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続・原発震災日誌  作者: 山口和朗
52/77

頭から足が生えたアブラゼミ

続 原発震災日誌52


哲学とは何か~人間を考えること、

哲学によって何を意欲しているか~生きることの意味を、

誰に語るのか~私と人々に、

人生とどう結びつくのか~私の人生という


ハイデガーの超感性的なものへの警告、

ヤスパースの感の鋭さ、ハイデガーの彷徨者としての単独者の意識とヤスパースの栄光、時代への真剣さをハイデガーにみるヤスパース、哲学と政治は切り離すことが出来ない、プラトン以来のこと、ヤスパースがドイツ的根底にこだわるのは、和解と統一をハイデガーに求めてのことであった、又政治と哲学の統一を願ってのことであった、

続 原発震災日誌52


哲学とは何か~人間を考えること、

哲学によって何を意欲しているか~生きることの意味を、

誰に語るのか~私と人々に、

人生とどう結びつくのか~私の人生という


ハイデガーの超感性的なものへの警告、

ヤスパースの感の鋭さ、ハイデガーの彷徨者としての単独者の意識とヤスパースの栄光、時代への真剣さをハイデガーにみるヤスパース、哲学と政治は切り離すことが出来ない、プラトン以来のこと、ヤスパースがドイツ的根底にこだわるのは、和解と統一をハイデガーに求めてのことであった、又政治と哲学の統一を願ってのことであった、

ハイデガーとヤスパースその違い故に求め合う二人、泣ける、

70才から80才のヤスパースへのハイデガーの手紙、ハイデガーの一句一句に感じるヤスパース、80才の心に、

ヘーゲル、ニーチェ、マルクスへの共通批判の認識、ハイデガーのある境地、地点での二人の呼吸、単独者としてのハイデガーの理解と決別、ヤスパースは人間的な場所を求めて、ハイデガーは単独者としての孤独を求めて、


ニーチェ(1844-1900)55才~1876年反時代的考察、

マルクス(1818-1883)65才~1867年資本論、1848年共産党宣言、1871年パリコミューン

ヘーゲル(1770-1831)61歳~

ワーグナー(1813-1883)65才~ニーチェより30才年上、1848年ドイツ3月革命

ヤスパース「宗教のこだま」を聞こうとしているのだった、


思想が、革命が、哲学が、人間の解放以前にマルクスの言う、先ずもって喰わねばならないことからの解放、自由をめざしていたのだっと振り返って、私の出発も労働からの解放、自由を願って政治へと、思想へと、しかしその為には更なる労働と、不自由が待っていて、そこからの離脱となったのだった、私は私でもって、それらの自由を獲得しようと現在に至っているのだった、


ヤスパースの現実主義的実存は、その誠実と努力は感じるが、それが故に、通俗、平凡、啓蒙、理想を感じ、ハイデガーとは相容れないのだろうと、片や惹かれもしたのだろうと、ハンナ、ユニークな発想はあるが、やはりヤスパース的な、政治的な解釈を感じてしまうのだった、

「全体主義の起源」など、人類にとって問題ではあるが、何の体制であろうが、どの時代であろうが、貫く、生きる意味と、哲学が追求されてはいないと思えるのだった、

この世へ何をしに来たのか、この世にはもっと何かがと、この時の流れの中に生まれた私は、奇跡の誕生であるのだとの、


ヤスパースとハンナ~自由と理想と対話を人生とした二人であった、


私を生きるということは、生命を生きるのだが、人としての生命、感じる心、考える心、それが世界の滅亡の無の上に立って味わう中に、風って、木って、草ってと、間もなく終わる私の生命への捧げもの、過去の様々な体験、シーンを、分析、描写することは、私を生きることではある、私を生きるとは、生きたことをしっかりと意味で繋ぐことにある、それが世界への誕生した意味、実存を特別なものと考えてきたものが、絶望を前にしては、何ら特別なものではなく、有効でもなく、人生そのもの、人間そのものであった、


ニーチェにしても、キルケゴールにしても、自らのニヒリズムと闘っての実存であったのだ、ニヒリズムが自家薬籠なものではないのだった、文化は、ニヒリズムとの闘いの中で、育まれ、常に勝利し、封じ込めて来たかに見えるが、絶えず湧き起こってくるニヒリズムとの戦いの歴史であった、しかし今、ニヒリズムは決定的な力を得、誰にも、何をもってしても封じ込めることの出来ないものとなった、大気、大地そのものがニヒリズムとなり、ニヒリズムが世界を覆ってしまったのだった、ニヒリズムを軽蔑、排斥、嫌悪してきた人間の歴史そのものがニヒリズムを成長させてきたのだったが、もはやこのニヒリズムの上に文化を据えないでは人間の文化など、只の虚構、幻想に過ぎないのだった、ニヒリズムのリアリズムだけが文化となる、


世界の邪悪の構造、元凶が見えてきた、資本論的経済の矛盾ということではあるが、そこには、その矛盾を支える膨大な利権集団があり、機構がある、この集団、機構に、人間という種全体が組み込まれており、国家、社会というものが形作られているのだった、狩猟社会から、農耕、産業革命へと、その過程にあった、文化、芸術の果たした役割、そこに絶望の概念は無い、宗教の原罪、天国、地獄などではない、カフカ的絶望、実存的絶望、近代において誕生してきたのではあるが、今、核という、絶望が現実にもたらされ、人間という種の、集団、機構が根本的に変更を迫られているのだった、絶望主義が、理想主義に取って代わる時代へと、集団から個へと、個としての生命の目覚めへと、絶望こそが生命への目覚めを促すのだった、生命で生きる哲学を、ここから人間を作っていかねばならない、理想や希望ではない、生命の持つ原初性、生命本来の概念、存在への信仰に類する、生命への畏敬、信頼への哲学が、不条理、実存とは、人類が絶望に至って頂点を迎え、無化されたのだった、後には、それでも尚生き続ける生命そのものが発露するのであった、


頭から足が生えたアブラゼミ


少年の日の私なら、大発見で、昆虫採取の標本の宿題に、自慢げに飾り、が、今や羽が3枚やら、眼が一つやらと、神様が遊びで作ったようなセミがあちこちに、飛ぶことも無くミイラに、少年の日の果樹園のセミたち、真夏の空に、割れんばかりに鳴いていた、力強い生命の共鳴音が、遠いこだまのように今も私の耳奥には残っている、


汝自身を知れから、我思う故に我ありへと、ニーチェの虚無からフッサールの現象学へ、シュティルナーの無の上から、絶望の上にと、そして存在とそれらを感じる生命へと、この流れは、3.11がなくとも、私の癌体験から必然であったのだ、絶望の上に私を置くことは癌患者には必然、しかし、余命と受容の先に生命の最後の輝きに遊んでいたのだった、

息子へ、20年後日本があるかどうか分からない、そんな国で子供を作ることなど、結婚など考えることは無いよと、絶望の国の父母は考えるのだった、


秘密保護法やら、TPPやらと、それらに対し怒ったり、嫌悪したりと、世界は大きな絶望を置いておいて、小さな絶望に、変更可能な絶望でも何でもないものにかまけているのだった、キルケゴールにしても絶望を観念的、個人的なものとしてしか捉えていない、世界の絶望とは核とともに始まり、今やそれが自明のものとなっていることを、絶望を定義するなら、この絶望こそが絶望であるのだと、世界をどのように支配、収奪しようとも、核汚染の前に人間は為すすべなく、ただ死に絶えるのを待つばかり、核がすべての世界の不条理を収斂するのだった、かつて人間は神を人間による人間に対する邪悪を成敗してくれるものとして創造したのだが、今や、神からの人間への劫罰を求めての、今、核が自らを罰するものとして人間にもたらされている、神より強い不滅な核、救済不可の滅亡への、神をも恐れぬ人間への核の悪魔の火として、気付くか、悔い改めるか、見ぬふりをするか、いずれ最早遅いのではあるが、悔いて死ぬか、嘯いて死ぬかだけ、


絶望を通して無に至るとは、何にも回帰することなく、生身の刻々の私に目覚める、そうした私の獲得に至るということ、結果として捉われていた近代、文化といったものからの自由、自在を得るということ、絶望を通して無に至るとは、キルケゴールの死に至る病ではない、絶望して死になど至らない、絶望をしてこそ生に至るのだ、生身シンプルな生命としての私に至るのだ、世界の無、私の有、世界は無であったのだと、ただ私が有として存在しているのだとの、世界とは自然裡、たとえ人為であっても自然裡、ただ私だけが意識を持った有であるのだとの、刻々の生命としての、我絶望するゆえに我ありと、


書き続けている絶望と無が「マルドロールのうた」のように、独断と偏見に満ち、他人には読みがたいものがあるだろう、私が絶望から距離を置き読み返したとき、そこに展開されている考えの修復しがたさや、浅薄さを感じるが、現実を考えるとき、私は絶望し続けることが現実を見据えることだとの、避けえない、忘れることの出来ない、癌の転移後の生活のような3.11以降を生きているのだった、


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