望まない人ほど会ってしまうもの(4)
所々に黴とも苔とも見分けがつかないようなものが生えた、決して衛生的とは言えない部屋に、彼はいた。鉄格子があるから、部屋ではなく牢屋だろうか。冷たそうな石の床に座り込み、同じく石でできた壁に背を預け、ぐったりと頭を垂れている。そんな彼の姿を見た瞬間、愛情や哀れみ、腹立たしさなど色んな気持ちがごちゃ混ぜになって込み上げ、泣きそうになるのを口をつぐむことで堪えた。
「お客さんだよ」
その場から動かない私をチラリと見たルイージが、鉄格子に向かって呼びかけた。
「…ここで俺に客などいるのか?」
彼は俯いたまま静かに言った。
俺…。その言い方を聞くのは3度目だ。1度目と2度目はディクシャールさんの前。彼は親しい人と私的に話す時は、自分のことを"俺"と呼ぶ。さっきの雰囲気からしてルイージと親しい訳ではないだろうが、敵国の牢屋の中でわざわざ"私"を使うことはないようだ。
「そう拗ねないで。遠路遥々(えんろはるばる)逢いに来たらしいよ」
言われて彼はようやく顔を上げた。私を見た瞬間その目が見開かれる。彼は最後に見た時より頬がこけていて、金髪の無精髭が生えていた。髪だってボサボサ。初めてみる無様な姿が、逆に愛しかった。
「フォンスさん…」
やっと声を出して駆け寄って膝をついた私に、彼は期待したような顔はしなかった。
「…何故来た?」
険しい顔、素っ気ない問い。何故そんな顔をするの?逆に私が聞きたい。駄目だ、今声を出すと涙が出てしまう。
「サヤ、答えなさい」
「……」
何も答えない私に、フォンスさんはため息をついた。
「ハハッ、そんな言い方しなくてもいいのに。女心が分かってないなあ」
「キート!約束が違うぞ!」
ルイージが冷やかすような口調で言うと、フォンスさんは鉄格子に寄り、更に顔を険しくして怒鳴った。
「そう言われてもね、勝手に来ちゃったんだから仕方ないじゃないか」
再び険しい視線が私に向く。
フォンスさんはいつも私を甘やかしてくれていた。だから自分にそんな目をすることなどないと、どこか高を括っていたのかもしれない。心の隅で、ここまで辿り着いたことに、感動してくれると期待していたのかもしれない。でもよく考えたら、敵の諜報員に連れられて現れた私を見て、よく来てくれた、などと言うわけないのに。"約束が違う"と言っていたから、やっぱり私に危害が加わらないようにするため、フォンスさんはアメリスタに入ったのだろうか。それじゃあ来ちゃったら迷惑だったのかな。とは言え、これはキツイなあ。リリーには、本人に迷惑がられるまで突っ走る、なんて言ったけど、実際好きな人から迷惑がられたら、相当キツイ。胸が痛くて、泣きそうな目と鼻が熱いのに、心の底がすぅっと冷えて、代わりに暗い悲しみがそこを満たした。
「その髪はどうしたんだ?」
そこで私の前髪が短くなっていることに気づいたフォンスさんが、鉄格子の間から手を伸ばして、私の額に触れようとした。
「…サヤ?」
私は彼の手が触れる前にスッと身を引き、立ち上がった。
ちゃんと言わなきゃ。泣いてもちゃんと伝えなきゃ。
「ごめんなさい。妻ならどこまで追いかけても許されると思っていたの。急にいなくなったら心配して当然だと…。あなたはどうか知らないけど、私は…、家族になったつもりであなたを大切に思っていた。でも、でしゃばり過ぎたら迷惑ですよね?今の今まで、自分の気持ちを押し付けて突っ走るだけで、あなたの気持ちを考えてなかったんです。ごめんなさい…ごめんなさい……」
やっぱり涙は堪え切れなかった。愛しい彼の顔を見ておきたいのに、ぼやけてそれは叶わなかった。
「サヤ、そうじゃない。私は迷惑だとは…」
"私"か。相変わらず他人行儀な言い方だ。いつか"俺"と言ってくれることを願っていたのに。
「良いんです。もう、私に気を使って自分を犠牲にしなくても良い。召喚の時からずっと私のために動いてくれました。十分良くしていただいたと、感謝しています」
玉砕コース、決定だな。正直、"私とリリー、どっちを取るのよ!?"というシーンを想像していた。現実は厳しいものだ。リリーより先に砕けてしまった。
「そろそろいい?旦那様が首を長くして君を待ってるんだ」
「ええ。行くわ…」
ルイージが鬱陶しそうに私を急かした。誰も頼らないと言う彼にとっては、今の私達の会話はクサい恋愛ドラマを見たような気分なんだろう。でも今の私には、急かされた方がフォンスさんの前から早く去れるから都合が良かった。
「待て!!アメリスタ公に会わせるのか!?そんな話は聞いていない!」
「…事情が変わったんだよ。あなたはこちらの交渉を蹴った。その時点で処分決定だったんだけど、後で旦那様が彼女に会いたいと言い出したから、餌として生かしておいただけ。だから言っただろう?"そんな言い方しなくてもいいのに"って」
フォンスさんの問いに、ルイージはめんどくさそうに答えた。
「何の目的でサヤに会うと言うんだ」
「さてね?サヤにも言ったけど、俺はしがない諜報員でしかないからね。言われたことをこなすだけ。もう行くよ」
ルイージは今度こそ鉄格子に背を向けた。私もそれに倣う。
「サヤ!!」
名前を呼ばれるのが辛くて辛くて、私は後ろ髪を引かれる思いでルイージを押しのけるように階段を駆け上がった。