金の狐と黒い熊(5)
「お前は母さん似だな」
まだ首のすわり切っていない赤ん坊の名前はロブリーだ。その口を突付きながらフォンスは言った。物言わぬ小さな生き物を見ていると、つい今しがたアリーヤという中年の女に騒がれた苛立ちが薄れていく。彼はそんな不思議な気持ちに包まれた。
"まあぁぁあっ! あなたお坊ちゃまに一体何をしているの!? オムツ替え? 一体誰の許可で……ラ、ライラって、奥様を呼び捨てたわね! なんと無礼な!! え? 私はこの館とお坊ちゃまを任せられているアリーヤよ! あなたのこと、本当かどうか奥様に確認するわ! あ、ちょっと! これ以上お坊ちゃまに触らないでちょうだい!"
よくもまあ、あれ程の金切り声で叫び続けていられるものだ、とフォンスはアリーヤの怒涛のようなセリフを思い出し、呆れながらクスクスと笑った。
結局あれからアリーヤはフォンスの手から半ば乱暴にロブリーを取り上げ、ライラの部屋へ事の次第を確認しに行った。程なくして、ロブリーを抱いたライラと、怒りを堪えるように顔を真っ赤にして憮然とそっぽを向いたアリーヤが表れた。そしてライラは「ごめんなさいね、アリーヤに説明してなかったわ。改めてこの子をお願いするわね」と言って、フォンスにロブリーを渡したのだった。フォンスは館の者をそこまで怒らせてまで、自分に子守を頼むライラの考えが、正直理解できなかったが、他にすることもないので首を傾げながらも了承した。
ライラの目尻はいつも下がっている。それがのんびりとした口調と相まって、相手を和ませている。フォンスが彼女に対して感じた印象だ。ロブリーはそんな目元が良く似ている。
「お前ものんびりした性格になるのかなぁ? あのアリーヤっていうおばさんに育てられて、怒りっぽい男に育つなよ」
そう話しかけたフォンスに反応するかのように、ロブリーは口元にある彼の指に吸い付いた。
しばらくフォンスはロブリーを寝かしつけたり、オムツを替えたりと、世話をした。その間2度ほどライラがやってきて、ミルクを飲ませた。
「ミルクばかりなのか?」
母乳を飲ませていないことを不思議に思ったフォンスが尋ねた。
「ええ、元々私の身体が弱いのよ。だから母乳は出なかったの。無事に産まれただけでも奇跡だってお医者様から言われたわ。だからアリーヤがいるけど、せめてミルクだけは自分であげたいの。皆におかしいって言われるけど……」
「普通貴族は子育てしないのか?」
「私のお友達は例え母乳が出ても、ほとんど乳母任せよ。たまにお世話の話をすると、不思議そうにされるわ」
「おかしくなんかない」という言葉をフォンスは飲み込んだ。彼にとっては、自ら産んだ子供の世話をしない事の方がおかしかったが、貴族の常識に首を突っ込む気はなかったからだ。それにライラも貴族で、ミルク以外はあまり感知しない。奇跡と言われた出産で、他よりほんの少し、母性が貴族の常識より勝っただけなのだろう。
隣近所も皆家族のように暮らす少数民族だったフォンスは、改めて別世界に来たのだと感じた。
日が暮れて、ロブリーと一緒にうたた寝をしていたフォンスは、不意にドアがノックされたことに気付いて起き上がった。
「儂だ。入るぞ」
コートルの声がした。
「今ロブリーが寝ている」
フォンスが小声でそう言うと、コートルは慎重にドアを開けて入ってきた。その後ろには無表情のアリーヤの姿。また何か言われるのではないかと、フォンスは眉を顰めた。
「ああ、ロブリーのことは儂からもアリーヤに許可を出した。ただお前と少々話があってな。その間はアリーヤに任せたい。部屋を変わろう。来なさい」
コートルは明らかに不機嫌を崩さないアリーヤと、フォンスの表情から察して、足早に部屋を出た。
移った先の部屋は、コートルの自室兼書斎だった。何か帰る手立てを考え付いたのだろうかと、フォンスは少しだけ期待に胸を膨らませた。
「今日王宮で、お前について旧知の友人と話をしたんだ。彼の祖父は昔、スカル人がネスルズから引き上げる時の手続きを担当していてな。スカルとネスルズの事情にも詳しい。彼なら何とかできるかと思ったんだが……」
コートルは髭を撫でつけながら口ごもった。
「どう……だった?」
「うむ……やはり無条件に戸籍を出すのは難しいらしい。婚姻か、就労……お前の年なら就労だろうな。そういった理由があって初めて出せるものなのだ。そしてその後も監査員が就労の事実を調査しに来る。帰郷できるまでに数ヶ月から数年かかるやもしれん」
言い終わったコートルは、居たたまれない様子で顔を伏せた。
フォンスは正直気落ちした。風邪をこじらせた母親のために、一刻も早く帰りたかった。だが今朝のように絶望から来る涙は浮かんでこなかった。それは時間がかかっても、確実に戸籍を取って帰る方法があると分かったからだ。
「……就労って、俺を雇うような人間なんてネスルズには……」
「そうなのだ。儂も友人も、紹介先は限られている。帰り道もずっと考えていたのだがな、お前自身が選んだ方が良いかもしれん」
「選ぶ?」
コートルは話しながらも、顔を上げない。やはり今朝自分が泣いてしまったことで、厄介だと思われているのかもしれないと、フォンスは思った。
「お前は……普通の真面目な少年だ。儂はそう思っておる。だが……庶民はその……アリーヤやモルドランを見れば分かるように……アレなのだ……」
「嫌いだし信用していない、だろ? はっきり言ってくれていい」
気を使って言葉を選ぶがために口ごもるコートルに、フォンスは少し苛立った。
「う……む……。そういうことだ。どこへ行っても、ネスルズの庶民や下級貴族はあのような態度が多いだろう。それを踏まえた上で、お前に問う。時間はかかるが、就労で戸籍を取る気はあるか?」
顔を伏せたままコートルは、目線だけを上げてフォンスを見た。
「今のところそれが確実な方法なら、働く」
それは帰ることを諦めるか否かの選択肢。2択のようだが、諦めたくないフォンスにとっては1択だ。彼は淀みなく答えた。
「そうか……そうだな。お前は諦めるには若過ぎる。聞くまでもなかったか」
「ああ」
「では肝心の就労先なのだが、友人の口利きで政務の手伝いをするか、モルドランの下で屋敷の小間使いをするか、庶民とともに軍の入隊試験を受けるか」
「軍?」
最初の2つの選択肢でうんざりしたフォンスだったが、3つ目の"軍"という言葉に食いついた。
「ああ、儂は軍の人間なのだが、入隊試験は剣の腕だ。だから友人のように口利きはできん。それに大勢の庶民と関わることになる故に、相当腕に自信が無ければ入隊できても潰されるぞ」
コートルは心配そうに付け足したが、この瞬間フォンスの中で答えは決まっていた。