狂想散花(3)
屋敷の敷地内には、小さな森が存在する。その一番奥の一角に、頬を腫らしたキートが寝そべっていた。ここは昔から彼のお気に入りの場所だった。エンダストリアに潜入している間に、第3者の手が加わって、随分と様変わりしてしまったが。
「ルイ、帰って来たのに何も言って来ないなんて、酷いわ」
「エマヌエーラお嬢様……」
不意に声をかけられ、キートが薄目を開けると、アメリスタ公爵家の長女、エマヌエーラが覗き込んでいた。
「エマでいいって言ったのに。エンダストリアに行く前は、そう呼んでたじゃない。」
彼女は父親譲りの薄い唇を尖らせて言った。
「5年も前の話じゃないですか。あの頃はお嬢様もまだ12歳でした。そろそろご自分の立場を考えた言動をされた方が良いでしょう。しがない諜報員の昼寝場所をこんなにして…」
キートは起き上がり、呆れた顔で辺りを見回した。
最初は木の茂った中にぽっかりと空いた、ただの草むらだった。昼間は日の光、夜は月明かりがそこだけ差し込んで、厳しい訓練に疲れた幼いキートが一人でゆっくり出来る、唯一の場所だった。活発な少女だったエマヌエーラが、探検ごっこ中に偶然そこで寝転ぶキートを見つけ、一緒に昼寝をするようになったのは、今から10年も前の話だ。
「そんな言い方しないでよ。4年前に一度帰った時は、私が植えた花を見て綺麗だって言ったじゃない。あれから全然帰って来なかったけど、その間あなたがいつ帰っても良いように、毎日管理してたんだからね。」
ただの草むらは、今やこじんまりした庭園のようになっていた。キートはあの時心にもないお世辞を言ったことを後悔した。
「それはどうもありがとうございす。でもこれからは、人気のない所で男と二人きりになるのはやめた方がいい。」
「どうして?」
「あなたはもう幼い子供じゃない。周りに誤解されてとばっちりを食らうのは、お嬢様じゃなくてこの俺です。」
はっきりと言われて、エマヌエーラは悲しそうに眉をひそめる。侍女達とは違い、下手に傷付けられない分、厄介な小娘に懐かれたものだ、とキートはため息をついた。
「その頬っぺたが、とばっちり?」
エマヌエーラはひそめた眉のまま、キートの腫れた頬を指差した。
「…ああ、これは違いますよ。任務は成功したけど、向こうで大事な武器を壊されちまいましてね。ジグモンド大将に怒られただけです。そんな顔しなくても大丈夫ですよ。今回は顔だから目立つけど、昔からヘマしたら、あの人に腹や背中を殴られたり蹴られたりするのは日常のことでした。慣れてます。」
「そんな酷いこと、前から一度も聞かなかったわ。」
貴族の女相手に、仕事で殴られたなどと愚痴る軍人など、どこにいるというのだ、とキートは少し苛々しながら思った。
「軍とはそんなものですよ。同じような目に遭ってるのは俺だけじゃない。それに今回の場合、武器が特殊でしたからね。秘密の武器なのに、向こうの人間に知られちまって、おまけに壊されたから、余計に怒られたんです。殴られただけで済んで、良かった方ですよ。こんな話、女性のあなたが聞いても楽しくないでしょう?だから話しませんでした。」
「…じゃあ、楽しいお話をして。昔みたいに。エンダストリアで何か面白いことなかった?」
エマヌエーラは、こうして男と二人きりで親しく話すことが誤解を生むということを、あまり理解していないようだった。
「そういうのがとばっちりを受けると言ったのに、仕方のないお嬢様だ。今日は特別です。次からは駄目ですよ。あなたはもっと身分を理解すべきだ。」
「……」
「分かりましたか?」
「分かった……」
渋々エマヌエーラに返事をさせ、キートは今まで見てきた中で、一番変わった女の話を始めた。
「困ったお嬢様だ。」
キートは一人ごちながら、屋敷の廊下を歩いていた。
直系である彼女は、初代が異界人であることくらいは知っている。だから構わないだろうと、サヤの話をしたのだ。異界の女の突飛な言動は、お転婆なエマヌエーラにとって、面白可笑しな話になると考えたからだ。実際彼女はそれを楽しそうに聞いていた。
ところが翌日、エンダストリアに異界人がいたという話が、父親のアメリスタ公の耳に入ってしまったようで、キートは早速呼び出されてしまった。エマヌエーラが父親に反抗しているから、会話はないものだと油断していたのだ。
「ルイジエール・キートです。お呼びでしょうか、旦那様」
「待っていたよ。入りなさい」
許可を受けて中に入ると、高価な服装がやけに浮いている男と目が合った。アメリスタ公爵である。キートが彼と会ったのは、随分昔に一度きり。エマヌエーラがキートの昼寝場所に通うのがバレた時だ。今日のように呼び出され、まだ幼い娘に下卑た噂が立つと困ると注意されたのだ。
久しぶりに見た彼は、相変わらず頼りなさげな普通の男だ。貴族の飾り立てた服装が似合っていない。キートはそう思った。
「まずは長期に渡る潜入、ご苦労だった。まあ、掛けたまえ。」
「はい。」
アメリスタ公はキートに席を勧め、自らも座った。
「昨日、珍しくエマが私の部屋を訪ねてきたと思ったら、そこの肖像画を見に来たと言ったのだ。」
キートがアメリスタ公の視線を辿ると、初代アメリスタ公爵の肖像画に行き着いた。今のアメリスタ公の顔が頼りなさげに見えるのは、こののっぺりとした初代の血が混じっているからなのかもしれない、とキートは心の中で笑った。
「聞けばエンダストリアで、異界から来たと思われる女に会った時の話を、君にされたと言う。トーヤン人の凹凸を、もっと薄くしたような顔立ちだったらしいと。この話は本当かね?」
「本当です。異界の武器を壊したのもその女ですよ。」
「エンダストリアは再び召喚術を……。それで、彼女はあちらではどういう立場なのだ?アメリスタを脅かす救世主となり得ると思うか?」
聞かれたキートは、ダントールの家で殺そうとした時のサヤを思い浮かべた。発想は変わっているが、普通の女だ。
「彼女は、昨日連れて来たダントール司令官の妻です。でも電気の存在を知っているだけで、他に大した知識はないようですね。本人がそう言ってましたし、王宮も彼女には期待していないようでした。普通に生活してましたよ。2日ほど宮廷書庫に入って、魔術のことを調べてましたが、あまり理解できなかったようです。」
「成る程。ジグモンドには報告していなかったようだが?」
「任務に入っておりませんでしたので。一応消そうとはしましたが、失敗しまして…、それよりダントール司令官を連れ出す方に利用しました。……確実に消した方が良かったですか?」
キートが真顔で言うと、アメリスタ公は慌てて手を振った。
「消さなくていい!全く、君もジグモンドに似て物騒だな。」
「ではどのようにするのをお望みだったのですか?」
これで全てを報告していなかったことがジグモンドに知られ、また殴られるのだろう。キートはそう思い、投げやりに目を逸らして聞いた。
「まあまあ、私は君を責めているのではない。異界から来たその者に会ってみたいのだ。こちらへ呼び寄せる手立てを考えるために、どのような人物だったか情報が欲しいだけだ。」
「…突拍子もないことを仕出かす女です。大人しくしているような性格ではないことは確かですね。」
「ほう?では夫に会いに、ここまで来るかもしれんな。」
アメリスタ公は楽しそうに予想したが、キートはそれには答えず、肩を竦めた。
「そうだ、ダントールの様子はどうなのだ?」
「こちらに寝返ることは拒否しました。明日にでも、ジグモンド大将が処分の指示を出すでしょう」
「それはいかん。もう少し待たせよう。それから君は今日からしばらく、私の指示下に入ってもらう。異界の彼女を知っているのは君だけだからな。ジグモンドには私から伝えておく」
さっさと決められてしまったキートは、口が不快に歪むのを抑えることができなかった。自分の調子を狂わせるサヤと、また関わる羽目になるのが嫌だったのだ。
「気が進まんか?」
「いいえ、ご命令とあらば、従いますよ」
一瞬で口の歪みを消したキートを見て、アメリスタ公は愉快そうに笑った。
「ハハハ、君の仕事に対する姿勢は評価している。ジグモンドは完璧を求めるが故に厳しいがな。私は少々お喋りな人間も嫌いではない。エマがもう少し立場を自覚してくれさえすれば、君自体に何も問題はないのだから」
勝手なことを言ってくれるものだ。キートはうんざりして思った。エマヌエーラが自分と距離を置くという約束を守る可能性は低い。そう考えた彼は、しばらくあの場所へは近づかないことにした。