はだしのゲン、少年と海ガメ
続 原発震災日誌46
はだしのゲン、少年と海ガメ
はだしのゲンの主題となる麦のように、踏まれても強く生きようは、逆境の中、常に取り出される日本的ガンバレ精神、おしんはじめ日本人のメンタリティーとなつているもの、それを原爆に対しても同じ調子でとらえる日本精神、世界のどこにもガンバレ精神はあるものの、原爆に対しては新たな視点が必要であるのだった、子供の今までにない視点、子供の絶望と未来を予感させる、人類への警告のような、原爆、戦争を行った大人への愚劣さを告発するような、少年と海ガメは、海ガメの卵を食べて生命を繋いだというのでは、ただの贖罪になってしまう、生命を犠牲にして生きた少年の苦悩が、人間を食べて生き延びた兵隊と重なる視点がいるのだった、
続 原発震災日誌46
はだしのゲン、少年と海ガメ
はだしのゲンの主題となる麦のように、踏まれても強く生きようは、逆境の中、常に取り出される日本的ガンバレ精神、おしんはじめ日本人のメンタリティーとなつているもの、それを原爆に対しても同じ調子でとらえる日本精神、世界のどこにもガンバレ精神はあるものの、原爆に対しては新たな視点が必要であるのだった、子供の今までにない視点、子供の絶望と未来を予感させる、人類への警告のような、原爆、戦争を行った大人への愚劣さを告発するような、少年と海ガメは、海ガメの卵を食べて生命を繋いだというのでは、ただの贖罪になってしまう、生命を犠牲にして生きた少年の苦悩が、人間を食べて生き延びた兵隊と重なる視点がいるのだった、人類を敵に回す、人類を告発する視点が、今や必要であるのだった、虫の生き物の人間への告発を、人間の罪悪を放射能という新たな、人類絶滅の視点の作品が今や求められているのだった、ガンバルのではない、拒絶の不条理の絶望の視点が今こそ必要であるのだった、どのような理想も、今や無に帰しているのだから、絶望を見つめない視点は欺瞞であり、幻想でしかないのだった、
『実存主義とは何か、実存という語にいかなる意味をふくませるかによって、実存主義の定義は変わってくるであろう、ここでは、ごく一般的に、「実存」とは、「事物存在」や「道具存在」のありかたとは異なる「人間存在」の独自なありかたである、と言っておこう、したがって、「実存主義」は、「人間存在」のそのような独自なありかたをさまざまな角度から照らし出し、それをひとりひとり人間に自覚させようとする試みである』
16才で読んだ『現代のエスプリ』を何度目かの再読、松浪信三郎の巻頭言、何と色あせてしまったことか、実存とは、あくまで世界が存在しての前提があってのことで、今3.11、etcの核汚染のこの星にあって、人類滅亡の明証の中にあって、人間の存在そのものが危機の中、何も成立しないのだった、それはこの稿を書く前から、震災日記の中にすでに現れていたが、この人間の非在、私の非在にあって、誰に何を、虫に、生きものにか、人間の全文化の喪失において、何を、どのように、癌患者が、超越した人間が、希望において、責任において、何をか語ったとしても、人間の絶滅までのこと、その先は、私の死と同じように、考える必要は無いでいいのか、人類は早晩、核汚染でなくとも絶滅する運命であったのだからと、それまでの実存であるのだと、そう納得し、今在ることの、存在と無、絶望と無を受容しての存在の謳歌、讃美でいいのだと、私対世界、人類最後の楽園、おつりを生きること、人間皆おつりを生きているのだからと、70億の人間、すべて許そう、彼等のものだから、2、3千年の寿命であったのだと、私の夢、遊び、希望であったのだが、私は又存在に還ろう、いつの日か又気まぐれが起きたら、人間を誕生させて遊ぼう、それまでは静かな意識の喧騒の無い、生きもの達の世界を楽しもう、無意識の世界とは、何と自然なことか、それぞれに存在を楽しむだけの、石がそこに在るだけの、人間には故郷も、祖国も、所有もない、在るのは人間存在のあり方だけ、実存するとは、そういうこと、宇宙も、地球も、どのようであっても、人間は人間存在を存在してきただけ、核が在ろうが、無かろうが、人間存在があるばかり、人間存在とは、今という生身な世界なだけ、
二年に渉って書いている、この絶望と無、未だ出口が見えないのは何故かと、数日嫌悪感に囚われる、いくら絶望に対しては誠実に書き続けることだけだといっても、徒労と無意味がのしかかり、デモクラシックナウを見る、それで決定的となった、私は未だ、世界に私自身が絶望していないのだと、いくらプルトニウムが世界に何十トンあっても、ロスチャイルドはじめ、一握りの人間が世界を支配しているとしても、人間は何とか危機を回避するだろうとの期待を持ち、プルトニウムにしても、安全に管理するだろうと、しかし、どのように考えても開けられたパンドラの箱は、戻すことは叶わず、見えてくるのは邪悪と、絶望ばかり、人間の滅亡は、人間のつちかった文明も希望とはならず、あと十年くらいの私の時を、しっかり絶望を見据えて、かも知れないなどと希望を抱かないで、末期の時を生きることで、この絶望と無から脱出しなければ、Y氏の何もする必要など無いよと、花を見て時を過ごした中には、人間へのどうしようもないものだとの絶望があってのこと、もう必要は無い、私はしっかり絶望した、絶望を見据えた、癌患者の絶望とは、自らの癌をしっかり受容すること、余命何ケ月と、その残された時を味わう、見つめる、存在の深淵に感嘆する、それだけが希望、意味、人間存在であるのだった、パンセでいいのだった、この存在への眩暈だけで、無限大と無限小の中間者である私が私自身を生きる、お経のように書き続けて来た、絶望と無、もうやめよう、お経をいくら唱えたからといって、地球が成仏するわけでもない、否、人間が消滅するだけで、自然は、大地は、生きものたちの楽園が誕生するのだから、
存在への信仰とは、パスカルの無限大への畏怖であるのだった、これで人は人であるのだった、人間に至るとはこの存在への信仰に至ることであるのだつた、何の知識も、文化も必要としない、ブッシュマンの知恵で充分である人の始原の感情、
ラットにおける実験を待たずとも、放射線による蛋白の破壊は自明で、ある蛋白を作る遺伝子が変化すると、その遺伝子は子孫に受け継がれ、またあるホルモンを作る遺伝子が変化すると、それが子孫に受け継がれと、全人類が何らかの遺伝子変化をこうむっており、それらが全人類の遺伝子となっていくということ、変化し生き延びた遺伝子こそが受け継がれていくとすれば、低線量こそが危険であることがわかる、かくしてローマ帝国滅亡のように、人類の滅亡が人の眼に顕著になった頃には、取り返しのつかないこととなる運命であるのだった、これらが解かっていて甘受するしかない状況を形容するなら、絶望と無であるのだった、
オリバー・ストーンのアメリカ史の、世界のどこの国も同じだが、為政者が行ってきた歴史の悪の数々を、有史以来これが人というもの、国家と言うものの本質であることの、人の悪があって、人は人らしく保たれているような、絶望と無だが、全ての世界の悪を肯定する視点、非暴力不服従などではなく、暴力と支配の、歴史の暗黒史の視点が今や必要であるのだった、階級闘争の歴史ではなく、支配と統治の歴史のような視点が、統治者からの、支配者からの視点がいまこそ必要な時代、絶望と無とは、この視点からしか、実存の私対世界であっても、彼等の支配下であることの、最後は大いなる時の中に、私対世界も収斂されるのだった、私がミナマタだのように、私が原発だと、絶望を癌の転移のように受容しよう、その上での人存在を生きることが私対世界であるのだから、
最悪への考え
● 地震により、3.4号機の崩落、即死者1万人、早期障害者100万人、避難者1000万人、
● 日本脱出者1000万人、地球規模の被害、大気圏内、海洋、水の汚染
● 正に絶望と無の、世界の紛争も無意味に
● ソイレントグリーンの世界
● ホモサピエンスという言葉の終焉
● 私の死と同義語の人類の死
世界の陰謀の歴史
全ての事件、歴史が捏造であるかのような、真相究明記事、誰が何の為に、誰が得をして、誰が損をするか、支配者と被支配者、支配者にとってどんな意味があったのかを考えねば、全ての歴史、事件にある、背景と原因、真相の考察、そこにはメディアコントロールが、本日は、日航機墜落事故が自衛隊機によるミサイル誤射との真相、イラク戦争、etcの劣化ウラン弾の真相、この数日来、世界の、日本の疑惑ブログ記事ばかり読んでいる、3.11以降、世界を策略、陰謀の視点から見る目が必要となった、
ユダヤ問題、アウシュビッツ、原罪、etc
をどのようにとらえるか、人間が人間を喰うという宿命を、文学、芸術はそれらを理想で超えようとしてきた、超えたから70億人が生き残っているのだが、絶滅された民族は在る、人間と言う種全体からすれば何十分の一ではあるが、そこには歴然として人を喰うという宿命は存在しているのだった、絶滅した動植物は、追われ追われ、喰われ喰われ、絶えていった、今も絶え続けている、こうした問題を旧来の理想主義の視点からでは超えられない、今私の心に到来しているのは、かつて癌になったときのような、私の死は誰も替わることが出来ない、私の存在意味は、私自身で決めるしかないのだということ、今世界が、絶滅、絶望に向かって進んでいることをしっかり捉えた時、人の和解や、許しや、希望などというものではない、去る者、死す者、人を喰う者としての、しかし一人で存在している、まだ存在しているといった、絶望の上に立った上での人間への視点だった、かつての、どのような理想形を提起されても、理想の涙が流されても、私の中の絶望が拒絶してくる、絶望を通して、絶望だけが、かつて孤独だけが友達であったように、今絶望だけが信じられるものに、人4000年の歴史など、寿命200万年のプルトニウムが打ち砕いてしまうのだった、
原罪の意識も、幸福、理想、真理の意識も、今や何も必要ではないのだった、絶望はそれらすべて無化する、個人の健康や幸福、追憶、未来、希望といった、存在する中で感じられるささやかな喜びさえ連続させない、その日その日限りの、限りなく生きものに近い喜びへと変わる、
核を解決する科学がない限り、科学ではない、核を解決する文学がない限り、文学ではない、核を解決する音楽がない限り、音楽ではない、核を解決する絵画がない限り、絵画ではない、映画も、政治も、人間の培ってきた叡智の全てが、核を解決できるものではなく、核を招いたそのものに過ぎず、人間はここに至ったのだった、絶望と無という頂点へ、これでいいのだ、後はおつりの生命、おまけの生命なのだから、この世を、この種を、天国、生きものの王として楽しめば、




