金の狐と黒い熊(19)
重い足取りで歩いていたフォンスは顔を上げて、軍の棟を見つめた。王宮から逃げ出したい気分だったが、帰るためにはそうも言っていられない。喉の奥まで込み上げてきた溜め息を飲み込むと、意を決して歩みを早めた。
入り口に足を踏み入れたフォンスは異変に気付いた。奥の方がやけにざわついている。はっきりとは聞き取れないが、怒声も混じっていた。
不意に慌てた様子で通りかかった少年が、フォンスを見て「あ……」と小さく呟き、迷惑げに顔を歪めて駆け寄ってきた。確か試験の合格者の一人だと、フォンスには見覚えがあった。
「おい、どうにかしろよ!」
「何がだ?」
「お前と同じ部屋のあいつだよ! でかい奴! 検査は終わったはずだってのに、戻ってきて、中の先輩兵士達をいきなり殴り飛ばしたんだ!」
「な、何だって!?」
フォンスは耳を疑った。ディクシャールはあの3人に何もされていないはずで、殴りたいのはフォンス自身の方だ。
「よく分からないけどよ、"ダントールに何をした!?"って白目向いてる先輩を更に殴り続けて、止めに入った上級兵士の先輩までぶっ飛ばしやがった……今、隊長達に報せに行くところだけど、あの様子じゃ来るまでに殺しかねないぞ」
少年の焦った様子に事の重大さを知ったフォンスは、一目散に検査を受けた部屋へと走った。
何故だ? 何故彼が怒る? フォンスの頭は疑問符で埋め尽くされていた。フォンスは屈辱を公にする気も、仕返しをする気も無かった。ただ思わず出してしまった弱味を、気にせず流してくれれば良かったのだ。
ディクシャールは生粋のネスルズ住民だろう。典型的な南方の色をしている。フォンスにしてみれば、そんな彼が全く嫌悪感を含まない目で自分を見、話し掛けてきただけで十分だった。自分の為に問題を起こして欲しくは無かった。
検査の部屋に近づくと、廊下は騒然としていた。怒声の主も分かる。ディクシャールだ。
野次馬をかき分け部屋に入ったフォンスが見たのは、背中に乗り掛かった制止の上級兵士をもろともせず、ぐったりと意識を失った例の下級兵士の胸ぐらを掴んで揺さぶり、大声で罵るディクシャールだった。他の2人も床に突っ伏している。
「やめろ! 殺す気か!?」
フォンスが叫ぶと、ディクシャールはチラリと視線を寄越したが、止めようとはしなかった。
「やめろって! とにかく手を離せ!」
「うるせぇ! お前は下がってろ!」
ディクシャールの背中から振り落とされそうになっている上級兵士にフォンスも加勢したが、まだ興奮した熊の怪力には敵わない。
程なくして、当事者2人が希望する隊の隊長が駆け付けた。コートルとマグワイルだ。
「何をしておるのだ!」
コートルの声にフォンスは振り返った。そして見えたのは、物凄い勢いで向かってくるマグワイル。思わぬ事態に混乱していたフォンスは、逆立った白髭と鬼の形相を見て、試験で緊張のあまりこの白熊と対戦する羽目になった奴は、こんな恐怖を味わっていたのか、と関係ないことを漠然と思っていた。
「この糞餓鬼がぁあ!!」
口から爆音を発したマグワイルは、ディクシャールの襟首と腕を掴むと、力任せに放り投げた。
ディクシャール、フォンス、制止していて上級兵士、そして気絶していた下級兵士まで一気に宙を舞い、床に叩きつけられた。
「ああぁあ! 見境無く投げ飛ばさないでくれマグワイル殿!」
コートルの焦った叫び声が聞こえたが、フォンスは構わず先に、受け身を取り損ねて起き上がれない仰向けのディクシャールの上へ飛び乗った。
「何やってんだよ!?」
フォンスの悲鳴に近い問いに、ディクシャールは苦しそうに口を開いた。
「胸ボタンの千切れたお前が、思い詰めた面して走り去ったから、あいつらが何かしたんだって思ったんだよ」
ディクシャールは背中を打ち付けたのか、もがきながら起き上がろうとしたが、フォンスがそれを許さず、両肩を掴んで床に再び押し付けた。
「だからって何でお前が俺の為に暴れるんだ!?」
「お前は後がないんだろ!? だから泣き寝入りすんだろ!? 俺は後があるからやったんだ!」
「違う! そんなこと聞いてんじゃない! 何で俺の為にネスルズのお前がそこまでするんだ! 俺は……俺はっ、ここでは厄介者でしかないのにっ……!」
フォンスが思わず自分で自分を貶めるようなことを口走ってしまい、手の力を抜くと、ディクシャールはそんな彼の横っ面を殴った。体勢が悪い為に、フォンスが吹っ飛ばされることは無かったが。
「だから何だ! あ゛あ゛!? 俺はそいうのが大嫌いだ! どいつもこいつも、お前を見るとヒソヒソ陰口叩いて面倒くせぇ……お前もお前だ! 僻んで自分から壁作ってんじゃねぇよ! それじゃあ除け者にしてくれって言ってるのと同じだ!」
それを聞いた瞬間、フォンスは殴られた以上の衝撃を受けた。ディクシャールには頬を殴られたのに、頭を上からガツンとやられた気分だ。
フォンスの視界が徐々に歪んだ。そしてさっき泣こうとして出なかった涙が、今になって流れていると気付いた。
「何なんだよ……何でそんなこと言えるんだよ……何で堂々と言い切れるんだよ……何でっ……何でだよっ……!」
掠れた声で言いながら、力無く何度もディクシャールの胸を殴るフォンスを、コートルが引き剥がした。その間際に、少し冷静さを取り戻したディクシャールが、不貞腐れた声で言った。
「俺の馬鹿力なんて、軍でしか使い道がねぇ……親にも言われたし、悔しいが自分でもそう思う。だから強くなって見返す為にも、人間に仕立てた丸太じゃ埒が空かねぇ。強い練習相手のダチが欲しいんだ。それが、たまたまお前だっただけだ」
するとコートルは困った顔で髭を擦った。
「ディクシャール、お前が殴り飛ばした下級兵士も、丸太では無く人間だぞ。力を自覚しているなら、少しは加減をせねば……」
「ダントールも人間だろ。何でこいつだけ嫌な目に遭うんだ。そういうのが許せねぇって言ってるんだ」
「そうだな……その通りだ。しかし、目先の報復でダントールが救われるかと言えば、必ずしもそうとは限らん。今のお前には納得できんだろうが……」
フォンスをコートルが、ディクシャールをマグワイルが回収し、野次馬によって3人の下級兵士が治療室へ運ばれ、ようやく事件が収まった。
ディクシャールはいじめっ子に見えて、そうではなかったんです。でもいじめっ子と常に戦うような正義感もありません。たまたま友達になろうとしていたフォンスが悲しい思いを抱え込むのが嫌だっただけで…。問題を起こしてフォンスまで処分を食らうとどうなるか、まで考えられなかったのは、若さ故でしょう。彼の頭は、陰口言う奴→面倒くさいから無視、強い同年代→友達になりたい、気に入らない奴→殴る、うじうじ女々しい友達→殴る、友達をいじめる奴→再起不能まで殴る、という感じで、非常にシンプルにできています。