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続・原発震災日誌  作者: 山口和朗
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夢を見た

続 原発震災日誌⑮


夢を見た


産業道路を渡って、薄暗い、昔あった浜町の街を歩いていた、節電のためどこも暗くなっていた、その昔、川崎の地にやって来て、こんな汚い、うらぶれた町があるのだと、道は複雑に絡み合い、家はひしめき合い、公害で家々のトタンは錆び、ペンキは剥がれて赤茶け、その町に入ると、とたんに喉がざらつき、目は痛んだ、が、そんな町でも人は活気に溢れ商売に励んでいた、

またヤクザに追われている感じだった、川崎の街は、南町、堀の内と、ネオン街、ヤクザが蠢く、得体の知れない所があり、そこでまた道に迷ってしまったのだ

続 原発震災日誌⑮


夢を見た


産業道路を渡って、薄暗い、昔あった浜町の街を歩いていた、節電のためどこも暗くなっていた、その昔、川崎の地にやって来て、こんな汚い、うらぶれた町があるのだと、道は複雑に絡み合い、家はひしめき合い、公害で家々のトタンは錆び、ペンキは剥がれて赤茶け、その町に入ると、とたんに喉がざらつき、目は痛んだ、が、そんな町でも人は活気に溢れ商売に励んでいた、

またヤクザに追われている感じだった、川崎の街は、南町、堀の内と、ネオン街、ヤクザが蠢く、得体の知れない所があり、そこでまた道に迷ってしまったのだ、突き当りが宴会場になっていて、そこを通らないと抜けられないように道を塞いでいるのだった、仕方がないから入ったのだが、何か料理を注文しなければならないようで、私はそっと窓から靴を下ろしてとび降りた、道に出たのだが、そこがまた先ほど来た、浜町の通りで、ヤクザが縄張りとしているところだった、重いスモッグが垂れ込め、目が痛くなった、そこを進んでいくと、先をヤクザ連中が歩いていた、下り坂になった一本の道の真ん中に、ドロドロに熔け表面は黒くブスブスになった炉があり、これが金より価値があるのだとヤクザの頭のような男が自慢していた、ロープのようなものを使ってそこを飛び超えるのだが、私はそのブスブス音がして熔けているものを見て、咄嗟、これはメルトダウンした核燃料だと思った、こんな所に染み出していたのだと、そこえ、声が飛んで来た「早く渡れ、死ぬぞ」と男が叫んだ、近付いて見ると「飛ぶのが遅れて、放射能を浴びて死んだやつがいる」などと喋っていた、 


夢分析


グーグルアースで双葉町から釜石まで、詳細に見て過ごした昨日の消えた町の光景が忘れられず、またチェルノブイリの写真を見て詩にしていて、それらが夢に出てきて、ヤクザのもつ邪悪と無知のような支配構造が、日本や世界を覆っていると感じて、人間のおろかさの象徴としてヤクザが度々出てくるのか、貧困層出身の彼等、裏社会で安易に金と権力が手に入る道を選び、それが核燃料という世界と渡り合える物質を手に入れ、テロをちらつかせ、いずれ彼らによって世界は支配、統治されていくのだと、数日来、世界は核に象徴される、リベート、ワイロ、闇取引で成立した、陰謀の歴史ではないのかとの思いがあつて、


終末論


終末論について考えてみた、かつてSさんや誰かが、半ば信じているように、ノストラダムスの予言などのことを言っていたが、私は考えに入れたことも無かった、それが、3.11以降、原発と核、そしてテロの問題が集約される形で、終末が本当に訪れる危機感を感じるのだった、世界の核処理施設のプルトニウムが飛散すれば、遠くない時期に、全生命は死に絶える、虚無に取り巻かれ、劣悪を生きる人間にはテロを選ぶ者がいるだろうし、でなくとも430基の原発に、地震や天災が襲い掛かるだろうし、終末観が、今ほど現実性を帯びていることはないのだった、そこでの生命の構築、文化、芸術、などではなかった、一個の生命としての感性だけ、知識、理性への指向など、そこにはないのだった、植物の、動物の、生命そのものの指向だけなのだった、喰い、寝るだけの人生、時に一瞬訪れる満たされた感情がそこにはあるばかりだった、


森有正とエミリーディキンソン


理解には集中と深い思索が必要であった、彼ら、世界の不条理に対し、贖うことなく実存することで答え、多く人間は自ら不条理を作り出し、自らの首をしめているような、新しき人とは先ずこの世界の不条理への理解があって、後に生と死の融合世界のような、時間世界を生きる、今在ることを喜ぶ、シンプルな開かれた心の持ち主となった人の誕生のことをいうのだが、新しき人とは、理性の上に築かれた人のことではないのだが、


森有正と生きた時間、


存在というものへ、美というもの、理性というものへ、神聖な感情を味わった、有正の深いヨーロッパへの理解が背景にあってのことだったが、人類の文明というもの、精神、というものへの肯定、憧憬、しあわせな時の体験、この世界の絶望の中にあって、あの体験は有効であるのだろうか、世界がどのようであっても、私と文明、私と存在という関係性で、有正を辿ってみなければ、


 「森有正との対話」


     愛


「愛はそのもの自体としては存在しない、しかし、だからと言って、愛が存在するすべてのものよりも強いことに変わりはない、死についても同じ事が言える、死は存在しない、が、それが我々の存在にとって本質的であることに変わりはない、愛することと死ぬこと、この生の二面が、恐るべきある瞬間に合体する、愛は死を鎮め、また、死がなければ愛には何の意味もない」

芸術の中で、人の歴史の中で多く愛は死に打ち勝つ形で存在を許されてきた、それらは、人としての心を覚醒させ、生きることの勇気と希望を与え、が、生身のこの日常の私にあって、先送りされている死のように、愛は変化し、時に色あせ、見失いもする、私において愛とは、人や世界と比べてのものではなく、この生身において、この日々の、この瞬間において成就していく所のもの、


死に打ち勝つ愛の肯定を言っている


     意思


「それはただ感覚の迷妄として片づけてしまうことが出来るであろうか、デカルトははっきりと片づけた、それはかれが、完全に自己を、未終了の感覚の印象に向かって、注意深く対立させることができたことを示している、意志は自我を中心とすることの正反対である、真実の意志は、死の瞬間に現れる、肝要なのは、経験における意志の重要性を明確にすることだ」

青年期、実現したい理想や、希望は社会的、政治的な行動にむけて生きていた、主体性や、情熱的という感覚は喜びだった、壮年期、個我の発露としての生き方に変わった、いま時を経て、それは指向性というような、植物たちが持つ向日性にも似た私の生の要求となっている、植物たちが光に向かうように、私は死ぬその時まで、どこまでも個我に向かって突き進もうとしている、


死に臨んでも尚、意思を堅持する、ソクラテスの意思への


蘇る、有正と過ごした時間、感情が、言葉が、搾り出された有正の心が、聖と俗、原発の俗に対し、精神の聖、人間という、思索する動物としての優越、本質の理解、絶望をも思索の対象として捉えていく精神というもの、自我や、理性、観念という分別ではなく、精神という、心という感情の優位、原発も、戦争も、超越していく、


     疑い


「疑いの精神というものは、人間経験が内面的に完結しているものであると考えるのと全く同じことなのです」

疑いの精神を持つということは、断絶が体験されていないと持てない、人は多くの信じるものと繋がって生きている、が、その信じてきたものからの切断があって初めて、疑いが現実のものとなる、そして、そこから新しい生き方も始まる、


デカルト的私が、私に誕生したのは、小学四年の夏だと言える、父が養護施設に行かないのなら、ここで池に一緒に飛び込んで死のうと愚図っている私を抱き上げた、本当に飛び込むかもしれないと、死の恐怖が襲った時、私は泣いて、行くことを受け入れた、父とは違う、私の生命は、私が守って行かねばと、こうして培ってきた私が、疑う精神とは、どのようなものなのか、疑いをも私の所有として肯定してきた、この所有が断たれる事によって生まれるものが、私の疑いではある、世界の欺瞞、人間そのものへ、私で所有出来ている限り懐疑はないのだと、

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