君の心、雨夜の月(11)
「バリオス殿?」
いつの間にか目の前から窓辺に移動したバリオスへ、フォンスは遠慮がちに声をかけた。
「この窓の下は、軍の宿舎へ続く道なのです。私は寂しい時、よくここから覗いて、クレスト君が通るのを探していました。彼は私の気持ちが分かるのか、わざわざここを通っては、声をかけてくれました。消える前の夕刻も同じように……彼は自分の気持ちを決して明かしません。面倒臭いとぼやきはしても、弱音は吐かない。なのに私の気持ちは読み取って気遣います。当時は歯痒かったのですが、今になって考えると、それが彼の性格であり、彼が明かしたくないと思うのであれば、そっとしておこうと、そう思うのです。だから、もう詮索は止しましょう?」
ずっと窓の外を見ながら言うバリオスを見て、フォンスはたった1つ預かった伝言を思い出した。
「バリオス殿、クレストさんから伝えておけと言われたことがあります」
「何でしょう?」
「あの……」
フォンスは振り返った無邪気な表情のバリオスに一瞬口篭ったが、意を決した。
「"俺のことは……忘れろ"、と……」
バリオスは目を瞬かせ、首を傾げて少しの間思案したが、やがて寂しそうに微笑んだ。
「了解しました」
「忘れる……んですか?」
もっと嫌がるかと思ったフォンスは驚いた。
「ええ、クレスト君がそう言ったのでしょう?」
「言われて、素直に忘れられるんですか!?」
「フォンス落ち着け!」
興奮して立ち上がりそうになったフォンスを、横にいたラビートが止めた。
「忘れます!」
ここでフォンスは初めてバリオスの荒げた声を聞いた。
「忘れますよ! クレスト君が言ったのであれば、それが一番私に取って良い選択のはずなのです! いつだってそうだったんですから!」
普段大声を出し慣れていないバリオスは、時々声をひっくり返しながらも言い切った。そしてフラフラとその場に座り込んでしまった。
慌ててフォンスとラビートが駆け付ける。
「大丈夫ですか?」
フォンスが言うと、少し唇を白くしたバリオスは、大きく深呼吸をして頷いた。
「……今日はもうお引取り頂けますか? 私はこれから自分に忘却の術をかけなければならないのです」
「そんな術が?」
「クレスト君に関することを、脳が記憶から引っ張り出すのを拒否するようになる術です。記憶の辻褄合わせまでは出来ませんから、今後私の記憶に曖昧な箇所があっても、決してクレスト君の話をしないでください。無理矢理押さえつけた記憶によって脳が混乱し、廃人となってしまうかもしれませんから」
「そこまでして……?」
バリオスは、クレストに言われた通りにする為、かなり強硬な手段を選んだのだ。その頑なな決意にフォンスとラビートは、そんな無茶をするなとは言えなかった。
「そうでもしないと、忘れられないでしょう?」
そう言ったバリオスは、泣きそうな顔で笑っていた。
バリオスの研究室を出たフォンスとラビートは、何だかもやもやした気持ちだった。2人はフォンスの部屋で一頻り唸った。
「なぁ、エミューンの事件の首謀者がクレストのアニキなら、ロズアーク司令官は何故アメリスタへ行ったんだ?」
切り出したのはラビートだった。
「分からない。オリトの話だと、エミューンはアメリスタとは関わっていなかった。ロズアーク司令官は単独で、誰にも言わずに行ったんだ。だからコートル隊長はそこを怪しんだ」
「だが事件の後、自らの無実を証明する為に、アメリスタへ書簡は送ったが、返信もなかったし、引退後にアメリスタへ行くことも無かったよな」
甥を失い、引退に追い込まれたロズアークは、自宅に篭りきり、一度も外へ出ようとはしなかった。そして体調を崩し、フォンスが昇格する1ヶ月前に病死した。死ぬ間際まで「違う……違うんだエミューン……」と呟いていた、という噂が真しやかに囁かれた。
「まさか、本当にアメリスタに不穏な動きがあるから、偵察しに行ったとかじゃないだろうな?」
ラビートが苦笑しながら言うと、フォンスも少し笑った。
「でも結局証拠も何も得られず帰ってきたのだろう?」
「じゃあ逆に司令官が下手な疑いをかけたから、アメリスタが怒ってアニキを連れ戻した、とか……」
「有り得るかもしれない。クレストさんに接触して帰れと指示したのは、アメリスタ兵だったそうだからな」
「アニキ、優秀だったしなあ」
これ以上は考えても不毛だと、そこで2人は事件の検証をやめた。もうクレストの話をバリオスの耳に入れてはいけないのだから、と。
「そういやフォンス、あと少しで帰郷できるんだってな?」
「ああ、クレストさんは、"その時はもうすぐ来る"と言っていたが、本当にそうなった」
「もうすぐの割には長いな。言ってから実際帰郷できるまでに1年かかってるぞ」
「いや、12年待った俺には"もうすぐ"だ」
ロズアークにより、フォンスの帰郷が大幅に遅れたことを重く見たコートルは今、帰郷許可の手続き体系自体を変えるよう呼びかけている最中である。帰郷したい兵士がいる隊の隊長が、直接判断して許可を出せるようにするのが望ましいということだ。残念ながらすぐに変えるわけにはいかず、フォンスの帰郷許可は、不在の第3,4隊司令官に代わり、司令官長が出すことになるのだが。
「風邪薬をたくさん、土産に買って帰ろうかな……」
フォンスが呟くと、ラビートが思いついたように手を打った。
「それならミミズの黒焼きが利くぞ。いい店知ってんだ」
「……遠慮しておく」