君の心、雨夜の月(9)
2人から少し離れた位置にいるフォンスが気配に気付いた時、既にそれは動き出していた。
シュッ……と掠れるような音と共に闇から飛び出したそれは、フォンスの横を疾風のように駆け抜け、オリトを突き飛ばし、エミューンに襲い掛かった。
「……クレストさん?」
一瞬の唖然から解かれたフォンスは、それの正体を見て心臓が止まりそうになった。いつも目標として追っていた、狼の背中がそこにあったのだ。
クレストは、左腕でエミューンの首を固く絞め上げていた。
「俺が田舎兵と接触した時、お前が張ってたのに気付かなかったとでも思っていたか?」
「あ……ぐ……」
もがくエミューンを更にクレストは締め付ける。
「その時点でオリトの言う"たった一つの方法"を、俺が考え付いたのさ。いつも不満そうにしているオリトにその方法を持ちかけたらすぐに乗ってくれたぜ。お前、嫌われてんなぁ。悪いなオリト、良いとこ掻っ攫っちまって。だがな、完全犯罪は後始末が肝心だ。どたばた切り合って血を流すより、こうした方が早い」
クレストは静かにそう言うと、左腕でエミューンの首を絞めたまま、右手をその後頭部に当て、力を入れた。そして耳障りな骨の音が響き、エミューンはその場に崩れ落ちた。
「一体……これは……?」
戸惑うフォンスを尻目に、クレストは地面に少し落ちたエミューンの血を、足で蹴って土に馴染ませた。
「時間が無い。後でオリトに聞け。とりあえずお前は今日、ここへは来なかった、ということだ」
「クレストさん! 本当に……本当にこのまま行ってしまうんですか?」
エミューンの遺体を担ぎ上げたクレストは、声を震わせ訴えるフォンスを見た。
「ああ、1つだけ。バリオスには、俺のことは忘れろと言っておいてくれ」
「そう言われて忘れるわけないでしょう!?」
「いいか、ダントール。バリオスに"忘れろ"と言え。分かったな」
「嫌だ! 納得できない! 何故? 何故俺から離れて行くんだ!?」
一度は引っ込めた感情も、堰を切って溢れ出したら止まらない。
クレストはそんな駄々っ子のようになってしまったフォンスに対して、初めて優しく微笑んだ。
「んな別れ際に食い下がる女みてぇな……ってこんな台詞、前にも言ったかな? ま、いいさ。なぁ、ダントール、今日"家族に会いたいよな?"って俺が聞いたら、お前は"そうだ"って言ったよな」
「……はい」
「俺も、俺の家族に会いたいさ」
「え?」
その時、ポツリポツリと雨が降りだした。とうとう雨期が始まったのだ。
「じゃあな、ダントール」
クレストはエミューンを担いだまま、再び闇へと去った。
まだ納得しきれないフォンスは、そのままクレストが見えなくなっても動けずにいた。すると少ししてから、ランプの小さな灯が闇の中に浮かんだ。それも食い入るように見つめていたが、やがて小さな光も強まりだした雨に霞み、空しく消えてしまった。
アメリスタ兵と会った時、クレストはエミューンとオリトの尾行に気付いていた。エミューンの考えそうな悪巧みも容易に想像出来ていた。そしてそれを利用したあることを思い付いたのだ。後日、オリトだけをこっそり呼び出し、共犯を持ちかける。それは"エミューンがクレストを脅し、無理矢理アメリスタへ連れて行ったことにする"というものだった。エミューンはフォンスを殺すつもりが、逆に口封じとして殺され、全ての罪を被って消える羽目になってしまったのだ。
問題は黙っていないであろうロズアーク司令官なのだが、オリトはエミューンからロズアークの最近の行動を聞いていた。コートルがその行動に対してあまり良い印象を持っていないことも。頭の良いコートルは、エミューンがアメリスタへ行ったこととロズアークの行動を、必ず結びつけられるはず、とクレストとオリトは考えた。
これが帰り道にフォンスがオリトに聞いた、クレストの完全犯罪である。
しかしオリトも、何故クレストがアメリスタ兵の指示に従い、慌てて脱走したのかまでは知らなかった。作戦の首謀者がクレストだったという事をフォンスに教えなかったのは、クレストがそうしろと言ったかららしい。言えばフォンスの性格からして、エミューンを騙せる程の囮にならないと。
雨の中をオリトと歩きながら、フォンスは空を仰いだ。
「……ダントール、お前は馬鹿なのか? 目に雨が入るだろ。月も何も見えやしない空なんか見上げてよ」
「何も見えない空が、クレストさんの心みたいだと思ってな」
「詩人気取りか? 気色の悪い」
「何とでも言え。今となっては、あの人が何を考えてたかなんて、誰にも分からない。想像するしかないんだ」
フォンスに倣い、オリトも雨空を見上げ、呟いた。
「人の心なんて、雨夜の月なんだよ」
「お前も詩人気取りじゃないか、オリト」
クレストがわけわかんないまま去っているので、まだもう少し続きますよ~