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続・原発震災日誌  作者: 山口和朗
54/77

石原吉郎

続 原発震災日誌54


物理学がヒックス粒子を予測し、質量の証明をしようとしているのだが、在る物をこのように在ると言うに過ぎないのだった、何で構成されていようが、在るということに変わりはなく、意味における、何故在るかは何も証明できないのだった、引力、因果律も、核分裂も、人類絶滅という意味喪失の前に、無意味、否共犯、主犯でさえあるのだった、朝永も湯川も、ましてハイマー、アインシュタイン、科学は権力と共にあり、戦争と共に発達して来ているのだった、

続 原発震災日誌54


物理学がヒックス粒子を予測し、質量の証明をしようとしているのだが、在る物をこのように在ると言うに過ぎないのだった、何で構成されていようが、在るということに変わりはなく、意味における、何故在るかは何も証明できないのだった、引力、因果律も、核分裂も、人類絶滅という意味喪失の前に、無意味、否共犯、主犯でさえあるのだった、朝永も湯川も、ましてハイマー、アインシュタイン、科学は権力と共にあり、戦争と共に発達して来ているのだった、


こうした中で実存の言う、私という存在の開明は何の意味をもつのか、それが絶滅に有効たりうるのか、絶滅がゆえの実存開明であるのか、人間の思想行動が、世界の利権構造の中から、桜井よしこ等が右翼的軍人会からのように、その利権に組する生い立ち家系からの、人の思想行動を理解するとき、この影響は大きい、

私が反抗、異邦的であるのは、カミュの反抗、異邦とは違う必然がある、父の尊属殺人未遂放火という、犯罪者の子という、赤緑色弱という、養護施設出身という、最終学歴夜間高校という、共産党員という、裏切り者という、文学、哲学という、癌サバイバーという、

私が実存、現存在と言うとき、これらの経験があってのもの、ヤスパースの私とは何かの問いも、ハイデガーの実存開明も、問う私の前に、私を見つめる私が在る、あの時、間違っていたら死んでいたという、


いま絶望を定義して、それに一体何の意味が、世界の絶望と私の絶望とはどんな関係が、何故影響されるのか、あくまで私の死が問題なはず、それが私の実存であるのだから、子供の頃戦争があったでいいのか、子供の頃原発事故があったでいいのか、


戦争兵器が、核が使えないから、何故なら自らも殺すことになるから、戦争の意味を失うから、いかに核と言うものが生命に対して危険なものであり、絶望的なものであるかを人間は知っているのだった、いずれ核というものが製造禁止条約となるだろう、その核の廃棄物ではあるが世界中に野放しのままの地帯は、汚染を広げ、人類の負の遺産となつて、子孫に10万年の管理を課し、絶望を投げ続け、先祖を恨み、嘆き、バリアの中で生きる運命となり、外の世界は宇宙服でしか生きられず、地底人となったりと、それでも人は、それが運命だと、死や病気と同じと、つかの間の生命を楽しみ、絶望は死と生の外にあるものと、現代人と何ら変わらず生き続けるだろうとは思われ、私の絶望と無は私の虚妄に過ぎないと、まして10年20年後の世界に絶望など考えられず、人は忘却し、絶望の上に身を置くことなど思いもせず、絶望など抱いては生きられないと、忘却へ忘却へと、絶滅への生を歩むのだろう、絶望主義の強さは存在を否定できる強さであるのだった、人間存在から自由になることのできる唯一の方法であるのだった、


ニーチエ、キルケゴール、ハイデガー、ヤスパース、サルトルと、自由を求めて読んだ、しかし誰も自由に至っていなかった、自由への道が、否、実存という状況に至るだけだった、真の自由とは、宗教を超えた、私を超えた絶望と無であるのだった、あらゆる陰謀史観が告げていることは、陰謀的視点ではなく、国家による犯罪は鵜呑みにしてはいけないということ、犯罪があったかなかったか、誰が得をしたか、被害者、加害者の問題ではなく、人間とは誰もが加害者、被害者にもなりうる、悪なる存在であるということなだけ、それらを国家や、政治によってとりあえず治めているに過ぎないということ、人間とは悪が本質であることを思い知るばかり、天国は、私という心の中にあるだけ、私の外には無いということ、自虐史観ではなく、理想主義ではない、実存的絶望主義の立場、私という一個からの立場、


誹謗ニモ負ケズ、中傷ニモ負ケズ、差別ニモ、抹殺ニモマケヌ、独リ生キル丈夫ナ体ヲモチ、意味ハナク、決シテ価値トハナラズ、イツモ社会ノ片隅にイテ、一日五回の小鳥のエサホドノ食事ヲトリ、社会ノコトナド、勘定ニ入レズ、私トワ何カダケヲ考エ、


石原吉郎


シベリア抑留体験が戦後日本の無責任性、無意味、痴呆、日常の中に疎外され、排除され、自ずからの体験の意味と位置を知り、言葉として立つ人へと変化し、私という人間の位置を表示している、主体のない被害者群像としての兵士という人間においては、無責任、忘却は自然裡のことで、意味を問う、責任を問う人間は異質で、邪魔で、石原は排除、無視され、故に意味を問う、人間を問う石原が成立し、いずれ人間を問うとは、私を問うことであり、孤塁であるのだった、私が私において、責任を負い、解決をしなければならないのだった、絶望しても死なないで問い続ける人へ、この営為だけが私としての人であるのだからと、


人間の邪悪、人間の愚かさを深めるにつけ、絶望は底なしのものとなり、原発作業員日誌を読む、癌患者日誌とは違う、放射線の恐怖が漂う、迫真がある、足が日常と健康の側にあるから、癌患者は足が非日常と死の側にあるから、虚無、厭世からは絶望はとらえきれない、絶望とは現実への絶望的なアンガージュマンであるのだった、


「シシュフォス」でカミュは不条理というものの絶望を象徴的に語るのだが、概念としての不条理としてしか伝わらないのだった、が、今その不条理が、不条理を越えた絶望として明証性、具体、現実のものとして、立ち現れているのだった、この絶望に「ペスト」の誠実では立ち向かえないのだった、結局は反抗しかないとしても、結果としては不条理、無意味、絶望に突き落とされるのだった、結果が分かっているだけに、ニヒル、ペシミズムもあらゆる人間の反理想主義的なものは、有効となり、存在意義を持つのだった、反抗ではない、共存、受容、罪の引き受け、受難となるのだった、イエスを人類は体現しなければならなくなったのだった、一人一人が自責性をもち、イエスを生きることとなるのだった、死に至る病が一人一人に課せられたのだった、絶望を生きたイエスを生きることが現実課題に、聖書が真に人類のバイブルになる時がきているのだった、


人魚姫や竹取物語などを死者の視点から、死を自然な、生命の営みの視点から、絶望の後にはそうした死後、死者からの世界が私の解決につながるのでは、

シシュフォスの神話の不条理の壁、実存の哲学が共通している風土とは、条理を目指しているということ、認識の態度にしか過ぎないということ、大事なことは偉大なる生きる人であること、彼の岩は彼の持ち物なのだ、不条理な人間こそ自分の日々を支配するものだ、世界は一人で変えられる、そのエネルギーはと、木を植えた男のように、鳥と暮らしたいから、生涯に亘って木を植えただけ、結果森が出来ただけと、作家も同じこと、書くことを生きたいからだけ、絶望の世界にあっても、希望と、真理と、愛とを描き続けるだろう、が私は絶望をこそ、死をこそ描くことでこの絶望を私において解決したいとしているだけだった、


新しき人のイメージ


死を覚悟して、絶望を見据えて、今を、生身を生きるもの、絶望とは不条理の壁であるのだが、それは世界に含まれてあるもの、その世界と私の一体、

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