君の心、雨夜の月(7)
その日は早く闇が降りた。乾燥地帯のネスルズでは珍しく分厚い雲が空を覆っている。いつもなら地平線ぎりぎりまで眩しく光る夕日も、雲に隠れて見えなかった。
雨が来る。
フォンスは僅かに湿った風を感じて思った。
ネスルズには短いながらも雨期がある。今年は少々早いようだ。今日は満月のはずなのに月明かりは皆無で、空は重く暗い。
これから起こるであろう事件の先行きを表しているようで、フォンスは苦笑するしか無かった。
「独りで笑って、気色の悪い奴だな」
不意に声をかけられたフォンスが振り返ると、そこには小さな荷物を持ったクレストが立っていた。
「驚いてんのか? 最近この手の悪戯は通用しなくなったと思ってたんだがな」
「……そろそろ雨期かと考えていたもので……」
さりげない会話をしながらも、フォンスの心臓は速く鳴り出した。
クレストは普段、外出の時は荷物を持ち歩かない。手ぶらが好きで、途中必要なものがあれば、その都度買えば良いという主義なのだ。そんな彼があえて荷物を持っているということは、買えない場所まで行くということで、それは街灯も店もない、アメリスタへ続く街道を表していた。
「お出かけですか?」
フォンスが努めて平常を装い尋ねると、クレストは肩をすくめた。
「ちょっとな。いつもみたいに目を瞑っといてくれ」
軽くウインクするところまで変わらない。
クレストはフォンスが夜に門番をしている時、よくこうやって王宮を抜け、街で逢瀬を楽しんでいた。
黙って出ていく気なのか。荷物を持っている不自然さに気づかないと思っているのか。
フォンスは苛立つ自分を必死で抑えた。
「前みたいに朝まで遊ぶのは勘弁してくださいよ。誤魔化すのに苦労します」
「はは、そんなこともあったなぁ」
クレストは少し笑って、フォンスの開けた門の隙間をくぐった。
「なぁ、やっぱり今日はお前も付き合えよ」
いつもはそのまま真っ直ぐ街へ向かうというのに、今日のクレストは一旦立ち止まり、振り返った。
「俺も?」
「ああ、こんな退屈な門番、サボってもバレやしないって」
フォンスは言われなくても跡を追うつもりだったが、向こうから誘ってきたことに拍子抜けした。
オリトの言っていた作戦に支障はない。とにかくフォンスは騙された振りをして、ネスルズの外れまで行けば良いのだ。オリトが自由になる為の完全な囮でしかないが、こうやってクレストから真実を聞き出すチャンスをくれた彼に、フォンスは感謝していた。
街灯だけが頼りの道を2人は進んだ。ただ方向は店の建ち並ぶ方ではない。だがクレストが自ら目的地を話す素振りはなかった。
「どこへ向かっているんですか?」
フォンスは知らない振りをして聞いた。
「さあ、俺はどこに向かってんだろうな……」
「クレストさん?」
「なーんてな」
クレストの表情が切なく歪んだのはほんの一瞬だけで、すぐいつもの飄々としたそれに戻った。
「クレストさん!」
もうネスルズの出口はすぐそこに見えている。フォンスは堪えかねて強く呼び止めた。
「……ダントール、このままエンダストリア軍にいたとして、お前はいつ帰れるんだろうな」
立ち止まって背中を向けたまま、クレストは静かに言った。
「それは……」
「今なら、俺が連れ出してやれる」
そこでようやくクレストが振り返った。街灯に淡く照らされたその顔は、"無"だった。否、フォンスにはそれが、無に見せようと表情を隠しているように感じられた。
「一緒に出ないか? アメリスタの関所さえ抜けられれば、スカル側へ行くのは簡単だ。そこまでは俺がアメリスタ兵と話を付けて、何とかする」
「何故、アメリスタへ戻るんですか?」
肝心なところを全く言わないクレストに、フォンスは苛立ちを通り越して悲しくなった。
「俺を連れ出してくれるという話の前に、何故今戻るんですか? 何故帰郷許可が下りるのを待たず、こんな無理矢理脱走兵のようなことを?」
フォンスは責め立てるように聞いた。
"脱走"。そんなものはいつまでも昇格できないフォンスの頭の中を、今まで何度も過ってきた。だがそれを行動に移すことは無かった。
「クレストさんが脱走したら、コートル隊長は責任を取らされる。それをあなたは何とも思わないと?」
フォンスの声にだんだんと熱が込もっていく。普段からいい加減な態度のクレストだったが、いつだって最後の尻拭いは自分で行っていた。後先考えず無謀に走る男ではなかったのだ。
「へぇ、ちゃんと感情が表に出せるじゃないか」
「茶化さないでください!」
「怒るなよ。お前、ここ何年か人生悟った爺みたいに淡々と現況を受け入れてたからな。もう感情なんか無くしたのかと思っていた。基本、お前は何を考えているのか分からん」
「クレストさんにそれを言われたくありませんね。あなたは何を考えて、こんな行動を? バリオス殿が言っていました。あなたの思考は読めないと」
バリオスの名前を出した時、クレストは一瞬荷物を見た。