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 固い靴音は、今まで聞いたことのない足音だった。現れた人間も、暗い牢獄とは不似合いで。

 だというのに、何も頓着せずに目が合った途端、やあ、と気軽に笑みを浮かべてみせた。


「知らせが来る頃だと思ったよ」


 忌々しかった。非の打ちどころのない微笑、飾りを抑えた上物の白い長衣――少女と同じ色をした瞳の、すべてが。


 男が口を開くよりも早く、相手は倒れた少女のもとに膝をついた。上着を脱いで――簡素なシャツと下衣だけで武器はなく、丸腰だった――少女を包みこんだ。

 目を閉じたままの少女は、ただ眠っているように見えた。呼吸も規則的で、顔色も悪くない。口元に残った血の色を長い指の背がぬぐった後、愛おしむようにそっと頬を撫でた。


 同じ所へ向けられていた視線が、今度は真正面からぶつかった。どちらも、切り付けるように冷たい。


「初めまして、北皇国の大将軍殿。この度はかわいい妹がずいぶんお世話になったようだね」

「ご挨拶だな、王太子。その妹に毒を持たせてこちらを殺そうとするとは、悪趣味の極みだ」


 自己紹介されなくても、察しはついていた。戦場を挟んで、遠目に姿を見かけたこともある。冷徹な策略家だと聞いていた。この王子さえいなければ、おそらくもっと簡単に北皇国はこの国を落とせたし、男が捕らわれることもなかった。


「悪趣味かな……でも、殺すつもりはなかったよ。それに、他に手がなかったからね」


 計算されたことに、まんまとハマった悔しさはある。折よく現れたのは、当然見張られていたからだ。が、今はどうでもよかった。


「何を企んでいる」


 低い声が怒気をはらみながら問いかける。うっすらとした微笑みが変わらないのが、なんとも不気味だった。


「話してもいいけど……その前に。訊きたいことがあるんじゃないか」

「……」


 見抜かれていることに沈黙して、それが肯定になったと気づいて顔をゆがめた。逡巡したのは一瞬。


「なぜ、俺は死んでない。お姫さんは一体何をした」


 問いかければ、満足そうな表情が返ってきた。腹立たしいが、乗せられている気もするため、あえて反応を抑える。


「何を、と問われても、難しいな。同じことをできる人間は、この世に一人もいないからね。この子の力がどんなものかは、彼女しか知らない」

「ちから……だと」

「そう。力、だ。人より早く走る力、病を得ない力、人を殺す力……他人を癒す力」

「……」

「『北皇国譚』だよ。あれはね、決してすべてが嘘ではない」


 知っているだろう? と青い目が男を伺う。


「あなた方の国には、確かに人とは違う『異能』を持った人がいた。けれど優れたことを恐れられ、迫害もされた。隅へ隅へと追いやられて……やがて土地を違えて生きる道を選んだ。それが、ここ」


 指を真下に向けた。血の散った石畳、そのさらに下を指して。


「異能があれば、人から攻められる。だから時とともに強い力を発現させる人間は減っていった。とても自然な淘汰だよ。けれど時折、こうして古き時代と同じ人間が生まれることがある」


 小さな妹の体を抱え上げ、視線を注ぐ。話をしている時とは全く違う、優しい色がほんの一瞬浮かんだ。見逃さずに済んだその瞬間だけ、目の前に立つ相手が人間らしく見えた。

 向き合ったときには、冷え固まったような微笑が浮かんでいるだけだとしても。


「だけど、基本は『人間』だ。摂理を曲げるには、当然代償がつく」

「倒れたのが、その代償か?」

「あなたは助かった。この子は死んでいない。でも、毒をきれいに消し去ったんじゃないみたいだね」

「だから眠っていると?」

「おそらくは。ただ、さっきも言ったとおり、私はこの子の力を細かく把握していない……興味がなくてね」


 音にしなかった部分が、男の頭の中で引っかかった。自分は興味がないと告げるその裏に、他の誰かは強く意識していると伝わってきた。例えば――この二人の父王、が。

 だからこその、天の御使いではなかったか。


「この子に毒は効かない。その代わりに、こうして意識を失うんだ。傷を癒すのは人だけではないよ。小鳥が猫にやられたのを見かねたときは、半年以上目を覚まさなかったけれど……今回はどうかな?」

「……」


 わざと問いかけながら、ぺらぺらと話す。その意図はどこにあるのか。まだ見えない。


「何がしたい、王太子」

「そうだな。あえて言うなら……勝負かな」

「勝負? この場でお前を殺せばいいのか」

「やってみるかい? 私は構わないけれど」


 躊躇わなかった。ちらりと暗がりに目線を走らせれば、そこから鋭い銀の光が飛ぶ。が、相手の体に突き刺さるどころか、全く予想もしなかった方向から、ギンと鈍い音がした。


「おや死ななかったか。いい動きをしている」

「なにっ」


 飛んだはずの短剣は、刃先の方向を真逆にして跳ね返ったのが見えた。王太子は腕には少女を抱えて、ろくな身動きができないはずなのに。


「やれやれ。異能を持った人間は一人じゃないんだよ。そして……異能も、一つじゃない。あなたが部下に会えなかったのも、私の力だよ。まあ、妹が格子を外してしまったから、用をなさなくなったけどね」

「それさえも計算のうちだろうが」


 確信を込めて吐き捨てれば、当然とばかりに目を細めた。どこまでも腹立たしい。自分の動きも、妹の心理も手玉に取っていたのだから。


「……死にたくなければ皇国を止めろとでもいうつもりか?」


 十分に、相手は己を脅かす力を持っていた。が、ゆるく首を振って否定される。


「いいや。父が自ら呼び寄せた災いを、取り除く意味はないね」


 祖国をあっさりと捨てるかのような発言に、男が言葉を失う。王太子はわずかに表情を変えて見せた。苦笑、に見えた。


「もう少し、頭を使ってくれないと困ってしまうな、将軍様(・・・)

「なにを」

「私もあなたも、欲しいものはただ一つ――だからこそ勝負さ」


 唐突に理解して、息をのむ。まさかともたげた疑問に気づいたのか、見せつけるようにさらに小さな体をさらに腕の中に引き寄せた。


 ――今、この国の命運とやらは関係ない。


「私が国に尽くす理由は、大事にしているこの子がいるから。あなただって、こんな小さな国の領土のために、今まで居座っていたわけじゃない」

「こちらが今すぐその手から奪うとは思わないのか」

「先ほどの続きかな? やってもいいけれど……この場の命を天秤にかければ、おそらく天秤が壊れて終わるだけだ」

「……」

「それに、私を殺しても、あなたが選べる道はさほど変わらないだろうね」

「……俺が勝ったら、そいつは俺に寄越すのか」


 欲しい。相手に指されるまでもなく、男は少女が欲しかった。少女が訪れるたびに、無理やりに攫うことを考えるくらいに。

 交渉の場に乗る意思を示せば、したり顔でうなずかれる。


「と言っても、私がすることはないよ」

「なに?」

「私は『なにもしない』。あなたに不利なことも、有利なこともね」

「……」

「あと、五日。祈願の日は変わらない。この子が目を覚ますかどうかも分からない。そして――あなたと共に行くかどうかも」

「許可なんかいるか。持って帰るぞ」

「邪魔はしない。この子は頑固だから、それを許すかは分からないけれど」

「……」

「ただではあげないよ? 頷かせられたら、あなたの物。駄目だったら、私の物。君の国がこの国をどうするか知らないけれど、もろとも心中してあげる――父はどうせ、この子を殺すからね」


 選ぶのはこの子だよ、と王太子は囁いた。その上で、まるで悪魔のようにきれいにほほ笑みを浮かべた。


 乗る? 乗らない? ――と。





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