組織と個人の問題
続 原発震災日誌66
組織と個人の問題
若き日、なぜ私が組織と個人、全体と個、思想と行動、自己犠牲とエゴと、個人主義の対立、矛盾に捉われたのか、絶望の認識以前には、理想主義的に、真理、可能性を信じ、社会、個人を変えなければという、政治、思想的な思考があったから、しかし、それは私の外的要求であり、私の内的な、個的な要求ではなかった、私の内的要求とは、人に頼らないで自分で行くが一貫してあった、一人の生き方は、幼少時より、自立、主体を育んで来ていた、養護施設での規則、労働、自由の束縛が嫌だった、夜間高校、単純労働が嫌だった、政治団体に入り、個人の時間が割かれるのが嫌だった、労働で同じ時間を割かれるのなら、活動で割かれるほうが良いと考えての事だったが、自分の時間を割かれることに変わりはなかった、
続 原発震災日誌66
組織と個人の問題
若き日、なぜ私が組織と個人、全体と個、思想と行動、自己犠牲とエゴと、個人主義の対立、矛盾に捉われたのか、絶望の認識以前には、理想主義的に、真理、可能性を信じ、社会、個人を変えなければという、政治、思想的な思考があったから、しかし、それは私の外的要求であり、私の内的な、個的な要求ではなかった、私の内的要求とは、人に頼らないで自分で行くが一貫してあった、一人の生き方は、幼少時より、自立、主体を育んで来ていた、養護施設での規則、労働、自由の束縛が嫌だった、夜間高校、単純労働が嫌だった、政治団体に入り、個人の時間が割かれるのが嫌だった、労働で同じ時間を割かれるのなら、活動で割かれるほうが良いと考えての事だったが、自分の時間を割かれることに変わりはなかった、それで足を洗う事に、党からの離脱は40歳の病気以降だったが、3.11以降、原発が私の問題となったとき、組織がどのようであっても、個人が意味で、無数の個人こそが意味で、絶望の前に組織は意味を失い、支配、被支配も、個人こそが意味にと変化、ヒトラーでも、誰でも良いのだった、この絶望に抗する個人こそが希望へと、ガンジーの非暴力、不服従、キングの平和行進、マンデラの民族融和、チリ民主連合政府、スカルノのナサコム、イタリア、スペインの反ファシズム統一戦線、各時代の農民一揆、これらにある組織、統一のテーゼ、しかし、その中心には、屈しない、抵抗する個人の意思があるのだった、100分割したら、100の個人が誕生するのが、自由なエゴイズムであるのだとの、転向、非転向も自在な個人の生き方としてある形が、人の本来であるのだった、組織の目的に縛られた個人ではない、生きる事の意味、生きる事の本質において行動する個人が、思想、運動で問題であった、組織と個人が、今無数の、3.11以降の自由エゴイストの集団の誕生において、それがシングルイシューであろうが、無数の少数政党であろうが、人の意味、政党の意味に変化したのだった、民主集中などではない、オキュパイ運動のように、リーダーもセンターも必要としない、直接民主制の、個人と全体が常に一体となるプロセスをの、個人が基本の形、これこそが再生可能な、持続可能な政治形態であることの、それが可能となった3.11以降の世界の動き、木を植える男の、一粒の麦死なずばの、無数の個人の誕生であるのだった、
夢を見た
心臓がおかしくなって、とある知人の紹介の病院へ行ったら、診察室へ行く通路に長い行列が出来ていた、知人もおかしい、こんな事あるわけないと驚いていた、その時、ふと気づいたのがセシウム137の心臓への蓄積だったが、これは原発事故の勢だけではなく、誰かがセシウム137を大量に発生させているからではないかと、兵器としてレーザービームや、音響、電磁兵器があるのだから、当然直ちに死に至りはしないが体調を悪くさせ、遅くない時期に死に至らせるような、中性子線などの放射線兵器があってもおかしくないと考えていた、デモや集会の中に自分だけは完全防護して、いや指向性を持たせれば、本人は防げる形で、セシウムを放射しているのではないか、反原発の動きを封じるためにはむ何でもやる世界だ、山崎ジャーナル、デモクラシックナウを見て眠ったからか、世界は今や、セシウム入り、プルトニウム入り食料を食べさせられているのだから、
Tの電話は「その後どうですか」と私の作品の進行状況を尋ねることで始まり、私は相変わらずですと、すると自分の進行状況を自信なげに語り、私も心情吐露し、互いに労わりあい、しかし、Tは最後には興奮的に、自然と宇宙、縄文美を語るのだった、Tにはそれが絶望に対する自分の答えだと捉えているのだが、表現が付いていかない事への苛立ちが興奮させるのだった、私は人類に責任を負って書いているのではなかった、怒りはあるが、私の人生に対する問題としての核であるのだった、が、ニーチェ、ドストエフスキーを考えると、人類への責任を負うのだった、進行する悲劇に、絶望に、進行する文学が必要、それはツィッターや、ブログではあるが、私もいつ何が来ても大丈夫なように、発表を考えねばと、私に評価など今や要らないのだから、何しろドストエフスキーを完読しよう、
「悪霊」ステパンを通してロシアを描出しているが、そこにあるのは既知のロシアという世界、スタブローギンの登場で話は展開するし、読ませるが、太宰と同じような風刺画的描法ではあるのだった、現在のツイッター発信の、丸山も、辺見も、その他のジャーナリストも、同じような風刺、批判描法が鼻につき、嫌になっているのだった、私はどこかでトルストイ的な真摯さ、懺悔的な形を求めているのだった、たとえ絶望であっても、失わない心、実存するというものを、
「悪霊」
世界で無数の人間がこの悪霊に戦いを挑んではいるが、有効に働いてはいないのだった、絶望に対してストーリーでは非力なのだった、事実だけでも、想像力だけでも、人間の絶滅、世界の破滅、絶望の肯定しかないのだった、それをどのように、寿命50年の世界の、子供が生まれない未来を、仕方がない、とするのではなく、その絶望の中を生きる意味を、9.11、etc、世界の陰謀、止められないのだろうか、彼らの頭は社会構造が作っている、個々の人間ではないのだった、資本のシステムなのだ、シンガポール航空機、韓国旅客船、ウクライナ紛争と、彼ら一個の人間などではないのだった、労働、システム、社会、国家、
原発事故が何故フクシマであったのか、何故日本であったのか、狂気の地理的、植民地的状況における核生産工場としての日本であったということ、
ニーチェは何と闘ったのか、誰と闘ったのか、ドストエフスキーは何と、誰と、私は何と、誰と闘っているのか、死という不条理だろう、核など私の死への条理に過ぎないのだから、
文学的料理が出来ないまま、絶望を延々と書いてきて、徒労感に捉われ、自らがそうなっていくような虚無に、が、悪霊を読み、その作品の冗漫さを感じ、自作の意味と、必要を感じ、解決はしていないが、闘志はあり、書き続ける事の誠実があり、文学とは闘うものであり、一人で闘うものであり、絶望に対して闘うしかないとの、
タルコフスキーは自らの意味を、時代への犠牲と愛と捉え去っていった、私は、存在と無、今あること、そして在ったことを、どのように在ったかは問わず、人間の古代の遺跡のように、かつて存在した事の、時代への犠牲、愛、神、これらの死こそ絶望であるのだから、時代は戻りはしない、人間は子供に帰りはしない、美、芸術が、人の死に何ら救いとならないように、まして地球の破滅、70億の人間に救いや解決となることはなく、
無の上に私を据えて、私対世界を生きる、絶望も無である、無とは現象学のような私の見解をも措いて置いて、私の内奥の声に耳を傾けることである、私の内奥とは、私の自由なる自我、唯一の私の意識からの声、病む世界も、病む私も見据える内奥の私で見る事である、絶望主義的エゴイスト、どうして人は、理想、正義、法律などに縛られるのか、狼と同じように縄張りから出られないのかをしっかりと考察することが必要、私の癌、私の絶望と捉える私はどのようにして作られるかは、そのように私で生きていなければ私は無いということ、私は癌に対し無治療を選ぶだろうは、私は抗がん剤に幻想を持っていないから、覚悟して生きているから、生と死を自然裡と捉えて生きて来たからという私があるからであった、多く絶望できないのは、そのような私を生きられてこなかった事によるのだった、
あの時、手術までの時間、仕事に忙殺されて、絶望している暇がなかった、ノイローゼに対しての森田式治療が、生物の本来性を引き出そうとしている点が適っているのだった、数日は人と会わず、話さず、一人横臥している、後、軽い労働、後、他人と話し始める、と、身体によって自分を見出す事によって神経衰弱を治す、
国家的陰謀、アポロの嘘、9.11の自作自演、日航機事故の誤爆隠蔽、etc、etc、この間、佐村河内のゴーストライター問題、小保方のスタップ細胞問題、シュティルナー的に感想を考えるなら、ソクラテスのような国家や理念を肯定することなく、自らのエゴイズムに忠実に、節度を曲げ、嘯けば良いのだ、私がやりたいようにやり、あとは国や、社会が裁けばいいのだと、世界を絶望と捉えている者にとって、エゴイストにとって、理想も、希望も、笑止なことであるのだった、
エゴイズムで、自我で、自己性で、私で、異邦人で絶望を超えた、理想、希望、存在、人間、愛、etcのしがらみ、感情、習い性、価値によって、絶望を薄め、捉われ、悲嘆していたのだった、が、絶望を絶望のままに、そして私対世界の私という自己性、エゴで、私という唯一性で絶望を超えた、絶望にエゴがプラスされ、私対世界は強固なものとなった、私という唯一性と、一回性が確立されたのだった、
世界の邪悪に対して、私対世界がどのように対置出来るのかが私の問題であるのだつた、人の自己性、自己所有のない世界、社会、国家にあって、自明と出来るのか、自己性、自己所有を最上にすることの、それが人間であるとの、生と死、この時空への、死の瞬間までの自己性こそが生であることの、私を所有するとは、私の全存在を所有するという事、
生命で生きるとはそういうこと、何かと交換する事ではない、愛、自由、美、真実、etc、etcの人間文化が育んできた所の価値などではない、私の自我ということ、生まれ落ちたそのときから所有している自我というもの、実存とはその人間の自我を生きる事であることの、
新しき人、絶望を糧に、価値や理想に捉われず、今という時と、存在という実在をこそ味わい、共感しあう人間関係がいずれ誕生するであろう、これこそが絶望の中の希望、喜びであろう、




