無の上に私を据えるとは
続 原発震災日誌⑲
シュティルナー、ニヒリズム、癌、災害、身内の不幸を怖れる生身の私がいる、いくら無の上に私を据えるとは言っても、自分を無に帰すことは、死とは無に戻ること、その上に私を据えれば、出口がない、どこまでも、私は生身の中に存在している、人間が精神を求めるのは、この肉体が無であるがためである、創造的無など、生身の肉体において、喜びではないのだった、
続 原発震災日誌⑲
シュティルナー、ニヒリズム、癌、災害、身内の不幸を怖れる生身の私がいる、いくら無の上に私を据えるとは言っても、自分を無に帰すことは、死とは無に戻ること、その上に私を据えれば、出口がない、どこまでも、私は生身の中に存在している、人間が精神を求めるのは、この肉体が無であるがためである、創造的無など、生身の肉体において、喜びではないのだった、
私は原発や核、人間の手に負えない事柄が、永遠に続いていく事が、人間が創造的無を手に入れる契機となると、3.11以降世界は変わった、価値の崩壊、無の上に世界を置くことが現実のことに、四年以内に70%の確立で大震災が来るとの予測、近隣の原発が再び暴走する、これらの上に世界は在ることの、
原発はパチンコ、競馬、賭博だ、核のゴミはサラ金と同じ、返済できないほどの二百万年に渉る金利の支払い、国家財政の破綻回避から、地中へ、後世へと、
子どもは禁止されることをやりたがる、スレスレでやってみる、原発だけはそうは行かない、人間を超えている、時を越えている、二百万年というリスク、責任、善悪を超えている、やはり、この星は彼らのもの、彼等の子孫のものなのだ、孫の又その孫も同じ過ちを繰り返し、それが人と言うもの、
人間以外のものにしっかり立脚することが必要であった、人間も自然と同じように、草が地面を覆い尽くした末には、人間の行為も、自然に支配された、自然から生まれた彼等に違いないのだから、いずれ釣り合いがとれ、又死も招き、
無の上に私を据えるとは
人類は初めて絶望の上に、絶対無の上に我を据えることが出来るに至った、核という、ゴミの上に住む、蝕む世界に住んでいる絶望の泥の中から、天井を仰ぎ見る生きものとなり、初めて虚無が、絶望が、絶対矛盾が矛盾のない、資本主義化、何主義でもない、絶対無の世界の訪れ、新婚時観た、あのソイレントグリーンの世界、田園交響曲をスクリーンで見ながら死んでいく、肉体はソイレントグリーンに加工され、後を生きる者の食料となって、が、現実は、高等生物は絶滅し、下等生物、昆虫は全盛し、彼らの楽園が誕生するのだった、自然への信仰が真のものになる、福島の死の街に、あの雑草たちが生い茂り、数年で大草原となり、癌患者であっても、私の死を絶望の上に据えてはいなかった、絶望に取り込まれ、もはや絶望そのものとなって死んでいった、見納めの時などというものはなかった、今、反原発の運動があるが、彼等絶望の上に私を据えているのではなかった、ここに来ても人は、枯れ木に水をやるように、脳幹が停止している植物人間に、蘇生を願う家族のように、
富士山が爆発し、南海トラスト連動地震、原発の暴走、そんな中でも人は生きている、2100年、人口は半減し、希望という名の未来はもはや無く、絶望を人は生き、世界の核施設、ウラン鉱山、核実験場、原発431基、が、私は未だ存在している、死に至ってはいない、私を無の上に据えることは出来る、無の上に据えて滅亡までの、絶滅までの私を生きることは出来る、人は死を繋いで生きてきた、長いか短いかだけだとするなら、誠実な、凝縮した人の生が、対応した哲学、文化が、世界は人生が短いが故に、輝き、新たな人の関係が、私は最早、眺めているだけで良いのだった、価値は崩壊しているし、予測は可能となっているのだから、癌で死にいく人が、一生懸命何かのために勉強している姿など、出版文化が、人へのメッセージであっても、早、パンドラの箱は開けられ、何十年、何百年後かの地球の姿は決定されているのだから、絶対的虚無の認識が、人の上に覆いかぶさり、
私の事柄の、この私とは何なのか、地震が起きる、癌になる、その時の私とはどういうものなのかを、その絶命の時の私が、日常の私には解からないのだった、神も仏も無い、頼れない、唯一者としての、ロビンクルーソーの私であることを思い知らされるのだった、普段、日常は神も仏も、国家も文化も、私の上に載っているのだが、その日すべては無に帰す、そうした唯一者の私が私である、100年、1000年、万年の地球の歴史と、私のいない地球、何の影も、痕跡も無い、地球がそこにあるばかりの、
私を無の上に据えることの自由、責任、主人公、時対私の、大海の小島に自然と共に暮らす、一人の私の喜びと、意識の誕生、
無の上に誕生してみよう、そこの自在さ、そこの豊かさ自由さを、地震、放射能、不安、悩みからの、私は、その時に、その地に誕生したということなだけ、人の文化なぞ、有限の私と同じように、有限で無力なもの、100年後、そうした存在感が自然だけが広がっているのだから、
国家とは一つの共属態である、秩序感覚である、現実化された愛、社会への有用な道具への教育システム、国民とは政府の体、国家に対して「わしの日なたぼっこの邪魔をするな」とエゴイスト、宗教は一つの私的事柄である、宗派とは一つのパーティーである、国家の掟(法と罰)は、教会の掟と同等、
私の憂鬱とは、社会、国家、精神、理想、etcの、私の上に戴いたものからの別離への感情であった、それらのものに依存している、ニコチン中毒の、毒のようなものであった、国家依存からの禁断症状であった、いつの日かここから脱し私自身へと、
肉体において癌が、家族において遺産相続が、仕事において損得が、友人において無償性が、これらの経験があって、私は唯一者となった、
いかなる理念も、実体を有するものではない、花は使命に沿って育ったり、匂っているのではない、私も使命のために生きているのではない、
日本は日本人は、有ではない、無の上に、政治経済ではなく、諸行無常という無の上に、
私対世界の私は、現実には無の上に据えては生きていけない、創造的無とは言っても、無常観や、仏教的なものに捕らわれている、
神のためにから、人間のためにとなった近代、世界は人間に帰属し、人間の所有として、
ツァラトゥストラが、シュティルナー的に土地所有を捉えたなら、原発、地権者からどのように関わるのか、土地への信仰が、放射能の絶望を、苦悩を生んでいる、汚れた土地が、自然に帰することの、人の無価値が、自然にとっては価値、楽園となり、
シュティルナー
人類なるもの、万人、社会なるものへの所有が、私の所有とは私の所持の力による、私に力がなければ消える所有、所有を決するのは力のみである、国家支配の下での、私の所有は、何一つ所有ではない、私の全存在は国家に属し、国家とは仲介者、愛が原理ではない、エゴイズムが原理、私が必要とするところのものへ、社会主義も共産主義も、私に対する君臨、個人所有の揚棄、恐れと罪とが、貧民を作っている、意識の欠如が、所有からの、共同所有から、私の所有へ、
ラファエロの仕事を替わってやることは出来ない、それは唯一者の仕事、この唯一者は社会を超えて在るもの、人間は余暇を何のために必要とするか、唯一者を享受するためである、国や、政治や、社会は常に私を全体の利益に従わせんと弄している、ただ文化、芸術だけか私をこそ問題に、私の涙が3.11以降素直なものにならず、常に何者かによって作られたものに思えて、何気ないものに涙する私があるのだが、常に何者かによって作られた感のあり、泣くことが虚しく、自重がとりまき、涙を押し留める、出版の自由とは、人の自由の度合いに応じての自由に留まる、殺人の自由がないところでは、殺人の出版の自由は無い、テロリストの自由が無いように、教会、国家、道義、聖なるものへの反逆における自由とは、
出版の自由とは与えられ者ではなく、行使するものである、国家は人間に自由を与え、個人に与えるものではない、愛とは広汎な宗教的要求である、これぞ神の御業であると、あらゆることへ手をつっ込む神、
私の事柄のすべてを、核の上に据えた、核とは、人類、生物あらゆる存在の無である、シュティルナーが生きていたら、そのように位置づけるだろう、
生きていることの恥ずかしさ、考え抜くこと、足らなかったことは何かを、
「愛することは、人間の義務であり、使命である等々」が強要され、愛とは本源的な私のものであったものだ、私はエゴイズムをもって人を愛するのだ、私の自然で愛するのだ、私の愛を持つ権利を両親、祖国等々が主張する愛の定言命令、愛が私の所有である、愛が欲しくば買い取るがいい、宗教的愛とは、何らかの「聖なるもの」の愛