由にはならない。


「お(ひい)さんよ」

「なあに?」

「俺と一緒に来い――雪を見せてやる」


 澄んだ青が、見たことがないほど丸くなる。面白い、と勝手に口の端が上がったら、今度はそちらにも気を取られたらしく、瞬きが忙しなくなった。


「北皇国って、そんなに近かったかしら?」

「馬なら十日だな。今回は飛竜だから、三日もあれば着く」

「ひりゅう……」

「お姫さんがトカゲだといった竜だ」

「乗せてくれるの?」

「ああ」


 力強く、頷く。それだけで少女の頬に赤みがさした。素敵、と伏せられた目とともに言葉が漏れる。

 けれど。


「……私、行けないわ」

「なに?」

「だって三日かかってしまうんでしょう? 祈願の日は……この前五日しかなったから、きっともう明日か明後日よ。間に合わないわ」


 少女の言うとおり、最も寒い日は、明日だ――目覚めをじりじりと、身を焦がしながら待っていた。

 このまま連れて行こうと、何度眠る肩に手をかけたかしれない。けれど結局、せめて一言断ってから、と思い直す日々だった。そうすべきだと、王太子にも暗に告げられていたせいか。


「別にかまわんだろう。延期だ」

「それはダメよ。お父様に怒られてしまうもの」

「……なんだったら一緒に叱られてやる」


 幼子をなだめている気分で、やけくそでそう言えば、少女は困惑しながら首を振った。


「違うの、将軍様……私ではなくて、侍女やお兄様が、怒られてしまうの」

「……」

「時々、その後侍女が変わるの。だから」


 言わんとする事は簡単に察しがついた。王の怒りは、時に過ぎて人を殺すのだろうと。聞いていた話だった。

 ごまかしは効かないと、男は悟った。


「お姫さんは……天に行きたいのか」

「将軍様」

「毎日贈り物だと持ってきたのはなぜだ? 忘れてくれるなと言いたかったんじゃないのか」

「しょう……」

「そんなことするぐらいなら……俺の側にいりゃいいだろうが」


 ぐい、と強引に細い体を引き寄せた。膝の上にのせて閉じ込めれば、それでもう、連れていくことなど簡単にできる。


「天に行くのは中止だ」


 断言し、ただ見上げてくる青い瞳を捉える。驚いていた表情が、徐々に崩れていった。笑うでもなく、泣くでもなく。俯いて……それから。細い腕が男の方へ伸び、首の後ろへ回った。躊躇いなく、男も背中を支えた。


「将軍様……大好きよ」

「……」


 やわらかく温かい。かすかに花のような香りがするのは、衣服に焚き染められた香の名残だ。間違いなく、少女は生きている。


 生きて、いるのに。


「ごめんなさい将軍様。私……天に行くわ」


 囁きが、腕の中の温度を奪った。反射で力が入り、少女が身をすくませた。仕方なく、ゆっくりと解放する。

 向き合った少女に、迷いは一切なかった。固い意志が、はっきりと見て取れるだけ。


「北皇国のお話はたくさん聞いたし、飛竜にも興味があるけれど……でも私、やっぱり天に行かないと」


 男が、鋭く少女を射抜く。大の男さえ震え上がる眼差しにも、動じない。声は、苛立ちに低くなった。


「どういう意味か、分かってんのか」

「意味は……そうね、死んじゃうってことかもしれない。でも、私は少し変わっているから、本当に神様にお願いごとができるかもしれなくてよ?」

「のんきってのにも限度がねえか? お前さんがその気なら、このまま攫ってやる」

「……」


 太い腕の囲いを少女が見下ろして、そっと触れた。細い指、つながる手と、白い肌の腕。どうやっても、抜け出すことなど不可能だ。男に、敵うはずもない。


「将軍様……」

「死ぬ気なら、なおの事連れていく」

「将軍様」

「見殺しにする気は……」

「許して」

「――」


 額が胸に落ちた。泣いていないのに、震えてもいないのに、ひどく悲しい声だった。

 悲しいことが、分からないと言っていたのに。


「許して。将軍様の願いは、叶えられないの」


 許しを請う声は、か細くて――酷く哀しかった。

 きゅ、と少女の手が男の服をつかむ。


「だって私が天に行かないと……みんなのお願いは届かないから」

「……」

「私の役目だから。ずっとずっと、とても強く、望んでいることだもの」

「……なぜ分かる」


 少女は答えなかった。男も重ねたりはしない。なぜ、など。ただの愚問だ。人の多い王宮で、人より欲の深い人間さえいて、真っ先に戦に取られる人間の家族だっている。

 いくらでも、あり得たはずだ。悲痛な心を、無情な願いを、知ることもぶつけられることも。


「お前さんがどうなろうが、戦は負ける」


 ゆるゆると首を振る。力なく、すべてを男に預けたままだ。


「希望って、そうじゃないから。本当の事は……もう関係がないの」


 どこか遠くを、それともどこをも見つめないまま、少女が囁く。


「私がいなくなったら、死んでしまうかもしれない。そういう人たちがいるの。ずっと我慢してきたの、知っているわ……」


 少女は――無知ではない。無邪気でもなかった。


「私、将軍様みたいに戦えない。そもそも、城からさえ出られないけれど……でも、天へ行けば誰かを助けてあげられるのよ」

「……なぜ、お前さんがする必要がある?」


 ささやかな抵抗のための疑問は、あら違うわ、ところころと少女に笑って否定される。


「私にしか、出来ないのよ」

「……」


 悲しいほど、人の心を知った少女だ。

 自分なぞよりも、ずっと。そしてとても深く。


それがたとえ、ただの傲慢な王の策略の一部でも、確かに信じる者がいるのは、違えようもない事実で。

鮮やかに微笑しながら、少女はとうに心を決めた後だ。


 無理を通す。口では何とでも言えた。だが、体は動きそうにない。

 このまま抱いて行ったとして、少女は二度と戻ってこない。そう、直感した。




「行かないでって言ってくれて、ありがとう」





 ただ、目をきつく閉じるしかなかった。








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