出る杭は打たれるもの(7)
朝、廊下でトニーに出くわした。早速か、と思ったが、リリーからどんな説明をされたのか分からない以上、下手にこっちから言い繕うわけにもいかないから、普通に挨拶して通り過ぎようとした。
「おはよう、トニー。今日いよいよアメリスタに入るのよね?ちゃんと眠れた?」
「おはよう。実はあんまり眠れなかったんだ」
「そう、大丈夫?」
「体調は良いから平気だよ」
そして彼とすれ違ったその時、手が後ろに引っ張られて体が傾いた。どうにか転ばないように体勢を立て直して自分の手を確認すると、トニーががっしりつかんで私が元来た方へ引っ張って行こうとしていた。
「ちょっと待って、そんなに引っ張ったら転ぶじゃない…うわっと!き、聞いてるの?」
抗議しても彼は黙って前を見たまま、私を引きずるようにずんずん歩いて行く。
諦めて大人しく引っ張られていると、私とリリーに当てられた部屋の前についた。トニーがドアを開けて中へ入って行く。リリーは先に朝食を摂りに行ったから、今部屋には誰もいない。トニーはドアをきっちり閉めてから、ようやく私の手を離した。
「どうしたの?そんな乱暴に引っ張らなくても、用があるならちゃんと聞くわよ」
私は乱れてしまった髪を直しながら、少し非難気味に言った。
「……から…」
トニーが俯いて何か言ったが、小さく掠れていて聞き取れなかった。
「え?何て言ったの?」
聞き返すと彼はぱっと顔を上げ、私の両肩をつかんだ。そのまま後ろに押す。二人用に当てられた部屋は狭い。2、3歩多々良を踏むとすぐベッドに足が当たり、簡単に押し倒されてしまった。
「…頑張るから…」
「は、はい?」
私の顔の横に肘をついて、覆いかぶさって来たトニーの瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。そんな彼の吐き出した言葉の意味が分からない。
鼻先同士がくっつきそうな距離で熱い息遣いを感じた時、リリーやディクシャールさんの言っていたことを思い出した。
"トニーは、サヤのこと好きかもしれない"
"お前をヴァーレイがウロチョロと追いかけている"
もしかして…、もしかして、本当に…
「頑張るから…。僕、頑張るから」
最後まで考える前に、再びトニーが譫言のように同じ言葉を繰り返した。でもやっぱり何を"頑張る"のかよく分からなくて黙っていると、彼は腕の力を抜いて、完全に体重を私に預けた。ぴったりと重なり合った彼の熱い体と耳にかかる熱い息に、"男"を感じた。
それからトニーは徐に腕を私の背中の下に差し入れ、抱き起こした。彼はしばらく膝の間で私を抱きしめていたが、やがて力を抜いて少しだけ体を離し、視線を合わせた。
「僕、もっと頑張るから、だから…もう少し僕も見てくれよ」
「トニー…あの…」
「今、結論を出さないで。自信ないからさ。今の僕で、ダントール司令官に敵うなんて思わない。それに最優先させなきゃいけないのは、あの方の奪還だ。助けたい気持ちはサヤと同じだよ。アメリスタに入れば、他の余計なことを考える暇なんてなくなることも分かってる。ただ…、もう少し僕のことを見て欲しいんだ。自信が持てるようになるくらい、頑張るからさ」
やっと"頑張る"の意味が分かった。
偽装結婚のこと、ずっと黙ってたのに。嘘は言ってなくても、結果的には騙してたのと同じなのに。打算的で捻くれた年増の私には、もったいな過ぎるほどひたむきな言葉だ。若い彼の真っすぐな気持ちが、私の擦れた心臓を貫いて、正直痛かった。
私は大股で歩いていた。
結局トニーは私の気持ちを聞くでもなく、それ以上何をするでもなく、「あまり気負わないでいい」と言い残して部屋を出て行った。そして昨日、"苦情は受け付けない"と言っていたリリーに、どういう説明をしたらトニーがああなってしまったのか、聞かなければ気が済まなくなったのだ。
床をズカズカ踏み鳴らしていると、既に朝食を終えたリリーを発見した。
「リリー、ちょっと顔貸しなさいよ」
「ちょっとサヤ、目が据わってるわよ…。く、苦情は受け付けないって言ったじゃない」
「苦情じゃなくて、トニーにどんな説明の仕方をしたのか、聞きたいだけよ」
及び腰の彼女を壁際に追い詰め、両腕で挟むように手をつき、逃げられないようにした。
「や、やあね。こういう追い詰められ方は、ダントールさんにして欲しかったわ。女同士じゃちっともドキドキしない」
「どんな説明を、したの?」
話を逸らそうとする彼女に、私はもう一度ゆっくりはっきり聞いた。
「…どんなって、説明自体はサヤが私にしたのと同じような感じに話したのよ。そこに姉として、2言付け加えただけ」
「2言?何よ。」
「ええと、"あなたのアピール、全然届いてないわよ。私はまだ頑張りたいから、あなたも頑張りなさい。"って言ったのよ」
だからトニーはあんなに"頑張る"と言っていたのか…。リリーに任せた私が馬鹿だった。ちゃっかり純粋な弟を煽ってやがる。
どっと疲れが出て、壁についていた手を離し、座り込んだ。
「どうしたのよ。もしかしてあの子、暴走しちゃった?」
「ちょっとね…。僕頑張るって言ってたわ」
全くもって侮れない同志を持ったものだ。
「……、怒ってる?」
「いいえ、ちょっと疲れただけ。トニーが奇特にも私を好きだったのなら、遅かれ早かれ、彼の気持ちとは向き合わなきゃいけないし、今結論は出さないで欲しいって言われたから、むしろ早めに考える時間をもらえて助かったかもね」
「良かった…。後でヤバイかな?って思ったんだけど。フフフッ」
ホッとして笑い出すリリーの臑を、私は「調子に乗るなっ!」と小突き、痛がる彼女を置いて朝食を摂りに行った。