孝行したい時に親はいないもの(5)とエピローグ
私の背中は石の床に叩きつけられることはなく、だが少々乱暴にがっしりと抱きとめられた。
「サヤ…!サヤ…!」
すぐ後ろから聞こえるフォンスさんの声は、叫び過ぎたからか掠れていた。そして、急速に縮んで完全に消えてしまった穴の後を、私はただただぼんやり眺めていた。
最後の一歩を、お母さんに押させてしまった。何て酷い娘なのだろうか。泣きながら"笑っちゃうわ"と言われた瞬間を、私は一生忘れない。そして…
「ただいま、フォンスさん」
この人と人生を歩んで行くことを、絶対後悔しないと誓う。それが、私にできる精一杯の親孝行。
腕の中で振り返って見上げると、アメリスタで捕らわれていた時よりもっと痩せた顔があった。こけた頬はぐちゃぐちゃに濡れているが、左だけ少し腫れて、口も血が滲んでいた。
「頬っぺたどうしたんですか?」
「気合を入れるために、ラビートに殴らせた」
「ええ?」
驚いて周りを見回すと、最初にぽっちゃり大臣とコートルさんが見え、その隣で真っ青な顔で気を失っているバリオスさん。そしてその側にしゃがんだディクシャールさんと目が合った。彼は小さく鼻を鳴らすと、何も言わずにバリオスさんを担ぎ、フラフラのワイスさんや他の術師達を時々支えつつ、地下の部屋を出て行った。
「この1ヶ月、ちゃんと食べてなかったでしょ」
「…君の作ったものがいい」
「フフッ。フォンスさんってそんな子供っぽいこと言う人だったっけ?」
濡れた頬を拭って笑うと、やっと彼も少し微笑んだ。
「うぉっほん!」
咳払いをされて振り向くと、アメリスタ公とその側近達がいた。
「元の鞘に納まった…ん?何か違うか?まあいい、アヤヤとの別れは辛いだろうが、その分彼に幸せにしてもらいなさい。これはアメリスタ家の家宝にするよ」
そう言ってアメリスタ公がカチカチと懐中電灯のスイッチを入れると、側近達が「おお…」と感嘆の声を漏らした。
「それ、電池がなくなったら、太陽電池でも使えるように改造するか何かしてださい」
「そうか、もう戦をする理由がなくなったからなあ。あの技術はこちらに活かすとしようか」
彼は物珍しそうに懐中電灯を見つめる側近達をチラリと見て、さっさとそれを自分のポケットに仕舞い込んだ。
「では皆様、ここは若いお二人に任せて、我々は上に行こうではないか。サヤヤの家で少々飲み過ぎたのだ」
こっちに帰っても私をサヤヤと呼ぶのか。
アメリスタ公が出て行くと、それに皆続き、最後にぽっちゃり大臣が小さく手を振って階段を上って行った。
「サヤヤと呼ばれているのか?」
フォンスさんが不思議そうに聞いた。
「ああ、私の母親が亜弥って言うんですけど、向こうでアメリスタ公があややって呼んでて、ついでに私もさややになっちゃっただけです」
「…家族と別れてこちらに……」
お母さんのことを話すと、フォンスさんはすまなさそうに目を伏せた。
「ええ、だから絶対後悔させないで」
「分かった」
そうして降って来た唇は、涙での跡で少ししょっぱかった。きっとフォンスさんは酒臭いって思っているかもしれない。
「ちゃんと、式を挙げよう」
もう一度抱きしめて囁かれると、やっと本物の奥さんになれるのだという想いが込み上げ、幸福感に満たされた。
第二の人生が、ここから始まる。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃい、あ・な・た。早く帰って来てね?」
「ハハハ、君はその言い方が好きなんだな」
結婚生活シミュレーションを始めた頃にふざけて言ったセリフ。今ではすっかり板に付いて、フォンスさんが照れてつまずくこともなくなった。
「うぎゃあ!うぎゃあ!」
「あーよしよし。おしっこかなあ?」
「それはいかん。俺が替えてくる」
娘が生まれてから、予想通りというか何というか、フォンスさんはかなり子煩悩なパパになった。家にいる時のオムツ替えは、彼が率先してやっている。
「駄目よ、仕事に遅れちゃうわ。はいはい、いってらっしゃーい!」
不満げな背中を見送り、腕の中のわが子に頬擦りをする。この子が私の見えない所に行くと考えたら、身が引き裂かれるような気分になる。お母さんは闇の穴の前で泣きながら私を押した時、同じことを思ったのだろうか。
生まれた孫を見せてやりたいと思ったけど、行って帰ってくるのに筆頭術師を初め、国の優秀な術師達を2度に渡って使わなければならず、そう簡単に里帰りできるものではなかった。お母さんは別れ際に逆だと言ったけれど、こっちではちゃんと、孝行したい時に親はいない。
ここではもう私は母親になったけど、向こうではまだ1週間くらい。その内私があっという間にお母さんの歳を超えるだろう。
不孝な娘でごめんなさい。
私は今、幸せです。
心配しないで。
お母さん。
次にあとがきを載せます。