04
一筋の光も差し込まない、下水道。
僕がいる道の隣を、水が流れている。
そこに向かって、僕はさっきから吐き続けていた。
既に、胃の中には何もない。胃液しか出てこない。
喉が焼けるし、胸焼けもする。
だけど、そういった症状全てを否定するように、吸血鬼の身体は回復する。それが、僕がそうやって忌避感を抱く事すら否定されているようで、僕は堪らなく嫌な気持ちになった。
アネットが心配そうに僕の背中をさすってくれている。
人を殺してしまった。
その事実は、僕の心に重くのしかかってくる。
はずだった。
そうでなければならない筈なのに、そう思えない自分がいる。
人殺しに――あまり嫌悪感を抱いていない。
反省の色が見えない。
そのことが――心の底から嫌だった。
気持ちが悪い。
これまで習ってきた人間としての、社会の一員としての倫理観全てが、真っ向から否定されているようで。
気分が悪かった。
慣れていくしか無いのだろうか。この感情に。
追っ手を振り切ったからといって、オルロフの追撃が止むわけでは無いだろう。
そうなれば、また戦闘になるだろう。
水に頭まで浸かり、ニオイを消そうとしてみたが、駄目だった。
水に入ろうとすると、身体が拒否感を覚えるのだ。
吸血鬼は流水をわたれない。
どうやら、その伝承は本当だったらしい。
「アネット……」
「うん? ……大丈夫?」
「ああ、ありがとう」
ゆっくりと立ち上がる。まだ胸焼けがするが、それは気分的なものだろう。
「で、これから何処へ行くんだ?」
この下水道には、引っ張られてきただけだ。何処に行くのか、僕はまだ知らない。
「キミさえ大丈夫なら、しばらくは身を潜めようと思うんだ」
「身を潜めるって…出来るのか?」
アネットは鷹揚に頷くと、笑いながらこう言った。
「念のために、もう一つホテルを借りてあったんだ。まだオルロフには知られていない筈だから、夜になったらそこに行こう」
「わかった」
念のために隠れ場所を準備する。用心深い吸血鬼というのも、それはそれで、人を傷つけたくない吸血鬼と同じぐらいおかしかった。
「で、夜まではここで待機」
言って、アネットはそこらに座り込んだ。僕も対面に胡座をかく。
「そういえば、アネットは何で僕を助けたんだ?」
「え? んー、そうだね…」
彼女は、言葉を選ぶように宙を見た。
「元々、私の狙いはオルロフだったんだ。あいつが最近、日本で暴れているという噂を聞いて、止める為に私も日本へ……まあ、言ってしまえばオオカミ退治だね」
あの恐ろしい男をオオカミ呼ばわりだった。
「で、やっとオルロフを見つけたと思ったら、二時間前に会った男の子が瀕死の重傷でしょ? 思わず助けちゃった」
思わず、で吸血鬼化されてしまうとは、伝説の妖怪も安くなったものだ。
「助けてくれた事には感謝してるよ。ありがとう」
そういって頭を下げると、アネットは驚いた顔をした。
「何で礼を言われて驚くんだよ」
「恨んでないの? 私、キミを吸血鬼にした張本人なんだよ?」
「方法はどうあれ、命を助けられた事は変わらないだろう」
拍子抜けしたような顔をして、アネットは黙り込んでしまった。
「………………」
「………………」
…………沈黙が重い。
僕はそんなに悪い事を言ったのだろうか。なにぶん、女性と話した事なんて数える程しかないから、こういったときどういう話をしたらいいのかわからない。
畜生、なんで僕は女性経験をもっと積んでこなかったんだ。そうしたら、ここで小粋なジョークでも言って場を和ませられたのに。
……小粋なジョーク?
「なあ、こんな話を知ってるか? ある日、お坊さんが有名なお寺に参拝しようとしたんだよ。で、そのお寺だと思われる場所にたどり着いて参拝したのはいいんだけど、ふと隣を見ると、階段の上に人がいっぱいいたんだ。でも、そのお坊さんは祭りか何かだろうと思い、あくまでも目的は参拝する事にある、っていって、階段を上らないで帰ってきたんだ」
「?」
首を傾げられていた。
「この話には続きがあって、実は、階段を上った先にあるのが目的のお寺だったんだ。けどそのお坊さんは、階段のしたのお寺を目的のお寺だと思いこんで帰っちゃったんだ。まったく馬鹿なお坊さんだよな、はは、はははは……」
くすりとも笑わず、アネットは首を傾げるだけだった。
……あれ、失敗した?
「ねえ、ハルカ」
本当に何の感情も感じない声。「つまんない話をするな!」と怒られるのかと身構えたが、そうではなかった。
「お祭りって、何?」
「常識が通用しない!?」
意外なところに疑問を持たれていた。
仁和寺の法師もびっくりだ。
「というか、アネット、お前……お祭りを知らないのか?」
「うん。なに、それ?」
「あー………」
なんと説明したらいいかわからず、僕は眼を覆った。
「あれ? お前、ホテルでゲーセンとか言ってなかったか?」
「それは町の人が話してたから…。ゲーセンって、どんなところ?」
「今度連れて行ってやる。オルロフと決着がついたら」
「ほんとう?」
目を輝かせて、アネットは食い気味にきいてきた。
どんだけ行きたかったんだ、ゲーセン……。
結局、僕らは夜になるまで馬鹿話を続けた。
ゲーセンの他に、クリスマスにも遊びに行くことにもなってしまったが、まあいいだろう。
後に、僕はここで約束した事を死ぬ程後悔する事になるのだが、このときはまだ、知るよしもなかった。