03
覚醒はひどくゆっくりとしたものだった。
僕という存在が、ゆっくりと形作られていくような、僕という生命をまったく新しいものに作り替えるような、そしてそれをぼんやりと待っているような。ひどくゆっくりと、緩慢に、僕は目覚めた。
まだ頭に、ぼんやりともやがかかっているような気がする。
思考が定まらない。
この感覚を、僕はどこかで知っている。どこだっただろうか……?
動きののろい頭で考える。瞬間、僕の脳裏をあの光景がよぎった。
――腹部の熱。こぼれおちる、生暖かい命の源。凄惨な笑み。宙を切り裂くナイフ。
「思い出した…!」
ぶるりと、思い出した事で身体を巡った悪寒を振り払うように身震いすると、僕はあたりを見渡した。
シングルのベッド。これはいままで僕が寝ていたものだ。机と椅子のセットが一つ、テレビと小さな冷蔵庫もある。この光景、僕は前に見た事がある。
「ビジネスホテルの…一室、なのか?」
不可解な事に、カーテンは閉め切られている。透き間から床へと日光がのびているが、真っ昼間なのだろう、眩しすぎて数秒と直視していられなかった。
「というか、今は一体何時なんだ…?」
幸いな事に、机の上にはデジタルの時計があった。時刻を見ると、五時二十八分だった。
朝の。
十二月二十二日、午前五時二十八分。
「…えっ?」
もう一度窓を見てみる。相変わらず漏れ出る日光は眩しく、僕は数秒で見る事を諦めた。
ゆっくりと、窓に近付く。カーテンに手をかけると、柔らかい素材だったのか、揺れて合わせ目に透き間が出来た。その透き間から日光が差し込む。日光はカーテンを握っていた僕の右手、その手首から先に降り注いだ。
瞬間。
僕の右手は燃え上がった。
赤い、普通の炎ではなく、青白い炎に包まれた右手を見る。痛みと熱さは、後から襲ってきた。
「熱っ――――ちい!」
さっと、人間に標準で備わっている反射によって、僕は右手をカーテンからはなした。
カーテンはゆれながら元に戻り、僕の右手に差し込んでいた日光も、消えた。
すると、僕の右手の青い炎も消えた。皮膚どころか、筋肉も腱も、骨までもが燃え上がっていたようで、僕の右手は見るに堪えないものへと成り下がっていた。
とういか、え?
日光で、発火した?
そんな馬鹿な。それじゃあまるで、漫画やアニメに出てくる、あれみたいじゃあないか。
吸血鬼。
いや、いやいや。いやいやいやいや。
あり得ないだろう。そんな事は。
この科学技術が発達した現代社会において、吸血鬼だなんて。
あるはずがない――あり得ない。
さっき僕の手が燃えたのだって、なにかトリックがあるのだろう。『探偵ガリレオ』にそんなトリックがあった。
現に、右手の火傷は今も…………。
ふと、右手に視線を向ける。
「………あれ?」
無かった。火傷なんて、そこには無かった。
「嘘、だろ?」
左手で、入念になぞる。だが、火傷の痕跡すらない。
傷が――消えていた。
ん? 傷?
「耳と…腹!」
そうだった。あの男は、確かに僕に銃弾を撃ち込んだ。あわてて腹をまさぐる。右手は耳をなぞる。
だが、傷は何処にも見つけられなかった。
あの傷は、一日で治るようなものではない。それこそ、化け物でも無い限り。
さわっただけでは確信が持てず、僕は鏡で見てみる事にした。
「なんだよこれ…」
鏡の前に立っても、僕は僕の姿を見る事は出来なかった。
映っていない。
僕の混乱はピークに達した。
奇声を上げて走り回ろうと、部屋の入り口のドアへ足を向けた途端、そのドアが内側に開いた。
そして。
「あれ? もう起きたんだ、予想より早いね」
ドアの向こうには、数時間前に出会った彼女が、鮮やかな金髪を揺らしながら立っていた。
吸血鬼。
日光に弱く、照らされると身体が燃え上がる。十字架やニンニクも苦手とし、流水をわたる事は出来ず、招かれないと家に入れない。鏡に映らず、影も出来ない。
伝承を数多く持ち、その本拠地はルーマニアだという、化け物の中でも一番の知名度を誇る、西洋の妖怪。
不死身の鬼、生ける死者――リビングデッド、不死の王、ノスフェラトゥ、ナイトウォーカー。
異名は数知れず、伝説や創作には事欠かない。
生き血を啜る鬼――吸血鬼。
どうやら、認めたくはないが、僕はその吸血鬼になってしまったらしい。彼女曰く、それしか僕を助けるには方法が無かったらしい。
失血死寸前まで。
僕の血は――失われていたらしい。
そして、僕は彼女に血を吸われ、吸血鬼となった。
吸血鬼の再生力、生命力で僕は、一命を取り留めた――らしい。
「アネット・グランマニエ」
彼女はそういって、一つ息を吐いた。
「結局、名乗る事になっちゃったね――ご愁傷様」
「ご愁傷様って…」
「だって、現にキミは襲われて、挙げ句の果てには吸血鬼。ご愁傷様、としか言えないでしょう?」
「そんなこと…」
ない、とは言い切れなかった。
「じゃあ、これからどうしよっか? ゲーセンでも行く?」
「高校生かよ!」
突っ込んでしまった。思わず。
「そうだ、アネット。聞きたい事があるんだ」
「うん? スリーサイズなら教えないよ?」
「違う!」
どうしてこう場をはぐらかそうとするんだ!
「そうじゃなくて…。あの男の事だよ、あいつ――何なんだ?」
誰、ではなく何、と表したのは、明らかにあいつが人間では無いからだ。
「ああ、あいつ? 人間じゃない……ってのは、わかってるか」
「ああ。あれが人間のはずがない」
壁を蹴ってそのまま夜空に消えるなど、人間に出来る事ではない。というか、僕を食べようとしてたし。
「あいつ――オルロフは、ワーウルフよ」
「ワーウルフ?」
「日本語で言うなら、人狼ね。狼男。それも、完全なオオカミ状態と人間の状態を使い分ける事の出来る、手練れの」
手練れの狼男。ぞっとする響きだった。
「オルロフは、私のような本物の吸血鬼とは犬猿の仲なの。……それとも、狼鬼の仲とでも言うのかな?」
「そりゃあ……どうしてだ?」
「人を食べるから」
アネットは、ひどく冷淡な口調でそういった。
「吸血鬼は、人の生き血を飲む……だけど、殺す事は、基本的にはしないの。けど、あいつ等は違う。オオカミがどういう生き物なのか、知っているでしょう? あいつ等は、時には村をまるまる一つ、食い荒らすの。現実のオオカミのように見せかけて、群れで。人を殺さない、殺したら食料がなくなる吸血鬼と、人の他にも様々な獲物がある人狼。仲が悪いのも当然でしょう?」
まあ、だからここまで吸血鬼伝説が広まったのかもしれないけど。
そう言って、アネットは薄く笑った。
「…………」
僕は。
世界の、今まで知らなかった裏側を見せられて、何も言う事が出来なかった。
知らないよ、吸血鬼と人狼の仲が悪いとか。
「で、私は人狼の狩りを邪魔した、ってこと」
「邪魔……」
というか、あれはもう妨害だった。
「あいつら、無駄にプライド高いからねー。報復に来ると思うよ」
報復。
言い換えるのなら――復讐。
「報復って……大丈夫なのか?」
僕の問いに、アネットは首を傾げた。
「大丈夫って?」
「いや、だからほら、殺されたりとか――」
アネットは。
何がおもしろいのか僕にはさっぱりわからなかったが、唐突に、僕の前で爆笑し始めた。
「お、おもしろい事言うね……」
笑いすぎて、息が上がっていた。目元に涙すら浮かんでいる。
「おもしろいって事ないだろ。僕はただ、本当に――」
「吸血鬼は」
突っかかった僕の台詞を遮って、アネットは急に真面目な顔で話し始めた。
「吸血鬼は、滅多な事でしか殺されないの。心臓に銀の杭を打たれても、それはただ心臓を潰された、というだけ。まあ、日光に照らされ続ければ死ぬけど……」
そこで言葉を区切って、アネットは僕を見た。その顔は、笑っているのに、凄まじいまでの恐怖を僕に感じさせた。
「焼かれながら再生して、再生した部分がまた焼かれる。身体を覆う炎は消えず、自分の再生力が尽きるまで焼かれ続ける。……地獄だよ」
「…………」
確かに、さっきの右手の痛みが全身にまんべんなく、というのはちょっと遠慮したい。
痛みでショック死するかもしれない。
それとも、そのショック死すら、吸血鬼の回復力が許さないのだろうか。
実験する気は無いが。
「で、これからどうする?」
「どうするって……。人間に戻してくれよ」
言うと、彼女は目を丸くした。
「人間に戻す?」
「ああ。頼むよ」
「無理だよ」
あっさりと、アネットは僕の頼みを否定した。
「……え?」
「ああ、いや、うん。少なくとも、今は無理。確実にあいつらは報復をしてくる。その時、非力な人間だと、五秒と持たないよ」
確かに、そうかもしれない。アネットの言い方には少し含みがあったようにも思えるが、正論なので何か言い返すといった事はしないでおく。
「それで――」
「ちょっと待って」
アネットは、僕の言葉を右手で遮ると、左手を赤いコートの中に突っ込んだ。引き抜いた手には、三本のナイフが指の間に構えられていた。そのナイフは、僕が路地裏で見たものと同じものだった。引き抜いた勢いのまま、アネットはナイフを入り口のドアへと投げる。
まっすぐに飛んだ三本の刃物は、目にもとまらぬ早さで分厚いドアを貫通した。
くぐもった声がドアの向こうから聞こえる。それと、ひどく甘い匂いも。
「お、おいアネット……」
身を乗り出す僕を制して、アネットは両手に三本ずつナイフを構える。
「思ったよりずっと早いね……追っ手だよ」
ドアの向こうを睨んだまま、彼女は静かに呟く。
追っ手。
それはきっと、あの男――オルロフとか言ったか、そいつ本人かその部下なのだろう。
人狼。
人に紛れる、オオカミ。人の知能を持ち、人を襲う獣。
オオカミなら、あの路地裏からニオイを辿ってこのホテルまでたどり着く事も、不可能ではないだろう。アネットがどんな手段を使って僕をここまで連れてきたのかは知らないが、道中、ニオイを残さない事は出来ないだろうし。
ましてや、妖怪である。
嗅覚やら何やらが通常のオオカミより優れていても、何らおかしくない。
……こっちとしては勘弁願いたい想像だが。
と、彼女が睨んでいたドアが、少し開く。その瞬間、六本のナイフが全てドアを穿つ。
「グッ」と、さっきと同じくぐもった声が聞こえたが、僕の意識はそこではなく、ドアから転がってきたものに向けられていた。
長さ十五センチ程、直径五センチ程の円柱。灰色で、上部に何かギミックが付いている。あれは、そ
う、たまにハリウッドなどの戦闘ものの映画で見る――!
「目をそらして、耳を塞げ!」
叫ぶ。
一瞬後、閃光と凄まじい爆音が部屋に響く。
フラッシュバン。
百万カンデラ以上の閃光と、百五十デシベル以上の爆音で周りの人間を無力化する為の特殊な手榴弾。
車のヘッドライトの一つの明るさが一万五千カンデラ、至近距離での飛行機のエンジン音が百二十デシベルと言えば、どれだけのものなのか、断片的にでも伝わってくるだろうか。
とにかく、それが部屋に投げ込まれた。
それも、今部屋にいるのは吸血鬼二人だ。
人間よりも、聴覚、視覚共に優れている。
つまり。
「つっ、がああああ……」
大ダメージだった。
事前に二人とも眼を閉じ、耳をふさいでいたのだが、気休めにしかならなかった。
超気持ち悪い。視界は白く染まっているし、耳鳴りも酷い。
回復力で急激に状態は良くなっているけど、それでも気持ち悪い。
そして、その隙を、ドアの向こうにいる奴らは見逃さなかった。
だいぶ回復してきた耳に、ドアが蹴破られる音が聞こえた。それと同時に、何人かの足音。
突如、僕の身体を激痛が走った。何本もの細いものが身体を貫通するような痛み。その痛みは全身の至る所を突き刺す。
視界が回復する。まだうっすらと白い視界で見ると、銃を持った、四・五人の男が、僕とアネットに、断続的に発砲していた。
黒い目出し帽、黒い上下の…あれは戦闘服か? ごついブーツを履き、手にはアサルトライフル。まるで、どこかの特殊部隊のような格好だった。
男達は、手に持ったアサルトライフルを僕ら二人に撃ち続ける。銃口には消音器がつけられている。ガスの抜けるような音と機械の動作音。
肉を穿つ音が部屋に響く。僕の身体はボロ布のようになっていた。
と、一弾倉全て撃ち尽くしたのか、銃弾の雨が止む。男達が一斉に弾倉を捨て、分厚いベストの胸ポケットから新しい弾倉を取り出す。
瞬間、男二人の喉にナイフが突き刺さった。
隣を見ると、アネットが両腕を振り抜いた姿勢で立っていた。
「こっち!」
僕の腕を掴み、アネットが部屋から飛び出す。よほど焦っていたのか、僕の腕に鋭い爪が食い込んだ。
廊下を痛みに耐えながら走る。逃げても、血の痕で追われるのでは、と思い後ろを振り向く。
そこに転々と血が垂れている光景を想像したのだが、違った。
廊下に血など一滴もない。
身体を触ってみる。傷など何処にもなかった。銃弾にボロ切れにされたはずの服も、傷一つ無い。
まるで、全て直ったかのように。
前を走るアネットにも、外傷は見あたらない。
――まさか、吸血鬼の回復力はこれほどのものなのか?
きっとそうなのだろう。まさか、数瞬で完全に元に戻るとは思わなかったが。
右足に鋭い痛みが走る。
急な痛みだった為、僕は受け身も取れず転んでしまった。
そして、地面に横たわった僕に向かって、好機とばかりに銃弾が束になって撃ち込まれる。
僕は。
典型的な平和大国日本の一般人だった僕は、勿論銃で撃たれたのはさっきが初めてだ。
その痛みに、耐えられない。
少なくとも、人間だったときならば。
確実に――耐えられなかっただろう。
しかし、今は違う。
今僕は、吸血鬼だ。伝説の、不死の妖怪だ。
撃たれた先から、回復していく。
まるでビデオの巻き戻しのように。
元に――戻っていく。
全て。
回復していく。
僕は、身体を銃弾に貫かれながら、立ち上がる。
転がっていたときより的は大きくなった為、受ける銃弾の数も増える。
だけど、効かない。
致命傷には、ならない。
致命傷すら、回復していく。文字通り、一瞬で。
「う、おおおっ!」
廊下の一角に膝を突き、発砲し続ける三人の男を目掛けて、駆ける。
銃弾が身体を貫く。
そのうちの一発が僕の額を貫き、脳をかき回す。
一瞬意識がとぎれるが、勢いの付いた足は止まらない。
強化された吸血鬼の脚力は、二十メートルはあった距離をたったの二歩で走りきった。
ただ、あの男達を倒す事だけを考えて。
勢いそのままに、拳を繰り出す。狙いも何もない、素人丸出しの拳だったけど、そのパンチは男の一人を捉えた。
ぱあんと、不快な、水風船を破裂させたかのような音が響く。
見れば。
僕の握りしめた右拳は、何も考えず勢いを乗せて全力で突き出したその拳は。
膝立ちで銃を構えていた男の、その頭部を――粉砕していた。
「え……?」
思考が追いつかない。脳が考える事を止めている。
それほどに。
目の前の状況は、僕にとって衝撃的だった。
右手は肘まで真っ赤に染まっていて、所々に、赤色と白色のかけらがこびりついている。
頭部を失った男の身体から後ろには、放射線状に赤いシミが広がっている。
どさりと。
頭をなくした身体が後ろに倒れ込む。
僕は。
固まってしまっていた。
残った男二人が僕に銃を向けるのも、その顔が憎しみに歪んでいるのも。男達の喉と胸にそれぞれ一本ずつ、ナイフが突き刺さるのも、追いついたアネットが僕の手をつかんでどこかへ引きずって行くのも。
呆然と――見ていた。
見ている事しか。
できなかった。
ちまみれー