ミドリ編 第8話
夕日に照らされた二人の長く伸びた影が重なる。
「さて、見つかってしまったからには」
その言葉を聞き、ミドリは身構える。相手はキキョウの花のような紫色の衣を身に纏い、深く被った衣で目を隠している。声から察するに、恐らく女性だ。表情ははっきりとは分からないが、その口元は明らかに笑みを含んでいるように見えた。
そう、ミドリは今、確かな危険を感じたのだった。それでも、彼は勇気をもって聞き返した。
「あんた…誰だ?」
不気味というには失礼だと感じるほどの謎めいた神秘的な空気を纏っている。ミドリは思わず後ずさった。それを見ると、女は笑った。いや、笑い続けていたと言うべきか。
「見つかったしまったから?どうするんだよ。」
強がる少年の心を見透かすように、いや、嘲笑うように、女は口元をつり上げる。
「別にどうもしませんよ。少し怖がらせてしまいましたか?」
ミドリは悔しい気持ちを押し殺し、女の方をじっと見つめる。と、その時、
「逃げろ。」
ミドリの耳に声が響く。何処からかは分からないが、今確かに聞こえたのは、あの時の"声"が。
狼狽えるミドリを見て、女は何かに気づいたのか、袖から札のようなものを取り出す。
「なるほど…猫神の巫女と何故あなたのような普通の少年がと思っていましたが」
何を話しているのかもよく分からないが、全てを話し終わらぬ間に女はそれを袖にしまい、後ろを向いた。
「それでは、また。」
「その子から離れろ!」
突然声が響く。ただそれは、この空間に、二人の間に確かに音となって響いたものだった。女は振り返ると、呆れたような顔をして首をかしげた。
「また貴方ですか。」
二人の間に現れた男は、憎しみのこもった目で女を睨む。それはまるで、故郷を火に包んだ怨敵を見るものの目━━━。
ミドリは思い出した。ミケを襲った少年が浮かべた、あの表情。まさか、この人も。ミドリは額に冷たい汗が流れていくのを感じた。
「あなたに言われずとも今離れるところでしたよ。」
女の口調は苛立っているような雰囲気だったが、口元は先程と変わらず笑っているようだった。
「大丈夫か?怪我はないか?」
何処かへ去ろうとする女を見つつ、男はミドリに駆け寄った。
「大丈夫だよ、それより…」
その瞬間、女は何かを思い出したように、いや、ミドリの声を遮るように振り返って口を開いた。
「あ、その男はあまり信用しない方がよいですよ。だって、」
クスクスと笑い声を含んだその言葉は、また最後まで言い終わらないままに途切れてしまった。そして次の瞬間、女は藍色に染まっていく夕闇の中へと姿を消していった。気付けば茜色の時間もすっかり過ぎてしまっていた。一番星があの森の湖の方向に輝く。
しばらく黙っていた二人だったが、ミドリは恐る恐る男に尋ねた。
「あの、貴方はどこの村の人ですか。」
ミドリはあまり人見知りをする方ではなかったので、こういう話し方をするのは久しぶりだった。
「ああ、黙っていてすまない。私は旅の者だ。今は故郷から離れたこの地を旅しているんだ。」
ホッとしたのも束の間、ミドリは新たな疑問を抱えていた。
「旅の人なら、何故僕を助けようと?」
男は溜め息をついた。その表情は暗くてよく分からないが、泥沼に足を踏み入れた、もしくは、喉につっかえたものが吐き出せない。そんな目をしていた。
「君には言いたいことがたくさんある。だが、今言えるのは一つだけだ。ここは危ない。また別の場所を探すといい。そう族長様に伝えてくれ。」
ミドリは村へと戻った。迷いの消えたはずの少年の心の空は、再び、厚く重い雨雲に閉ざされてしまった。
「どうして、どうしてここにこだわるの?」
気付けばゾウの前にいた。自分にはまだ、何も分からない。"声"のことも。村のことも。突然消えた友のことも。
「止めろ。来るな。」
段々と"声"は鮮明に
鳴ってきていた
成ってきていた
耳を塞ごうとも"声"は鳴り響く。
うずくまるミドリを見て、ゾウは言った。
「もしや、声が聞こえるのか?」
黙って頷くミドリをもう一度見据える。目を丸くしたゾウのことをミドリは初めて見たような気がした。普段は穏やかであまり感情を出さない祖父が、初めて見せた顔だった。
ゾウはしばらく目を瞑り、何かを考えていたようだ。そして今、重い瞼とともに、ゆっくりと口が開かれる。
「我が孫ミドリよ。お前に真実を話そう。」