孝行したい時に親はいないもの(1)
勢いよく飛び込んだことを、ローテーブルの角に足をしこたまぶつけたことで後悔した。
「ぬあっ…!」
隣でアメリスタ公も同じ目に遭ったようだ。心の中で謝りつつ後ろを振り返ると、闇の入口が閉じていくところだった。
臑を抱えてうずくまるアメリスタ公に声をかけようとした時、見慣れた顔と目が合った。
「お母…さん?」
口をあんぐり開けてこちらを見つめていたのは、私の母親だった。
「何で私の部屋にいるの…?」
「……な、何でって…、出勤時間になってもあんたが来なくて、携帯にも出ないからって…、会社からうちに電話があったのよ…」
ローテーブルの上で充電器に挿しっぱなしだった携帯を見ると、日付は月曜日、時間は午前10時前になっていた。
惜しい、ちょっとだけ間に合わなかったか。おそらく会社から電話を受けたお母さんは、心配して私の部屋に来たのだろう。チャイムを鳴らしても私が出て来ないから、万一の時のために渡しておいた合鍵で入った、というところか。
「…沙弥あんた、男を連れ込むんなら、もっと普通に出来ないの?」
お母さんの視線がアメリスタ公に向く。げ…、こんなのが私の男と勘違いされるなんて、何と言う不名誉なことだ。
「えっとお…、とりあえず、この人は彼氏じゃないということだけは、最初に断言しておくわ。で、やっぱりお母さん、あの黒い穴見ちゃった?」
「しっかり見たわ。いきなり真っ黒なものがベッドの真上に現れたと思ったら、そこからあんたが飛び出して来たのよ」
そこまで見られていたのなら仕方がない。50代に異世界トリップなんていうファンタジーがどこまで理解してもらえるかは分からないが、一から説明するしかない。一応普通では有り得ないあの穴を見たというなら、精神病院行け!なんて言われることはないだろう。でも…、話は長くなりそうだ。めんどくさい。
「…今からこのおじさんが誰なのかも含めて、私に何が起こったのか話すわ」
とりあえず私はお母さんとアメリスタ公を座らせ、コーヒーを入れた。
日曜日の明け方に寝て、いつの間にか召喚されていた。そこから向こうで大体3ヶ月を過ごし、戻って来たら翌日の朝10時だった。あんな穴が空いても、引っ張り込まれるまで気付かずに寝ていたのだから、明け方に寝てすぐではなく、何時間か経ってぐっすり眠っている時に召喚されたのだろう。単純に戻ってきたのと同じ午前10時に召喚されたとして、ここでの1日は向こうでの約90日。90倍向こうの方が早く時が流れるということになる。そこから計算すると、バリオスさんは1ヶ月待ってからまた世界を繋ぐから、アメリスタ公の帰還は約8時間後。夕方の6時くらいか。
ワンルーム用の簡易キッチンで、コーヒーを入れながら時間の計算をした。その間、お母さんとアメリスタ公はローテーブル越しに二人っきりなのだが、全く言葉が通じず黙り合ったままだった。私が付けている翻訳ピアスは、穴が閉じた時点で機能しなくなった。赤い石に篭った地の力も、時空までは越えられなかったようだ。
エンダストリアでは紅茶しかなかったが、アメリスタもそれは同じようで、アメリスタ公は初めて見るコーヒーを、興味深そうに飲んだ。ブラックは案の定苦すぎたようで、彼は唸って顔をしかめたから、ミルクと砂糖を渡した。
「じゃあお母さん、この人がコーヒーに気を取られている間に話すわね」
私はエンダストリアとアメリスタであった出来事、アメリスタ公がここに来た目的を掻い摘んで説明した。フォンスさんとの色恋沙汰は省いて。別に姉妹や友達のように暮らしてきた親子じゃない。恋愛のことなんて、恥ずかしくて話したくない。
「俄かには信じられないような話だけど…、あんたは実際に変なところから出てきたものねえ」
お母さんは突拍子も無いストーリーを、自分の中で納得しようと頑張っているようだった。
「まあ、こうやって無事に戻って来れたんだし、後はこのおじさん、アメリスタ公がこのマンションのどこかに森田さんの遺骨を埋めて、夕方にもう一度あの穴が空くのを待つだけよ」
「…あんたが違う世界に行ったって言うのは信じるわ。でも、今話したことで全部?」
「はあ?」
信じると言ったのに怪訝そうな顔をされて戸惑った。
「日本の行く末にも興味ないようなあんたが、何で世界の違う国のためにそんな奔走したのか、動機が分からない。あんたのめんどくさがりなのところは私譲りだもの。理由も得もなく博愛主義で頑張るなんて、絶対有り得ない」
さすがは母親だ。私の性格をよく知っている。やっぱりフォンスさんのところを全部省いたのは不自然だったかな。
「沙弥…、男のためでしょ」
「ううっ…」
鋭い!女として私より遥かに長く生きてきたお母さんには、隠しても無駄だということか。
「その歳になって男日照りで過ごすよりマシよ。正直に話しちゃいなさい」
「…実は……、帰還方法を調べるのに戸籍が必要になって、向こうで偽装結婚したの。その人をいつの間にか…ほ、本気で…好きになっちゃいました」
「ヘビーな話ねえ。日本なら捕まるレベルよ」
観念した娘の告白を、お母さんは常識で返した。
「それで?帰ってくると同時に別れて来たの?」
「……、向こうはこっちの世界で幸せを見つけろって言ったけど…」
その先を言えずに口ごもった。いくらなんでも、貧乏にも負けず女手一つで育ててくれた母親に、"こっちの世界を捨てて、好きな人の所へ行きます!"なんて言えない。
「ま、今までを見てたら、こっちで見つけるのは難しそうね」
お母さん、バッサリ言ってくれるなあ。きっと、難儀な娘だと思ってるだろう。やっと本気になれる相手を見つけたと思ったら、異世界の人だったなんて。
その時、横から肩を叩かれた。横を見ると、アメリスタ公が遺骨の入った箱を出して、何やら身振り手振りで伝えようとしていた。
「ああ、早く埋めに行きたいんですね。お母さん、ちょっと下の花壇に行ってくる。次に穴が空くまでにこの箱を埋めなきゃ、この人来た意味がないから」
「そう。じゃあ私はその間に、スーパーで何か買ってくるわ。お客さんがいるのに、お酒の空き缶しかないんだから、この部屋は」
仕方ないじゃないか。トリップする前に別れた男とは自然消滅寸前で、ほぼ彼氏のいないような毎日だったのだから。家事なんてする気になるものか。その代わりフォンスさんの所では頑張ったのだ。
私達は3人揃って玄関を出た。慣れ親しんだはずの排気ガスまみれの空気に、ちょっぴり喉が痛くなった。