ミドリ編 第9話
「しっかし、酷いよなあ。なんでここに来たのか村の子供には黙ってたなんて。」
ドロはどこか遠くを見つめるようにして溜め息を吐いた。リクもあまりに唐突な出来事に不安と不満が入り交じった複雑な表情をしている。しかし不満そうな二人のその瞳の裏には少し嬉しそうな光が隠れているようにミドリは感じた。
昨日、話を聞いたあとミドリは深い眠りについた。そして、目覚めたときには村の広場に皆が集まっていた。ゾウは族長として話さなければならないことがあると、真実を知らない無垢な子供たちに話し始めた。それは、昨夜、ミドリが聞いた話と同じものだった。
だから、今ドロが苛立っているのも、リクが怯えているのも、二人とも、少しだけ、嬉しそうなのも、多分、なんだか一人前に認めてもらえたような気がしたからだろう。
「仕方ないよ。そう簡単に話せることじゃないさ。僕だって昨日の夜初めて聞いたんだから。」
そうミドリが言うと、ドロは大きくミドリとリクの肩を叩いた。
「そうか。まあ、お前はこれからやらなくちゃいけないことがあるからな。俺達もここでぐちぐち言ってても仕方ねえか。」
その言葉の意味をミドリはすでに理解していた。
水神の声が聞こえること。それは、族長の証なのであった。
「お兄ちゃん、なんか難しそうな顔。」
家に戻ると、ミツキが話しかけてきた。まだ十年も生きていないこの妹は今朝の話を理解できているのだろうか。ミドリはそう思っていたが、
「もっとシャキッとしなきゃ、だって、」
それはどうやら杞憂、いや、ただの勘違いだったようだ。
「おじいちゃんのこと、助けてあげられるのはお兄ちゃんだけなんだから。」
ミツキも、幼いながらに、ゾウの話を理解しているようであった。
午後の畑仕事、ミドリはいつもよりも真剣に取り組んでいた。真剣というよりは、無我夢中という方が正しいだろうか。とにかく、ミドリは今自分にできることを精一杯やろうということを、無意識に心が決定していた。
「ミドリ、なんだか今日はいつもに増して可愛く見えるわ。」
マタがそう言うと、アカミミは微笑んで返した。
「あいつももう十なんだ。可愛いではなく勇ましいと誉めてやれ。」
そうかしら、とマタは首をかしげる。
「だって、あの一生懸命な姿はどう見たって勇ましい、より、可愛いが似合うわ。」
マタの笑顔には我が子の成長を喜ぶ親の愛が表れていた。それはアカミミも同様だった。
畑仕事を終え、ミドリは広場に戻った。風がなんだか気持ちよく感じた。仕事で疲れた身体を冷ますように、流れる汗を吹き飛ばすように、夏風が肌の上を、身体の奥を吹き抜けていった。その時、
「早くここから立ち去れ」
声が聞こえた。集中してる間は気にならなかったが、やはり、まだ声は聞こえ続けていた。
「立ち去れ、そう言っているのじゃろ。わしにもまだ少しは聞こえるものでな。」
いつの間にかゾウが目の前にいた。声に気を取られ過ぎているとミドリは思った。今まで立ち去れと何度も繰り返してきたが、今のが一番鮮明な声だった。
あれ?ミドリの心の中で何かが生まれた。初めて声が聞こえたとき、声は、やめろと言っていた。
あれはどういうことだろう。単純に考えれば、ここに居座るのをやめろということだろう。しかし、それだとその後に聞こえた、逃げろとは何だったのだろうか。いまいちミドリは確信することができなかった。
しかし、それもまた、水神様に会えばわかることだ。今は自分に出来ることを、それが自分が自分に与えた使命なのだから。
「おじいさん、僕は覚悟はできています。水神様に会いに行くのはいつ頃になりそうですか?」
ゾウはうむ、と唸る。ゾウ自身、あまり時間はかけられないと思っていた。ミドリには悪いと思っていたが、覚悟ができているなら早くするに越したことはないと思った。そして口を開いた、しかし、
その刹那、轟音が村を、山を、空を裂くように鳴り響く。鳥たちが一斉に、逃げるように飛び立った。森の獣たちもざわめき、木々は震え上がっているかのように揺れ動く。場は隙を与えることなく混沌に呑まれていった。
「これは…一体…?」
流石にゾウも動揺を隠せない様子だった。ミドリはだんだんと薄暗くなり始めた空を見上げた。
「水神様、怒ってるの?」
ミツキも家から飛び出してきて、ミドリにしがみついた。その目は涙を震わせて煌めいていた。しかしその煌めきは、今にも夕暮れの闇に溶かされてしまいそうな、儚いものだった。
「水神様、すぐに行きます。だから、皆を怖がらせないで下さい。」
二度目の轟音が鳴り響き、空は深い夜へ沈んでいった。
その夜は、星の無い夜だった。