今日の夢
続 原発震災日誌25
4年以内に70パーセントの確立で東南海地震が来るとの予報が出され、私の余命をあと十年とするなら確実に想像することが出来る想定、東京、横浜、710点で1位、サンフランシスコ167点で2位、ハルマゲドン待望が天国、救済を考えずとも、必要と考える空気が世界に蔓延し、私の人生も最悪を想定し、その最悪が全てを虚しくさせ、文化が意味を失い、もう何ヶ月も同じことを考え書き記してきたのだが、やはり又、見納め、余命、自然裡となるのだった、私がこの終末観に、虚無に、元々世界とはそうしたものであり、原発といえど同じことと、だとするならこの虚無に答えはいらないし、過去の哲学、宗教で充分であり、私は私において解決すればよいこと、覚悟して生きる、おまけの人生として生きてきた25年であったのだからと、
続 原発震災日誌25
4年以内に70パーセントの確立で東南海地震が来るとの予報が出され、私の余命をあと十年とするなら確実に想像することが出来る想定、東京、横浜、710点で1位、サンフランシスコ167点で2位、ハルマゲドン待望が天国、救済を考えずとも、必要と考える空気が世界に蔓延し、私の人生も最悪を想定し、その最悪が全てを虚しくさせ、文化が意味を失い、もう何ヶ月も同じことを考え書き記してきたのだが、やはり又、見納め、余命、自然裡となるのだった、私がこの終末観に、虚無に、元々世界とはそうしたものであり、原発といえど同じことと、だとするならこの虚無に答えはいらないし、過去の哲学、宗教で充分であり、私は私において解決すればよいこと、覚悟して生きる、おまけの人生として生きてきた25年であったのだからと、
世界がRT&RFによって支配されているとする、何故との、やはり世界は利権構造で動いているのだろうと、政治経済とはそうしたものという、原発も戦争もその構造の中でのことと、民族紛争といえど、民族間の利権構造となる、政党も政党にぶら下がる人間によって構成され、戻れはしないではなく、戻る必要はない、次の高次の絶望とは、取り返しがつかないこと、戻れるなら、取り返せるなら、絶望などではないのだった、失敗、やり直しが可能、しかし原発は不可逆の戻せないもの、記憶は大切にしつつも、現実の喪失の、失われた時の中を「失われた時」のままの、けっして見出された時などないこの現実が、絶望であるのだった、この絶望を私は描かねばならなかったのだ、この困難、未知、これこそが未踏であるのだった、絶望を描くことの未踏、タルコフスキーの「サクリファイス」ではない、タルベーラの「ニィチェの馬」の、あの吹き荒れていた風が放射能で、あの生活が核汚染後の人の生活で、食糧危機の、余命を生きる者の最後の映画、も早記憶すらも失せ、ただ、今という時が広がっているだけの、
健康であること、障害がないことが罪である、家族が愛し合えていることが罪である、衣食住が営まれていることが罪である、核戦争とはこうしたことが突如起きるということ、しかし原発はスローデスという、しのびよる破滅、この危機にあって、悔い改めようとしない人間供、絶望とは人間の絶望であって、人間以外の生きものにとっては恵みであることの、人間というものの根源的な無意味、罪、これは神の視点、歴史、時間、存在の俯瞰、絶望の先の希望をこの視点に置くこと、人間の失望でもない、ペシミズムでもない、希望、動物たちの、生きものたちの希望、
終末は必然であるとの、核汚染はパンドラの箱を開けたことであるのだから、原罪観はそのパンドラを開け、知恵を得たことではなく、人間という種がいなければ動物たちは天国であるという人間存在の罪から、これらの感情は人間の不安と不条理、原罪をも放棄させる、種としての死をもって希望に至るという、絶望を通して希望に至るとは、人が真に存在に至るということ、絶望を意識していない人間を絶望とするなら、無関心な者も絶望である、キルケゴールにしてみれば、全て人は絶望を知らない絶望的な人間であるのだから、絶望を想像はしてみてもみ不可抗力として、無関心、無意味との、その先にある希望にまでは至らず、個人においては余命、それまでの希望としての存在、絶望する者へ、
罪を知らず罪を犯している者へ、何の文学があろうか、絶望を描くことも無意味、読む本が無い、見る絵がない、聞く音楽がない、書くものがない、この虚無、しかし生き続けている、見ている、世界の終わりを、デビット・ボーイの「ファイブイヤー」核戦争の危機の中、世界の終わりがあと五年であることを歌っている、世界の破滅を防ぐことはできないが、予感と、必至を感じ、虚無から退廃へ、それも良しとする無、が、人は生きている限り、意味と喜びを求め、ここに真の苦悩がはじまるのだが、神と悪霊を合わせもつ人の宿命、
かつて文学が絶望の深さを競ったが、今競う必要もなく、絶望はどんな文学よりも深く現実に露となり、7.16代々木集会17万人、
大江「侮辱されたと感じた」
坂本「たかが電気のために生命が危険に曝されている」
内橋「スローデスの責任」
広瀬「地震が近い、待てない」
瀬戸内「冥途の土産に脱原発」
今日の夢
エミコが何か罪を犯したようで、時代劇の牢獄のような所に捕らわれの身となっていた、その牢獄のような所を移動するにも監視され、人が押し込められ、横になって寝るスペースもないような状態だった、私は捕らわれてはいないが、エミコが心配で付き添っているのだった、エミコが移動したいと言えば、人垣を掻き分け、道を作ってやったり、変な鶏小屋の網戸のようなドアを体を差し入れて開いてやったり、そんなエミコに判決が出て、一人で刑務所に入ることになった、刑務所までは一人で歩いて行かねばならなかった、途中休んだ所が、私が子どもになって預けられていた、母もなく、汚い所に寝かされ、母を求めて泣いている、大人の私がその子どもの私を、今にお母さんが迎えに来るからと、励まし、しかしエミコはこれから刑務所に入ってしまう、あっそうだったエミコを迎えにいかなければ、時間はもうないのだから、坂をゆっくり登って来るエミコがあった、とその坂の上の何かの店先に、キヨチャンがいた、エッ、キヨチャン、病気治ったの、キヨチャンは、そうよ、いつまでも病人などやってられないといった顔つきをし、もう山本家とは縁を切ったようだった、あっ、エミコがこれから刑務所へ入ることになったけれど、キヨチャンに一目合わせておかねばと、坂の途中のエミコに、キヨチャンが待ってるよ、早く登っておいでと叫んでいたら、エミコは坂の途中で、枝分かれしているもう一方の道に入ってしまい、消えてしまった、
寝る前に読んでいた、勝田清孝死刑囚の手記を読んで寝たからだろうか、囚われた人への思いが、父も囚われていた、人によって自由を奪われるということの、その人だけではない、家族からも奪うことの、それがエミコであり、子どもであった、絶望に足を据えることを言うとき、私自身のこととして、
かつての絶望に立ち戻らねばと考えていた結果見た夢であったのか、
声を上げない人間は絶望していない、声を上げる人間は絶望しても自分であり続けようと、核の汚染という絶望を定義するのが哲学において、政治行動において、気候変動、自然災害のように人は無力なのか、世界がどのように醜悪さに満ち、絶望、破滅に向かっていようとも、私の肉体がどのように痛み、苦しみ、虚無に陥ろうが、私対世界とはそれらを見る、最後まで見ることにあるのだった、見てさえいればその後は見たことを見る私が在るのだった、見てどうであるかではない、見ることが生きることであるのだった、生きることは見ることであるのだった、人間はバンアレン帯を超えられないと、原発は安全ですなどの共通した専門性の知識による無知の壁、政治が世界国際金融資本、軍産学の操作により支配されていることの、彼らの世界との隔絶、これらを見通すことも見ることではあるが、彼等を含めた人間を、私を含めた人間を見つめることが私対世界であったはず、絶望を通して希望へと、
毎時何億ベクレルかの放射能が流れ続ける福島のように、私の絶望の記は書きなぐられ続けているだけ、収拾のメドはなく、絶望とは終末まで在る、存在する側の時であるのだから、死が私の部分であるように、終末も存在の部分であるのだった、死をみつめるように、絶望を見つめることが私対世界であるのだった、昨日の勝田清孝の死刑囚の問題は、私の存在を、人間世界の中にとらえるか、世界存在の中にとらえるのかの問題、健常者と癌患者の世界のように、どこにあっても、私対世界に至らぬ限り、その時、神も無も私の世界として立ち現れてくるもののようにとらえられ、ムルソーがよみがえり、全ての死者がよみがえり、私対世界が壮大なパノラマとして広がり、無、しかし在った、今の今まで在った私へと、死は事実に過ぎないのだが、そこにあった精神としての死、
私に於いて絶望は出来ているのだろうか、世界の絶望がどのように個人の絶望へ向かっていくのだろうか、いや世界はけっして絶望などしていない、個人だけが個人的な絶望をしているだけではないのか、過去の文学に哲学に、絶望はどのように捉えられているのか、結局、思想も芸術も、科学さえも、絶望主義ではないのだから、人間にとっては常に理想への営みであるのだったから、今、絶望が認識するしないに係わらず現実化され、過去が意味を失い、人に今や何もいらないのではないのか、絶望と罪の意識さえあれば、人は生きていけるのではないのか、末期の意識、病者の意識、原罪の意識、その上での生命の意識さえあれば、またこれは死生学ではあるのだが、多く人は拒むだろう、考えないだろう、まして若者は、しかし核はこれらを全人間に求めてくる、無化はできない、ここに立ち戻ればいいだけのこと、これが私の絶望主義、人の助けがなければ、明日にでも死んでしまうCPの人々、彼等絶望していない、絶望は伴侶である、孤独が友であるような、核の絶望は全ての人間にゆきわたるのだが、強者は弱者を切り捨てるという無が、人格の喪失が起き、弱者は抹殺されていく、日常のファシズムが、日常の差別、退廃が蔓延していく、障害を生きるとは、人の助けなくして生きられない境遇を生きるとは、生かしている人が死ねといえば死ぬしかない存在を生きるということ、障害を生きるとは、貴方対私、今日一日対私と私は世界の下僕として、私は死刑囚、対私は死刑執行人、私は脳性マヒ、対私は健常者、私はアウシュビッツ、対私はカーポ、私は癌の末期、対私は医者、私は屠殺場の家畜、対私は人間、再びの原発被害も、再びの地震のように、人間は絶望に至るまで、生き続けるだろう、生きるしかないのだから、絶望のその終わり迄を想像する、個人の死が生に属するように、死の瞬間まで見つめ切る、人間の絶滅は不可避、どのように絶滅するのか、どのように無を位置づけるのか、絶望から見る世界の俯瞰、無という自明の喜び、




