夢を見た
続 原発震災日誌38
原発は嘘を植え付け、原発事故は世界を一変させる、理想主義、経済主義、現実主義、あらゆる原発を是認してきた考えは審判される、そして判決が下りる、価値観の一変とは、懐疑という、思想哲学にとって最も大切な、困難な視点への目覚めが獲得されるということ、それは革命の比ではない、全人類が目覚めさせられるということ、国も、民族、階級を超えて、しかし、人は生き延び、喉元過ぎれば忘れる動物としての、人類史の進歩、発展、生物の向日性のように、しかし再び人間は嘘をつき、又つかれ、生活を営み始める、が、一部獲得した視点の意味を力に、生きる力にする者が残り、絶望から世界を見、解放された個人を生き始める者が輩出するのだった、それが真の個人としての新しき人の誕生である、
続 原発震災日誌38
原発は嘘を植え付け、原発事故は世界を一変させる、理想主義、経済主義、現実主義、あらゆる原発を是認してきた考えは審判される、そして判決が下りる、価値観の一変とは、懐疑という、思想哲学にとって最も大切な、困難な視点への目覚めが獲得されるということ、それは革命の比ではない、全人類が目覚めさせられるということ、国も、民族、階級を超えて、しかし、人は生き延び、喉元過ぎれば忘れる動物としての、人類史の進歩、発展、生物の向日性のように、しかし再び人間は嘘をつき、又つかれ、生活を営み始める、が、一部獲得した視点の意味を力に、生きる力にする者が残り、絶望から世界を見、解放された個人を生き始める者が輩出するのだった、それが真の個人としての新しき人の誕生である、
マスコミも、支配者も皆絶望しているのだった、愛着、所有、誇りを持っていたものほど、
3.11は彼等自身の信頼を失墜させたばかりではなく、54基の原発、核廃棄物処理、何よりこれからの地震、福島の収束作業、嘘の上塗りでやり過ごして来た、当事者だからこそ、解かる絶望的な情況が、彼等の絶望は余りあるものが想像できるのだった、それが隠蔽、絆、ガンバロウと唱和させ、
クラッシック音楽の悲しみの感情を、文字で表すとしたら、人が行動するのは、責任、義務からではない、人が感じる心とは、怒りの対極にある、この悲しみと孤独の感情にある、私の悲しみを貴方の悲しみへ、これによって人は責任と義務とを感じ行動するのだった、人としての生きものへの、生きて在ることへの、この悲しみと孤独、人を動かす悲しみの本質、その根源に、いかに至るかが、原発がその根源に在ることを、それをいかに表現し伝えられるかが、その方法とは、
政治、経済、科学、文化、すべて核の上にある、核に作用される、絶滅までのプロセスにすべて核が関係してくる、この根源、本質に、障害をもって生まれた私が、いかに生きるかではあるが、障害をもって生まれたことの悲しみと孤独が、核というものへ、絶滅ほど悲しみの究極は無く、
安倍もオバマも、ロスチャイルドも、ロックフェラーもまもなく死んでいくのだった、今居るすべての人間はまもなく死んでいくのだった、この死だけは人の生きた意味を問うてくる、何のために生きたかを、国益や良心や、私腹や愛などではない、生きたことの意味、80年を生きるホモサピエンスの70万余の時間を、この地で生きたことの意味を、多く生まれては消えていった生命を見送り、生き延びた生命の、
かつて、中核派、過激派といわれた者らの行動力、危機意識が、小市民的、革命家集団にとっては害となり、小児病、統一破壊分子とレッテルを張り、民主集中という没個性集団作りにいそしみ、広汎な勢力を結集するとして、行動の精神の原動力である青年力の彼等を排除してきた政党、もはや左翼右翼の政党時代は終わっているのだった、インターナショナルに替わって、緑の党のような個の生き方を問う政治へと、個人主義と統一戦線、直接民主制のオキュパイ運動、非暴力による100の革命の方法、文化人、芸能人が逃げるのは個人主義だから、毛沢東が粛清したのは、ポルポトが虐殺したのは、人間の個人主義、これが正しいとして、絶対化したり、押し付けるものは宗教ではない、又、哲学でもないとするなら思想も同じこと、今、市民運動を動かしているのは、60年、70年代の過激派といわれた彼等の生き残りである、60年にわたる反原発運動は、共産党はやってきていない、反核と反原発は結びついていない、きれいな核と、核の平和利用との使い分けがあり、科学の発展への信奉があり、民商、医療生協、各種団体での党覇権、利権、党略が支配している、議会主義の名のもとに、他政党と変わらぬ、利権構造が生まれ、党員の弱体化、幹部の親玉化、権威化が起き、弱体の一途、
世界のどこに、しあわせ住む、平和な世界が、と思えるほどの世界の不幸は、3.11以前から、有史以来あるのだが、3.11という誰にも降りかかる不幸を体験することによって、世界の不幸が目に見え思い知らされ、世界の小さな不幸、他国の他人事と思っていたことが、地球、人類全体のことであることに気付かされ、一人の不幸は我が不幸であると、世界は3.11を通してやっと一つとなる基盤を持ったのだった、原発事故とはそうした全地球、全生物、全人類への課題としてもたらされ、意味の全否定ではあるが、これによって初めて世界は一体、共通感が生まれ、権力、抑圧、支配、利権すべて意味を失い、生きるとは何なのかを問うてくる原発というものへ、かつて赤旗等で、世界の問題を日々見ていたが、それらがいつも世界全体のの世論形成、運動とはなっていかなかった、政治はいつも、国内、政党の、経済、価値で動いてきた、3.11も未だ経済問題と世論はとらえ、生命の問題、精神、倫理の問題とはとらえていない、神、愛、ヒューマニズム、デモクラシー、この国において意味の定義が解かっていないから、経済、利益の問題ととらえ、人間というもの、この人間の価値、意味の大転換が起きないと、核は止まらない、核戦争だって、必要であったと、人は人を生きることをしない、不幸が問題ではないのだった、意味の喪失、人の意味を未だ発見していないのだった、人の意味に目覚め、知ってはいないのだった、
夢を見た
日本は今や植民地になってしまって、国道を米軍車輌がひっきりなしにスピードを出して走っていた、とある飲食店の魚の活け造りを食わしてくれる、大きな大衆酒場にエミコと二人で入っていた、店長がまだ店は始まっていなかったが入っていいよと言うので、二人で店に入って待っていた、そこへ店長が帽子を手に持って、カンパの要請をしてきた、魚が基地のおかげで禁止となってしまって、獲れなくなったので、今反対運動をしているのだという、もうどこへいってもカンパばかりだと思っていると、店長は厨房へ行ってしまった、徐々に店は混んできた、だが、中々注文を取りに来ない、腹は空いているのにと、良く見ると周りの人も誰も食べている人はいなかった、あれこれは何かの集会だったのかと、そういえばもう一つの集会に行く途中だったことを思い出した、酒場の皆には又来ますからと店を出ようとしたら、店長がやってきて握手してきた、そして知らない人からも、ガンバッテ下さいと声をかけられたりした、店から出た時だった、長いトラックの列が店の前の国道を爆走していた、何十台もの、見ていると背景の景色が車と一緒に、映画の背景のように流れていた、多量の車がスピードを出して走ると、こんな現象が現れるのかと不思議な、しかし、怖ろしくもあるその景色を見ていたら、一台の車が国道の端を歩いていた人をハネた、運転手は気付いたようで、車を止めて降りてきた、国道の流れる背景の映像は、早送りのフイルムが止まったような、現実の映像に変わっていた、私は店に戻り事故を告げた、店からは客が次々と出てきて米軍車輌を取り囲んだ、米軍は早々に事故を消してしまおうと、クレーン車で車を持ち去ろうとしていた、皆で取り囲んで作業をやめさせようとしたが、クレーンが回転し、頭の上を機械が通る度に皆頭を避けなければならなかった、危なく私も機械に頭を叩かれそうになったところで夢から覚めた、
夢分析
カンパの問題は、Wikiが又カンパを要請していて、私はまだやっていなかったからだろう、wikiは良く利用しているから、前回はすぐ応じたが、半年余りで又金がなくなったようだ、守らなければならないが、誰かもっと大口で金を出せないものかとふと思ったことが、そして米軍の国道爆走は、寝る前に見た、ヘリパット阻止のゴボウ抜き映像のせいだろう、そして日本はどこも植民地のようになってしまっているの言葉には、毎日あちこちでおきている反原発運動、瓦礫焼却反対運動、etcの様々な抗議行動を見ていての夢だったのだろう、
癒しと洗脳
3.11のあと、金子みすずの詩が流され続け、今、花は咲くが流され続けている、反原発、反政府の行動をしている者にとっては、何の感興もないのだろうが、その音を聴くたびに反発と反感、拒否反応が生まれる、そこに流れている安っぽい感傷と、諦観が気分を悪くさせる、そこには流す側の意図があるのだが、被災せず、行動せず、先行きを不安に思い、自信を失くしている者らへの癒しと洗脳がそこにはあり、益々、私の国ではないとの思いをもたせる、深い悲しみと、深い怒りと、深い行動が求められる、世界の今であるのに、絶望し、その絶望を糧に世界を捉えなければならないのに、
たとえ世界が絶望的でであっても、存在することを望んでいる生命とは、希望的存在である、RT、RFらの世界支配、核etcによる人類の絶滅と世界の構図が、未来が了解できたとしても、死ぬまでは生きるのであるのなら、この世界の絶望と共に生きることとなる、その中での私対世界の生き方の確保、癌を見据えるように、世界を見据えて生きる、孤独と哀しみ、または愛で生きるということ、そこには私の実存の気分があり、刻々の時と存在を感じ取る世界への感情が、末期の時のように在り、




