難関な過程でも結果は単純なもの(1)
エンダストリアに入ってからは特に問題もなく、すんなり進めた。
途中、納豆作りの藁を貰ったトリール村を通った。リリーの食堂が仕入れているパン屋さんがよく買い付けに来る小麦農家があり、リリーが「ここの小麦で作ったパンは美味しい」と褒めちぎったら、快く泊めてくれた。商売人同士の繋がりは凄いものだ。そこでいただいた食事は、ワンパターンなエンダストリアの味付けだが、昨日と今朝のように果物だけの食事は物足りなく、塩コショウのみで焼かれた肉が、前より数倍美味しく感じられた。
次の日、ようやくネスルズに帰ってきた私は熱を出した。皆で王宮に入り、廊下を歩いていて、何だか体がふわふわするなあと思った瞬間、急に足の力がカクンと抜けた。前を歩いていたディクシャールさんに思い切り頭突きを食らわせて、自分が床に倒れるのをスローモーションで感じ、暗転した。
目を覚ますと今では見慣れた治療室。熱の原因はよく分からず、緊張の続く旅が終わって気が抜けたからだろうと治療術師は言っていた。怪我ではないから、治療魔術はかけてくれなかった。
年を取ってからの高熱はかなり辛い。頭が朦朧として、力が入らない。こんな状態なのに、一緒に旅をした軍人3人は報告に追われ、リリーは一般人だからと早々に帰らされた。見舞いの一人もいやしない。アメリスタの件は大丈夫なのだろうか。眠りたいのに気になって目だけが冴える。ああ、耳鳴りがしてきた。
小さくドアがノックされる音が聞こえ、コートルさんが入って来た。どうやら第一見舞い人は彼らしい。ネスルズで人気の菓子屋の包みを持っていた。
「サヤ、よく戻ってきたな。熱を出したと聞いたが、大丈夫か?」
「…全く大丈夫じゃないです。でもそのお菓子を食べたら治るかもしれません……」
蚊の鳴くような私の声を聞いて、ナイスミドルは口髭を触りながら苦笑した。
「そうか、食べられるのなら今からどうだ?ちょうど焼きたてを買えたのだ」
包みを開け、クッキーの甘い香りが鼻をくすぐると、途端に唾液が口に広がった。あまり食欲はなかったのに不思議なものだ。日本のものと比べると素朴でシンプルなクッキー。街で見つけてから食べてみたいと思っていたのだが、店にはいつもお客さんがたくさんいたため、外国人である私は少し入りづらかったのだ。
「美味しいです」
「ハハハ、やはり女性は菓子を食べている時が、一番良い顔をしている」
一口頬張って、思わず顔が綻んだ私を見たコートルさんは、また髭を触って笑った。
「あの、今回はすみませんでした。大口叩いて出て行ったのに、後のこと全部任せちゃったんですよね?」
「それが儂の仕事だ。気にするな。君が飛び出さなければ、儂らは動かなかった。ダントールは裏切り者とされていただろう。それを思えば上層部を押さえることなど、どうということはない。感謝しているよ」
本人にはあまり感謝されているようには思えないが、その上司が感謝してくれるのなら良しとしよう。私の行動が、必ずしも間違いだったわけではないということなのだから。
「そう言っていただけると、飛び出した甲斐がありましたよ。フォンスさんを取り返したいという、ただの自己満足を得ただけだと思ってましたから」
「…ダントールは君に何も言っておらんのか?今回の一番の功労者は君だというのに」
「皆で協力したから奪還できたんです。誰が一番とか、そういうことじゃないですよ。王宮に残ったバリオスさん含め、誰ひとり欠けても成功しませんでした。感謝の言葉なら、仲の良いディクシャールさん辺りに言ってるんじゃないでしょうか」
「君はダントールに甘過ぎるな」
コートルさんはそう言って、冷たくなってきた風が入らないように、窓を閉めた。
「甘い…んでしょうか。多くを語らない分、感じ取ってあげたいと思うんです。でも、彼が何を求めているのか、何をすれば喜ぶのか、未だによく分かりません。裏目に出てばっかり……」
日本人は他人の顔色を窺うのが得意なはずなのに、肝心な時に限って上手くスキルが発動しないものだ。
「…君はこの世界で生きる意味を見つけた。それはダントールだろう?彼のために必死に行動してくれる者がいてくれることを、儂は嬉しく思う。彼は失ったものが多過ぎる故、求めることに臆病になっているだけなのだ。一見難しい男に感じても、求めているものは案外単純かもしれんぞ?」
窓際のコートルさんは、逆光で表情は見えなかったが、優しく微笑んでいるような雰囲気が感じられた。
「さて、君がアメリスタ公爵に交渉した内容は、大方ダントールとディクシャールから伝え聞いた。まだ半信半疑の者もいるが、とりあえずは君が無事エンダストリアに戻ったことを向こうに伝え、反応を待つことになった。これを終戦に持ち込めるかは儂らの仕事だ。安心してお休み」
「良かった…。ちゃんと聞いてもらえたんですね。個人的に交渉したことだから、相手にされないかと思いました」
「君の努力を無駄にはしない。後は任せなさい」
コートルさんが出て行った後、本当に安心して、私はすぐに寝入った。
目の前にフォンスさんが見える。白い背景で、彼はそこに溶け込むようにぼやけている。
"サヤ…"
私を呼ぶ声にエコーがかかる。おかしいなあ、これは夢の中なのか?
"サヤ、本当は君が迎えに来てくれて、嬉しかったんだ…。"
アメリスタの地下で再会した時の話だろうか。何か聞き返そうにも、私の声は出ない。
"帰還方法を探す君を求めてはいけないのに…、欲しいと思ってしまう自分に苛立っただけなんだ。"
何て私に都合の良い解釈なのだろう。これは絶対私の妄想だ。
"いくら優しい君でも、険しい顔しかできなかった俺には、愛想を尽かしてしまったかもしれないな…"
んなことありませんって!しかも何気に俺って言ったし。ああ、喋れないとは何てもどかしい夢なんだ!フォンスさあん、好きだー!
"本当は…、愛してるんだ…"
フォンスさんの顔がぼやけたまま近づいてきて、唇と唇が触れ合った。妙に感触だけリアルっぽい。ああ、もう死んでもいい。
甘美な夢にもっと浸っていたいと思った時、残念ながら目が覚めてしまった。最初に目に入ったのは…
「フォンスさん…?」
覗き込むような彼の顔の近さに、少し驚いた。
「あ、す、すまん」
フォンスさんは私と目が合うと、慌てたように後ろへ下がった。私としては近い方が嬉しいのに。それにしても、夢で喋れなくて良かった。下手に寝言になってたら、かなり恥ずかしいことになっていただろう。好きだーって叫ぼうとしてたし。
「…もう夜ですけど、どうしたんですか?アメリスタ公との交渉で、何か聞き忘れたことでも?」
内心ホッとするのを押し隠し、努めて平然に聞いた。
「い、いや。熱の具合はどうかと思って…。だが見知った仲とは言え、夜分に女性である君の部屋に許可なく入るのは、失礼だったかな…」
目を逸らしながら聞いてもいないことを弁解したフォンスさんは、そのままドアの方まで下がって行った。もう、帰っちゃうのかな。
「お見舞いですか?お忙しいのに、ありがとうございます。昼間よりは大分マシですよ」
「そうか…。それは良かった。起こしてしまって済まない。お休み」
「?お休みなさい……」
フォンスさんは早口に言うと、焦ったように出て行った。
「変なフォンスさん。別に勝手に入るとか、気にしなくていいのに」
私はさっきの夢の続きを見たいと願いながら、毛布をかぶった。