抗えない現実
俺はその書類を見て、
思わず目を疑った。
「…ッ!まだ、高校生じゃないッスか…!」
若くしてその少女は
眼の光、命の光を失っているようだった。
…この人格改変プログラムの被験体を
募集したのはつい最近で、
ネットで常に調べたりしていなければ
ほとんどの人間は気づかないはずなのに。
「黒潮 湊、高校一年生。
幼い頃に事故で両親は他界。
保険金のお陰で本人は
金銭面に関しては何不自由していない
様子だが
両親が事故にあった日が
結婚記念日だったことから不吉に思われ、
親戚をたらい回しにされた為、
顔を覚えている者も少ないだろう。」
こんな高校生が
自ら被験体に志願するなんて…
どれ程重い気持ちを今まで
背負って生きてきたのだろうか。
俺にはわからない。
いや、そんなことはわかりたくない。
わかってしまえば情が入ってしまう。
実験する立場として失格だし、
何よりずっと複雑な感情を背負ってきた
この子に失礼だろう。
変わりたいと願ったこの子に。
「おい、
名倉、そんな暗い顔するなよ。
いくらその子が自分と年が近いからって」
…そういう意味じゃないんスけど。
「こんな序盤の序盤で
へこたれてちゃ、この先
やっていけないぞ。」
間違いでも無いような回答されてもねぇ。
「わかってるッスよ高橋さん。
科学者は諦めないことが大事ッスから。」
…あれ?
今の俺の返事おかしくなかったか?
まぁどうせ、高橋さんは余り
話を聞かない人だから
多少文がおかしくても大丈夫だろう。
「被験体には罪人とかでも
よかったんだろうが、そこは
上の趣味だろうな。」
どうしてそんなに性格の悪い事を
思いつけるのか。
まず、自分から試せば
いいのではないだろうか。
と、口を滑らせそうになった。
「現在、この被験体は今の高校の
退学手続きとアパートの解約手続きを
済ましているそうだ。」
きっとこの子には愛さえあれば
こんな事になどならなかったのに。
もう既に俺一人の力では
戻せない所までこの子は来ていた。
『もしかしたら救えるかもしれない』
そんな軽い希望なんて持つんじゃなかった。
なぜか不確かな理由から後悔が降る。
あぁ俺は…科学者として失格だな。
父さんみたいになるなんて、
最初から無理だったんだ。
それから驚くほど早く月日は過ぎた。
「それでは、よろしくお願い致します。」
そう言った彼女-黒潮 湊は、
写真とは別人に思えるほど
穏やかな表情で微笑んでいた。
「そうだ、これ。
頼まれていた物です。」
上は、人格改変の結果が以前と
比較しやすいようにと被験体に
この実験を受けようと思ったきっかけ、
理由などを本人に書かせるよう指示を
俺たち…科学者達に出していた。
人格を変えるなんて、今を生きている
その人が亡くなることと同じだと思う。
だから俺達はそれを
『心の遺書』と呼んでいる。
そう言えば俺がここに来た理由は、
なんだったっけ…?
なぜこんな研究室にいるんだ…?
確か滅多に自分の事を話さない父さんから
「俺と一緒に仕事をしないか?」
と聞かれた。から。
ただそれだけ、興味本意で
この仕事に決めたんだ。
元々自分の事は全て自分で済ます父に
俺の事に興味を持っているのか疑問だった。
俺の中坊ぐらいの頃、
母は今の進んだ医療では治せる程度の
病気で、俺の知らないところで
勝手に進行していって、
既に末期の症状になっていたそうだ。
父さんはお医者さんに
教えてもらったらしいが、最期まで
俺に教えてくれなかったのは
「私の命の灯が消えるその時まで
普通の日常をすごす、普通の家族みたいに
接して欲しかったから。」
という母さんの願いがあったから。
母さんはそれで
よかったのかもしれないけれど、
残された俺はどうしても当時
『母が亡くなった』
という事実の実感が湧かなくて
ずっと泣けなかった…
もしも過去に戻って母さんと
もう一度会えたなら…
「おい、名倉
お前は何ぼーっとしてんだよ。」
高橋さんに言われて、
俺は今は仕事中だと自分に言い聞かせた。
余計な事は考えちゃだめだ。
「私の両親が事故で亡くなった事は
もう資料でご存知ですよね?」
ああ、知ってるよ。黒潮サン。
「私の名前は『湊』。
沢山の人が集まるようにって願いを込めて
両親は名前をつけてくれました。
でも私はクラスの皆と
話は合わないし、コミニケーションも
得意じゃなかった。
転校を繰り返したことも要因でしょうか。
誰も私を好きになんてならなかった。
私はこれから誰の記憶にも残らず消える。
それでもいいかもしれない。
一度寝てしまえば忘れられるような、
簡単な感情で毎日生きていて
何の為に生きているのか
自分でもわかりませんでした。」
…そんな寂しいこと言わないでくれ。
「一度は…自殺の線も考えました。
でも、持って生まれたこの命。
どうせ死ぬなら亡き両親の為にも
名前に込められたこの思いで
親孝行ぐらいできないかなと思ったんです。
だから、この実験の被験体募集を
見つけた時、これしかないと思いました。」
うわぁ…ッッ!
落ち着け。俺。名倉 遼。
いたって健康。異常無し。…俺には。
こんなところに来る人なんて
大体想像がつくけれど、それでも、
それでも重い話だ。いや想像以上だ。
嗚呼何故俺は今更ながらこんなにも
文章力がないのだろうか。
その微笑みは今も穏やかで優しくて、
もう最期を悟っているような。
だけどそれでも、目が、目が何かまだ
「訴えたい。こんなのは可笑しい。」と
彼女の瞳が最期を受け入れたくないように
見えてしまうのは、俺がまだ
科学者になりきれていないからだろうか。
何度も思う、なんて失礼な俺。
シャキッとしろ。
「だから、もう、さっさと始めて下さい。
私の気が…変わる前に。」
「…だとよ、名倉。
準備はほぼ完璧だし、後は
始めるだけだな。」
お前がやれよ。という目で
高橋さんは俺を見つめた。
実験室はカーテンに覆われるようにして
たちまち暗闇に包まれた。
被験体…黒潮 湊は途中から
実験に支障をきたさないようにと
既に催眠状態に入っている。
高橋さんはこの暗闇の中
スタンドライトをつけ、
何やら資料らしき物を読んでいる
ようだった。
「ふーん、これがこいつの心の遺書か。
…つまらないな。」
もう、どうすることもできない。
「いやー、人格改変プログラムの
被験体がこんなにも早く見つかるなんて、
自分、びっくりッスよ。」
何故俺はこんなにもわかりきった
事を言っているのだろうか。
「まぁ、さっさと始めちまおーぜ。
俺らには
関係ない事だしな。」
そうだ。高橋さんみたいに、
いや高橋さんはどうかわからないが…
演じろ。
「実験さえ成功すれば
用無しッスもんね。」
そう、前と上だけを見てればいい。
後先ばかり、今など止まってまで
見る必要はない。
「…バイバイ、黒潮 湊サン。」
ガチャ…ン ウィィィィ…ン