ロスチャイルドに象徴される国際資本
続 原発震災日誌⑰
ロスチャイルドに象徴される国際資本
3.11が全国民的な100万人規模のうねりとなるのか、そして新しき人が誕生し、時代のスタートになるのか、衰退から混乱へと転がり落ちていくのか、デモクラシーとは、抑圧、専制の中で育つもの、3.11とは核による、抑圧するもの、されるものを超えて襲っているもの、そこには、思想信条、宗教、利害を超えた、生命を守らなければの地点に立たせるもの、核は、人の新しき感情を生み出すものになるはず、これが、絶望を通した希望であろう、生命に対しての平等な危機感、これが核による新しき、シンプルな、
続 原発震災日誌⑰
ロスチャイルドに象徴される国際資本
3.11が全国民的な100万人規模のうねりとなるのか、そして新しき人が誕生し、時代のスタートになるのか、衰退から混乱へと転がり落ちていくのか、デモクラシーとは、抑圧、専制の中で育つもの、3.11とは核による、抑圧するもの、されるものを超えて襲っているもの、そこには、思想信条、宗教、利害を超えた、生命を守らなければの地点に立たせるもの、核は、人の新しき感情を生み出すものになるはず、これが、絶望を通した希望であろう、生命に対しての平等な危機感、これが核による新しき、シンプルな、共感の、宗教、イデオロギーが説く、愛、幸福、の形となり、あらゆるものを超えさせるものとなる、新しき世界が、未来とは、過去をすべて越える中に誕生し、敵、味方、格差、健康、障害、全てを越えさせるものがそこには有り、
愛のためにの殉教ではない、革命のための自己犠牲ではない、全世界を、全存在を、時をも支配する核というものが神を超えて、人を人にしていく原動力となるはず、核の発見とは、新しい思想への始まりであるのだった、矛盾、対立を超えて、人を理解、共感していくことへと、
この核時代と、その後の最悪の未来を考えて、
個人と世界をキルケゴールのように考えたが、人は問われているのだった、70億が一人になっても、つなぐDNAのように、二百万年かけて繋いできたDNAは、種の宿命を超えようと、知性を70億のDNAへと増やしてきた、たとえ一人になっても、
多く、人は人を殺さないのは何故か
自分を愛してる、殺されるものの気持ちが想像できるから、集団の中で生きているから、罰せられるから、様々な感情があって、人は人を殺さない、しかし、戦争となると、何々のためにと、何々が人を殺させる、自由、金、エゴ、又は理想、宗教、支配、etcの感情は、それらの名のもとに、又はそれらの目的のために、それらが達成されるまで、人は人を殺せる、ジェノサイドの何百万人の殺戮、現在も後先を考えなければ、核による汚染のように、核戦争のように殺せる、人の意志、歴史、文化を嘲笑うように、人間への、生存への、本質的な嫌悪、邪悪によって、現在もありうる、
今私には戦争状態なのですと
歴史学者が指摘する、現在の日本は、戦前の大成翼賛状態に似るとの、そして小出氏の、福島の原発が、いつ再臨界を始めないかとの、
今まで幾度も考えてきたことが
今、世界が地獄と化していても、その時に存在している私という生命としての、私が生きる方法、
私は私を、もう少し生きたかったと
世界をもう少し見ておきたかった、残された世界を、もう少し味わっていたかったと、5000人の音楽家、5000人の作家、5000人の画家、味わっている最中だったのにと、
もし、人に伝えるものがあるとすれば、時の重みの理解だろう、それらを書き残しておきたい気もするが、私の重み、人の重み、存在の重み、生身にあるこうした重みについて、今、今、人にある重みについて、
5年後の日本が、ことごとく5万ベクレルに汚染され、また世界のどこかが福島のように、オウムのサリンより酷い現代、
組織と個人
私のかつての悩みは、ただ人より知識欲、至高性が強かったということ、それは今になっても変わらず、私を生きようとしている願望である、
多く人は何故絵を描くのか、何故小説を書くのか、何故闘うのかに対して、絵を描いてなかったらただの焼き芋屋だからとか、ただの落ちこぼれだからと、
私は、職業、労働を卑下していての、芸術、知識欲ではなかった、私の生きてきた属性が向かわせた、生涯に渉って、学者とは違う、意味を問う行為の結果としてのものではあった、意味を問うなら、本来何でも良く、何もしないでも良いのだったが、人と比べて、人はどのようにと、比べていたのだった、私が私において、意味を問う行為ではなかった、
こうした反省が、私のツァラトウストラを書き継ごうと思えど、詰まらなさがあるのだった、宗教、文化を、ニィチェのように考察、批判しても、そして私の、私対世界を、時への信仰と位置づけても、在る徒労感、私を問うとは、ツァラトウストラではないとの、存在の重さが、何の意味が、存在に様々な意味や記憶を付与することは出来るが、それが何の意味に、記憶感情を意識の外に出すことが、書くことではあるが、あえて何故と問うと、書く必要が失せ、喰うため、人との共感のため、書くことそのことの喜びのためと、しかし、私にあって今、
黙示録があったとして、終末論があったとして、パンドラの箱、アダムとイブのように、それらは人の既定であるのだった、世界が脱原発を達成したとしても、核が廃絶されたとしても、残る核廃棄物、汚染の問題、これら宿命に対し、立ち向かえるのは、愛だろう、個人においても、人への、物への、存在への、愛、愛は力となる、それしか人には無いのだった、愛する心だけが、一本の芽の力のような、文学に、愛や、美を語る時代は終わって、生存の危機を背景に、愛や美が語られる時代に、あらゆることが本音で希求され、語られる時代になる、誠実、愛、本心の無いものは消える、否定、拒絶される、諧謔や、アイロニーではない、ストレートな、感情を露にした心だけが伝わっていく、悲劇と死の土壌に咲く花の時代へ、その明るさ、その確かさ、何故なのかが、手に取るように、世界はシンプルなものに、
そして自己愛の文学が、私対世界とは見るという客観の視点ではあるが、私という肉体、存在を愛していく、尊んでいく、私のために、私を知る、私を抱く、私を私で愛する、世界がどのようであっても、私は私で守っていく、絶望的世界にあって、この自己愛だけが意味となる、存在要件となる、それ以外は無意味に、我思う故に我在りとは、我を愛し、世界を愛する時にのみ、存するとなるであろう、絶望の私、絶望の世界に、私を愛し、その私で絶望の世界を愛する、時間を、人を、見るものを、過ぎ去るものを、出会うものを、伝わるもの全てを愛す、絶望に対して、誠実に向き合う自己愛の文学、誰知られること無く、ここで私は世界を愛していますと、
内田百閒の「冥途」、父への思いで書かれている、私には慕うべき父はいないのだった、児童相談所で別れた父が、最後の父と子の感情ではあったが、現実が冥途のように感じられる少年の日の記憶、
「きっと迎えに来てね」
「がんばって勉強しなっ」
父は夏の白い光の中へ消えていった、
六年後の高校一年、私は働きだし、月賦で買ったバイクに乗って、父の居る刑務所を訪ねた、喜ぶ父、だが私に最早父は必要ではなくなっていた、
それから四年後、父が出所してくるからと、他県に移されていた父を訪ねた、
音というものは、拡がり、物にぶつかり、たちまち消えてゆくから、聞くことが出来るのだが、そこでは、音は、起きることも少ないが、一度音が起きると、その音は、いつまでも消えることはなく、響き続けるのだった、背の高い鉄格子で作られた扉が、時折、開け閉めされるとき、頭を撲られたような音が監房内にいつまでも響き渡る、そこを支配しているものは、所長といわれる人間でもなく、終身刑の者でもなく、制度という、人間の歴史が作ってきた、枷、鳥や、動物を籠に閉じ込めるように、人を閉じ込める、制度という籠、
父はその鳥篭に入れられていた、元気そうだったが、若い頃のような髪を七三に分けた、色男ぶりはなかった、丸刈り頭の、太った、どこかで見かけるような小男となり、最早、私が記憶する、面影の父ではなかった、死んで籠から出されてきた父、籠に入れられていたのは父の抜け殻だった、父は、あの日、夏の日差しの中に消えていたのだった、