02
あれからすこしして。
彼女の言いつけ通り、僕は夜が深まる前に帰る事にした。だんだんと深まる紺の色を横目に、クリスマス一色の街を歩く。何の変哲もない、とある路地裏にさしかかったとき、僕の足はぴたりと止まった。
嫌な予感がする。
具体的にどうこう、というのではなく、あくまでも予感だ。
だが、僕の意識は路地裏の入り口から離せなくなっていた。
その時だった。
なにかよくわからないものが路地裏から溢れてきた、と何となく思った次の瞬間、近くの街灯、数にして五本程――の明かりが、一斉に消えた。
秋の日はつるべ落とし、とは言うが、それは曲解すれば冬の日はもっと早く沈む、という事である。何もぼくは、地球の地軸の傾きに文句を言うつもりはない。だが、今ばかりは早く沈む太陽に、ものすごい早さで濃さを増す夜の紺色に、文句の一つでも言いたかった。
何も見えない――というのは言い過ぎかもしれないが、真夜中と言っていいぐらいには、僕のまわりは暗かった。
そして。
僕の足は、そこを恐れる僕の意志とは裏腹に、件の路地裏へと向いていた。
自分の足が、誰か別の人に操られている感覚。下半身が自分でなくなったかのような、そんな違和感。
僕の足は、もはや僕の意志を完全に無視して、路地裏へと歩を進めていた。
そして、とうとうつま先が路地裏と街道の境界を越える。
その瞬間、闇が一層深くなったような気がした。
何も、見えない。
眼がくらやみに慣れる、慣れないの問題ではなく、単純な問題として、そうではなく。
闇が――深い。
一寸先すらも――闇。
しかし、その闇の中ですら、僕の足は歩みを止めない。すたすたと、歩き続けている。
不意に、これは主観でしか無いが、闇が軽くなったような気がした。そして、僕の視線の先には、一人の男が姿を現した。
いや――「それ」を男と呼んで良いのか、僕にはわからない。なぜなら、彼は見た目からしてまるっきり、人間ではなかった。
人間ではなく。
人間性のかけらもなかった。
浅黒い肌、短くそろえられた銀髪。がっしりとした体格を、上等だと思われるタキシードで包んでいる。
パーツパーツでは人間だ。だが、それら全てがそろうと、人間ではないような印象を僕に与えた。
昼間の彼女とは、また違う。何か違和感のようなものが、僕がこの男を人間だと認識する事を拒んでいるような感覚。
その男は、外見からしても、纏う雰囲気からしても――受ける印象からも。
人間であるとは、思えなかった。
と、その男が口を開いた。
「悪く思うな、人間――たまたまそこにうぬが居た…それだけの話だ。運が悪かったと――自分を慰めろ」
ぞくり、と。その声を聞いた途端、僕の全身を悪寒がかけずり回った。おおよそ感情というものが感じられない声だった。
そう、まるで、食物にでもかけるような声。
獣の臭いが、どこからか流れてきた。
「何、心配する事はない。うぬは儂の血肉となり永遠に生き続ける。光栄に思え」
尊大な態度。普通なら、僕はその態度を咎めるべきなのだろう。だが、その男は、普通ではなかった。
明らかに異常で――異質だった。
ゆっくりと、悠然と、その男は近寄ってくる。そこには何ら気負った様子は見られず、ただただ、自然体だった。
男の目は、明らかに僕を見ている。だが、そこにたたえられた剣呑な光は――その、無機質な剣幕は、僕を人間として見ているとは思えなかった。いや、違うのか。
男にとって、人間とは皆、只の食料なのかもしれなかった。
「一瞬だ――痛みを感じる暇さえもない」
ゆらりと、男の右手、その輪郭が歪んだ。
次の瞬間、男の手には、普通の拳銃を一回り大きくしたような、黒光りする、大きな拳銃が握られていた。
撃鉄は――起こされている。銃口は、ぴたりと僕の眉間を捉えていた。
足に力を込める。だが、まるで何か、見えない力に押さえつけられたかのように、ぴくりとも動かなかった。
瞬間、僕は悟った。ここで終わりなのだと。続きは無いのだと。連載は終了するのだと。
脳裏を、今までの思い出がよぎる。これが噂に聞く走馬燈なのか、と場違いにそんな事を考えた所で、僕は歯を食いしばった。
嫌だ。
まだ死にたくない。
やり残したことが――たくさんある。
僕は全神経を足に集中させた。足はまだ動かない。
――男の腕に、力が入る。
足に力を込める。動けと心で叫ぶ。銃口をまっすぐに見定める。
――指が動き始める。
世界がスローモーションに見える。僕と男との間の空間だけ、急速に鮮明に知覚できるようになる。足に力を込める。ふくらはぎがぴくりと動く。太ももに力が入る。
――引き金が半ばまで引かれる。
足全体に力を込める。体重をわずかに左に傾け始める。銃口と一直線だった視線がずれ始める。
――引き金が引かれる。銃口から、指先ほどの直径の弾が硝煙と共に飛び出してくる。
一気に、足に溜めていた力を解き放つ。体重を左に全力で傾ける。銃口が一気に右に流れていく。
「う、おおおおおお!」
間一髪。正にその表現が正しいだろう。銃弾は、一房の髪の毛と右耳のわずかを引きちぎりながら後方へと飛んでいった。
男は、わずかに眉をひそめて、腕を――そこに握られた拳銃を、左へと滑らせる。そしてもう一度、僕に狙いを定める。
それを僕は、空中を左に流れる僕は、ただ見ている事しか出来ない。そして男は、口元を歪めながら、哀れな食料の最期の抵抗を嘲笑いながら、二発目の引き金を引いた。
があん、と、人生二度目に聞く銃声が響く。そして、銃声が聞こえると同時に、僕は背中から路地裏の壁に叩きつけられていた。
「かっ……は…!」
思いっきり叩きつけられた時の衝撃で、肺から空気が根こそぎ持って行かれる。右耳と腹が熱い。
激しく咳き込みながら、僕は地面に手をついて立ち上がろうとする。が、失敗した。
何か熱くてぬるっとした液体が、僕の手を滑らせていた。思わず、手に目をやる。右手の手のひらからは、鉄の匂いがした。相変わらず路地裏は暗いままだが、闇はだいぶ薄くなっている。だから気付いた。
僕の周りに、血が散乱している。その密度は僕の近くになるほど高くなり、僕がはいつくばっている地面なんかは、血だまりができあがっていた。
血を失いすぎて急速に暗くなる視界の中、男がこちらへと近付く。わずかでも離れようともがくが、手足に全く力が入らない。
男が僕を見下ろして、にやりと嗤う。三度、銃口が突きつけられ、今度こそ僕は死を覚悟した。
その時だった。
一筋の銀閃が男の握る銃に伸びる。直後、甲高い金属音が響き、男の拳銃はあらぬ方向に弾き飛ばされた。
からん、と音を立てて、僕の目の前に何かが転がる。こんな闇の中でも輝いているかのように見えるそれは、鋼の刃を持つ、小振りのナイフだった。
「ちっ――」
一言吐き捨てると、男は飛び上がった。軽くジャンプしただけのように見えたが、その跳躍で、男は十メートル程の距離を上に跳んだ。
一瞬遅れて、さっきと同じ銀の線が二本、今の今まで男がいた場所を切り裂いていった。
「――純正の奴が、何故人間を守る!」
男が吼える。その声は、本気の憎悪に満ちているような印象を受けた。
答えの代わりに、ナイフが男に飛ぶ。それを男は壁を蹴って避け、更に反対側の壁に、垂直に直立した。
「よかろう――今回は引く。だが、この借りは返す。うぬらの命でな!」
そう男は叫び、壁を蹴って夜空へと跳んでいった。
右から――ナイフが飛んできた方向から、誰かが駆けてきた。
僕の前に屈み込んだその誰かは、僕の目の前に転がるナイフを拾い上げると、迷わずに、自分の腕に突き刺した。
フードに隠れてよく見えないが、息をのむ気配が感じられる。その「誰か」は、ナイフに貫かれたままの左腕を僕の腹の上に掲げる。
ぽたぽたと、傷口から血が垂れる。その血を、僕の腹に垂らしているようだった。
十滴程垂らした頃だろうか。不意に、腹の熱が弱まった。じくじくとした痛みはまだあるが、だいぶましになったと思う。相変わらす血は足りず、頭もうまく回らないが。
目の前の誰かは、数秒の間逡巡すると、意を決したかのように僕の首筋へ顔を寄せてきた。
身を乗り出すような姿勢だったので、フードがはらりと落ちた。そこからこぼれ落ちたのは、流れるような金髪。
この金髪を僕は知っている、と思った瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
急速に血が失われていくような感覚。手足の末端が冷えてくる。視界も思考も定まらず、ただ目の前の金色をぼうっと眺める。明らかに死に近付いているのに、何故だか僕は、全く恐怖やさっき銃弾を避けたときのような感覚を感じなかった。
そして、まるで死ぬように、僕の意識は闇へ落ちた。
常人に銃弾は避けられません。あしからず。