金の狐と黒い熊(2)
「……さて、そろそろお前の名前を教えてくれんか?」
一頻り笑ったコートルは、わずかに乱れた髭先を整えながら言った。
「フォンス・ダントール……」
「ふむ、フォンスか。いくつだ?」
「この間15になった」
「15……やはりまだ子供じゃないか。なぜ一人で行き倒れていた? ネスルズからスカル人を見かけなくなって久しいというのに」
コートルが尋ねると、少年はやや俯いて下唇を噛んだ。そしてゆっくり一度瞬きをすると、口元の力を緩めて静かにため息をついた。
「……母が風邪をこじらせて……薬の在庫が丁度切れてて……。でもスカルには薬師なんていない。まじない婆しか……」
「それでネスルズまで薬を買いに? 遠かっただろう」
コートルはフォンスの噛み締めるような言葉の後を続けた。
「お前がネスルズまで来た経緯は分かった。だが途中で水は買わなかったのか? ここでは近所に買い物へ行くのでさえ、水袋を持ち歩かねば暑さにやられるのだぞ」
するとフォンスは不貞腐れた顔をして、落としていた視線をコートルとは逆の窓側へ背けた。
「そんなこと、知らなかった。道を尋ねても皆嫌そうに逃げるだけで教えてくれないし、散々薬屋を探し歩いて見つけても、そこの親父に売るのを渋られて、やっと数日分だけ買えたと思ったら、今度は道が封鎖されてて帰れない。早く……早く薬を届けなきゃならないのに……!」
フォンスが先ほどまでとは打って変わって饒舌に怒りを吐き出したことに、コートルは少し驚きつつもその不運に同情した。
「なるほどな。実は今朝アメリスタが公国となったのだ。ほとんど一方的で、しかも急な話だったために、儂らネスルズの者も戸惑っておる。スカル人が戸籍を届け出た例は聞いたことがないから、恐らくそのせいでお前は通れなかったのだろう」
「こ……せき?」
そこでようやくフォンスはコートルと目を合わせた。その顔には疑問符が見て取れる。
「何だ、戸籍を知らんのか? お前、フォンス・ダントールという人間が、いつどこで誰の子として生まれ、どこに住んでいるのか、という情報を証明するものだ。アメリスタが公国となった以上、行き来するためにはその証明書が必要となる」
その瞬間、フォンスは勢いよく身を乗り出した。
「そ、それはどこに行けば貰えるんだ!?」
「おいおい、落ち着け。戸籍はまず生まれた時に届け出なければならん。その手続きをしていないお前に戸籍はないんだ。貰いに行っても無駄足だぞ」
「え……、じゃあ俺は、もう帰れないのか……?」
フォンスは唖然とした。それを見たコートルは、事実を述べただけだというのに、罪悪感と後悔を覚えた。もう少し言葉を選べば良かったかもしれない、と。
しばし目を泳がせ、うろたえていたフォンスだったが、やがて唇を震わせ、空のように青い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「なっ、泣くな泣くな! いや、泣きたくなるのは分かるが……女子供の涙は苦手なのだ……」
コートルは困り果てて、口髭を何度も撫で擦った。そんな彼の姿に、フォンスは唇を結び、ぐっと嗚咽を呑み込んだ。
「はあ……かわいそうだとは思うが、今はどうにも出来ん。戸籍に関しては儂の管轄外だからな。かと言って行く当てもないのに、このまま放り出すわけにもいかん。こうしてお前を拾ったのも何かの縁だ。しばらくは我が家で身体を回復させなさい。その間に何か手はないか、考えてやろう」
そう言ってコートルは、フォンスの涙から逃げるように部屋を出て行った。
ドアを閉めた瞬間、コートルの背中は、フォンスの悲痛にすすり泣く声をかすかに聞いた。
しばらくしてフォンスの気持ちが落ち着いて涙が乾き、朝日と共に小鳥の鳴き声が聞こえ出した頃、やや乱暴に部屋のドアが叩かれた。
「入るぞ」
返事を得る前に、不躾に入ってきたのは、フォンスとそう年の変わらないであろう背格好の少年だった。くるくると毛先の丸まった、やや短めの茶色い髪をした彼の手には朝食を乗せたトレイ。
「起きたんだってな、スカル人。昨日は治療院まで走らされて疲れたぜ……。今朝は今朝でいつもより早く起こされて、お前に飯を運べだとよ。まったく冗談じゃねぇ」
少年は侮蔑を込めた愚痴をこぼしながら、ベッドの脇にあるテーブルにトレイを置いた。
フォンスがどう対応したら良いものかとあぐねていると、少年は口を尖らせた。
「スカル人ってのは喋れねぇのか? ああ? 黙ってねぇで何か言えよ」
「……何か」
「お、お前……ナメてやがんのか? このスカ公が」
「フォンスだ」
「あ?」
「俺の名前。お前は? ネス公」
平然とした顔で言い返された少年は、一瞬ポカンとしていたが、すぐ怒りに歯を噛み締めた。
「何がネス公だ! スカル人のくせに!」
「お前もスカ公と言ったじゃないか。お互い様だろう。それより今名乗らなかったら、これからお前のことをネス公と呼ぶぞ」
「うっ……」
言葉に詰まった少年は、悔しそうに舌打ちをした。
「……モルドラン」
「ふうん」
「さ、さっさと食えスカ公! いくら旦那様が連れてきたっていっても、俺はお前を客人としてなんか扱ってやらねぇからな!」
モルドランは捨て台詞を吐いて、部屋を飛び出して行った。
「……やっぱり父さんが言った通りだな。俺達が何をしたっていうんだ。エンダストリアなんて、大嫌いだ……!」
静かになった部屋に取り残されたフォンスは、遣る瀬無さ故にそう一人ごちるしかなかった。
まだネスルズとスカルの確執が深かった頃のお話です。
これから先、現代では不適切な表現が出てくることもありますが、ご了承ください。