金の狐と黒い熊(3)
しばらくモルドランの態度に憤慨し、朝食に手をつけなかったフォンスだったが、空腹には勝てず、顔をしかめつつもパンを口に入れた。
全ての望みが絶たれたわけではない。"何か手を考えてみる"と、コートルという男が言っていた。あの飄々とした口髭の男がどれほどの地位なのかは知らないが、まだここで飢え死にするわけにはいかない。
手にしたパンを睨み付け、ゆっくり咀嚼しながら、フォンスはそんなことを考えていた。
やがて日が高く上り、皿も空になったが、フォンスのことがよほど気に入らないのか、モルドランが食器を下げに来る様子は一向になかった。だがそれはそれで構わないとフォンスは思った。気に入らないのは彼にとっても同じだったからだ。
ふと窓の外へ目をやったフォンスは、庭をふらりと歩く女の姿を見た。その腕には赤ん坊がいる。散歩でもしているのだろう、彼女は強い日差しを避けるように建物の影を渡り歩いていた。
その時、彼女が抱いていた赤ん坊がぐずりぐずりと泣き出した。
「あらあら、どうしたのかしら」
育児に慣れていないのか、女は困り顔で首を傾げた。
「オムツはさっき替えたばかりよ?」
よしよしと赤ん坊をあやしながら、彼女は我が子に語りかける。
「まだお腹が空く時間でもないし……ああ、こんな時に限ってアリーヤは買い物に行っちゃったわ」
「……眠いんだろう」
見かねたフォンスは彼女の独り言に口を挟んだ。
警戒を含んだ青い目と、驚きに見開かれた茶色の目、視線が絡み合う。だがフォンスの予想に反し女の眼差しは無防備で、相手がスカル人と見てもモルドランのような侮蔑の色が混じることはなかった。
「……この子の気持ちが分かるの?」
女は不思議そうに言葉を返した。
「少しなら想像がつく」
フォンスは警戒を緩め、だが少々ぶっきらぼうに言って、近づいて来る彼女に両腕を差し出した。
赤ん坊を受け取ったフォンスは器用に抱え直すと、あっという間に寝かし付けてしまった。
「まあ、すぐ寝ちゃったわ」
「外は日影でも暑いから、疲れて眠くなったんだろう。これぐらいの子の散歩は短い方がいい」
「すごいわね。アリーヤより詳しいんじゃないかしら」
女は小さく手を叩きながらフォンスを称賛した。
「アリーヤ?」
「うちのお女中さんよ。この子の世話の手伝いもしてくれるの。あなた、赤ちゃんに慣れてるの?」
「近所から子守りを頼まれることがよくあったから……その……」
言いながらフォンスは、目の前の相手がエンダストリア人だということを改めて思い出し、途端に恥ずかしくなって口ごもった。
何故自分はエンダストリア人と普通に会話しているのだろう、その前にそもそも、この女はスカル人を見て何も思わないのだろうか。
頭の中が疑問符だらけのフォンスを気にも止めず、女は「部屋まで回るから待ってて」と言い残し、小走りに去って行った。
程なくして部屋にやってきた女は、ライラと名乗った。この館の主、コートルの妻であると。そして慣れている者が抱いているからよく眠っていると言って、赤ん坊をベッドに腰掛けるフォンスに抱かせたまま、彼女は手近な椅子に座った。
あまりにも警戒心のないライラの様子に、フォンスは少々面食らった。
「……その、何で平気なんだ?」
「平気?」
堪りかねてフォンスは問うた。が、言葉が端的過ぎて、ライラは小首を傾げた。
「俺が……スカルの人間だってこと」
「あらどうして? 私の生家には、お祖父様や曾お祖父様が買ったスカルの品がたくさんあるのよ。私の部屋には、嫁ぐ時に持ってきた熊の毛皮の敷物があるわ。一度スカルの方とお話してみたかったの。ねぇ、あなたは熊を見たことがある? 立つと壁のように大きいって本当? どうやって狩るの?」
今度は逆に質問攻めに遭い、フォンスはますます戸惑った。だがライラの興奮気味に輝く瞳は純粋な好奇心に満ちていて、警戒している方が馬鹿らしいと思えてくるものだった。
「……スカルの熊は大型だが、そこまで北へ行かなくても、小さめならアメリスタの森にもいる」
「でもアメリスタの熊は黒いって聞いたわ。私の部屋にある敷物は白いの。とても可愛くて気に入ってるわ」
「人が狩り以外では入らないような北端の熊は白い。だけど……あれが可愛い……か?」
「ええ! 白いモコモコの塊なんでしょう? お友達のトリード夫人に敷物をお見せしたら、きっと可愛いに決まっているとおっしゃってたわ」
「……敷物は洗ってあるから……。生きているものは黄ばんだボサボサの塊だ。しかもでかくて凶暴だし……アメリスタにいる小型の方がよっぽど可愛げがある」
ライラのペースに飲み込まれ、フォンスは自分がいつの間にか饒舌になっていると感じた。そしてネスルズの貴族の一部は昔、スカルと交易があり、関係はそう悪いものではなかったと族長が話していたのを思い出した。
赤ん坊がフォンスの腕の中でぐっすり眠っているのを良い事に、ライラのお喋りは依然として続く。のんびりとした性格のようだが、未知の世界への好奇心は旺盛らしい。そんな彼女の質問に答えながら、フォンスはスカルを出発してから張り詰めていた気がだんだん緩んでいくのを、くすぐったく、しかし悪い気分ではないと思った。