隣の人-3人目の彼女-
結婚をして、旦那の勤務先に引っ越して来た。私の地元からも電車で1時間程の土地。
アパートの隣の部屋も、若い夫婦だった。ベランダで洗濯物を干している時などに、同じように洗濯物を干す奥さんや、休日にベランダで一服している旦那さんと軽く会釈など交わしたものだ。
結婚をして、旦那の勤務先に引っ越して来た。私の地元からも電車で1時間程の土地。
アパートの隣の部屋も、若い夫婦だった。ベランダで洗濯物を干している時などに、同じように洗濯物を干す奥さんや、休日にベランダで一服している旦那さんと軽く会釈など交わしたものだ。
近所に知り合いもおらず、毎日一人家に閉じこもって旦那の帰りを待つような性分ではなかった私は、結婚準備の合間にパートの勤め先を決めた。電車で約30分程の会社の、事務パート。今度ここに面接に行く、と両親に話した所、そこは父の同級生が勤めている会社で、同級生は既にそこそこの地位にいるという。頼んでもないのにその同級生に連絡を取ってくれた父の計らいもあり、無事にその会社で働く事が決まった。
十二月半ば、私は勤務開始となった。担当者が一人しかいない部署の、メイン担当者の業務補佐。それが私の仕事内容。私の上司となる人は、二十三歳の夏川さんという女性だった。大学を出たてでこの会社に入り、前任者の異動に当たり業務引き継ぎ要員としてこの部署に配属されたそうだ。現在担当の業務に加えて、更に今後別の企画にも加わらせて行くに当たり業務過多となる為、現業務の補佐役に私が雇われた。上役は私と一回り年下の女の子。とはいえ、1年に満たずその業務を1人で体当たりでこなしてきた彼女には素直に尊敬した。
夏川さんの右隣の席が私のデスクとなった。
「どうぞ何でもおっしゃってくださいね」と、やりやすい業務補佐役に徹してきたつもりだが、そもそもの年齢の差から来る彼女自身の気後れもあっただろう。一回り年上の人間を上手く使いこなす術もまだ知らなかったのかもしれない。ごく基本的な部分、業務の中の「何」を「どのように」進めていくかの中で、「何」の部分は資料や説明等で教えてもらったが、「どのように」の実務の部分は、彼女一人で抱えていた。「何かできる事があればいつでも助けますよ」と声かけはしたものの、負けず嫌いの彼女の矜持もあったのだろう、特に頼られる事もなく、それはそれでお互い良い関係を築けていたので、私も特にそれ以上手を出そうとも思っていなかった。
働き始めて半年が過ぎた七月、私は離婚した。理由は様々あれど、性格の不一致、というものだろうか。隣の若夫婦は相変わらず仲睦まじそうに幸せそうな家庭に見えた。奥さんのおなかは日に日に大きくなっていた。挨拶もせず、自身の荷物を引き払い実家に戻った。
現在の仕事を続けるかどうしようかは、とても迷った。私自身は辞めてもまったく構わなかった。ただ、私は父のコネで入社した面もある。「結婚してこっち来ましたーよろしくお願いしまーす」「離婚しましたー辞めまーす」では、父にも、紹介してくれたこの会社の方(取締監査役となっていた)にも申し訳が立たない。実家からその会社までも電車で約30分~1時間程。
せめて1年。1年働いて、後の身の振り方を考えよう。双方の顔を立てる形で、勤務継続を決めた。
仕事に没頭してさえいれば、離婚の事をクヨクヨ考えてしまう事もない。結果的に、継続したのは少なからず良かった事でもあったと思っている。
もうあと少しで一年が経過する十月、夏川さんが交通事故に遭い、故郷に戻らざるをえない状況となった。道半ばで諦めざるをえない彼女の無念、彼女一人で担当していた業務の引き継ぎの混乱等を思うと、「私も辞めます」とは言い難かった。夏川さんのいた部分の穴埋めには、新しく別の社員さんが入る事となった。ただ、彼女は現在別の部署におり、そちらの業務が一段落してこちらに配属されるのが年明けの一月。それまでは、夏川さんの代わりに、そして新しく来る人に無事に業務を引き継ぐ為にやって行こう。それで私も、父と会社と夏川さんへの恩は果たせるだろう。と、自分を落ち着かせた。
私はただ指示された事をやっていただけに過ぎなかったので、業務の中の「何」は分かっていたが、「どのようにこなしていくか」の部分は何一つ理解していなかった。ただ、夏川さんに教えてもらい、不慮の事故で涙を流し会社を去らざるをえなかった彼女を思うと、「前任者は私に何を教えていたんだ」と彼女を侮辱される事だけは、私のプライドが許さなかった。彼女が来なくなってからすっかり空いてしまった左隣の席。誰もいないのが寂しくて、ぬいぐるみのクマを彼女の席に座らせた。
業務の部分は、彼女がやりとりしていたメールや資料を読みあさる事で、「こうしたらこうする」という一連の流れは何とか掴み、周りの助けもありつつ業務を廻し、3ヶ月後、ようやく年明け、新たに部署異動してきた新人が入ってきた。
新たに配属された大山さんは二十四歳の女の子。別の部署から異動してきた子で、この業務に関してはぺーぺーだった。夏川さんがいた席―私の右隣―に、ぬいぐるみの代わりに座ることとなった彼女。新人に業務を教えつつ、自身が引き継いだ業務をこなしつつ、毎夜遅くまで働く日々。
自分もそうだったように、1から業務のノウハウを教えていく。私アルバイトなんだけど。時給850円なんだけど。こういった不満がないわけではなかった。しかし時給制である分、働けば働くほどに時間分の給料が上乗せされていく。「私はバイト、あなたの補佐役。今私がやっている事は行く行くはあなたに任せて、私は今あなたがやっているような、補佐の立場に戻るからね。」と最初に言い含めておいた事も作用しただろう、みるみる大山さんは仕事内容を吸収し、力を付けていった。上がる給料と育って行く新人。その2つを楽しみに、巡る月を過ごして行った。
夏川さんとも連絡は取り合っていた。一緒に食事にも行ったりしたし、故郷で元気に暮らしているらしい。会社にいた頃からお付き合いしていた彼とも上手く行っているようだ。後任の大山さんの事や会社業務の事の心配等もしていたし、会社を懐かしがっていた。交通事故の傷も癒えてきているようで、地元でアルバイトを始めたと言っていた。
5月になった。大山さんが異動してきて半年を迎えようとしている。業務はほぼ完全に彼女に移行していた。私の役目ももう終わる……そろそろ最終調整だ。あと一ヶ月二ヶ月が目処だろう。大山さんが取引先へと外出し、そんな事を考えながら気楽にメールチェックをしていた時、チームの課長に呼ばれた。
「大山さんが会社を辞めます。」
寝耳に水だった。彼女は何も言っていなかった。何という事だ。それでは私のこの半年間は一体何だったんだ。私の苦労は。
課長曰く、大山さんは一度失敗した公務員試験に再度チャレンジしたいという事だった。
「私も辞めます。」という言葉がお腹の中で渦巻いているが、それよりも様々な思いが交錯していた。しかし一番鮮烈に、去っていく彼女に対して思った事は、「先を越された!」という思いだった。
「私も辞めます」の言葉は、結局言えず終いだった。辞めた所で、次の当ても、今後の自身の人生の目処が立っていたワケでもなかった。「やってられるか!」と思った事など、一度や二度ではない。それでも。食べていくという事ももちろん、まだ「誰かに必要とされていたい」と思う程度には、私の離婚の傷も癒えてはいないようだった。せめてもの意思表示として、時給のUPを願い出たが、それは却下された。やってられるか!
大山さんの退職期間は6月末と決まった。6月頭に、大山さんの変わりに新しく業務を担当する新人が配属された。上地さんという、4月に新卒で入社してきた女の子だった。
この部署は、見込みある新人の女の子の成長登竜門の部署なのだろう。大山さんの有給消化を含めて、大山さんが上地さんにレクチャーできる期間は2週間。昨日大学を卒業してきたような子に、去年大学を卒業した子がたったの2週間で何を教えられると言うのか。しかし、レクチャーは大山さんに任せた。
これから先、年齢が上がっていくにつれ、このように「人に教えていく」という場面は多くあるだろう。その時の練習をしておきなさい、立つ鳥跡を濁さず。学んだ事、教わった事を、彼女に残して行きなさい。公務員という立場に臨もうとしている、二十四歳の若い彼女への餞の気持ちだった。安心しな。こぼした分は、私が拾って食べさせてやるから。左隣の席で一生懸命な二人の若い女の子を横目に、そんな事を思いながら、ぼけーっとネットサーフィンなどをしていた。
大山さんは去り、私の左隣は上地さんの席となった。大山さんに教えた事を同じように、上地さんに教えていく。上地さんもとても物分りの良い子で、すくすくと仕事内容を吸収し、成長して行った。大山さんとはまた毛色が違う元気な子でありながら、しっかりとした考えも持っている子だった。鼻っ柱は強いが、少々打たれ弱そうな感じも受けた。しかし社内で揉まれている内に、いなし方や接し方をしなやかに身につけて行っていた。
私がこの会社に勤めて二年が過ぎた。この二年の間に、私の隣の人は2人変わった。
夏川さんは、彼の地元で結婚を前提とした同棲を始めたようで、新しい職場に就職したと言っていた。大山さんは、公務員採用試験に合格したようだ。第一希望の地元の役所とは行かなかったものの、隣駅の市役所の政策課に勤めているらしい。上地さんには、もうほぼ全ての業務を任せている。
最初からこちらの部署に所属希望だった彼女。入社時はこちらは人が間に合っていた為、別の部署に配属されたようだ。彼女は水を得た魚のように、目を輝かせて生き生きと業務に当たっていた。
そして私は…… 何も変わっていない。
二年前と、何一つ。ただ、バツイチになって年齢を二つ重ねたというだけの女がそこにいた。
私の役目ももう終わる……そろそろ最終調整だ。あと一ヶ月二ヶ月が目処だろう。小気味良い音を立ててメールを送る、左隣の3人目の彼女の頼もしく眩しい姿を横目に、そんな事を思いつつ。
さて、どうしようかな……中年の冴えないパートのオバちゃんとなった私は、こんなハズじゃなかったのになあ、と溜息をつきながら、何とはなく、流れてきた時間に思いを馳せるのだった。
20代の1年2年と、30代の1年2年ってホント流れが違いますよね。
光陰矢の如し。多分、20代の私はもう少し、キラキラと眩しかったのかもしれないなあ、などと思いつつ。